抜け出せない沼を持つ男と実力主義の教室。雛鳥は何を見るか。   作:末路雛鳥

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また一週間頑張りましょう。



どこか変わった雛鳥

……痛かったぁ! (泣)

 

いや、マジで。冗談抜きで骨にヒビでも入ったんじゃないかってくらい、右手がジンジンと熱を持って痛みを主張している。

 

咄嗟に綾小路を庇った自分の行動を、今になって全力で後悔するレベルだ。

 

なんでアクション映画の主人公気取りで女の子の盾になんてなっちゃったんだ。

 

堀北先輩はすでに立ち去り、この場にはいない。

 

ズキズキと痛む右手をさすりながら、俺は数分前の出来事を思い出していた。

 

 

 

 

綾小路を庇うように抱き寄せ、堀北先輩に言った。

 

『何するんすか、女子ですよ、こいつ』

 

頭に血が上っていたとはいえ、相手は生徒会長、しかも先輩、言葉を選ばなければならなかった。

 

だが、その人は俺の言葉に怒るでもなく、ただ冷たい目でじっと俺たちを見つめ下ろしてきた。

 

そして、腕の中にいる綾小路へと視線を移し、淡々と言い放ったのだ。

 

『入試の時、全教科五十点を取っていた生徒がいたな』

 

――えっ。

 

こいつ、そんなことしてたの? 全教科、五十点。

 

普通に考えて、そんな奇跡みたいな点数の取り方があるわけない。明らかに意図的に操作している。

 

問題の配点から自分の正答率まで、すべて計算し尽くしていなければ不可能な芸当だ。

 

バカなの? もうこいつバカとしか思えないんだが。

 

黒髪の女子も、完全に呆然としている。

 

そんな驚愕をよそに、堀北先輩は綾小路をじっと見つめ、次いで俺へと視線を向けた。

 

『名前は。』

 

絶対に逆らってはいけない、絶対零度の声。 だが、その時の俺はなぜか変なスイッチが入ってしまっていた。

 

『あー……名前を聞くのなら、まずはそっちから名乗るって、言います?』

 

言ってしまった。

 

正直に告白しよう。今にして思えば、確実に頭に血が上っていた。

 

あんな強キャラオーラ全開の先輩に、そんな喧嘩腰の返しをするなんて、完全にイカれていたとしか思えない。殺されると本気で後悔した。

 

だが、堀北先輩は怒り狂うどころか、ふっと微かに口角を上げたのだ。

 

『なるほど、確かに。俺は堀北学。三年Aクラス、生徒会長をやっている』

 

そして、足元の黒髪女子へ視線を落とす。

 

『鈴音、なかなかにユニークな友人がいるみたいだな』

 

……あー、なるほど。 冷や汗をかきながら、即座に態度をひるがえした。

 

『……俺は一年Bクラスの比企谷八幡です、失礼しました』

 

光の速さで低姿勢。長いものには巻かれる、それが俺の正義だ。

 

それにしても、鈴音?

 

女子の名前らしいが、生徒会長とどういう関係なんだ。

 

なんとなく鋭い目元とか、似てなくもないから兄妹って線が濃厚だが、あの威圧感と怯えっぷりを見ていると、もしかして彼女か何かか? いや、DV彼氏の現場に居合わせちゃったってこと? 

 

鈴音と呼ばれた黒髪の女子が、フラフラと立ち上がりながら反論した。

 

『彼女は、ただのクラスメイトで……そっちの男は知ら、他人です』

 

……え? なんで今、言い直した?

 

絶対に知らない人ですって言いかけたよな? 

 

いや確かに微塵も面識のない完全な他人だが、なんでそこでわざわざ他人ですって絶妙に距離を置いた単語に変えたんだ。

 

まるで存在そのものを不純物扱いされているみたいで、地味に心にくるものがある。

 

そんな言葉に、堀北先輩は深く、重いため息を吐いた。

 

『相変わらず、孤高と孤独を履き違えているみたいだな』

 

突き刺すような、拒絶と失望の声。 女子はビクッと肩を震わせ、俯いてしまった。

 

そして堀北先輩は、再び俺と、俺の腕の中にいる綾小路へと視線を戻した。

 

『それから、綾小路。お前がいれば……いや、比企谷もいれば、少しは面白くなるかもしれないな』

 

完全に、厄介なものに目をつけられたセリフだった。

 

面白くなる? 冗談じゃない、ただでさえ姫野に最近はこき使われてるのに。あいつ、俺の手足になるとか言っといて、ジュースとかねだってくるからな。

 

あれ? それパシリじゃね? まあポイント返してくれるだけマシだが。

 

背を向けた堀北先輩は、闇に溶ける直前、背越しに言い放った。

 

『上のクラスに上がりたかったら、死にもの狂いで足掻け。それしか方法は無い』

 

その言葉を最後に、生徒会長の足音は完全に遠ざかり、気配は消え去った。

 

 

 

――で、現在。

 

あとに残されたのは、堀北先輩の彼女(あるいは妹?)である黒髪女子と。

 

さっきから俺の胸元をぎゅっと握りしめたまま、一言も発さずに黙りこくっている綾小路と。

そして、目の腐った男だけ。

 

