抜け出せない沼を持つ男と実力主義の教室。雛鳥は何を見るか。 作:末路雛鳥
どうも、つい本音がタイトルに出てしまった、末路です。
では、本編をどうぞ。
あの一件から、早くも一週間が経過した。
周りを見ても、気づいている生徒はいないまま、時間は無情に過ぎていく。
朝、一年Bクラスの教室へと足を踏み入れる。
その時——
「おはよう、比企谷! 今日もいい天気だな!」
教室に入るなり、爽やかな声が飛んできた。 声の主は、柴田颯。
サッカー部に所属するスポーツマンで、絵に描いたような好青年。男女問わず好かれる圧倒的なコミュニケーション能力を備えた男子。
なぜかこいつ、最近になって俺に気さくに話しかけてくるようになった。
「あー、おはよう」
挨拶を返し、俺はそそくさと自分の席に座った。
ふと教室全体を見渡してみる。 なんだか今日のBクラスは、妙な熱気に包まれている気がする。
特に男子連中だ。普段なら話し合っていたりで盛り上がっていたりするはずなのに。
今日はどういうわけか、ソワソワと落ち着きがない。
ニヤニヤとだらしなく緩んだ顔を隠しきれていない奴もいれば、やたらと姿勢を正して深呼吸を繰り返している奴もいる。
一体どうしたんだ。熱量というか、熱意というか、少し怖いぞ。
「比企谷、おはよう」
神崎が俺の机の横へとやってきた。
小さく頷き返し、そのまま単刀直入に聞いてみることにした。
「……なあ、なんか今日、クラスの男子連中がソワソワしてないか? 何かイベントでもあったっけ」
俺の問いかけに、神崎は軽く肩をすくめた。 彼の端正な顔立ちには、周囲の浮かれた空気に対する微かな呆れが浮かんでいる。
「ああ、それか。どうやら今日の体育、一年全クラス合同のプール授業らしいぞ」
「……」
…… 全クラス合同、プール授業。
なるほど。その二つのキーワードを結びつけた途端、すべて理解した。
「なるほど、女子の水着ね」
俺は呆れながら頷いた。
男子高校生の脳みそなんて、そんなもんだ。
どれだけおとなしそうでも、思春期の男としては抗えない魅力的な話。
しかも全クラス合同という事実。
つまり、Bクラスの女子だけでなく、他クラスの未知なる女子たちの水着姿まで拝めるという奇跡のボーナスタイム。
そりゃあワクワクソワソワするだろ、俺だって気にならないって言えば嘘になる。
……いや、待てよ。 全クラス合同ということは。
一之瀬の水着姿が現れてしまうというのか。
そんなの、直視したら一発で目が潰れるぞ。
それに。
……綾小路雛鳥。
制服の上からでも隠しきれていない規格外の発育。
あいつが水着になったら、一体どういう大惨事、いや視覚的な暴力が引き起こされるんだ。
しかもあいつ、俺に対して距離感が近すぎる。
もしプールサイドで俺を見つけて、いつもみたいに密着してこようものなら。
周囲の男子どもからの殺意と嫉妬の視線で、俺は間違いなく死ぬ。
「……はあ」
「……どうした、比企谷? お前はあまり嬉しくなさそうだな」
神崎が不思議そうに首を傾げてくる。この真面目な男は、女子の水着に興味はないらしい。
イケメンは余裕があっていいよな。
いや、こいつの場合本当に興味なさそうで少し心配だが。
「いや、綾小路のことで少しな」
机に突っ伏しながらそう言うと、神崎は苦笑いを浮かべて自分の席へと戻っていった。
神崎は綾小路の距離感の近さを、それはもう近くで見ているから理解してくれたのだろう。
……昼休みが終わり、無情にも告げられる午後のチャイム。 ついに、待ち望んだ水泳の授業がやってきた。
……いや、誰が待ち望んだって? 俺は断じて待ち望んでなどいない。
女子の水着姿を拝めるという健全な男子高校生としての煩悩と、綾小路に絡まれて周囲のヘイトを全方位から集めるリスク。
天秤にかけるまでもなく、後者のダメージがデカすぎる。
