抜け出せない沼を持つ男と実力主義の教室。雛鳥は何を見るか。 作:末路雛鳥
では本編をどうぞ。
……気づけば、放課後になっていた。
朝のホームルームの後から、何も考えられなかった。
『一年Dクラスの綾小路さん。担任の茶柱先生がお呼びです。職員室まで来てください』
……そんな無機質な案内は気のせいだろう。
「……比企谷くん」
不意に、頭上から声が降ってきた。 網倉のような明るさでもなく華やかさでもない。
ひどく気怠げで、温度の低い声色。
ビクッと肩を揺らし、恐る恐る、亀のように首だけを持ち上げた。 視界に入ってきた姿に、思考が停止する。
「……姫野?」
そこに立っていたのは、ツインテールの女子、姫野ユキだった。
……目つきが、怖い。
――げふんげふん。失礼。訂正しよう。 目が、とても特徴的な姫野。
切れ長で、常に機嫌が悪そうに細められた瞳。俺の腐った目とはベクトルが違う、鋭く冷ややかな威圧感。
ヤバい。俺の経験則が告げている。こういう気怠げなギャル(?)に目をつけられるのは、カツアゲかパシリの二択と相場が決まっているんだ。
朝、調子に乗ってクラスの空気を誘導するような発言をしたのが気に食わなかったのだろうか。
ちょっとアンタ、調子乗ってんじゃないわよ的な?
「な、なんかようか?」
極力刺激しないよう、声を上ずらせないことに全神経を集中させて尋ねた。
だが、姫野は言葉を返さない。 ただ冷ややかな目で見下ろしたまま、クイッ、と。
無言で、自分の顎をしゃくってみせた。
――顎で示した。
それは、言葉を介さないヤンキー特有の絶対的なコミュニケーション。
翻訳すれば、いいから黙ってついてこい、という意味だ。
教室の中で目立つ真似はしない。人目のつかない裏庭か、体育館裏あたりに連れ込んで、物理的な制裁を加えるための合図。
あぁ、終わったかもしれねぇ。
クラスじゃなくて俺の高校生活が物理的に終幕を迎えようとしている。
小町、お兄ちゃんぼこぼこにされるよ。
まさか入学して一ヶ月で、カツアゲのターゲットにされるなんて思わなかったよ。
顔だけは殴られないように、必死でガードを固めてくるからな。
「……」
姫野はそれ以上何も言わず、背を向けて歩き出した。 早く来い、という無言のプレッシャーが発せられている。
ここで逃げれば、後でどんな凄惨な報復が待っているかわからない。逆らえない。スクールカーストの底辺を這う者にとって、女子からの呼び出しは絶対なのだ。
「……はあ」
どうか、要求される金額が千ポイント以下で済みますように。
……なんて情けない祈りを胸に秘めながら、まるで処刑台へと向かう罪人のような気分で、廊下を歩き始めた。
……第一体育館の裏。 そこは、放課後だから当然人はいない。
ひんやりとした薄暗い影が落ちる、完全な死角だ。
あぁ、終わった。
ははっ、完全に終わった。
体育館裏への呼び出し。それはいじめの始まりの場所。
……せめて、痛くしないでね。
小町ちゃん、俺は今日、理不尽な暴力の犠牲になります。
前を歩いていた姫野が、ふいっと振り返った。
ツインテールが揺れ、特徴的な、少し機嫌の悪そうな切れ長の目が俺を真っ直ぐに射抜く。
「……比企谷くんでしょ?」
彼女はそう聞いてきた。
……比企谷くんでしょって、なんだそれ。
主語がなさすぎて全然わからない。
ナメた態度とってるの、比企谷くんでしょ? という因縁のつけ方か?
