抜け出せない沼を持つ男と実力主義の教室。雛鳥は何を見るか。 作:末路雛鳥
すぐにメインストーリーは始まりますが、良かったらご視聴お願い致します。
今回は雪ノ下雪乃時点です。
では本編をどうぞ。
雪ノ下雪乃は……
手元の書類を綺麗に揃え、デスクの端へ寄せる。
ようやく仕事に区切りがついたので、私は小さく息を吐いた。
冷めかけた紅茶のカップに手を伸ばした、ちょうどその時。
「ねえねえ。雪乃ちゃんはどうして、比企谷くんのこと好きになったの?」
最近、話せるようになった姉さん――雪ノ下陽乃が、唐突にそんなことを口にした。
ピクリと。 カップの取っ手に触れようとしていた指先が、固まる。 心臓の奥が、トクンと小さく、けれど確かな音を立てて跳ねた。
視線を向けると、姉さんは面白がるような、それでいてどこか見透かすような笑みを浮かべてこちらを見つめている。
相変わらず、人の心に土足で踏み込んでくる人。
誤魔化そうと思えば、いくらでもできる。けれど、今の私には、この思いを他でもない、私自身が否定したくなかった。
カップを持ち上げ、一口だけ冷たい紅茶を含む。
胸の奥に広がるのは、ひどく甘くて、それと同じくらいチクチクと痛むような、微かな後悔の念。
もっと早く素直になれていれば。
間違えて、すれ違って、どうしようもなく傷つけ合って。そんな不格好な日々の記憶が、後悔という名の薄いベールを被って私の内側に降り積もっている。
言葉に詰まり、どこか愁いを帯びた沈黙を返したのを見て、姉さんは楽しげな色を少しだけ潜め後悔の色を覗かせた。
「……やっぱり、文化祭のとき?」
グラスの氷をカラリと鳴らし、怯えるように、探るように聞いてくる。
…… 文化祭。
彼が泥を被り、誰にも理解されないまま最適解を叩き出した出来事。
スローガンを決める会議で、誰もが彼を非難する中、彼だけが一人で憎まれ役を引き受けた。あの時の、彼の酷く歪で、けれど誰よりも優しかった。
「そうね」
私はカップをソーサーにコトリと置き、静かに口を開いた。
「それも、きっかけの一つだった」
否定はしない。
あの時、私は確かに彼の手法に反発し、同時に、自分の無力さを痛感した。
彼が傷つくのを見るのが、どうしようもなく嫌だった。あんなやり方しかできない彼を、放っておけないと、そう強く意識させられた決定的な出来事。
けれど。 私が彼という人間に惹きつけられ、その輪郭を目で追うようになった本当の起点は、もっとずっと前にある。
「でも、興味を持ったのは……奉仕部に比企谷くんが入部して、すぐよ」
「……えっ?」
姉さんが、目を丸くして身を乗り出した。
常に先を読み、人を掌の上で転がす完璧な姉が、純粋な驚きを顔に出している。その珍しい反応に、私はほんの少しだけ口角を上げた。
「具体的に言えば、社会科見学の少し後ね」
私の口から出た明確な時期に、姉さんはパチリと瞬きを繰り返す。
「ええ? そんなに前から……?」
「ええ。その時はまだ、捻くれていて、口が悪い、他とは違った男の子、というくらいの印象しかなかったのだけれど」
私は紅茶のカップを見つめながら、記憶のページをさらに一枚めくった。
「由比ヶ浜さんが部活に来なくなってしまって、彼女の誕生日プレゼントを選ぶために、比企谷くんと一緒にららぽーとへ行った時のことよ。……私が、その、パンさんグッズのコーナーを見ていた時に、少し彼とはぐれてしまって」
「……あはは! 雪乃ちゃんらしいね。パンさんに見惚れて迷子になるなんて」
姉さんは手を叩いて、心底面白そうに笑った。 むっとしたけれど、事実なのだから反論のしようがない。小さく咳払いをして、話を続ける。
「それで、彼を探して歩いていたら……見つけたの。彼が、見知らぬピンクブロンド? の髪色の女の子の腕を、掴んでいるところを」
「へえ?」
姉さんの目が、スッと細められた。
「その女の子、真っ青な顔をして震えていたわ。正直に言うと、私はついに比企谷くんが何かしらの犯罪行為に手を染めて、やらかしてしまったのかと思ったのだけれど」
目の腐った男と、怯える少女。
誰が見ても不審者と被害者の図式だった。
けれど、女の子の手の中に握られていたものを私見て、私は納得した。
キラキラと光るヘアクリップ。
それを、彼女は自分のバッグの中に滑り込ませようとしていた。
その途中で、比企谷くんに腕を掴まれ、動きを止められていた。
「すぐに理解したわ。その女の子は……万引きをしようとした。それを、比企谷くんが未然に止めたのだと」
店員を呼ぶわけでもなく、大声で咎めるわけでもなく。 ただ、彼女の罪をその手前で食い止めた。