だが、見学してポイントが減るのも問題だから、見学する訳にはいかない。
更衣室は案の定、騒がしかった。
「誰の水着がヤバそう」だの「他クラスの女子も楽しみだな」だのと、男子連中はすでにテンションが跳ね上がっている。
俺はそんな喧騒の端っこで息を潜め、さっさと着替えを済ませた。
黒い水着に加えて、同じく黒のラッシュガードだ。
肌を露出する趣味はないし、周りと比べて俺は鍛えてない、あまり見せられるものじゃない。
着替えを終え、プールサイドへと足を踏み入れる。
「……これは、すごいな」
隣を歩いていた神崎が、思わずといった様子で感嘆の声を漏らした。
驚くのも無理はない。
目の前に広がるのは、五十メートルの屋内プールだ。
水面は透き通っていて綺麗そうだ。完全屋内だから天候に左右されることもない。
広大なプールサイド。
そこでクラスごとに綺麗に四つ角へ配置される陣形だ。
まず、プールの右上にいるのがAクラス。
遠目から見ても、無駄口を叩く者が少ない。落ち着いた雰囲気だ。
そして、右下にいるのが俺たちBクラス。
柴田と網倉を中心に、すでにワイワイと賑やかな空間が形成されている。
水着姿の女子たちがキャピキャピと笑い合う声が反響し、眩しすぎて直視できない。
視線を対岸、左側へ向ける。
左上に集まっているのがCクラスだ。なんだかやたらと柄の悪そうな連中ばかり。
なんだあの世紀末みたいな集団は。
最後に、左下。 そこにいるのが、Dクラス。
……まあ、良くも悪くも統一感のない集団だ。
四つのクラスが一堂に会する、屋内プール。
まるでクラスの雰囲気や品性を、そのまま可視化したかのような配置図だ。
これを見ると、やはりDクラスが、落ちこぼれの寄せ集めという説の可能性も増して来たな。
綾小路が例外なだけじゃないか?
それに――さっきからDクラスの方から、やたらと騒がしい声が聞こえてくる。
特に男子連中だ。なんだかもう、修学旅行の夜のテンションというか、動物園の猿山というか。
あからさまに落ち着きがなく、ヒソヒソ、ニヤニヤと騒ぎ立てている。
気配を消しつつ、耳だけをそちらへ傾けてみる。
「おい、見ろよあれ……!」
「やばいだろ、マジででけえ……!」
聞こえてきた断片的な単語の数々に、俺は思わず口元を引き攣らせた。
簡単に言えば。
そう、極めて簡単に言えば、女子の胸のサイズについての品評会が絶賛開催中らしい。
なんともくだらない。そう、めちゃくちゃくだらない。
いくら思春期真っ盛りの男子高校生とはいえ、公共の場でそんな欲望丸出しの猿みたいな真似ができるなんて、ある意味で感心する。
そんなものにいちいち一喜一憂するなんて、精神年齢が中学生から一歩も成長していない証拠だろ。愚かな男どもめ、少しは俺のこの冷静沈着な佇まいを見習ってほしいものだ。
なんて、心の中で高らかにマウントを取り、達観した聖者のような気分に浸っていた。
まさにその時だった。
「やっほー、比企谷くん! 久しぶりだね!」
不意に、目の前に一つの影が落ちた。
弾むような声と共に現れたのは、Aクラスの方からわざわざこちらへ歩いてきた一之瀬だった。
「あ、えっと……よう」
顔を上げ、そして、数秒だけ完全にフリーズした。
視界に飛び込んできたのは、眩しすぎる笑顔。そして、水着。
学校指定の、ごくごく普通のシンプルなデザインのはずだ。
だが、一之瀬がそれを着ると、まるで別の競技の衣装か何かのように見えてしまう。
制服の上からでも隠しきれていなかったあの暴力的なプロポーションが、完全開放されていた。
布地が悲鳴を上げている。
歩くたびに、というか呼吸をするだけで、その豊満な膨らみがとんでもない自己主張を繰り返しているじゃないか。
直視できない。どこに視線を向ければいいのかまったくわからない。
顔を見ようにも顔も良すぎて、どこ見れっちゅうんですの?(何語?)