……濃い。 あまりにも濃すぎる。

 

ちょっとしたお散歩のつもりが、どうしてこんな修羅場イベントに巻き込まれているんだ。

 

本当に呪われているとしか思えなかった。

 

ジンジンと痛む右腕をさすりながら、黒髪の女子――鈴音とやらに声をかけた。

 

「……お前の、彼氏? 兄? かわからないが。すごい蹴りだったな。マジで骨が折れるかと思ったぞ」

 

少しは場を和ませようとした、俺なりの精一杯のジョーク交じりの気遣いだ。

 

内心では美少女との会話にドギマギしている。

 

少しは友好的な態度が返ってくるだろうと期待したのだが。

 

ゆっくりと立ち上がりながら、氷点下の瞳で俺を射抜いた。

 

「気安く話しかけないでもらえるかしら」

 

――あっ、はい。すんません。

 

見事なまでの拒絶。

 

鋭いナイフのような冷たい声色。

 

なんだこいつ、めちゃくちゃ雪ノ下に似てるぞ。

 

奉仕部に入ったばかりの頃の、人を寄せ付けなかった雪ノ下にそっくりじゃないか。

 

ただ、大きく違う点が一つだけある。雪ノ下と違って、この人には胸に立派なあるものが……。

 

ゾクッ!?

 

背筋を、本物の氷の刃で撫でられたような強烈な悪寒が駆け抜けた。

 

殺気!? 

 

今のはただの事実確認であってスレンダーにはスレンダーの空気抵抗の少なさというメリットがですね……!

 

彼女は乱れた制服の襟を正しながら、忌々しそうに口を開いた。

 

「……兄さんよ。空手五段に、合気道四段」

 

「うおっ」

 

変な声が出た。

 

マジかよ。そんなバケモノの蹴りを、俺はこの右腕で受け止めたのか。

 

冗談抜きでポッキリいっていてもおかしくなかったぞ。

 

自分の命知らずな行動に、今更ながら膝がガクガクと震え始める。

 

堀北は、俺を一瞥もせず、真っ直ぐに腕の中にいる綾小路へと鋭い視線を向けた。

 

「綾小路さん」

 

探るような、ひどく警戒を含んだ声。

 

「あなた、何か習っていた? ……兄さんのあの動きに反応するなんて、それもかなりの有段者レベルで」

 

堀北の追及に、綾小路の体が、ビクッと小さく跳ねた。 ゆっくりと、俺の胸元から顔を上げる。

 

堀北の言葉の意図は、俺にもわかった。あんな武道の達人の不意打ちを、綾小路が完全に察知して避けようとしていたのだ。

 

力が強いのはわかっていたが、あれはどう考えても素人の反応じゃない。

 

綾小路は、瞬きを一つして、いつもと変わらない平坦な声で答えた。

 

「……ピアノと……バレエなら、やってた」

 

「へえ、バレエしてたんだな」

 

俺は思わず感心して相槌を打った。

 

なるほどな。それなら尋常じゃない体の柔らかさや、体幹のブレなさにも納得がいく。

 

水着の時に見たあのしなやかな筋肉も、過酷なレッスンの賜物というわけだ。

 

なんだ、ちゃんとしたお嬢様みたいな習い事をしてたんじゃないか。

 

もしかしたらこいつの世間知らずは、親が過保護すぎて外のことを知らなかったとかありそうだな。

 

一人で深く納得していると、堀北は訝しげに眉をひそめた。

 

「テストの点数をわざと五十点に揃えて、そしてその強さ……。貴女のこと、本当によくわからないわ」

 

吐き捨てるようにそう言うと、堀北はふいっと綾小路から興味を失ったように視線を外し、今度は俺の方をキッと睨みつけてきた。

 

「それで。いつまで彼女を抱きしめているのかしら。セクハラで通報するわよ」

 

「っ!」

 

言われて、ハッとした。

 

ヤバい。

 

無我夢中で庇ったから気づかなかったが、俺は今、綾小路を腕の中に抱きしめているのだ、完全にアウトな状態。

 

女子高生を抱きしめている状況は通報されれば一発で俺は社会的に死ぬ。

 

「す、すまん! 今すぐ離れる!」

 

弁明し、綾小路の肩から自分の腕をパッと離した。 これでもう、密着状態は解除される。

 

さあ、お互い一歩下がって健全な距離感を保とうじゃないか。

 

――だが。 離れない。

 

見下ろすと、綾小路の小さな両手が、俺の服を万力のような恐ろしい力で握りしめている。

 

「……おい、綾小路? もういいぞ、離してくれ」

 

声をかけるが、彼女はピクリとも動かない。 それどころか、さらに俺の体にすり寄るようにして、ぎゅぅぅっ、と力を込めて抱きついてきたのだ。

 

「ちょっ、おま……っ!?」

 

尋常じゃない力だ。

 

ただ、痛くもない絶妙な力加減で俺の体は完全に抱きしめられてしまった。引き剥がそうにも、ビクともしない。

 

「……綾小路?」

 

異変を感じ、俺は戸惑いながら彼女の顔を覗き込んだ。

 

「……」

 

見上げた彼女の顔には、いつものような無表情だ。

 

