抜け出せない沼を持つ男と実力主義の教室。雛鳥は何を見るか。 作:末路雛鳥
本編をどうぞ。
入学からあっという間に一ヶ月が過ぎようとしている。
この数週間の間に、本当に色々なことがあった。
例えば、一之瀬が何故かちょくちょくうちのクラスへ顔を出すようになり、柴田の奴がそれはもう分かりやすく一目惚れしたような締まりのない顔を晒していたり。
綾小路と森下という変人コンビが、当たり前のように休み時間にBクラスに入り浸るようになったり。
最初こそざわついていたクラスの連中も、今ではすっかり、ああ、また比企谷のところに変なのが来てる。
くらいの生温かい目でスルーするようになり、ささやかな平穏がなくなってしまった。
俺の机の周辺がカオス空間と化している中、神崎が呆れたように浮かべる苦笑いだけが、俺の正気を保つ唯一の救いになっている。
ていうか、綾小路から衝撃の事実を聞かされたんだが。
あいつが初日に俺に話しかけてきた理由、どうやらアホ毛に興味を惹かれたのがデカかったらしい。
森下といい綾小路といい、俺のアホ毛、どんだけ変人を惹きつける魅力を放ってんだよ。
マジでハサミで根元から切り落としてやろうかと、本気で鏡の前で悩んだわ。
そんな騒がしい日常の中で、一年Bクラスの授業態度は、驚くほど良好に保たれていた。
俺たちが共有した『授業態度でポイントが減点されるかもしれない』という仮説。
神崎と網倉が中心となって、クラスの連中に授業中は静かに集中しよう、と上手く働きかけてくれたおかげだ。
もちろん真実は伏せたまま、みんなでいい雰囲気を作ろう、というポジティブな呼びかけとして。
それに呼びかけに応じるあたり、このBクラスには根っからの善人が多いらしい。俺みたい目の腐った男がいることが申し訳ないレベル。
そして、放課後。 教壇に立った星之宮先生が、いつも通りのフワフワとした笑顔で告げた。
「えーっと、月末だしね。今日は今後のための小テストを行いまーす!」
前から順番に、プリントの束が回ってくる。 主要五教科の問題がまとめて載った、それぞれ数問ずつの小テスト。
「今回のテストは今後の参考用だから、成績表には反映されないから安心してねー」
先生はそう言っていたが。
……なるほど
成績表に反映されないってことは、成績以外の何かにガッツリ影響するってことだろ。
気を引き締めながら、回ってきたプリントに目を通した。
一教科につき四問。
全二十問で、各五点配点の百点満点。
とりあえず一通り問題に目を通してみて、俺は少し拍子抜けした。
……簡単だ。
俺自身、文系科目はともかく理系科目は割と苦手な方だ。
それでも、少し考えれば解法が浮かんでくる。
高校受験の問題と比べても、二段階くらいレベルが低いんじゃないか?
だが。 シャーペンを走らせていくうちに、手が止まった。
各教科の最後の問題、全体で言えばラスト三問。 そこだけ、明らかに次元が違う。桁違いの難しさだ。
印刷ミスでもしたのかと思うほど、前半との難易度の落差がエグい。
数学と理科は完全に白旗だ。適当な数字を書き込んで、奇跡の正解を祈るしかない。 だが、俺の得意分野である国語と、英語の難問については……。
ギリギリまで記憶の糸をたぐり寄せ、なんとかそれっぽい解答を捻り出して解答欄を埋める。
解けたか? いや、正直かなり怪しい。でも、まあ、出来たと思いたい。俺の文系としてのプライド的にも。
この小テストがどんな影響を与えるのか、考えながら、終了のチャイムが鳴り、テスト用紙が回収されていく。
五月一日。 ついに運命の月始めがやってきた。
朝、ベッドの中で目を覚ました俺は、顔を洗うよりも何よりも先に、枕元に置いてあった学校指定の携帯端末を手に取った。
画面をタップし、プライベートポイントの残高を確認する。 元々の俺のポイント残高は、昨日の時点で『576529』ポイントだった。
星之宮先生から口止め料として振り込まれた五十万ポイントが上乗せされているから、文字通り桁違いの潤沢な資産に見える。
だが、俺の内心はひどく複雑だ。
五十万増えているとはいえ、この一ヶ月間の出費ペースを考えると、とてもじゃないが手放しで喜べない。
何がって、綾小路の食費だ。 あいつ、初日以来、当然のような顔をして頻繁に俺の部屋へ上がり込んでくるようになった。
味方だからという謎の免罪符を掲げ、作った飯を平らげていく。しかもあんな細い体のどこにそんなスペースがあるのか、ご飯のおかわりまで要求してくる始末だ。
どんだけ食ってんだ。そんなに食ってたら、絶対に太るz……殺気!?