「比企谷くんはラッシュガード着てるんだね! 似合ってるよ!」
一之瀬はそんな激しい葛藤など微塵も察することなく、無邪気な笑顔で俺のラッシュガードを褒めてくる。
「あ、ああ……その、焼けるの、嫌だし」
ここは屋内プールだろ、という真っ当なツッコミをされることを恐れながら、酷く狼狽えていた。
そのまま、スッと視線を上へ逃がした。
いい天気だ。
……天井しか見えないが。
だが、今の俺の心には、果てしなく広がる青空が見えていた。
ごめん、Dクラスの男子たち。さっきは心の中で猿だの愚かだのと見下してしまって、本当に申し訳なかった。
前言撤回だ。俺たちは同じ男のDNAを分かち合う、かけがえのない兄弟だ。
ああ、俺も、お前たちとまったく同じだったのかもしれねぇ。
天井を見つめたまま懺悔を繰り返していると、一之瀬は不思議そうに首を傾げ、俺の顔を下から覗き込んできた。
「……比企谷くん、天井に何かあるの?」
「いや……なんでもない。ただの、悟りだ」
「さとり?」
小首を傾げる一之瀬の仕草に合わせて、胸元が再び揺れる。
だめだ、俺の目が勝手に視線を合わせようとしてしまう。
美少女に水着姿で話しかけられる。
ラノベの主人公ならここで気の利いた冗談の一つでも言ってフラグを立てる場面だろう。
だが俺にそんな高度なコミュ力は備わっていない。
「……一之瀬、自分のクラスに戻らなくていいのか?」
「ううん、まだ自由時間だから平気だよ! あ、でも……」
一之瀬はチラリと、Dクラスの方へ視線を向けた。
「綾小路さんも、こっちに来るみたいだね」
「……は?」
思わず天井から視線を下ろし、一之瀬の視線の先を追った。 Dクラスの喧騒の中から、一人の女子生徒が抜け出してくる。
腰まで届く長い茶髪。感情の読めない、能面のような顔立ち。
そして、一之瀬に勝るとも劣らない、いや、もしかしたらそれ以上の規格外なプロポーションを、同じ指定の水着に包み込んだ綾小路が。
トコトコと、一切の迷いのない足取りで、真っ直ぐに俺のいる場所へと向かって歩いてきているではないか。
……わ、忘れていた、我々人類は、女子の恐ろしさを。
あいつは女子なんてちゃっちな分類に分けていい存在ではない。
あれは、デカす……げふんげふん、雲が大きいな?(屋内です)
歩み寄ってくる彼女の姿に、プールサイドのあちこちから一斉に息を呑む気配が伝わってきた。
はっきり言って、あいつは異次元だ。
一之瀬のプロポーションも相当なものだったが、綾小路のそれはまた別のベクトルで限界を突破している。
指定のシンプルな水着。だが、その布地が今にもちぎれ飛ぶんじゃないかと思うほど、胸元から腰にかけての曲線が規格外すぎる。
まさに布が悲鳴を上げているという言葉がこれ以上なくしっくりくる。
だが、ただ単に肉付きがめちゃくちゃいいだけじゃないんだ。
腹筋のうっすらとしたラインや、太ももからふくらはぎにかけての筋肉のつき方。それが、なんだろうな。ヤバい。
グラビアアイドルのような柔らかさの中に、極限まで研ぎ澄まされたトップアスリートのような、恐ろしいほどの完成度が同居している。
どれだけの鍛えたら、あんなバキバキかつ女性らしい肉体美が仕上がるんだ。
そんな視覚的暴力を周囲に振り撒きながら、綾小路は俺の目の前でピタリと止まった。 そして首を傾げる。
「……どう?」
無表情のまま、自分の水着姿を両手で軽く示してくる。 どう、じゃない。
周囲の男子どもが、文字通り目を血走らせながら、綾小路を穴が空くほどガン見している。
視線だけで人が殺せるなら、今頃綾小路の肌はハチの巣になっているに違いない。
……。
別に俺はこいつの彼氏でもなんでもない。
ただの知り合いだ。
でも、知り合いがこんな飢えた男どもの好奇の目に晒されまくっている状況は、ひどく居心地が悪くて、あまりいい気分がしない。
俺は無言のまま、自分の着ていた黒のラッシュガードのジッパーを下ろし脱ぎ捨てた。
それをそのまま綾小路の頭からガバッと被せる。
「……俺のラッシュガードで悪いな」
隣にいる一之瀬が、納得と、それ以上に感動するような視線が肌を刺してきた。だが、今はそれを気にしている余裕はない。
頭から被せられた綾小路は、瞬きを一つした後、袖に腕を通してフロントのジッパーを律儀に上まで引き上げた。
そう、着た。着てくれたんだが。
……もうね。ヤバい。
俺のサイズだから当然、小柄な綾小路にはぶかぶかだ。
だが……隠したことで逆に想像力を掻き立てるというか、隙間から覗く白い肌が余計に際立ってしまっているじゃないか。