……だが、違った。

 

いつもなら、感情が読めないながらも、その大きな瞳の奥には光が宿っていたはずだ。

 

それが、今は。

 

目に、光がない。

 

漆黒のガラス玉のように、ハイライトが完全に消え失せている。 何も映していない、底なしの暗闇。

 

その瞳孔が、瞬きすら忘れたように、ただジッと、俺の顔だけを執拗に見つめ続けている。

 

「……ぁ」

 

桜色の唇が微かに開き、吐息のような声が漏れる。 背筋に、生々しくて粘り気のある悪寒が這い上がってきた。

 

なんだこれ。 怖い。純粋に、怖い。 堀北先輩の放っていた威圧感とはベクトルの違う、得体の知れない感じ。

 

腕を掴むその震える指先から、とんでもない熱量が伝わってくる。

 

そのハイライトのない目、俺もやってみたい。消しゴムで目を擦れば俺の腐った目と一緒にハイライトも取れるかな。

 

……なんて、現実逃避はさておき。

 

「あ、綾小路……?」

 

俺の声は情けなく震えていた。

 

彼女はふいっと視線を下げ、俺の右腕へスッと手を伸ばしてきた。

 

綾小路はひんやりとした小さな両手で、まるで壊れ物を扱うようにそっと包み込んだ。

 

「……腫れてる。痛い?」

 

感情の抜け落ちた声。だが、手首を撫でる指先からは、異常なほどの執着と、優しさ、静かな怒りのようなものが伝わってくる気がした。

 

「ま、まあ、痛みはあるが……湿布でも貼って寝れば、すぐ治るだろ」

 

心配をかけまいと、いや、これ以上こいつの何かを刺激しないよう、極力軽いトーンで強がってみせた。

 

だが、綾小路は俺の言葉を真っ向から切り捨てるように、小さく首を横に振る。

 

「ダメ。八幡はクソザコナメクジだから、早く手当しないと」

 

…………。

 

ひどくね?

 

いや、ひどくね?(大切なことだから二回言った)

 

息を吐くようにナチュラルな暴言が飛んできたぞ。

 

クソザコナメクジって。どこでそんな言葉を覚えてきたんだ。

 

いや、まあ確かにそうだが。俺の体力は、まあ、あるか。

 

腕力は、微生物とミジンコの間くらいに位置するぐらい貧弱だ。

 

暴力の化身……げふんげふん。

堀北先輩はもちろん、綾小路にだって、筋力勝負になれば絶対に敵わない。

 

だとしても、お前を庇って痛手を負った男に向かって投げる言葉のチョイスとしては、あまりにも慈悲がないだろ。

 

理不尽な暴言に内心で涙を流していると。

 

「綾小路さん。いい加減、離れなさい」

 

ひどく冷たく、それでいてどこか焦りを孕んだ声が響いた。

 

さっきまでガタガタと震え、小動物のように怯えきっていたはずなのに。

 

彼女の瞳には、再びあの雪ノ下にそっくりな、孤高で他人を寄せ付けない鋭い光が戻っている。

 

「それとも、私に裏切り者扱いされたいのかしら」

 

強い言葉で威嚇してくる堀北。

綾小路も面倒ごとに巻き込まれているのだろうか。

 

……そんなところで親近感を味わいたくなかったがな。

 

綾小路は、堀北の方へ顔を向けることすらしなかった。

 

ただ、真っ黒なガラス玉のような目で俺の右手をじっと見つめながら、平坦な声でポツリと呟く。

 

「もう、迷わないよ」

 

それは、堀北へ向けた言葉というより、自分自身への誓いのように聞こえた。

 

「私は、八幡の味方」

 

そして。 ほんの少しだけ顔を傾け、横目で堀北を射抜く。

 

「……邪魔」

 

ゾクッ。 全身の産毛が一斉に逆立った気がした。

 

なんだ、今の。 さっきまでと何も変わっていないはずなのに。

 

その『邪魔』というたった二文字にだけ、尋常じゃない、どす黒くて重たい敵意がべっとりと滲んでいたのだ。

 

まるで絶対零度の冷気を直接喉元に突きつけられたような、明確な排除の意思。

 

その圧倒的なプレッシャーをまともに浴びた堀北は、息を呑み、怯んだように一歩後ずさった。

 

だが、少し怯えながらも、震える肩を無理やり抑え込み、気丈に振る舞って睨み返してくる。

 

「……気持ち悪い。今の貴女、まるで独占欲の塊ね」

 

堀北は忌々しそうに吐き捨てる。 その指摘には俺も同意だ。今の綾小路はどこかおかしい。

 

だが、堀北の口撃はそれだけでは終わらなかった。 彼女は俺の方をチラリと一瞥し、心底理解できないというように鼻で笑った。

 

「だいたい、その男のどこがいいのかしら。見るからに陰気で、目つきも最悪。こんなのに執着するなんて、貴女の趣味を疑うわ」

 

…………。

 

ひどくね?

