抜け出せない沼を持つ男と実力主義の教室。雛鳥は何を見るか。 作:末路雛鳥
気温の変化についていけずに風邪をひいてしまいました。鼻水が止まらねえ。みなさんも、気をつけてくださいね。
では本編をどうぞ。
「……暑い」
シャツに汗が滲み、背中に張り付いている気持ち悪さに顔を顰めながら呟く。
この学校には、衣替えが存在しない。
年間を通してブレザーの着用が義務付けられているのだ。
その理由は極めて単純で、学校内のほぼすべてに完璧な冷暖房設備が完備されているからだ。
確かに、建物に一歩足を踏み入れれば、そこは常に冷たい空気に包まれた快適な空間。
だが、登下校の時間だけはどうにもならない。熱い太陽の光が降り注ぐ中ブレザーを着て歩かされるのは、控えめに言っても苦行でしかない。
「はあ……」
ようやく校舎に辿り着き、冷たい風を浴びて生き返る。
Dクラスの教室の前を通りかかった時、中をチラ見する。
朝のホームルーム前だというのに、教室内はかなり騒がしかった。
櫛田や平田が中心になりながら真剣な顔で話し込んだりしている。
目撃者探しに相変わらず疾走しているらしい。
クラスメイトを救うため、自らの手で証拠を集めようと足掻く姿。 いかにも青春ドラマみたいな展開みたいで立派なことだとは思う。
だが、そんなことしていたらいずれ何も信じられなくぐらいに、性格がひん曲がってしまうんじゃないか。
そもそも、だ。 生徒同士の暴力沙汰やトラブルなんて、本来なら教師が責任を持って解決まで持っていくのが普通だろ。
双方の言い分を聞き出し、現場を調べ、目撃者を探す。それが教育者の仕事じゃないのか。
それを、当事者である生徒たち自身に丸投げして証拠がないなら結論は出せないと突き放す。
元から少しもないこの学校への評価が、俺の中でさらに地の底まで叩き落とされていく。
廊下を進みながら、俺はふと、恩師の顔を思い浮かべた。
仮にも……将来は教師になってみたいと、密かに思い描いている身だ。
口が裂けても誰にも言わないし、基本的には優秀な彼女に養われる専業主夫が第一目標だ。
だが、それでも、誰かの人生の分岐点で一緒に悩めるような大人になりたいという、憧れがある。
生徒のために動き、時に助言をし、手を引く。 言うのは簡単だ。理想を語るだけなら誰にでもできる。 だが、実際にそれをやるとなると、どれほど難しいことか。
理不尽な拳骨を落としてでも、絶対に俺たちから目を逸らそうとしなかった、平塚先生。
今更ながら、あの人の真っ直ぐな凄さが、身に染みてよくわかる。
あんな風に、本気で生徒と向き合ってくれる大人は、この学校に存在しないのだろうか。
「……まあ、俺には関係ないことだけどな」
誰に聞かせるわけでもなくボソリと呟く、今の俺は教師じゃないし、あまり関わって目立ちたくないし、正義の味方ごっこをするつもりも毛頭ない。
そんなことを思いながら教室に入り、席に座る。
……放課後。
今日という日は、高校生活の初めてになる平和な一日だった。
記念日としてカレンダーに花丸をつけておいてもいいかもしれない。
なぜなら、綾小路が朝から一度も俺の前に現れなかったから。
いつもなら隙あらば右腕を抱きしめている綾小路がいないだけで、これほどまでに肩が軽く、過ごしやすいとは。
やはり俺の日常は、あいつの存在がストレス源になっていることは間違いない。
だが、神様というやつは、そう甘くはないらしい。
「……」
「……」
俺の真横には。
なぜかひどく久しぶりな感じのする、森下が、ピッタリと並んで歩いている。
無言だ。ひたすらに無言。
そして、その視線は、相変わらずアホ毛に固定されている。
もう、当たり前のように見つめられすぎて、ツッコミを入れる気力すら湧かない。
そんな風に、森下を連れながらDクラスの教室の前を通りかかった。 その瞬間のこと。
「っ……!」
勢いよく教室の扉が開き、そこから弾かれたように一人の女子生徒が飛び出してきた。
「おわっ!?」
死角からの飛び出しを避けきれるはずもなく、俺と飛び出してきた女子が鈍い音を立ててぶつかり合う。
俺は数歩後ずさった程度で済んだが、相手の女子は体をよろめかせ、バランスを崩して尻餅をついてしまった。
そして。
ガシャンッ、と。 彼女の手からすっぽ抜けた物がひどく嫌な音を立てて転がった。
「あっ……」
女子生徒の口から、悲痛な声が漏れる。 彼女は慌てて床に転がったそれを拾い上げた。
よく見れば、それはデジタルカメラだった。
震える手で電源ボタンを何度か押しているようだが、液晶画面は真っ暗なまま、ウンともスンとも言わない。
「嘘……映らない……っ」
彼女の顔から、サーッと血の気が引いていくのがわかった。 肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で、カメラを呆然と見ている。
……やばい。
「……悪い」
「俺の不注意だ。教室から人が飛び出してくることを想定していなかった。すまない……弁償させてくれ」
相手が急に飛び出してきたとはいえ、俺が教室の扉のすぐそばを歩いていたことが悪かった。
謝罪と弁償を申し出ると。 うつむいていた彼女は、大きく肩を跳ねさせ、顔を上げた。
「ひ、比企谷くん!?」
ひどく上ずった、驚きに満ちた声。
……ん?