「……主語がない。俺は確かに比企谷だが、一体なんの話だ」
すると姫野は、面倒くさそうに一つため息を吐き、淡々と説明を始めた。
「ホームルームの時。神崎くんの比企谷くんを見る目。網倉さんの、信頼に満ちた目。……それから、星之宮先生の、期待を含んだ目。どれも全部、比企谷くんに向けられてた」
ギクッ、と。 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「あの状況で、なんでただの目立たない、いや、比企谷くんは十分目立ってるか。クラスの中心人物や担任の意識が集中するの。……比企谷くんが、裏で何か糸を引いてるんでしょ」
絶句した。 こいつ、周りをよく見てるな。
いや、よく見ているなんてレベルじゃない。
視線の動きや空気の微細な変化を完璧に読み取っていた。
あの状態の教室で、そんな冷静な人間観察ができる奴がいるなんて思わなかった。
こうなると、下手な誤魔化しは逆効果になる。
「……はぁ」
降参するように両手を上げ、重い息を吐き出した。
「わかった、観念する。だが、俺が裏で糸を引いてるなんていう大層なもんじゃないぞ」
俺は隠すことなく、神崎や網倉と一緒に職員室へ行ったこと。そして、気づいた経緯を説明した。
もちろん、俺一人の手柄にするつもりはない。というか、俺の平穏を守るためにも、厄介事のヘイトは分散させたい。
「……俺はただの付き添いだ。だいたい、そのルールに気づく決定的なヒントを落としたのも、俺じゃなくて綾小路のおかげだしな。だから、警戒するなら綾小路だぞ、これは冗談抜きで」
俺の説明を聞き終えると、姫野はなるほどと短く呟き、小さく頷いた。
「確かに、それなら筋が通るね。……比企谷くんはリーダーに向かないね」
? なんでリーダーなんて単語が出てくるかわからないがそれは全面的に同意だ。
「それはもう、全面的に同意する。俺みたいなやつが表に立っても、クラスがまとまるわけがない。リーダーなんてのは、神崎や網倉ぐらいの人望があるやつがやればいい。俺は一生裏方でいい」
我が意を得たり、だ。
姫野の、わかってるじゃないか。 これ以上ないほど納得していると、姫野は微かに口角を上げた。
「じゃあ、私が比企谷くんに従ってあげる」
「…………は?」
再びフリーズした。
今、なんて言った? 私が従ってあげる?
意味がわからない。なんでカツアゲ(被害妄想)の呼び出しから、いきなり忠誠を誓われる展開になってるんだ。
「何言ってんだ? 従うって、どういう意味な……」
「神崎くんも、柴田くんも、網倉さんも。みんな、優しすぎるんだよね」
姫野は、俺の言葉を遮り、つまらなそうに体育館の壁に寄りかかりながら言葉を紡ぐ。
「あの人たちは綺麗だから。……比企谷くんも、優しそうだけど。でも、なんか『違う』っていうか」
違う。
その言い方だと俺は汚いみたいに言われてるから小一時間ほど問い詰めたいが、納得する。
そう、俺の優しさは自分のための打算だ。自分の平穏を守るためなら、嘘も吐くし、人も利用するし、泥だって啜る。そういう部分を、こいつは理解しているらしい。
「私にはよくわかんないけど。でも、比企谷くんみたいな人が裏で動くなら、手足があった方がいいよね。だから、私が動いてあげる。なんでも言ってよ」
手足になる。なんでも言って。 その言葉の並びに、俺は一つ思う。
ダウナー美少女が、体育館裏という空間でなんでも言ってと忠誠を誓ってくる。
口から、無意識のうちに、極めて不適切な三文字が漏れ出た。
「……ビッチ?」
――ヒュッ!