 

今日三度目。

 

理不尽な流れ弾が、俺のガラスの心にクリーンヒットした。

 

なんだその道端に落ちている燃えないゴミを評価するような酷評の嵐は。

 

それに目、目だよ。その冷たい目つき、まんま雪ノ下そっくりじゃないか。

 

俺が一人で勝手に傷つき、心の中でボヤき散らしていると。 綾小路が、ゆっくりと堀北の方へ向き直った。

 

光のない、漆黒の瞳。その視線が、堀北の強がりを容赦なく射抜く。

 

「……堀北さんに、協力は、する」

 

ひどく静かな、淡々とした声。

 

「けど。八幡と私の邪魔は、しないで」

 

それは、交渉でもお願いでもない。 純粋な、絶対条件の提示。

 

「したら、潰す」

 

――潰す。

 

その極めて物理的で、徹底的な破壊を意味する単語が、重く響き渡った。

 

「……ヒュ」

 

喉の奥で、情けない悲鳴が鳴りかけた。

 

怖すぎる。本気だ。こいつ、マジで言ってるぞ。

 

もし俺とこいつの間に誰かが割り込んできたら、それを社会的に、あるいは物理的に粉砕するという明確な宣言に聞こえる。

 

堀北も、そのあまりにも生々しい殺意めいた言葉に完全に気圧され、青ざめた顔で言葉を失っている。

 

「貴女の考えは、全て間違っている」

 

綾小路が続けた。

 

反論を挟む余地すら与えない、絶対的な事実を突きつけるような冷徹な響き。

 

俺の腕を掴んだまま、彼女は一切の感情を交えずに言葉を紡ぎ続ける。

 

「赤点組を救うなんて、正直言って無駄でしかない。効率を考えれば、劣る者は切り捨てるのが正解」

 

「……ええ、そうよ。だから私は――」

 

「けれど」

 

俺には分からない話だが、同意しかけた堀北の言葉を、綾小路は容赦なく遮った。

 

「もし、退学者が出たクラスが、永遠にAクラスになれないルールだとしたら?」

 

その問いかけに、堀北の息がピタリと止まる。

 

退学者が出たらAクラスになれない。

 

そんなこと言われたこともないが、あり得ない話じゃない。この学校なら、その理不尽なペナルティが隠されていてもまったく不思議ではないからだ。

 

「そんなの……あり得ないわ。確証もないのに……」

 

「それが、堀北さんの悪いところ」

 

動揺して否定しようとする堀北を、綾小路の漆黒の瞳が冷酷に射抜く。

 

「自分の中でその可能性を考えることができるのに、あり得ないと思ったら、すぐにその可能性を捨てる。視野が狭い。愚の骨頂」

 

「っ……!」

 

「そんなのだから、兄に失望――」

 

「……やめろ」

 

綾小路の言葉を強引に遮っていた。

 

静まり返った空間に、俺の声が空しくこだまする。

 

「いくらなんでも、言いすぎだ」

 

堀北が実の兄である堀北先輩からどんな扱いを受けているのか、詳しい事情は知らないし知る必要もない。

 

だが、さっきの怯えきった姿を見れば、それが堀北にとって一番触れられたくない、抉られたくない致命的な場所だということくらい嫌でもわかる。

 

それにたった今、その兄から見放されるような言葉を投げつけられたばかりなのだ。

 

そこに追い打ちをかけるように傷口へ塩を塗り込んで更にレモンをかけるなんて、いくらなんでもやりすぎだろ。

 

別に俺は堀北の味方じゃない。

 

ただ、誰かの心が完膚なきまでに叩き折られる瞬間を、見せつけられるのは寝覚めが悪すぎるってだけだ。

 

綾小路は、少しだけ目を丸くして口を噤んだ。 怒るでもなく、不貞腐れるでもなく。

 

ただ、俺の顔をじっと、穴があくほど見つめてくる。

そして、コテンと首を傾げて、ひどく真面目なトーンで言い放った。

 

「八幡の良さがわからない人は、価値はない」

 

…………。

 

なんだこいつ。

 

俺の言葉に対する答えがそれか。

 

会話のキャッチボールができていない。

 

俺を貶した堀北への報復。ただそれだけのために、相手の一番痛いところを的確に抉り出そうとしたってことか。

 

俺のどこにそんな褒められる要素があるんだ。その辺の野良猫の方がまだ価値はあるだろ。

 

これ以上ここに長居して、綾小路と孤高をこじらせた堀北を対峙させておいても、事態が悪化する未来しか見えない。

 

重いため息を一つ吐き出し、ポケットをごそごそと探った。

 

「……はぁ。もういい、わかったから」

 

ポケットから取り出したカードキーを、綾小路の顔の前に突きつける。 俺の部屋の鍵だ。

 

「とりあえず、これ持って俺の部屋に行ってろ」

 

そう言って、半ば押し付けるようにカードキーを握らせる。

 

頼むから、俺が堀北と適当に話を切り上げて帰るまで、おとなしく部屋で待機していてくれ。

 

そうすれば、この話し合いも一旦は強制終了できるはずだ。

 

カードキーを握らされた綾小路は。 ほんの一瞬、自分の手の中にあるカードキーと、俺の顔を交互に見比べた。

 

すると。 先ほどまで漆黒の闇に沈んでいた目が、嘘のようにパァッと光を取り戻したのだ。

 