俺の名前を知っているのか? この女子と俺はどこかで会ったことがあっただろうか。
「ご、ごめんなさい……っ!」
彼女は慌てて体勢を直し、フラフラと立ち上がりながら、俺に向けて深く頭を下げた。
「私の方こそ、周りを見てなかったので……っ、あの、その……佐倉愛里、です」
おずおずと、消え入りそうな声で名乗る佐倉。 メガネの奥から、俺の様子を窺うように見上げてくる。
怯えたような、自信のなさそうな振る舞い。小刻みに震えている肩。
……なんだ、この女子。
小動物みたいでめちゃくちゃ可愛いな。
なんというか、こう、守ってあげたくなるような、純粋で気弱な女の子。
綾小路や森下とは完全に別ベクトル。というか、大違いだ。
こういうTHE・普通の大人しい女の子と接するのがあまりにも久しぶりすぎて、感動してしまう。
「いや、俺の方こそ、悪かっ……」
俺の言葉を遮って、黙っていた森下が、スッと顔を近づけてきて、冷たい声で囁いた。
「何か考えましたか、比企谷八幡」
こいつ、超能力者か何かか? ガチで鳥肌が立ったぞ。
「いえ、なにも」
教室の入り口から、ひどく申し訳なさそうな顔の櫛田が小走りで出てきた。
極力目を合わせないようにしながら、少し離れる。まだ気まずいからな。
「ご、ごめんね。私が急に話しかけたから」
櫛田が気遣わしげな声をかけると、佐倉は肩を跳ねさせ、なぜか俺の背中へとスッと身を隠した。
「……ち、違います。逃げたのは、私ですから」
消え入りそうな声でそう言うと、ギュッ、と俺の背中が、弱々しく握りしめられた。
……なんだろうな。 同じように服を掴まれるという行為でも、綾小路に比べたら、こっちの方がめちゃくちゃ嬉しいんだが。
これぞまさに、か弱くて守ってあげたくなる女の子の正しい反応だ。
そんなささやかな役得に浸っていると、教室の中から、ひどく苛立った野太い声が廊下まで響いてきた。
「何であんな根暗女が俺の目撃者なんだよ。ついてねえな。つか、俺を救う気あんのかよ」
……
教室の中へ視線を向ける。
そこには須藤が足を組んで椅子にふんぞり返っていた。
どうやら、彼らが血眼に探していた目撃者が佐倉らしい。
「まだ本人から話を聞いてないんだから、勝手に決めちゃだめだよ」
櫛田が教室の須藤へ向かってたしなめるように言う。 須藤は露骨に顔をしかめ、舌打ちを一つ落とした。
「わーってるよ。言うつもりなら、さっさと言ってる。……大人だから自粛したんだ」
そんな須藤を冷たい目で見つめていた堀北が、吐き捨てた。
「須藤くん、かえって良かったかもしれないわよ。彼女が目撃者で」
堀北は冷たい声で淡々と言い放つ。
「どういう意味だよ、そりゃ」
「彼女はきっと、あなたの目撃者として証言はしてくれない。この事件はあなたが起こした身勝手なものとして処理される。結果、Dクラスへの影響は免れないけれど……幸いにして、今でよかったのよ」
「あ?」
「暴力に、嘘の証言。学校を巻き込んでの騒動が、100や200のペナルティで済むとは思えないもの。今ある90ポイントを失うだけで済むと思えば、ラッキーだったとも言えるわ」
堀北の冷徹な言葉は、容赦なく須藤の神経を逆撫でするように続く。
「あなたの無実の訴えも、学校側は無視できないから退学にされることはないはずよ。責任の割合は、Cクラスより大きくなるでしょうけどね」
「……」
視線を戻すと、森下が、俺の顔を見つめながら不思議そうに首を傾げていた。
……何見てんだ、こいつ。
「もう完璧な解決策が見つかるとも思えないし。諦めようぜ、須藤」
池と呼ばれる男子が半分やる気をなくしたようにポツリとこぼす声が聞こえた。
「んだよお前ら、協力してくれんじゃねえのかよ!」
「だって……なあ?」
同意を求めるように残ったクラスメイトたちへ訴えかける池。