風を切る鋭い音が鳴った。 頬の横を、姫野の平手打ちが凄まじいスピードで通り抜けていく。
「おわっ!?」
反射的に首を反らして回避していなければ、間違いなく俺は死んでいた(過激)。
「比企谷くん、それセクハラ」
「ひゃ、ひゃい、しゅみましぇん」
氷点下の声と目で睨みつけてくる姫野に謝罪した。
完全に俺が悪い。言葉のチョイスが最悪だったし女子に言うことではなかった。
「……とにかく。私は、表立って面倒なことをするのは嫌い。でも、このままじゃクラスが沈むのもわかってる、クラスのまとまりがないから、私はそのことに気づけたの」
姫野は振り抜いた手を下ろし、再び気怠げな態度に戻って言った。
「だから、比企谷くんに期待してる。アンタが裏で上手くやるための、便利な駒になってあげるって言ってるの」
簡単に言えば、そういうことらしい。 姫野は、自分自身が矢面に立つのは面倒だから、俺という裏のまとめ役に投資しようとしているわけだ。
……冗談じゃない。
「……悪いが、断る」
俺はきっぱりと首を横に振った。
「俺は誰かを引っ張る気も、裏でクラスを操るなんて偉そうにする気もない。平穏に無事にAクラスで卒業できればそれでいい。お前の期待には応えられないね」
そう言って踵を返し、さっさと寮に帰ろうとした。 だが。
「ふーん」
背後から、妙に楽しげな、ニヤニヤとした声が聞こえてきた。
「じゃあ、このこと、クラスのみんなに話しちゃおうかな」
「……あ?」
「『実は比企谷くんが、初めにポイントのルール全部気づいてたんだよー』って。柴田くんあたりに吹き込めば、すぐにクラス中に広まるよね。もちろん綾小路さんのことは話さないよ。そしたら比企谷くん、みんなから頼られちゃって、嫌でもリーダーやらされるんじゃない?」
ピタッ、と。 足が、床に縫い付けられたように止まった。
……この女。 悪魔か。俺の最も嫌がる弱点を、的確に突いてきやがった。
そんなことをされれば、俺の平穏な生活は一瞬で崩壊する。ただでさえ綾小路と森下で大変なのに。
首だけを振り向き、冷や汗を流しながら、この恐るべきことを平気で言う姫野を見つめ返した。
彼女は、薄く笑っている。逃げ場なんて、最初から用意されていなかった。
「……もう任せろ」
俺は即座に、きびきびとした動きで姫野の方へ向き直り、右手の親指を力強く立てた。
「誰かを支えるために生まれてきたまであるぞ、俺は。裏方のスペシャリストと呼んでくれ」
俺のプライドなんてものは、平穏な生活の前にはティッシュほどの価値もない。
……いや、ティッシュには価値があるから、ゴミ以下か? 俺のプライドなんてそこら辺の犬に食わせたからな。
華麗な変節ぶりを見て、姫野は呆れたように、けれどどこか満足げに小さく息を吐いた。
「……壮大だね」
「まあ……とりあえず」
姫野は気怠げな仕草でスッと右手を差し出してきた。
細くて、白い手。
握手、というやつだろうか。この契約(俺からすればどう見ても脅迫だが)の成立を意味する。
「なんか、悩みでもあれば、言って。私が聞いてあげる」
差し出した手のまま、姫野は俺の顔を真っ直ぐに見た。
その口調は相変わらず温度が低く、面倒くさそうに響く。けれど、その切れ長な目の奥には、ただのからかいや脅しだけじゃない、妙に真っ直ぐな光が混じっているような気がした。
悩み。 そんなもの、今の俺には売るほどある。
綾小路のこと、森下のこと、学校のこと。
……そして何より、俺のやり方、俺自身の考え方が間違っていないのか。
だが、それを今ここで、こいつにベラベラと喋る気にはなれない。俺たちはまだ、お互いのことを知りもしない、赤の他人だ。
俺は小さく息を吐き、差し出されたその手に自分の右手を重ねた。 ひんやりとした、少しだけ体温の低い感触。