いかんいかん。女子に太るは禁句だからな。
もしあいつに聞かれでもしたら、無表情のまま俺のアホ毛を根本から引き抜かれるかもしれない。怖すぎる。
だから殺気なんて気のせいだ。うん、ハチマンウソツカナイ。
ま、まあ、それはとにかく。 肝心なのは、今日新たに振り込まれる今月分の支給額だ。
合計残高は、656529ポイント。
……八万。八万、ね。
なんの因果か、俺の名前とそっくりそのまま同じ発音じゃないか。神様も随分と悪趣味なギャグを飛ばしてくるもんだ。朝から変な笑いが出ちまった。
しかし、なるほどな。 十万じゃない。八万だ。
神崎や網倉たちと協力して、Bクラスの連中には、授業中は静かにしようとやんわりと呼びかけてきた。根が善人の多いこのクラスは、それなりに真面目な態度を保っていたはずだ。
それでも、二万ポイントの減点。
減点基準の詳細はわからないが、推測した通り、この学校が毎月十万ポイントをタダで配るようなお人好しな学校ではないということだけは、これで完全に証明されたってわけだ。
制服を着て静かな部屋を出て、学生寮のエレベーターを降りた。
桜の季節はすっかり終わり、通学路の木々は青々とした新緑の葉を揺らしている中、少しだけ重い足取りで学校へと向かった。
一年Bクラスの教室に入ると、そこはすでに蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。 当然だ。
「……ポイント八万しか入ってないぞ?」
「えっ、私も。先生は十万って言ってたよね?」
「システムのエラーか何かなのか?」
スマホの画面を見せ合いながら、クラスメイトたちが混乱の渦に巻き込まれている。
無理もない。何も知らない普通の高校生からすれば、毎月十万もらえると信じきっていたのに、いきなり二万も減額されたんだ。
騙された、裏切られたと騒ぎたくなる気持ちはよくわかる。
神崎や網倉も、すでにこの事態を想定していたとはいえ、いざ現実の数字を突きつけられて顔を強張らせているのが見えた。
……いや。 ちょっと待てよ。
二万減らされたって騒いでるが。冷静に考えてみろ。 八万だぞ。 高校生が、月に八万円のお小遣いを貰っているんだ。
いきなり十万という大金を握らされたせいで麻痺しているが、よくよく考えれば八万だって十分に、いや、十分すぎるほどの大金じゃないか。
完全に金銭感覚がバグり始めている。
十万が基準になってしまっているから、八万という大金を前にして不満を抱く。
これは恐ろしい。
一度上げた生活水準を下げるのは、人間の心理としてひどく難しい。
いかんいかん。 しっかりせねば。
俺は正常、俺はs——
「比企谷」
はいはいなんでしょうか。
神崎が険しい顔をしてこちらにやってきた。 隣の席の網倉も、不安そうにこちらを覗き込んでいる。
「見たか、今月のポイント。……八万だった。俺たちの予想通り、減点されたってことだ」
神崎が声を潜めて言ってくる。
「あー、そうだな。俺も今朝確認した。見事なまでに八万だ。俺の名前を呼ばれてるみたいで朝からイラッとしたよ」
俺が冗談めかして返すと、神崎は微かに口角を上げたが、すぐにまた真剣な顔つきに戻った。
「笑い事じゃないぞ。これでも、Bクラスの連中はかなり真面目に授業を受けていたはずだ。それでも二万減らされた。このまま減点され続ければ、いずれ0になる可能性だってある」
「うん……そうだね。みんな、すごく驚いてるみたいだし」
「まあ、今はそんな焦んないでいいだろ……」
「……減点の理由がはっきりしたわけじゃない。それに、いくらなんでもいきなり0なんて鬼畜なことしないだろうさ」