誰も目を合わせようとしない。
唯一、平田が呼びかけているが、少なくとも須藤を助けたいというお人好しは、どうやらここにはいないらしい。
「あなたの友達すら、協力する気にはなれないそうよ。残念だったわね」
堀北が、氷の刃のような言葉で追い討ちをかける。クラスに残っていた生徒たちは、その言葉を誰も否定しなかった。
「何で俺ばっかりこんな目に遭うんだ。使えねえ連中だな」
「面白いことを言うわね、須藤くん。全部ブーメランになってるって、気づいてる?」
「どういう意味だよ、そりゃ!」
ついに我慢の限界を超えたらしい。
須藤の顔が怒りで朱に染まり、大きく振りかぶった拳が、堀北へ向かって――。
「……はぁーーーーっ」
これ見よがしに。
これ以上ないくらいのため息を吐き出した。
須藤の拳が空中で止まった。
苛立ちと殺意の入り交じった鋭い眼光が俺をギロリと睨みつけてきた。
堀北も、僅かに目を見開いてこちらを見ている。
「……はあ」
ほんとに、柄じゃない。
面倒ごとに首を突っ込むなんてな。
けど、堀北が殴られそうになってるし、個人的にも須藤に言いたいことがあったから、ちょうどいい。
ただ、自分が傷つくやり方は論外だ。
俺は痛いのも怖いのも大嫌いだし、この前みたいな怪我は絶対にしたくない。
昔の俺のやり方は、ひどく独善的で、自分が悪者になってヘイトを集める、独りよがりな解決法だった。
でも、そんな真似をすれば、あいつらが悲しそうな顔をして更に傷ついてしまうことを、俺はもう知っている。
だから、俺は、変わったんだ。
いや、変わらなきゃいけない。今までの自分を否定してでも。
ここで俺が適当に悪口を言って自分に須藤のヘイトを集めた方が、手っ取り早くて効率はいい。
でも、俺が『本物』を望むなら。
誰かの人生の分岐点に立てるような『教師』という大それた夢を抱いてしまっているなら。
ここは、絶対に逃げずに通らなければならない道だ。
須藤が教室から廊下へ出てきて、俺の目の前に立ちはだかる。 デカい。ガタイが良すぎる。
正直言って、チビりそうだ。
足の震えを止めるのに必死で、心臓なんて恋でもしたのかってほど、高鳴っている。
だが、俺はいつものように。皮肉げな笑みを顔に貼り付けた。
「……頭を下げてお願いするってことすら、できないのか?」
「あぁ!?」
ドスの効いた威圧。だが、俺は視線を外さない。
「最低限の礼儀すらできないのかって聞いてるんだよ」
こういう単純な奴は感情論じゃなく、ぐうの音も出ない正論が一番効く。
正論は時に人を傷つけるが、今はまさに立派な武器になる。
「救う気がない? ……当たり前だろ。普通なら、自分から頭を下げて頼み込むのが筋ってもんだ。なんでそんな助けてもらって当たり前、みたいな態度できる。周りもそりゃあ、助ける気もなくなるだろうよ」
その言葉に、須藤の顔がみるみるうちに真っ赤に染まり拳が震えている。
図星を突かれた怒りと恥辱。図体はデカくても、中身は自分の非を認められないただのガキだ。
「頼まなくても助けてもらえるのが当たり前だと思うなよ。俺たちは、あと少しで大人になるんだぞ」
「うるっせえな!!」
怒鳴り声が廊下にビリビリと響く。 ほら、図星だからそうやって声を荒らげるしかできない。
痛いところを的確に抉られた証拠だ。
「佐倉のことはよく知らないが、多分、目立つことがひどく嫌いなんだろう。……目撃者がどうとか、証言がどうとか、そういうお前の自分本位なことは一旦関係ない」
俺は須藤を真っ直ぐに見据える。
「……佐倉に、謝れ。根暗女って言ったことを、使えないとか言ったことを」
ギリッと奥歯を噛み鳴らし、完全に言葉に詰まっていた。
怒りのやり場を失った須藤は、忌々しげに舌打ちを一つ落とすと。
ガシャァァンッ!!