ほんの数秒だけ軽く握り合い、すぐにパッと離す。
「……ああ。いつかな」
今はそれで十分だ。
その曖昧な答えに、姫野はふーん、と短く鼻を鳴らした。それ以上、深く追及してくる気配はない。
彼女はそれ以上何も言わず、くるりと背を向ける。
ツインテールの髪先が揺れ、そのまま気怠げな足取りで帰っていく。
体育館の壁に背中を預けたまま、その少し小柄な背中が角を曲がって見えなくなるのを、ただ黙って見送った。
やがて、姫野がいなくなる。 完全な一人きりの空間になってから、ズルズルと壁伝いにしゃがみ込み、深く膝を抱えた。
「……言葉がなくたって、分かり合える、か」
昔、どこかの誰かが言っていたような、甘ったるくて耳障りのいいフレーズ。 だが、そんなものはただの幻想だ。
言葉を交わさなくても気持ちが通じ合うなんて、できるわけがない。
普通の人間にそんな超能力は備わっていない。
沈黙は沈黙でしかなく、言葉にしなきゃ相手の心なんて一ミリも伝わらない。いや、言葉にしたところで、相手がそのまま受け取ってくれる保証なんてどこにもない。
誤解され、すれ違い、勝手に期待されては勝手に裏切られたと騒ぎ立てられる。それが、人間関係というやつの圧倒的な面倒くささだ。
だからこそ。
「手足になる」
「なんでも言って」
なんていう、姫野の極端な言葉を、今は額面通りに受け取っておくことにする。
向こうがビジネスライクな契約を結んでくるなら、俺も自分の平穏を守るために、その契約を利用してやるだけだ。情なんてものは挟まない。ただの利害の一致。
本当に限界が来たときは、手足になるらしい姫野を、容赦なく利用させてもらう。 俺のささやかな平穏と、教師という未来を守り抜くために。
「さて、と……帰るか」
……それから、あっという間に一週間が経った。 中間テストに向けたBクラスの連中の動きは、控えめに言っても驚くほど順調だった。
神崎が旗を振り導き、柴田がクラスの空気を盛り上げ、網倉が持ち前のコミュ力で女子たちをまとめる。
見事な連携だ。危惧していたパニックや足の引っ張り合いなんてものは一切起きず、放課後の教室には教え合いの輪が自然と出来上がっていた。
俺? 俺は当然、気配を消して帰宅部をエンジョイ……できるはずもなかった。
「比企谷くん、国語と英語の点数よかったよね! ここ、教えてくれないかな?」
なんて、網倉に純度100%の笑顔で迫られれば、断れる男はいるか? いやいない(断定)
結局、俺も放課後の勉強会に駆り出され、文系科目を教える羽目になっている。
とはいえ、だ。
クラス全体が退学の危機を乗り越えようと一丸になっているこの状況。まさに順風満帆、という四字熟語がこれ以上なくしっくりくる。
俺のささやかな平穏も、どうにか保たれていると言っていい。
――だが。 その順風満帆な日常の中で、俺の心に一つだけ、どうにも無視できない喉に刺さった小骨のような違和感が引っかかっていた。
……最近、綾小路とまったく会っていない。
いや、会っていないというのは少し語弊がある。
同じ学校の敷地内にいるんだから、廊下や食堂で見かけることくらいはある。 問題は、あいつの態度だ。
あれだけ俺の部屋に勝手に上がり込んで、飯を平気で平らげていたあの綾小路が。
ここ数日、俺の寮にも来ないし、俺のところに来ることもなくなった。
それだけじゃない。 一昨日、食堂の近くであいつを見かけた時だ。
俺が声をかけようと近づいた瞬間、あいつはビクッと肩を揺らし、一切俺と目を合わせようとせず、ものすごいスピードで逃げていったのだ。
陸上部も顔負けのダッシュで角を曲がって消えていく姿は、シュールを通り越して不気味ですらあった。
……嫌われているのか?