周囲の男子どもの視線が、今度は明確な殺意を伴って俺に突き刺さってくる。
「綾小路さんの肌を隠しやがった……」
「許さねえ……綾小路さんは俺たちの希望なのに」
……俺の空耳かな。
呪詛が聞こえてきそうだ。
やめてくれ、俺はただこいつを隠したかっただけなんだ。俺の貧相な上半身が晒されているという悲しい事実にも気づいてほしい。
……誰も興味ない? あっ、そうですか。
ラッシュガードの袖を余らせた綾小路は、自分の体を見下ろしてから、俺の顔をじっと見上げた。
「……」
その小さな桜色の唇が、微かに動く。
何かを呟いたように見えたが、喧騒に掻き消されて、俺の耳にはまったく届かなかった。
「なんだ? なんか言ったか?」
聞き返しても、彼女はフルフルと小さく首を横に振るだけ。
綾小路は見学用建物を指差す。
「あれ?見学者が、多いね?」
一之瀬の言う通り、女子の見学者がやたらと多い。
他クラスも多いが、特にDクラスが多い。
まあ、女子には女子の理由があるだろうし、俺が言うことはないな。
ただ、この調子ならDクラスは大惨事になる、そう綾小路は伝えたかったのだろう。
それにしても。 こうして一年生全クラスの女子を一堂に会して眺めるのは初めてのことだが。
……なんだろうか。美人が多すぎて、思わず笑えてくる。
いや、笑えんよ。冷静に考えて異常すぎるだろ、この空間。
顔面偏差値のインフレがすぎるぞ。
この現象を正確に表現するなら、全国の各学校から学校一の美少女だけを乱獲してきて、この空間にギュッと集めたような、そんな感じだ。
一之瀬、網倉、そして何より、慈愛の可憐美――綾小路雛鳥だったり。
どいつもこいつも、街を歩けば十人が十人振り返るようなビジュアルを誇っている。
国が主導する名門校の合格基準には、学力や運動能力に加えて、容姿端麗であること、という項目でも設定されているんじゃないか。そう疑いたくなるほどのラインナップだ。
やがてプール内に野太い声が響き渡った。
「よーし、お前ら集合しろ!!」
声の主は、いかにも体育会系という文字を背中に背負ったような、マッチョ体型のおっさん教師だった。
その野太い号令に急かされ、各クラスの生徒たちがそれぞれのクラスに戻っていく。
「早速だが、準備体操が終わったら順次プールに入って泳いでもらう!」
その時、前列のほうにいた一人の男子生徒が、おずおずと手を挙げた。
「あ、あの……先生」
ひどく申し訳なさそうな、自信のなさそうな声。
「俺、まったく泳げなくて……」
いわゆる、カナヅチというやつだ。
その男子の言葉聞いたマッチョ教師は、怒るでもなく、むしろニヤリと白い歯を見せて笑った。
「俺が担当するからには、必ず夏までには泳げるようにしてやる。安心しろ!」
「いや、別に無理して泳げなくてもいいんですよ。俺、どうせ海なんか行かないですし。プールも嫌いなんで」
うんうん、わかるぞその気持ち。
休みの日にわざわざ人がごった返す海やプールに行くなんて正気の沙汰じゃない。
クーラーの効いた部屋で読書でもしているのが一番だ。
「……そうはいかん」
「今はどれだけ苦手でも構わんが、克服はさせる。泳げるようになっておけば、必ず役に立つ。――必ず、な」
——いや、もう慣れたよ。
必ず役に立つ。 『泳げなければ、必ず痛い目を見る』という警告だ。
いつか泳ぐ必要でも、出てくるのだろう。
なるほど。 意識していたらわかるが、これも、学校側からの『アドバイス』みたいなもんか。
……聞けば聞くほど綾小路の凄さがわかってくるな。
全クラス合同の準備体操が始まる。
Cクラスの方にいる、赤髪が首筋まで伸びた、いかにもなヤンキーがラジオ体操をしている光景に、思わず笑いそうになりながら体操が終わる。
やがて体育教師の号令がかかり、まずはAクラスとBクラスからプールへ入水するようにと指示が飛ぶ。
そっと水へと足を踏み入れた。
冷水特有の刺すような刺激を覚悟していたが、完全に温度管理されているらしく、ひんやりとしつつも肌に心地よい水温だった。
さて、それじゃあ端っこのコースで適当に泳ぐふりをして、やり過ごすとしよう。 そう思って水面に顔を近づけ、蹴伸びの姿勢に入ろうとした、まさにその時だった。
「ぐへぇ!?」
……失礼。潰れたようなカエルのような、ひどく情けない声を出してしまった。
だが、断じて俺は悪くない。絶対にだ。背後から唐突に俺の首元へと回された、この細い腕が全面的に悪い。