そのとき——
ガラッ、と。 教室の前方の扉が勢いよく開いた。
「はーい、みんなおはよー!」
教壇に現れた星之宮先生は、丸められたポスターの筒を小脇に抱え、めちゃくちゃご機嫌な笑顔を振りまいている。
……ちょっと待て。
ふわっと教室の前方に漂ってきたこの匂い。
クッサ、酒臭い、アルコールの匂いがプンプンする、ほら、前の席の女子も酒臭って言ってるぞ。
そんな言葉など露知らず、星之宮先生は教卓にポスターの筒をトンと置き、クラス全体を見渡した。
「それじゃあホームルーム始めるけど、みんなから何か質問はあるかな?」
待っていましたとばかりに、クラスの空気がピリッと張り詰める。
その中で、真っ先に手を挙げたのは柴田だ。持物怖じしないトーンで、真っ直ぐに疑問をぶつける。
「先生! 今朝確認したんですけど、俺たちの口座、八万しか振り込まれていなかったんですが」
――ビクッ。 肩が無意識に跳ねた。
八万。ハチマン。 ……だから紛らわしいな!
頭ではお金の八万だと分かっているのに、呼ばれたような気がしてどうしても反応してしまう。
「んー? 八万しか、じゃないよ。ちゃんと振り込まれたでしょ?」
星之宮先生は、ニコニコと笑いながら小首を傾げた。
生徒たちの間に、ざわめきが広がる。振り込まれた。それは事実だが、十万だと思っていた新入生からすれば減っているという認識だ。
先生は困ったような、けれどどこか楽しんでいるような声で言葉を続ける。
「入学式の日に、先生ちゃんと説明したよね? この学校は『実力で生徒を測る』って」
その一言で、教室のざわめきがスッと引いた。
「遅刻や欠席、授業中の私語や、携帯を触った回数。そういう日々の生活態度や授業態度……この学校では、そういったものがすべてクラスの成績として映されるの。その結果が、今月みんなに振り込まれた八万だったってわけ」
……なるほどな。 俺はメモ帳に、情報が書き込まれていく。
推測していた通りの、完全なる減点方式の査定システム。
Bクラスの連中は比較的真面目だったとはいえ、入学直後の浮かれた空気の中で、気づかないうちに私語や居眠りでペナルティを食らっていたということだ。
それでも二万のマイナスで済んだのは、このクラスの善人っぷりと、神崎たちの声かけが功を奏した結果だろう。
「先生」
神崎が鋭い声で切り込んだ。
「では、そのポイントを判断する、具体的な基準はどうなっているんですか?」
ごまかしの利かない直球の質問。 星之宮先生は笑うと、小脇に抱えていたポスターの筒を手に取った。
黒板にそれを押し当て、マグネットで四隅を留めていく。
広げられた真っ白な模造紙。そこにデカデカと印字されていたのは、一年生全四クラスの評価結果だった。
『Aクラス・950』
『Bクラス・800』
『Cクラス・490』
『Dクラス・0』
教室内が、水を打ったように静まり返る。
数字の羅列。 だが、その意味するところは火を見るよりも明らかだ。
口座に振り込まれたのは、八万ポイント。そして、黒板に掲示されたBクラスの数字は800。
元々の十万ポイントという基準が、このポイントが1000からスタートしているのだと仮定する。
つまり、このポイントは一ポイントが、プライベートポイントの100ポイントに値するって寸法だ。
Aクラスは950。
つまり九万五千プライベートポイント。
ほとんど減点されていない、エリートの面目躍如といったところか。
Bクラスは800で、八万プライベートポイント。
Cクラスは490で、四万九千円。
半分以上削られているあたり、柄の悪そうな連中の自業自得というやつだろうか。