いや、それならそれで、俺としては一向に構わない。
本来の平穏な日常が戻ってきただけだ。喜ぶべきことじゃないか。
だが……逃げていく瞬間にチラリと見えたあいつの顔が、どことなく元気が無さそうだったのが、どうにも脳裏にこびりついて離れない。
いつもなら無機質な瞳の奥に、好奇心や柔らかい光を宿しているのに。その光がすっかり消え失せて、ただのガラス玉みたいに濁っていた。
……心配、しているのか、俺は。
綾小路のことを。
……認めたくないが、あいつの不在で俺の右腕が少しだけ軽く感じるのが、なんだかひどく腹立たしい。
そんなモヤモヤとした思考が頭の中をぐるぐると駆け巡り、その日の夜、どうしても寝付けなかった。
ベッドの中で小説を読むのにも飽き、俺は適当なジャージを羽織って部屋を出た。
夜の廊下は静まり返っている。冷たい空気が、少しだけ火照った頭を冷やしてくれる気がした。
一階のロビーへ降り、自販機でジュースを買う。
いつもなら迷わずマッ缶を買うところだが、こんな夜更けにカフェインと練乳を摂取すれば、それこそ朝まで一睡もできなくなる。無難なリンゴジュースのボタンを押した。
ガコン、と冷たい缶が落ちてくる音だけが、不自然なほど大きく響く。
缶のプルタブを開け、一口飲む。
……甘さが足りない。やはり俺の体はマッ缶を求めているらしい。
ジュースを片手に、そのまま部屋へ戻る気にもなれず。俺はほんの少しだけ夜風に当たって散歩でもしようと、学生寮の裏手へと繋がる出入り口のドアを押し開けた。
寮の裏手は、街灯の光も届きにくい薄暗い死角になっている。 誰にも会うはずのない、深夜の静寂。 ただ夜風の音だけが聞こえるはずのその場所で。
「――っ」
微かな、けれど明確な人の声が耳に届き、俺の足はピタリと縫い付けられたように止まった。
こんな時間に、誰かがいる。
俺は足音を完全に殺し、自動販売機の横の物陰にスッと身を滑り込ませた。
そこから、声のする方へと慎重に視線を向ける。
暗がりの中に、三つの人影があった。
一人は、見間違えるはずもない、綾小路だ。
いつもと変わらない無表情のまま、じっと立ち尽くしている。だが、右手は男の腕を掴んでいる。
そして、綾小路に腕を掴まれている、一人の男。
冷徹な威圧感は隠しきれていない。キリッとした顔立ちに、冷たい光を反射するメガネ。
見覚えがある。間違いない、入学式の時に新入生代表の挨拶だか何だかで壇上に立っていた、たしか堀北とかいう名前の生徒会長だ。
生徒会長が壁に押し付けているもう一つの影。
黒髪の、長い髪をした女子生徒だ。 顔までは、はっきりと見えないが、彼女はガタガタと震えている。
……なんだ、この異様な空間は。
出ていくべきか。
いや、俺が首を突っ込んでいい領域じゃない。相手は生徒会長だぞ。絶対的な権力者だ。関われば、俺の高校生活そのものが終わるかもしれない。
そして、綾小路が手を離して、生徒会長が動くのを見て、俺は———
ぎゅっ、と。 目の前に立つ男の人の腕を、しっかりと掴む。
ひどく冷たい目をした人。
ロビーで水を買っていたときに、エレベーターから降りてきた堀北さんの様子がおかしくて、ついてきたらこんなことが起こるなんて。
……でも、頭の中は、今起きている目の前のことなんて、ほとんど頭になかった。
――最近、八幡と会っていない。
私はそんなことばかりを考えている。
最後に会ったのはいつだっただろう。
ここ数日、私は八幡の右手を握ってないから、なんだかずっと手持ち無沙汰で、手が冷たくて寂しい。
八幡のお部屋に行って、一緒にキッチンに立って、お野菜の皮を剥いて。
美味しくて、胸の奥が暖かくなるあのお料理を、ずっと食べていない。
どうして、八幡のところに行かなかったのか。 だって、仕方なかったの。
一週間前。――放送で職員室に呼び出された。
そこで茶柱先生が私に堀北さんの話を聞かせ、あろうことか私の入試の結果を堀北さんに見せる始末。
何がいけなかったのか、全部五十点をとっただけなのに。