水中という無防備な空間でいきなりスリーパーホールドまがいのスキンシップ(?)を仕掛けられれば、誰だって変な声くらい漏れるだろ。
パニックになりかけながら慌ててその腕を振り払い、ゲホゲホと咳き込みながら振り返った。 そこにいたのは、一人の女子だった。
肩のあたりで切り揃えられた髪から水滴を滴らせ、俺のことをじっと見つめている。いや、俺の顔じゃないな。俺の頭頂部をじっと見ている。
「失礼しました。つい、貴方のアホ毛がどうなっているのか気になってしまいまして」
真顔で、何一つ悪びれる様子もなく彼女は言った。
アホ毛? 比企谷家の親父以外にあるこのアホ毛が? それが気になったからって、初対面の男の首に腕を回して捕獲を試みる女子高生がどこにいる。
……親父の頭、大丈夫かな、寂しくなっていないk……ぶふW
つい堪えきれずに笑いが。
「あっ、私は森下藍です。気軽に藍ちゃんと呼んでください」
……な、なるほど? だいぶ癖が強いな。
「いや、だからな……」
「お名前をお聞かせください」
俺の至極真っ当な抗議は、食い気味の質問によって綺麗に遮られた。
……なんだろう、この人の話を聞かない独特のマイペースな空気感。それに、妙に感情の起伏が読めない平坦なトーン。
なんとなく、綾小路と似てるな。
あいつもあいつで、俺の右腕やら右袖やらを勝手にホールドして離さないという距離感をしているが。
この森下という女子も、それに匹敵するレベルの変人だ。
俺はそういう得体の知れない電波を受信するアンテナでも頭に立てているのだろうか。
……あ、これがそのアンテナ(アホ毛)か。
「ひ、比企谷八幡だ」
すると、森下は深く納得したようにコクンと頷いた。
「なるほど。では比企谷八幡。貴方のアホ毛、今度こそ触らせてもらいます!」
宣言するが早いか、森下がザバッと水しぶきを上げて距離を詰めてくる。
いやいやいや、なんでそうなる! 俺のアホ毛はフリー素材じゃないんだぞ!
全力でクロールを繰り出して逃走を図った。
中学校の体育祭以来かもしれない、こんなに疲れているのは。
なんで初対面の女子から自分の頭頂部の毛を守るために逃げ回らなきゃいけないんだ。
理不尽すぎるだろこの学校!(私!?by学校)
必死の逃げていると、ちょうど前半の入れ替えを告げる教師のホイッスルが鳴り響いた。
助かった。逃げ込むようにプールサイドへと這い上がり、濡れた髪をかき上げる。
その後ろから、森下もプールから上がってきた。
「ぜえ、ぜえ、ぜえ……っ」
プールサイドに手をつき、彼女はひどく息を荒らげている。 肩を激しく上下させ、今にも倒れ込みそうなほどの疲労困憊ぶりだ。
そして、恨めしそうに俺を見上げながら、途切れ途切れの声で言った。
「や、やりますね、比企谷八幡……。この私から、逃げ切るなんて……っ」
「……いや、お前の体力がないだけだろ!」
お前、距離にして五メートルも泳いでないぞ!? ちょっとバタ足で追いかけてきただけで、なんでフルマラソン完走した直後みたいな顔になってんだよ。
俺の腐った目で見下ろしてやると、森下は「くっ……」と悔しそうに顔を歪めている。
まあ、好都合だ、今のうちに離れよ——
……森下からは離れられなかったよ。
彼女は、まるで獲物を狙う猛禽類のような目で俺の頭頂部をジッと見つめながら、絶妙な距離感を保って隣に居座り続けている。
落ち着いて、改めて見たら、森下は美少女だ。
黙って立っていれば、間違いなく深窓の令嬢か何かと見紛うレベルの整った容姿をしている。
だが、口を開けばアホ毛がどうのと宣い、五メートル泳いだだけで酸欠の魚みたいにぜえぜえと息を荒らげる。
結論から言おう。こいつは、どうしようもなく残念な美少女だ。
こいつほど残念美少女という言葉が合うやつは初めて見た。
現在、プールの中では後半組であるCクラスとDクラスの連中が水しぶきを上げている。
森下をいなしながら適当に時間を潰していると、体育教師の甲高いホイッスルが屋内プールに響き渡った。
「よし、各クラスから代表一名を出せ! 全クラス対抗で五十メートルの競走をやるぞ!」
熱血体育教師の唐突な提案に、プールサイドがどよめく。
……5分ほどして、各陣地から、クラスの威信(?)を背負った代表者たちが次々とスタートラインに並び始める。
うちのBクラスからは、案の定というか当然というか、爽やかスポーツマンの柴田が進み出た。
クラスの女子たちから黄色い声援が飛んでいる。
……爆発しろ。
続いてCクラスから出てきたのは……なんだあいつ。一際ガタイのいい、なぜかサングラスをかけたままの黒人だ。