能面のような顔はそのままなのに、全身から嬉しい! 幸せ! という雰囲気が溢れ出しているのがわかる。

 

「んっ!」

 

短く、力強く頷く。 そして彼女は、俺の右手からスッと手を離すや否や。

 

「……えっ」

 

ものすごいスピードで、走り去っていった。

 

迷いなく学生寮の入り口へと向かう、陸上選手も顔負けの凄まじい速度。

 

振り返ることすらしない。

 

その背中は、まるで大好きなご主人様から特別なおやつを貰って、一目散に自分の寝床へ持ち帰る小動物そのものだった。

 

……いや、切り替え早すぎだろ。

 

さっきまで物騒なセリフを吐いて、暗殺者みたいな目をしていただろうが。

 

部屋の鍵を渡しただけで、なんであんなに喜んで走っていくんだ。チョロいのか重いのか、どっちかにしてくれ。

 

……そして

 

綾小路の足音が完全に闇に溶け、再び冷たい雰囲気だけが残された。

 

あ、あー、気まず。

 

えっ? 気まず!

 

なんだこの空間。地獄か。

 

人生で三本指に入るぐらい、圧倒的に気まずい。

 

ちなみに堂々の第一位は何かって? そりゃあもちろん、奉仕部で、夕暮れの教室で涙ながらに「俺は、本物が欲しい」なんて泣き言をほざき散らしたあの瞬間……。

 

おっと、いけない。俺の中の黒歴史その六十が、パンドラの箱を突き破って勢いよく顔を出してきやがった。

 

危ない危ない。あの記憶を今ここで鮮明に思い返したら、俺は気まずさと羞恥心で発火して灰になってしまう。

 

とりあえず、現実逃避を終えて視線を戻す。

 

堀北は俯いたままだ。

 

実の兄である生徒会長から無慈悲に見放され、さらに綾小路からは言葉のナイフでメッタ刺しにされ、完全に心がへし折られた状態。

 

うつむいたまま、長い黒髪が顔を隠していて表情は読み取れないが、その華奢な肩が微かに震え続けていることだけは、はっきりとわかった。

 

さて、どうするか。

 

ここでイケメンのリア充、たとえば葉山あたりなら、爽やかなスマイルと共にスッと手を差し伸べ、甘いセリフを吐くのだろう。

 

神崎だって、真面目な顔をして手を貸してやるはずだ。

俺も一瞬、無意識のうちに右手を動かしかけた。

 

――が、すぐにその考えを打ち消し、動かしかけた手をポケットに突っ込んだ。

 

やめよう。俺みたいな男がこんな弱っている女子へ安易に手を差し出すなんて、事案以外の何物でもない。

 

ただでさえプライドの高そうな女だ。

 

気安く話しかけないで、と拒絶をかましてきた奴が、俺なんかの同情まじりの手を取るわけがない。

 

むしろ触らないで、汚らわしい、と汚物を見るような目を向けられ、俺のガラスのハートにトドメを刺される未来しか見えない。

 

手を差し出すのをやめ、少し悩み、堀北から少しだけ離れた場所に腰を下ろした。

 

ジンジンとまだ痛む右手を庇うように膝の上に置き 夜空を見上げる。

 

星も見えない、どんよりとした夜空。俺の気分をそのまま映し出したような見事な曇天だ。

 

無言のまま、数分が経過する。 自販機の冷却音が、ブーンと単調なリズムで鳴り続けている。 やがて。

 

「……何をしているのかしら」

 

地面にへたり込んだままの堀北が、顔を伏せた状態で、ポツリと呟いた。

 

ひどく掠れた、水気を含んだような声。さっきまでのツンケンしていたハリネズミみたいな威嚇はすっかり鳴りを潜め、ただの傷ついた等身大の女の子の声だった。

 

「別に」

 

「ただ、綾小路が落ち着くまで、ここにいようと思っただけだ」

 

「……は?」

 

「あいつに俺の部屋のカードキーを渡しちまったからな。今のあいつはどっかおかしかった、だから、ほとぼりが冷めるまでここで時間を潰すってわけだ」

 

すらすらと、息を吐くように言葉を並べ立てる。

 

そう、別に、こいつのためじゃない。

 

傷ついて動けない女子を一人で暗闇に残して帰るのが寝覚めが悪いとか、そういうお人好しな感情から立ち止まったわけでは断じてない。

 

綾小路が落ち着くために、ここで時間調整をしているだけだ。

 

ただ、それだけしかない。 これっぽっちも、誰かを気遣うような甘い感情なんて持ち合わせていない。

 

コンクリートの壁に後頭部を預けた。

 

「……貴方って」

 

それから数分が経過した。

 

顔を上げないまま、深く、搾り出すような息を吐いた。

 

「……意味が、わからないわ」

 

「奇遇だな。俺も自分の周りで起きていることの九割くらいは意味がわかってない。どうして俺のアホ毛が変人を引き寄せるのか、未だに疑問だからな」

 

「……何の話をしているの?」

 

「こっちの話だ。気にすんな」

 

会話のキャッチボールとは呼べない、歪でちぐはぐな言葉の投げ合い。

 

だが、その意味のないやり取りが、張り詰めていた裏庭の空気を、ほんの少しだけ緩めた気がした。

 