その話し合いが終わり、堀北さんは言った。
『あなたはいつも、Bクラスの比企谷くんと一緒にいるわね。……彼を通じて、Bクラスの情報を教えてちょうだい』
堀北さんは、どうしても上のクラスに上がりたいみたいだった。
だから、隣の席で少しだけ言葉を交わした私を、道具みたいなことに使おうとしたんだと思う。
嫌だった。 私は、八幡の味方だから。
八幡を売るような真似は、私は絶対に嫌だった。
だから、私は八幡を避けることにした。
人付き合いが苦手な私は、これしか知らないから。
これ以上一緒にいたら、堀北さんの標的が八幡に向いてしまうかもしれない。
堀北さんには適当に協力するふりをして、私自身が目立つように立ち回った。
私が『慈愛の可憐美』なんて変な名前で噂になって、他クラスの生徒たちからジロジロと視線を集めるのは、まだいい。
けど。 堀北さんに、これ以上八幡のことを知られたくなかったの。
文句を言いながらも美味しいご飯を作ってくれて、私の頭を優しくなでなでしてくれた人。
あの温かい場所を、誰かに見つけられて、壊されたくなかった。だから、自分から離れた。
「……やめて、綾小路さん」
か細い声が聞こえた。 堀北さんは私を見ている。
いつもツンと尖った、近寄りがたい雰囲気なのに。
今の声はひどく怯えていて、涙声で、ボロボロに震えている。
こんな声、初めて聞いた。
どうして、こんなに怯えきっているんだろう。
疑問はたくさんあるけれど、堀北さんが私にそう言うのなら、これ以上私が腕を掴んでいるのはお節介になっちゃう。
ゆっくりと生徒会長の腕から自分の手を離した。
離した、その瞬間。 空気を鋭く裂く音と共に、生徒会長の裏拳が私の顔面を狙って飛んできた。
速い。そして、的確に急所を狙う容赦のない一撃。
でも、私は体の柔らかさにはすごく自信があるから。
足上半身だけを後ろへ捻る。鼻先を風が通り抜けていくのを感じながら、その拳を綺麗に避けた。
すると、休む間もなく、今度は私の腹部を狙って鋭い蹴りが飛んでくる気配がした。
軌道は完全に読めている。
少しだけ横へ飛んで避ける。そう判断した、まさにその時。
ぐいっ、と。
横から、強い力で引っ張られた。 計算外の方向からの力。
バランスを崩した私の体は、そのまま誰かの腕の中に抱き寄せられた。
「……えっ」
びっくりして、思わず小さく声が漏れる。
視界がぐるりと回り、ドン、と少しだけ固い胸板にぶつかった。
……私がこの一週間ずっと欲しくてたまらなかった、この体温、この匂い。
私を庇うように抱きしめたまま、その人は生徒会長の蹴りが掠ったのか短く呻き声を上げた
目を丸くして、その人の顔を見上げる。
見慣れた、濁った瞳。ボサボサの髪の毛。頭の上のアホ毛。
ドクン、と。
今まで経験したことのない、とてつもなく大きな音が、私の胸の奥で鳴った。
顔の周りにカッと熱が集まっていくのがわかる。
心臓が、ぎゅーっと締め付けられるみたいにくすぐったい。
逃げて、避けて、会わないようにしていたのに。
どうして、こんな真夜中の暗闇の中で、私のピンチ(ピンチじゃなかったけれど)に飛び込んでくるの。
私は、彼の胸元をでぎゅっと握りしめながら、震える唇を開いた。
「……八幡」
その名前を口にしただけで、私の中の冷え切っていた部分が、一瞬にして温かい熱で満たされていくのを感じた。
八幡は、ひどく怒ったような顔をしている。
私を庇うように抱き寄せたまま、生徒会長と対峙して、何かを言い放っている。
でも、その声は今の私には、聞こえなかった。
ただ、トクン、トクンと早鐘を打っている彼の心臓の音と、伝わってくる体温だけが、私の視界を完全に八幡が塗りつぶしている。
何も聞こえない。何も考えられない。 ただ、すぐ目の前にある八幡の少し険しい横顔を、じっと見上げている。
守られる。 自分以外の誰かが、身を挺して私に飛んでくる暴力を防いでくれる。
今まで、そんなことされたことが、なかった。
生まれて初めての経験に、ドキドキしてしまう。