そしてDクラス。いかにも気性が荒そうな、赤髪のヤンキーみたいな男だ。スタート前から闘志を燃やして、やたらと威嚇するようなオーラを放っている。
……俺的には、金髪の男が出てくると思っていたが、あいつの筋肉は尋常じゃない。
最後に、Aクラス。
……独特な顔つきの男だ。ただ、俺はあまり怖いとは、思わなかった。
内心でツッコミを入れていると、隣で俺のアホ毛を狙っていた森下が、ポツリと呟いた。
「Aクラスの鬼頭隼ですね。極めて身体能力が高いので、藍ちゃん的には納得です」
「……は?」
俺は思わず、首だけを横に向けて森下を見た。
「え? お前、もしかしてあの男の知り合いか? ……っていうか、もしかしてお前、Aクラスなのか?」
森下は俺の問いに、無表情のままコクンと頷いた。
……いやいやいや、ちょっと待ってくれ。
Aクラス。それは、この学校において、勝ち組。
俺たちのBクラスは二番手。つまり、Bクラスの生徒は、この学校の評価において、目の前のAクラスの森下という女よりも俺は「下」に位置づけられているということになる。
え? 嘘だろ。 俺、こいつに負けてるの?
……めちゃくちゃ嫌なんですけど。 理不尽だ。この学校の評価基準が一体どうなっているのか、本気で小一時間ほど問い詰めたくなってきた。
学力か? それともこいつには何かしらの特技があるのか?
考えていたら勝負は終わっていた。
白熱した五十メートル競走は、結果的にDクラスの赤髪がギリギリで一位をもぎ取った。
本当に、指先のタッチの差というほどの僅差。だが、勝ちは勝ちだ。Dクラスの男子からは地鳴りのような歓声が上がる。
まあ、血の気と体力の有り余っているスポーツマンどもにはちょうどいいガス抜きだろう。
その後は授業の残り時間いっぱいまで、自由時間となった。 俺はプールサイドに腰を下ろし、膝下だけを水につけて、ただぼーっとしている。
周囲では、水を掛け合ってキャハハと笑い合う陽キャの男女や、真面目に泳ぎの練習をしている連中が思い思いに過ごしている。
……無の境地に達しかけていた、その時だった。
スッ、と。 頭頂部に、微かな感触。 俺の唯一無二のアイデンティティのアホ毛が、背後から森下に掴まれた。
疲れていて、油断していた。
「――貴方は先ほど、Aクラスという単語に反応した。何故ですか」
ビクッ、と肩が跳ねた。耳元すれすれの距離から、ひどく平坦で、それでいて鋭い声が鼓膜を直接揺らしてきた。
俺は内心の動揺を悟られないよう、ゆっくりと首だけを後ろへ向けた。
至近距離にある森下の瞳は、先ほどまでの軽い雰囲気とは少し違っていた。
深海の底みたいに静かで、まるで俺の内側をじっと観察し、値踏みするような冷たさを孕んでいる。
……なるほどな。
納得した、納得できた。
伊達にAクラスしているわけじゃないってことか。
ちょっと眉をピクリと動かした程度の、俺のほんの僅かな動揺。
それを、この女は見逃さなかった。五メートル泳いだだけで息切れするように体力はないが、その観察眼と洞察力の鋭さは、間違いなく俺より上だ。
「私には、貴方が何かを隠しているように感じました」
森下は指先で俺のアホ毛を軽く弄りながら、淡々と言葉を続ける。
「ここで大声で問いただしていないことを、感謝してくださいね」
……完全に脅しじゃないか。
耳元でわざわざ囁いてくれているのは、周囲の連中に聞かれないための彼女なりの配慮。
いつ大声で話されるかわからない、その恐怖心。
実に理にかなった、そして嫌らしいプレッシャーのかけ方。
前までの俺なら、びびって話しているレベル。
……だがな、お前よりと何倍も化け物っぽいやつなら、いつも俺の近くにいる、そいつよりマシだ。
こんなカマかけで、はいそうですかと自白するほど、俺はお人好しじゃない。
こんなところで、ましてやAクラスの生徒に漏らすわけにはいかない。
言わなければ、相手には何一つ決定的な証拠がないのだから。
「……なんのことだ? 俺はただ、お前が変人すぎて驚いただけだぞ」
俺は極力けだるげなトーンを作り、視線をスッと逸らしてはぐらかした。
すっとぼける。それが一番だ。これ以上踏み込んできたら、適当な理由をつけて水の中に逃げ込んでやる。
俺の言い訳を聞いた森下は。 無表情のまま、俺の顔をじっと見つめてきた。 数秒の沈黙。
諦めたか? そう思って息を吐きかけた、次の瞬間だった。
ぎゅっ。 俺のアホ毛を摘まんでいた森下の指に、唐突に力がこもった。 そして。
グイッッ!!