堀北は両手で地面をつき、ゆっくりと、本当にゆっくりと、一度だけ大きく深呼吸をする。

 

座ったまま、その様子を黙って見守る。

 

手を貸すことも、励ましの言葉をかけることもない。ただ、そこにいるだけだ。

 

「……私は」

 

やがて、堀北がポツリと口を開いた。

 

その声はまだ微かに震えていたけれど、さっきまでの絶望に押し潰されそうな響きは消え、無理やりにでも自分を奮い立たせようとする、不器用で頑固な意志と、自分への僅かな疑心暗鬼が混ざっていた。

 

「私は……間違っていたのかしら」

 

ポツリと。 夜風に溶けそうなほど弱々しい声で、堀北がこぼした。

 

……俺は普段の堀北のことは知らない。

 

堀北のどこが間違えているのか、堀北がどんな人なのか、それすらも。

 

だが、いくらなんでも初対面で、しかも俺のような腐った目をした男、おまけに他クラスというすべての悪要素を兼ね備えた相手に対して、絶対にそんな弱音を吐くはずがない女だということくらいは俺でもわかる。

 

だが、それほどまでに、彼女の心はズタズタに引き裂かれていた。

 

堀北先輩からの、失望もあるだろうが、何より、綾小路の言葉がえぐすぎた。

 

綾小路の口から紡がれた言葉の一つ一つには、純度100%の悪意しかなかった。

 

いや、悪意というより、相手の最も柔らかい急所を見つけ出し、徹底的に追い詰めて『壊そうとする意思』しか感じられなかった。

 

あれが、俺を庇うための行動だったのだとしたら。もし俺がやめてほしいと願えば、あいつはそんな残酷な真似をやめてくれるのだろうか。

 

だが。 今は、綾小路は後回しだ。

 

目の前にいるのは、今にも消え入りそうな声で俺に答えを求めている、ボロボロの堀北だ。

 

安い同情の言葉をかけるか?

 

「そんなことないよ」

 

「君は間違ってないよ」

 

なんて、無責任な慰めを並べ立てて、一時的に立ち直させるのが、世間一般的に正しいコミュニケーションだろう。

 

だが、生憎と俺は、そういう薄っぺらい優しさを持ち合わせていない。

 

「知らん」

 

「…………え?」

 

堀北の肩がピクリと動き、信じられないものを見るような顔で俺を見た。

 

絶望して涙目になっていたことすら忘れたように、呆然と口を半開きにしている。

 

「……知らん、って」

 

「当たり前だろ」

 

俺は呆れたように鼻で笑い、彼女の顔を見据えた。

 

「俺はお前のことなんて、何一つ知らないしな。今日初めて会って、数分間やり取りしただけの他人に私は間違っていたのか、なんて人生の答え合わせを求められても、困る。知るかよ。エスパーじゃあるまいし」

 

身も蓋もない、完全なる突き放し。

 

だが、それが紛れもない事実だ。

 

「言葉がなくても分かり合えるとか、少し見ただけで相手の苦しみが理解できるとか。そんなもん、ただの傲慢な幻想だ。完璧な人間なんて、この世のどこにもいない」

 

目の前の少女は、孤高を気取って、自分が優秀だと思っているのだろう。

 

昔は俺もそうだった。

 

一人でいることが絶対的な正義で、誰にも理解されなくていいと本気で信じていた。

 

だが、奉仕部で面倒な奴らとぶつかり合って、俺が探し求めている関係は、そういう自己完結した世界にはないと嫌でも思い知らされた。

 

「聞かないと、絶対にわからない。……いや、聞いても、結局わからないことの方が多い。それが他人ってやつだろ」

 

だから。

 

「別に、俺はお前を慰める気もないし、同情する気もない。ただ、俺の都合でここにいるだけだ」

 

こいつに答えが欲しいと直接言われたわけじゃないし、答える義理もない。

 

「だから……話したくなれば、勝手に話せ。話したくないなら、黙ったままでいい」

 

ただ、俺だって聞くことくらいはできる。 他人だからこそ言えることだってある。

 

しばらくの間、堀北は黙って俯き続けていた。

 

その沈黙を、急かすこともなくただやり過ごす。

 

どうせ暇つぶしだ、何分でも勝手に悩んでいればいい。

 

やがて。 小さく息を吸い込む音が聞こえ、堀北がゆっくりと顔を上げた。

 

「……別に、いいわ」

 

その声には、もう先ほどの震えは微塵も残っていなかった。

 

涙が、彼女自身の強靭な意志で綺麗に塗り潰されている。

 

顔を上げた堀北の顔は、ひどく凛々しかった。

 

切れ長の瞳には、再び誰をも寄せ付けない鋭利な光が灯っている。

 

立ち直りが早いのか、それとも強がりの殻を被るのが異常に上手いのか。

 

どちらにせよ、こいつのプライドの高さは本物らしい。

 

「ただ、そうね」

 

立ち上がった彼女は、俺を見下ろし、冷ややかに目を細めた。

 

「貴方に私のことを話して弱みを握られたら、いったいナニをされるのかしら。想像するだけで鳥肌が立つわ」

 

「……は?」

 