離れられない。
私の中の何かが、いや、ひとりの『女の子』としての本能が、この人を絶対に離せないと叫んでいる——
……入学初日。
私は、この人から『温もり』というものを知った。
八幡が撫でてくれて、八幡のお部屋に上がり込んで、八幡と一緒にお料理を作って、八幡と向かい合ってご飯を食べて。
その時、初めて知ったんだ。
楽しいって、幸せだって、こういうことなんだって。
文句ばかり言って、面倒くさそうに顔をしかめて、それでも結局は私のワガママを聞いてくれる。
少し乱暴で、優しいなでなでが、私はたまらなく好きだった。
なんやかんや言って、八幡は優しい。私に向けられるその優しさが、心地よくて仕方なかった。
だから、その翌日。
八幡がポイントのことで一人で悩んでいたから。
私自身の確認も込めて、彼を二年生のところへ連れて行った。 そこで、私は思い知らされた。
…-私の実力は、異常だと。
私がこの学校の真実を彼に示せば、八幡は私の異常さに気づく。
私のことを得体の知れないバケモノだと言って、怯えて、この温かい場所から私を追い出してしまうんじゃないかって。
怖かった。
あの場所でもあまり動かなかった私の心に、初めて『恐怖』という感情がはっきりと生まれた瞬間だった。嫌だ、拒絶されたくない。
『……まあ、ありがとな』
『……怖くないの?』
怖かった、八幡の顔が、どこか怯えていたから。
『怖い? 当たり前だろ』
『得体の知れないやつなんて、怖いに決まってる。知らないってことは、酷く怖いことだからな』
『一回だけだ……ありがとな、お前のおかげで、俺は助かった』
『だから……そんな怖がんな……俺は別に、お前を嫌いになったりしないから』
……八幡は、違った。
怯えるどころか、私のせいじゃない、お前のおかげで助かったんだって。
だから怖がるなとでも言うように、不器用な言葉で私を丸ごと肯定してくれた。
その言葉を聞いた瞬間、私は。
……『絶望』したんだ。
それは、真っ逆さまに底なし沼へ落ちていくような、甘くて、抜け出そうと思わないほどの、どうしようもない絶望。
だって、その時から、私はもう八幡からどこか目が離せなくなってしまった。
ただの面白い観察対象なんかじゃない。
もっと知りたい。もっと触れたい。ずっと隣にいたい。 離れられない。離れたくない。
あの日から今日まで、私は今まで以上に、彼の姿ばかりを目で追ってしまっていた。
これ以上八幡に迷惑をかけたくないって思って避けていたこの数日間でさえ、私の頭の中は、八幡でいっぱいだった。
学校のルールの答え合わせに行った時も、そう。
二千万ポイントという途方もない数字を提示されて、神崎くんや網倉さんは絶望したような顔をしていた。でも、私はそんなこと、実はどうでもよかった。
私が気になったのは、『クラス移動の権利が買える』という事実そのもの。
だって、もし私がポイントを貯めてBクラスへ行くことができたら。
八幡と同じ教室で、隣の席に座って、毎日一緒に授業を受けられる。
朝のホームルームから放課後まで、ずっと同じ空間を共有できる。
その可能性が用意されていると聞いただけで、私の胸の奥は『幸せ』という甘い熱で満たされてしまった。
この間の、全クラス合同の水泳の授業だってそうだ。
最近、私は下心の目線と呼ばれるものをだんだんと理解し始めていた。
他の男子生徒たちが私に向ける、あの粘りつくような、品のない視線。
はっきり言って、とても不快だ。思わず吐き出したくなるほど、嫌だった。
けど、どうしても、見せたかったの。 他の誰でもない。
八幡にだけは、私の水着姿を見てほしかった。
どんな顔をするのかな。他の男子みたいに、下心のある目を向けてくるのかな、そうなら嬉しいな。
それとも、いつものように面倒くさそうにため息を吐くのかな、その反応も私は嬉しい。
結果として、八幡は私の予想を遥かに超えて優しかった。