女の子は涙声で必死に彼に何かを訴えかけているようだったけれど、少し距離があった私には、その声の内容までは聞こえなかった。
ただ、彼がひどく真剣に聞いているのだけはわかった。いつもは捻くれた言葉しか吐かず、のらりくらりとしていたというのに、その顔が特に印象に残った。
そして比企谷くんは、あろうことか、ヘアクリップを取り上げて、レジで買ってあげていた。
彼女の罪をなかったことにして、あまつさえその原因を取り除いてやるように。
「……時間もなかったし、話も終わったようだったから。私は何事もなかったかのように近づいて、声をかけたわ」
私がそう言うと、姉さんはほう、と感心したような息を漏らした。
「比企谷くん、やるじゃない。女の子のピンチをこっそり救うなんて、まるでヒーローみたい」
「ヒーローなんて、そんな立派なものじゃないわ。ただの、その場しのぎでしかないわ、本当に女子が救われたか、わからないもの……ただ」
私は目を閉じ、あの時の彼の、少しバツの悪そうな顔を思い浮かべる。
『確かに、俺の自己満でしかないし、根本的な解決にもなっていない。だが、同じ妹を持つ身として、なによりも、あー、あの年であれだけ追い詰められてる顔を見るのは、普通に目覚めが悪いだろ』
「その時に、思ったの。この人には、甘さと確かな『優しさ』があるんだなって。普通、見ず知らずの人のために、一万もするヘアクリップを買ったりしないわ……そこからよ、私が彼に、本格的に興味を惹かれるようになったのは」
姉さんはグラスを置き満足げにソファから立ち上がった。
「そっか。雪乃ちゃんの初恋の始まり、しっかり聞かせてもらったよ。ごちそうさま」
姉さんが嵐のように去っていき、再び静寂が戻ってくる。
……比企谷くん。私は、成長したわ。
意地を張って一人でいることをやめた。一人暮らしのマンションを引き払い、今は実家に戻って、アルバイトをしながら家の手伝いもしている。
逃げてばかりだった母親や姉さんとも、きちんと向き合えるようになった。
私たちの周りの景色も、少しずつ変わってきているのよ。
葉山くんたちも、修学旅行の一件をみんなに話して、乗り越えて、今は上辺だけじゃない、本当の親友と呼べる関係になっているみたい。
その話で怒り狂った、三浦さんにはみんな頭が上がらないようだけれど。
由比ヶ浜さんも、少しずつだけれど学力が上がってきているわ。あなたが心配していた赤点も、今度のテストでは回避できそうよ。
一色さんも、姉さんに色々教わりながら、生徒会長を頑張っている。
私たちはみんな、前に進んでいる。 あなたが残してくれた、歪で、けれど確かな軌跡を道標にして。
……でも、そこに比企谷くん本人は、どこにもいない。
ねえ、比企谷くん。 私を変えて、自分の足で立てるようにしておいて。
そのまま一人で、遠くに行ってしまった鬼畜谷くん。
私は、ずっと待っているわ。
あなたが、いつものように面倒くさそうな顔をして、何気なくこの場所に帰ってきてくれる日を。
貴方は今、高校で何をしているのかしら。 また厄介な事件に巻き込まれて、誰かの助けになっている?
それとも、その面倒見の良さで断りきれず、また誰かのお世話を焼いているの?
どちらにせよ、比企谷くんは大丈夫。 私は少しも心配していないわ。
だって、どうしようもなかった私を、あんなにも助け出してくれた貴方なのだから。
私は、貴方と対等になるために。貴方の隣を歩ける自分になるために、今日も頑張るから。
だから。
この言葉は、遠く離れた貴方には、きっと届かないのだろうけれど。
貴方が好きよ、比企谷くん。 愛してる。誰よりも。
それだけは、絶対に変わらない。
……それはそれとして、時々感じる、比企谷くんへのどうしようもないほどの苛立ちは、何かしら。
それに、もし、もしも比企谷くんに彼女ができていたら、祝福するわ。
ええ、祝福するわ、だって比企谷くんが選んだ女性だもの、きっと素敵なはずよ、ええ、だから決して奪おうとかそんなこと思ったことないわ。
雪ノ下雪乃、比企谷八幡に愛を誓い、その帰りを待つ健気? な少女。
……その想い人である、比企谷八幡は。
「待って! さっきから見てたよね! あっ、ちょっ、待てよ!」
「……あんなの見たら逃げるに決まってるだろ!」
現在、一人の女子から逃げていた。
誰だろうなー。
陽乃さんは内心ばくばくです、余裕ある感じ出してますが、姉妹でどうしようもないほど同じ人に惚れ込んでるというその事実に、少し絶望してますね。
ちなみに明日はその女子との話、明後日は雪ちゃんと雛鳥ちゃんのお話しです、お楽しみに。
ここまで読んでくださりありがとうございました。