俺は思わず腰を浮かせかけ、慌てて両手を振った。

 

「いや、お言葉ですが堀北さん。俺にそんな度胸あるわけないだろ、と声を大にして申し上げたい」

 

被害妄想も大概にしてほしい。俺がこいつに何か危害を加えた日には、間違いなく恐ろしいお兄様の蹴りが俺の顔面にクリーンヒットして、人生の終わりを迎えることになる。

 

必死に無害アピールをしていると、堀北は。

 

「あら?」

 

可愛らしく小首を傾げた。

 

「私たちは会って数分だって、ついさっき貴方が言ったじゃない。完全な他人。……だから、貴方のことなんて何も知らないわ。貴方が裏でどんな凶悪な犯罪を企む人間であっても、不思議ではないもの」

 

「ぐっ……」

 

言葉に詰まる。 俺がさっき放った他人という理屈を、一言一句そのまま綺麗にブーメランとして投げ返してきやがった。

 

……まあ、正論だな。

 

俺が他人であると思っている以上、堀北から見ても他人だ。

 

俺の無害さは、彼女にとっては証明しようのない事実に過ぎない。

 

これだから頭のいい人は困る。

 

内心で毒づいていると、堀北はフッと鼻で笑い、俺からくるりと背中を向けた。 長く美しい黒髪が、夜風にさらりと揺れる。

 

「ただ、そうね。私がこんなところで無様にへたり込んでいたこと。……口止めをしないといけないわね」

 

「口止め?」

 

ポイントでも払ってくれるのか? それなら大歓迎だが。

 

俺の疑問に、堀北は歩き出そうとした足を止め、首だけをこちらへ振り返らせた。

 

そして、極めて事務的な、けれどほんのりと意地の悪いトーンで言い放つ。

 

「綾小路さんを、貴方の監視役にするわ。……それだけよ」

 

…………なるほど。

 

コンクリートの壁に頭を打ち付けたくなった。

 

こいつにとっての、最大限の許容兼嫌がらせね。

 

面倒くさい綾小路と俺の関わりを認可するという極悪非道な嫌がらせ。

 

最悪だ。

 

ただでさえ迷惑極まる綾小路が堀北という大義名分(?)を得て、どれほど堂々と俺にまとわりついてくるか。

 

想像しただけで胃袋が雑巾みたいに絞り上げられる。

 

「……まあ、わかった。どうせお前のこと話して回るような友達もいないからな」

 

この世の事実。

 

悲しいかな、俺の交友関係は完全に底を尽きている。

 

神崎や網倉にわざわざ言いふらす趣味もない。俺の口は、ある意味で世界一固いのだ。

 

堂々たる宣言を聞いて、堀北は肩越しに、心底憐れむような目を向けてきた。

 

「……寂しい人ね」

 

「いや、お前もぼっちだろ」

 

何を上から目線で哀れんでいるんだ。お前だって、さっき堀北先輩から孤高と孤独を履き違えていると言われていただろ。

 

お前の孤高なんてただのぼっちの言い換えに過ぎない。俺たちは同類なんだよ。

 

そう思い知らせてやろうとしたのだが。 堀北はフッと余裕のある笑みを浮かべ、薄い唇を動かした。

 

「あら、いつ私が友人がいないと言ったかしら?」

 

「は?」

 

「私たち、まだ出会って数分の他人なんでしょう? 他人の交友関係なんて、貴方にわかるはずないじゃない」

 

――っ!

 

それ、強すぎね?

 

他人だから知らない。知らないから、友達がいないと断定することはできない。

 

完璧な論理(屁理屈)だ。ぐうの音も出ない。

 

「そういうことだから。……さようなら、比企谷くん」

 

堀北は勝ち誇ったような、それでいて少しだけスッキリとしたような顔で言い捨てると、今度こそ真っ直ぐに前を向き、学生寮の入り口へと帰っていった。

 

「……マジで、可愛げのない女」

 

まあいい。あのまま絶望して泣き崩れられるよりは、あんな風に憎まれ口を叩いて去っていくくらいの方が、俺としてもよっぽど気が楽だ。

 

それにしても、他人ガードの使い勝手の良さよ。

 

俺も今度、都合が悪くなったら使わせてもらおう。

 

「さて、と……」

 

地獄に……帰りますか。

 

「……いや、帰りたくねえよ」

 

部屋へと戻る俺の足取りは、文字通り鉛のように重かった。

 

マジで。

 

一歩足を踏み出すたびに、これから待ち受けるであろう凄惨な未来が、俺の精神を削り取っていく。

 

部屋の前に辿り着く。

 

扉はもちろん、薄く開いていた。

 

扉をゆっくりと押し開け、靴を脱ごうと玄関に足を踏み入れた、その瞬間だった。

 

玄関の上がり框に座って待機していたらしき綾小路が、俺の姿を視界に捉えるなり、パァッと目を輝かせて飛びついてきた。

 

「……っ!?」

 

勢いよく首元に両腕が回され、全身ががっちりとホールドされる。

 

近すぎる。

 

今まで俺の右手を握るくらいだったのに、ここに来ていきなりハグへと進化するしてきやがった。

 

顔が近い。綾小路の甘い香りが鼻腔を直接殴ってくる。

 

そして何より、俺の体にダイレクトに伝わってくる、暴力的なまでの柔らかさ。

 

健全な男子高校生なら狂喜乱舞して天を仰ぎ、神に感謝の祈りを捧げるシチュエーションのはずだ。

 

なのに。なんでだろうな。

 

体は、歓喜で打ち震えるどころか、恐怖でガタガタと震えが止まらねえ。

 

耳元で、ずっと一緒、という重すぎる言葉が小声で囁かれているからかな?