そして。 俺の視線は、一番下の行に釘付けになっていた。
Dクラス・0。
……0。 たった一ヶ月で、一桁残らず綺麗に溶かし切ったって言うのか。
つまり今月、Dクラスに所属する生徒たちの口座には、たったの1ポイントすら振り込まれなかったということになる。
だから、こうなった時のための無料商品や無料の山菜定食があった。
最低限の生活はできるだろうが、それでは贅沢な生活に飢えた生徒たちは満足できない。
「……綺麗に揃いすぎてる」
シンと静まり返った教室に、ボソリとした呟きが落ちた。
声の方に視線を少しだけ動かすと、クラスの端のほうに座っている、ツインテールにしたダウナー気味の女子生徒が黒板を見つめていた。
俺は心の中で、彼女のその呟きに深く、同意した。 まったくもって、その通りだ。
Aクラスが950。俺たちBクラスが800。ここまではまだ、百歩譲って優秀な生徒たちが少しだけミスをしたという誤差の範囲として飲み込める。
だが、Cクラスの490。そしてDクラスの0。
一か月でいきなり半分以下に落ち込むクラスと、見事なまでにすっからかんになるクラス。
いくらなんでも数字の開きが極端すぎるし、何より0ってなんだよ。
……普通、どんなに不真面目な集団でも数ポイントくらいは残るはずだろ。
これは偶然弾き出された結果じゃない。
入学する前から、すでに学校側が生徒たちの価値を査定し、あらかじめ意図的に振り分けていたと考えるのが自然だ。
「ふふっ。気づいた子もいるみたいだね」
星之宮先生はポスターの端を指でトントンと叩きながら、機嫌良さそうに口を開く。
酒臭い息を撒き散らしているとは思えないほど、その笑顔は綺麗で残酷だった。
「この学校はね、入学の時点から優秀な生徒はAクラスへ、ちょっとダメな生徒はDクラスへと振り分けるシステムになってるの。ほら、大手の集団塾とかによくある、成績順のクラス編成と同じパターンだよ」
あけすけな事実の暴露。 隠すことすらしない。
教室の空気が、さらに一段階重くなる。誰もが自分たちが上から二番目という微妙な立ち位置にいることを、強烈に突きつけられたからだ。
「でもでも、落ち込まないでね! 君たちは優秀なBクラスなんだから!」
星之宮先生は、不安に揺れる生徒たちをなだめるように、明るい声でパチンと手を叩いた。
「それに、このクラスポイントと呼ばれるものは毎月のプライベートポイントの計算に使われるだけじゃないんだよ。このポイントの数値が、そっくりそのままクラスのランクに反映されるの」
クラスのランク。 その言葉の持つ意味を脳内で咀嚼し、神崎がハッとしたように顔を上げた。
「……つまり、俺たちBクラスのクラスポイントがAクラスのクラスポイントを上回れば、クラスが逆転する。俺たちがAクラスに上がれる、ということですか」
「ご名答!」
先生は嬉しそうにウィンクを飛ばす。
なるほどな。
三年間クラス替えがない理由の答え。
個人のクラス移動には二千万ポイントなんていう非現実的な数字が必要だが、クラス全体でポイントを稼ぎ、順位をひっくり返すことは可能なシステムになっている。
元々はこっちが正規のルートなんだろう。
下克上が認められている、これなら、下のクラスの連中も絶望せずに足掻き続けるだろう。よくできたゲームバランスだ。
だが、大人の用意した地獄は、まだこれだけじゃ終わらなかった。
「それとね、みんなに一番大切なことを教えてあげる」
星之宮先生は、教室全体をぐるりと見渡し。 今までで一番甘ったるい、それでいて背筋が凍るような声で、とんでもない事実を口にした。