私に向けられる瞳には、気持ちの悪い下心なんて一切見当たらなくて。ただ私の身を案じて、周囲の視線から隠すように、八幡のラッシュガードを私に被せてくれた。
ぶかぶかのラッシュガードに包まれた瞬間、八幡の匂いがふわりと私を包み込んだ。
……それが、たまらなく嬉しかった。守られているという事実が、私の心を満たした。
『……カッコいい』
思わず、そう自然と呟いてしまうほど嬉しかった。
――それなのに。 その直後、森下さんに絡まれていた八幡を見て。 私の心が、ひどくざわついた。
八幡のアホ毛を掴んで、至近距離で顔を寄せる森下さん。
それを見た瞬間、私の胸の奥が、ちくちく、ちくちくって。見えない針で何度も刺されているような、すごく嫌な痛みを訴え始めたの。
助けを求めて私の名前を呼ぶ八幡の声は、ちゃんと届いていた。
でも、どうしても助けてあげる気になれなかった。
私以外の女の子に至近距離で触れられているのが、なんだか無性に腹立たしくて。
だから、わざと目を逸らした。ほんの少しだけの、私からの意地悪。
その代償は、想像以上に恐ろしいものだったけれど。
『お前、今日のメシは抜きだ。俺の部屋にも絶対に入れんからな』
放課後、八幡にそう宣告されたその言葉に、私は本気で自分の心臓が止まったかと思った。
死ぬ。八幡の作った温かいご飯が食べられないなんて、そんなの餓死するのと同じだ。この世の終わりだ。
森下さんに慰められても、本気で絶望していると、八幡は結局「……わかったよ、俺の負けだ」って、深いため息をついてご飯を食べさせてくれた。
やっぱり、八幡は甘くて優しい。
ただ。 そこに、何故か当たり前のような顔をして森下さんがついてきて、ちゃっかり八幡のお部屋に居座っていたことだけは、とてつもなく不満だった。
『なんでお前までついてきてんだよ!』
八幡はそう文句を言っていたけれど、森下さんは。
『アホ毛の観察のためです』
なんて意味不明な理由で居座っていた。
私と八幡だけの空間に、他人が混ざっているのがどうしても許せなかった。
ちくちく、ちくちく。 あの時の胸の痛みは、きっと『嫉妬』という感情なのだと、今の私なら理解できる。
……全部、八幡のせいだ。 私の世界に、勝手に色をつけて、見たこともない感情を次々と植えつけて、コンクリートで埋めていくみたいに、私の心を、視線を八幡に固めていく。
不意に、私を抱き寄せる八幡の腕に、ぐっと強い力がこもった。
顔を上げたら、生徒会長は、いつのまにかいなくなっていて、堀北さんは呆然とこっちを見ている。
さっきまで私が一人で抱えていた寂しさなんて、八幡が現れた瞬間に全部どこかへ消え去ってしまった。
私の居場所は、やっぱりここしかない。
……少し猫背で、文句ばかり言って、素直じゃない、男の子。
でも……誰よりも優しくて温かい熱を持っている、八幡の隣だけが、私の居場所。
私は八幡を、もう絶対に、離してあげない。
私の心を満たしていくこの重くてどこか甘い感情。
まだ、その正体を理解して、言葉にはできないけれど、どうか彼が受け入れてくれますようにと、私は八幡を抱きしめて願う。
落ちたな(確信)
今の綾小路さんの好感度、ほい!
綾小路→比企谷 好感度100 離れたくない、自分だけを見てほしい、自分と離れている時間を寂しく思ってほしい。
作者コメント。 誰が好感度は100が上限なんて言ったんだい? 愛は無限だよ? つまり! まだまだ八幡に沼る! ヤンデレは、次回! そう! つまり、修羅場!
次回、比企谷死す! デュエルスタンバイ!
まあ、ふざけましたが、結構雛鳥ちゃんを可愛くできたと思います。
勉強会は綾小路さんが三馬鹿を誘っているので櫛田さんは勉強会にいません。なので櫛田さんの裏の顔を綾小路さんは知りません、やったね! ストレスを溜めて八幡くんで発散しよう!
姫野さんが空気みたいになっちまった。すいません。
姫野さんはこれからも関わっていきますので、ご了承ください。
あっ、修羅場は確定ですよ。(八幡くん死亡のお知らせ)
ここまで読んでくださりありがとうございました!