 

フリーズしていると、綾小路は部屋の中へ引っ張り込み、無言のまま少し乱暴な手つき俺の右袖をまくり上げた。 露わになった俺の右手。

 

「……」

 

まあ、見事に腫れ上がっている。おまけに毒々しい紫色に変色し始めているじゃないか。

 

はぁ、痛いなあ。これ、明日シャーペン握れるのか?

 

俺の部屋の収納の奥にあった救急箱を取り出し、手際よく冷湿布を貼って包帯を巻き始めた。

 

その顔はいつも通りの無表情だが、手当をする指先からは、異常なまでの真剣さと微かな怒りのようなものが滲み出ている。

 

あっという間にテーピングまで完璧に施され、俺の右手はミイラのように白い布で覆われた。

 

「……ありがとな」

 

短く礼を言ってから、小さく息を吐いた。

 

手当をしてくれたことには感謝する。ただ、一つだけ、どうしても言っておかなければならないことがある。

 

「なあ、綾小路」

 

「?」

 

名前を呼ぶと、彼女は救急箱を片付ける手を止め、可愛らしく小首を傾げて顔を上げた。

 

「さっきのやり方。……なんなんだ」

 

静かな問いに、綾小路の肩がビクッと小さく跳ねた。

 

「あ、あれは……」

 

いつもは静かな声が、珍しく微かに震えている。

 

「効率的だから。その……八幡に、悪口を言うなんて」

 

言い訳のような、俺を庇ったのだというアピール。

 

だが、首を横に振った。

 

「それとこれとは別だろ」

 

俺の言葉に、綾小路はスッと口を噤み、完全に黙り込んでしまった。

 

俯いて、俺の右腕に巻かれた包帯をじっと見つめ続けている。

 

……はあ。

 

左手を伸ばし、そのサラサラの長い茶髪の上にポンと乗せた。 少しだけ乱暴に、わしゃわしゃと頭を撫でてやる。

 

「……俺が誰かに失望されて嫌われることはあっても、俺の方から嫌うことも失望することもない」

 

ビクン、と。綾小路の体が大きく震えた。

 

俺はそういう器用な生き方ができる人間じゃない。一度自分に味方してくれたやつを、やり方が少し怖いからって簡単に切り捨てるような真似はしない。

 

というか、そんなことをすれば後でどんな恐ろしい報復が待っているかわからない。

 

俺の言葉の真意がどこにあるにせよ、見捨てるつもりはないということだけは伝わったはずだ。

 

「ただ。ああいうやり方は、極力やめていただきたい」

 

頭から手を離し、俺は真っ直ぐにその大きな瞳を見据えた。

 

「やり方?」

 

綾小路は、不思議そうに首を傾げる。

 

「お前にはお前の、やり方があるんだろう。……否定はしない」

 

その異常な身体能力も、相手の急所を的確に突くような毒舌も。

 

綾小路がこれまでの人生で培ってきた生きるための術なのだろうから、俺がとやかく言う筋合いはない。

 

「ただ、そうだな。……人を露骨に追い詰めたり、壊そうとするな。いいか」

 

あの時の、堀北の心をピンポイントでへし折ろうとした氷のような言葉。あれはダメだ。見ているこっちの心が痛くなる。

 

綾小路は、俺の顔をじっと、穴があくほど見つめ返してきた。

 

不思議な間が空く。

 

やがて、彼女はぽつりと言った。

 

「……命令?」

 

感情の読めない声。 俺は軽く息を吐き、肩をすくめた。

 

「いや、お願いだ」

 

俺に命令する権利なんてないし、そんな大層な身分でもない。

 

「綾小路には、綾小路のやり方があるからな。最終的にどうするかは、お前が決めろ」

 

強制はしない。

 

ただの、俺からの個人的な要望。

 

その言葉を聞いた瞬間。 綾小路の大きな瞳の奥に、再びキラキラと弾けるような光が灯った。

 

微かに、ほんの微かに、桜色の唇の端が柔らかく緩む。

 

「……わかった」

 

こくりと、深く頷く。

 

「八幡の言う通りにする」

 

すべてを受け入れる、ひどく素直で、甘やかな声。

 

俺の言う通りにする。

 

その言葉の重みに背筋がむず痒くなる。

 

……そんなやり方をして、綾小路が傷つく可能性が少しでも少なくなったことに、俺は少しだけ救われた気がした。

 




どうも、書くことが、ないんです。

あまり修羅場っぱくなくてすいません。

堀北妹はなんというか、恋に落とすには日々の積み重ね感がありますよね。

敵クラスなのに、自分の心に逆らえない、みたいなの。やってみたいな。

ここまで読んでくださりありがとうございます。
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