「この学校の最大のウリ……希望するならどこでも就職・進学ができるっていうあの特権。あれをもらえるのは、卒業の時に『Aクラス』にいる生徒だけだからね」
――その瞬間。 教室の中にいた全員が、文字通り息を呑んで硬直した。
信じられない、といった顔で目を見開く柴田。 知っていたとはいえ、やはり教師の口から聞かされると辛いのか、青い顔をする網倉、神崎。
クラスメイトたちの反応は、どれも一様に絶望と驚愕に染まっていた。
無理もない。
全員が全員、エリート志向というわけではないだろう。だが、大小なりともその100%の進路保証という甘い蜜を求めて、この学校の門を潜ったはずだ。
将来の安定。輝かしいエリート街道。
それが、最初から自分たちには約束されていなかった。自分たちはAクラスの踏み台に過ぎず、このままでは特権を一切得られないただの高校生として放り出される。
その残酷すぎる事実を突きつけられた衝撃は、計り知れない。
……もちろん教師を目指す俺だって、例外じゃない。
呆然とする生徒たちを前に、星之宮先生は一切の容赦を見せなかった。 黒板に貼られたポイント表の隣へ、スッと別の紙を貼り付ける。
「はい、それじゃあ次の発表ね。これ、先日みんなに受けてもらった小テストの結果だから」
追加された紙には、クラス全員の名前がズラリと並び、その横に数字が記載されていた。
黒板に貼り出された小テストの成績表。 そこから自分の名前である比企谷八幡の文字を上の方に探し当て、隣に印字された数字を視線でなぞる。
国語、八十五点。数学、八十点。英語、八十五点。社会、八十五点。理科、八十五点。
ああ、うん。見事なまでに綺麗に揃った結果だ。
各教科の最後の意味不明な暗号みたいなラスト三問。
案の定、カスりもしていなかったらしい。見事に全滅だ。
ついでに数学は計算ミスか何かでプラス一問落としているようだが、数字を見ただけで拒否反応が出る文系人間の俺にしては、上出来すぎるスコアだろ。
だいたい、全部七十点より遥かに上だ。
完全に俺基準ではあるが、これで俺は満足できる。
周囲を見渡すと、神崎や網倉をはじめ、クラスの連中もホッと胸をなで下ろしている顔が多い。どうやらこのBクラス、学力の平均値もかなり高いらしい。
「ふふっ。みんな、なかなかやるじゃない! 優秀優秀!」
教壇の上で、星之宮先生がパンパンと手を叩いて満面の笑みを浮かべた。
担任からストレートに褒められて悪い気のする生徒はいない。
クラスポイントの残酷な事実を突きつけられ、重苦しく沈んでいた教室の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
――だが。
アメの後に必ず強烈なムチを用意しているのが、この理不尽な学校の絶対法則だ。
「あ、そうそう。言い忘れてたけどね」
星之宮先生は、まるで明日の天気は晴れだよとでも言うような、極めて日常的で軽いトーンで——
「この学校、定期テストで一科目でも『赤点』を取ったら、即退学だから気をつけてねー」
…………俺も知らないことを言い出した。
「……は?」
誰かの間抜けな声が、静寂に吸い込まれる。
退学。たいがく。
二年生の教室で見た、あの不自然に少なかった机の数。
綾小路が指摘した答えが、今、無慈悲に突きつけられた。
素行不良なんかじゃない。ただテストの点数が基準に満たないだけで、この学校からは容赦なく叩き出される。
パニックに陥りかける生徒たちを前に、星之宮先生はふんわりと笑う。
「でもでも、このクラスは優秀だから大丈夫だよね! 中間テストまでは、あと三週間。……君たちが、誰も赤点を取らないで乗り越えられる方法があるって、先生は確信してるよ」
……方法?