「……痛ってえぇぇっ!?」
情けない悲鳴がプールサイドに響いた。
こいつ、無茶苦茶引っ張ってきやがる!
痛い痛い痛い! なんだこの地味で的確な拷問は!
「比企谷八幡が正直に話すまで、私はこの手を離すのをやめません」
「やめろ! 抜ける! 俺の髪が毛根まで抜けるだろ!」
「なら、白状してください。貴方は何を知っているんですか」
淡々とした声のまま、さらに容赦なくアホ毛を上へと引っ張る森下。
「痛いって! マジでやめ、あ、おい!」
必死に周囲へ助けを求めて視線を彷徨わせた。
神崎はプールの中で真面目にクロールをしているし、柴田や網倉は遠くで談笑していてこちらに気づいていない。
誰か、誰かこの理不尽から俺を助けてくれ……!
その時、視界の端に一つの影が映った。プールサイドにぽつんと立っている長い茶髪。
綾小路だ。
俺の専属防衛兵器! 昨日あいつは俺に言った! 味方だって!
「なに、ちょっ……綾小路! 助けて!」
俺は藁にもすがる思いで、彼女の名前を叫んだ。
アホ毛を引っ張られて首が上を向いているせいで、ひどく情けない声の裏返り方をしてしまったが、背に腹は代えられない。
俺の声に気づき、綾小路がこちらへ顔を向ける。 その大きな瞳が、アホ毛を掴んで拷問している森下と、無様に助けを求める俺の姿を、しっかりと捉えた。
よし、あいつの常識外れの腕力があれば、助けられるはずだ。
俺が期待を込めて見つめ返した、その直後。
サッ。
綾小路は。 一切の感情を読ませない無表情のまま、ものすごく自然な動作で、スッと俺から目を逸らした。
そして、そのままプールの水面へと視線を落とし、まるで「私は何も見ていません」とでも言わんばかりに、微動だにしなくなったのだ。
「――なんでぇ!?」
俺の叫びが、空しくこだました。
嘘だろ!?
お前、味方だからとか言ってたじゃないか!
俺がピンチの時に助けてくれないなら、味方の意味がないだろ!
それともなんだ、他の女子にちょっかいを出されている俺を見て、嫉妬でもしたのか?