……その言い回し。
普通なら、しっかり勉強してねで終わるはずだ。
わざわざ乗り越えられる方法なんて、意味深すぎる言葉選び。
「それじゃ、今日のホームルームはこれでおしまい!」
ポスターの筒を小脇に抱え直し、先生はご機嫌な足取りで教室を出て行った。 ガラリ、と無情に扉が閉まる。
星之宮先生が軽やかな足取りで出て行った後の教室は、まるでお通夜のような、いや、それ以上の重苦しい静寂に支配されていた。
ついさっきまで八万ポイントという大金に安堵しかけていた空気は完全に吹き飛び、代わりに退学という二文字がクラス中を覆い尽くしている。
誰一人として口を開こうとしない。聞こえてくるのは、誰かの吸の音と、壁掛け時計の無機質な秒針の音くらいだ。
無理もないだろう。エリート街道を信じて入学してきた普通の高校生にとって、少しテストの点数が悪かっただけで退学とい現実は、あまりにも重すぎる。
そんな息の詰まるような沈黙を破ったのは、ガタッ、という椅子を引く音だった。
「みんな、聞いてくれ」
立ち上がったのは、神崎だ。 その顔には焦りや恐怖の色はなく、ただ真っ直ぐにこのクラスが直面している危機を見据えた、強い意志が宿っていた。
「まずは、中間テストを全員で乗り切るために、勉強会を開こう。得意な奴が苦手な奴を教え合う体制を作れば、誰も赤点を取らずに済むはずだ」
的確で、極めて真っ当な提案。 だが、そのあまりにも冷静な判断が、逆に今のパニック状態のクラスメイトたちには異質に映ったらしい。
「……なんで、そんなに落ち着いてるんだよ、神崎」
絞り出すような声で噛み付いたのは、柴田だった。
いつもなら誰もがつられて笑顔になるような快活な雰囲気を絶やさない彼が、今はひどく顔を強張らせている。裏切られたような、すがるような目。
「退学だぞ? ちょっとテストで赤点をとっただけで、人生に関わる失敗をするかもしれないんだぞ。お前、なんでそんな平気そうな顔して仕切れるんだよ」
柴田のその言葉に同調するように、クラスのあちこちから神崎へ向けられる視線が、微かな疑心暗鬼を帯び始めたのがわかった。
……人は未知の恐怖に直面した時、自分と同じように怯えていない人間を見ると、どうしても裏切られたのではと勘ぐってしまう生き物だ。
教室の最後列の俺からは、クラス全員の背中や横顔が実によく見える。
柴田の追及に対し、神崎は目を逸らさなかった。 小さく息を吸い込み、覚悟を決めたように口を開く。
「……入学して二日目の時点で、俺はこの学校の仕組みに気づいていた」
教室内が、息を呑む気配で揺れた。
「だが、みんなには言えなかった。もしこの仕組みを誰かに口外すれば、その時点で退学になるという契約を、教師と結ばされていたからだ。その対価として、50万プライベートポイントを、俺は貰っている」
正直に、馬鹿正直に、神崎は抱えていた秘密を打ち明けた。
ざわめきが広がる。恐怖の矛先が隠し事をしていたという神崎への不信感へとすり替わりそうになる。
いくら退学の脅しがあったとはいえ、クラスメイトを出し抜いていたと捉えられかねない危うい告白だ。
……このままじゃ、神崎が一人でクラスの不満やヘイトを全部背負い込むことになってしまう。
それは、ひどくマズい。
……理由は、理由は……そう。
綾小路と森下といった変人どもが俺の周りをうろちょろする中、神崎の常識的なツッコミと苦笑いだけが、俺の唯一の救いの場所になっているんだ。
神崎が孤立してしまえば、俺は誰に助けを求めればいいんだ。
俺の平穏を守るためには、ここで神崎に潰れてもらうわけにはいかない。
あくまで俺の、極めて自己中心的な打算。神崎のためじゃない。俺のためだ。
「……はあ」
俺はわざとらしく、教室中に響くような長くて重いため息を吐き出した。 そして、重い腰を上げてゆっくりと立ち上がる。
クラス中の視線が一斉に俺へと突き刺さった。柴田の戸惑った視線もすべてが俺に集中する。
……痛い。視線恐怖症になりそうだ。
「俺も、神崎と一緒に行って、50万プライベートポイントを貰って、知っていた」
極力、感情を排した低いトーンで告げる。 神崎が驚いたようにこちらを振り返ったが、俺はそいつから視線を外して柴田たちの方を見た。
「神崎は悪くないだろ。むしろ、お前らあいつに感謝するべきだぞ」
「か、感謝……?」
「ああ。言えないなりに、あいつはお前らに授業中は静かに集中しようって促してただろ。そのおかげで、無駄な減点を防げたんだ。お前らが素直に私語をやめてくれたから、俺たちには800ものクラスポイントが残ってる」
事実を、ただ淡々と突きつける。
「もし神崎が何も知らずに、俺たちが初月の浮かれた気分のまま過ごしてたらどうなってたか。黒板を見てみろ。Dクラスみたいに、今頃すっからかんのゼロポイントだったはずだ。……まずは、その事実を理解して、落ち着けよ」
俺の言葉が、冷水を浴びせるように教室の熱を奪っていく。
隠し事をされていたという不満よりも、自分たちが神崎のおかげで救われていたという事実が、クラスメイトたちの脳内にじわじわと浸透していくのがわかった。
その絶妙な空気の変化を見逃さず、隣の席でガタッと音がした。 網倉だ。
彼女は立ち上がると、胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、少しだけ潤んだ目でクラス全体を見渡した。
「ごめんね、みんな……」
ひどく心細そうな、震える声。
「私も、比企谷くんたちと一緒にいて、知ってて、50万プライベートポイントを貰ってたの。でも、誰にも言えなくて……本当に、ごめんなさい」
太陽のように明るい網倉が、ポニーテールを揺らして深く頭を下げる。 その純度100%の申し訳なさそうな姿は、どんな論理的な説明よりも遥かに絶大な効果を発揮した。
あんなに純粋で優しい網倉が、涙目で謝っているのだ。これを責められるような極悪非道な人間は、この善人揃いのBクラスには存在しない。
「あ、いや……網倉さんが謝ることじゃないって!」
「そうだよ、言ったら退学になるなら仕方ないし……」
「それに、比企谷くんの言う通り、神崎くんたちのおかげでポイント残ったんだしね」
さっきまでのトゲトゲとした空気が嘘のように、クラスの雰囲気がわずかに、だが確実に柔らかく落ち着いていく。
柴田もバツが悪そうに頭を掻き、「わりぃ、神崎。俺、ちょっとテンパってた」と素直に謝罪を口にした。神崎は小さく首を横に振り、「気にするな」と柔らかい笑みを返す。
……悪いことをした。網倉の信頼と信用を利用して、網倉なら、必ず立ち上がり言うと思っていた。
だが……結局はなあなあで全てを終わらせたまま、テストの問題も、五十万プライベートポイントも、全て。
『貴方のやり方、嫌いだわ』
『もっと人の気持ち、考えてよ!」
俺自身が、犠牲に……なんて言わせないが、昔の俺のやり方は、あいつらが悲しむから、控えていたのに、結局は俺にヘイトを集めた方が、こいつらは団結して、もっといいクラスになれたんじゃないかって、そう思ってしまう。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
ここからは自分なりの解釈です。
まず、Bクラスのクラスポイントが多い理由は、一之瀬さんの有無と、日々の注意喚起です。
一之瀬さんがいないことにより、全員が仲が良いってわけではないため、遊びに行ったり、授業中の私語が少ないので、あまり減少しなかったと、勝手ながら解釈しました。
元々はBクラスの全員は善人なので、神崎や網倉の指摘も、素直に聞くだろうなと思いました。
クラスポイントの発表の時にクラスの全員が取り乱したのは、やはり一之瀬さんがいなかったために、統率力がないため。
リーダーがいない、つまり一之瀬さんがいないので、依存しない、リーダーはいない、だから、全員の思考は止まらない、退学の恐怖心があるから、自己鍛錬を怠らない、そうなれたらいいなと思います。
まあ、アホ毛クソボケの後ろに天然最強女子がいるので、負けることはあまりないと、思われます。
次回は、姫野ユキさんとの話になれたらいいな、と思います。お楽しみに。