はは、ワロタ、そんなわけないだろ。
「さあ、比企谷八幡。観念して口を割りなさい」
「痛い痛い痛い! わかった、わかったから一旦手を離せ!」
「離しません」
……ひ、酷い目に遭った。
放課後の、誰もいない教室で、俺は自分の席に座り、完全に真っ白な灰と化していた。誇張抜きで、口から魂が半分くらい抜けかかっている。
ズキズキと痛む頭頂部をそっと撫でる。
マジで、危なかった。俺の毛根と、ささやかな尊厳が、物理的に引っこ抜かれて永遠に失われるところだった。
あの後、異変に気づいた神崎が慌てて駆けつけてくれなかったら、どうなっていたことか。
『何をしている、離してやれ!』
そうやって必死に引き剥がしてくれたのだ。あの時の神崎の背中は、後光が差す救世主にしか見えなかった。
やはり持つべきものは、常識と倫理観を兼ね備えた誠実なイケメンのクラスメイトってわけだ。
それに引き換え。
俺は恨みがましい視線を、右側に目を向けた。
授業が終わり、放課後になった時に、何事もなかったかのように俺の右手をキープしに来ようとした裏切り者。
味方だのなんだのと言っておきながら、俺の絶体絶命のピンチに見事なまでのガン無視を決め込んだ、極悪非道な小動物。
俺は、すっと差し出された彼女の手をパシッと払い除け、地を這うような低い声で、これ以上ないほど重い判決を下してやった。
「お前、今日のメシは抜きだ。俺の部屋にも絶対に入れんからな」
――その瞬間だった。 綾小路の動きが、ピタリと止まった。
いや、止まっただけじゃない。彼女の顔には一ミリの表情も浮かんでいないというのに、目に見えて全身からスッと生気が抜け落ちていくのがわかった。
まるで、生命維持装置の電源をいきなりブチッと切られたかのように。 そして、糸の切れたマリオネットよろしく、ズルリとその場に崩れ落ちたのだ。
両膝を床につき、力なく項垂れる。
長い茶髪が床に広がり、無表情のまま、その背中からはこの世のすべての理不尽を背負い込んだような、漆黒の絶望オーラが立ち上っている。
……おいおい。どんだけ俺の飯が好きだったんだよ。
……ざまあみろ、とは流石に言えないくらい見事な崩れ落ちっぷりだ。
少しだけ良心がチクチクと痛むが、これくらいのお灸を据えてやらないと、こいつの距離感を俺は許容したやっているんだ。
ここは心を鬼にする場面だ。
そうやって、床で石像のように固まっている綾小路を見下ろしていると。
「……可哀想に。比企谷八幡は、血も涙もない悪鬼羅刹ですね」
不意に、そんな風に俺を罵りながら、膝から崩れ落ちた綾小路の背中を、ポンポンと優しく撫でている奴が現れた森下。
おい、どの口が言ってんだ。
元はと言えば、お前が俺のアホ毛を無理やり引っこ抜こうとしたのがすべての原因だろうが。
俺を悪鬼羅刹呼ばわりする前に、自分のサイコパスな行動を省みてほしい。
だが、俺の抗議の目線を意に介する様子もなく、森下は綾小路の隣にしゃがみ込み、何やらボソボソと慰めの言葉をかけている。
「今日のところは我慢しましょう。あの男のアホ毛には、きっと呪いがかけられているのです。近づきすぎると、理不尽に食事を抜かれるという呪いが」
「……うん。お腹、すいた」
「私が売店でパンを買ってあげますからね。一緒に食べましょう」
「……温かい、お味噌汁がよかった」
……なんだこれ。
傍から見れば、無表情な美少女と、無表情な残念美少女が、教室の床にしゃがみ込んで傷を舐め合っているという、極めてシュールな光景だ。
だが、どういうわけか、この二人の間には妙に波長の合う、穏やかな空気が流れているじゃないか。
綾小路も綾小路で、森下の慰めに対して小さく頷いたり、コテンと首を傾げたりして、なんとなく会話が成立してしまっている。
俺以外には警戒モード全開だったくせに、森下相手だとぽやぽやとした空気を隠そうともしていない。
類は友を呼ぶ、とはよく言ったものだ。 電波は電波を惹きつける。変人同士、言葉にしなくても通じ合う謎の雰囲気でもできているのだろうか。
傍目にはただの無表情な美少女二人がぼそぼそと呟き合っているだけだが、俺の目には、迷子同士が偶然出会って、親交を深めているようにしか見えなかった。
「……綾小路雛鳥は素直で可愛らしいですね。それに引き換え、比企谷八幡は……」
「……八幡、意地悪。私の夕飯、返して」
ほら見ろ。いつの間にか俺が共通の敵としてロックオンされてるじゃないか。
理不尽だ。
「……もう、勝手にしろ」
もう、綾小路を止められないことは確定している。
それ以上に、森下がそこに混ざって来そうで頭が痛い、これなら、総武高校に入学した方が、100倍マシだったな。
なんて思いつつ、二人の会話も面白いと思っているのも、また事実だった。
森下さんの口調って、難しいね。
ちなみに、ボーナスポイントの5000ポイントはありません、あってもなくても変わらないので。
あと、全クラス全部は、まあ無茶しましたが、許してください、森下さんと一之瀬さんを出したかったんです。
では、ここまで読んでくださりありがとうございました。