近くにあった机を力任せに蹴り飛ばし、そのまま乱暴な足音を立てて教室から出て行ってしまった。
……怖かったぁぁっ!
強がって正面から理詰めしたはいいものの、内心は生きた心地がしなかった。
膝なんて生まれたての子鹿みたいにガクガク震えてるし、結局あいつ、謝らずに逃げ帰りやがったし。
というか、少し冷静になって考えてみれば。
これすらも、俺の正しさの押し付けだったんじゃないか?
佐倉は、多分、目立つことが何よりも嫌いなタイプだ。
それなのに、俺が須藤相手に突っかかったせいで、図らずも彼女にも注目を思い切り集めてしまった。
まずい。めちゃくちゃマズい。よかれと思ってやったことが、裏目に出る。よくあることだ。
どうやって謝るべきか。そう冷や汗を流して自己嫌悪していると
背後から、俺の右手が小さな指先でそっと引かれた。
「……え?」
振り返って、俺は絶句した。
顔を伏せていた佐倉が。 その顔の半分を隠していたメガネを、ゆっくりと外したのだ。
――めちゃくちゃ美人なんだけど。
俺的にはメガネ姿も好……げふんげふん。可愛かったけれど、今は圧倒的に整った顔をしていた。
俺だけじゃない。教室の中に生徒も、そして櫛田でさえ、信じられないものを見るように目を丸くしている。
「……雫?」
静まり返った空間で櫛田がポツリと呟いた。
「雫……? え、嘘っ!」
何か点と点が繋がったのか、櫛田は興奮したように佐倉へ駆け寄ってきた。
「雫ちゃんだよ!? 最近、雑誌とかネットですっごい人気のグラビアアイドルの……!」
へ、へえ。
……いや、いやいやいや。
この学校、マジでどうなってんの? 生徒会長の暴力ゴリラに、底知れないコアラの綾小路(右腕に抱きついてくるから)裏の顔を持つ櫛田、果ては現役のグラビアアイドルまで混ざっているって?
多様性とかそういう次元を通り越してキャラの渋滞だ。
普通の高校生なんて俺しかいないんじゃないか。
周囲が騒然とする中、堀北が珍しく動揺した様子で言葉を詰まらせた。
「その……佐倉、さん? 何を急に……」
堀北が素で戸惑っている。 だが、佐倉はそんな堀北の言葉を完全に無視した。
一瞥もくれず、彼女は俺の目の前に背中から回ってきた。
「見て、くれた」
少し潤んだ佐倉の瞳が。 俺を真っ直ぐに捉えて逃がさない。
「……今の私でも」
「え?」
思わず顔を上げた。 至近距離で見る彼女の顔は、ため息が出るほど、本当に綺麗だった。
グラビアアイドルという肩書きも納得の、完成された美しさ。
でも、その瞳の奥にあるのは、アイドルとしての笑顔じゃない。
今にも泣き出しそうな、等身大の女の子の顔だ。
佐倉は、小さな両手を胸の前でぎゅっと握りしめながら、震える声で言葉を紡ぎ出した。
「私、その。……ごめんね、上手く言葉にできないけれど」
顔を真っ赤にして、必死に言葉を探している。
「探していたものを、見つけたの。……本当に。」
「比企谷くんが……震えながら、こんな私のことでも、怒ってくれたから」
ふわりと、佐倉の顔に柔らかい微笑みが浮かんだ。
「私も……比企谷くんから、勇気を貰えたんだ」
震えていたこと。膝をガクガクさせていたこと。全て見られてた、そりゃあ、背中にいたから、見ていただろうけど。
カッコ悪い。本当にダサい。
けれど、そのダサいことが佐倉という一人の女の子の勇気に変わったのだとしたら。
俺の行動も、少なくとも間違いじゃなかったのではないか、恩師に近づけたんじゃないか、そう思えた。
決意を固めた佐倉の瞳は、真っ直ぐに堀北を見据えていた。
「私……証言、するよ」
「……そ、そう。……わかったわ」
珍しく言葉に詰まりながら、わずかに目を丸くしながら頷いた。
佐倉の振り絞った勇気は、間違いなく場を動かしていた。
その光景を見ていると、森下が平坦な声で呟く。
「なるほど。……そういう一面もあるんですね」
は? どういう一面だ。
もしかしてあれか? 震えている姿が情け無いー、とか、案外カッコいいところもあるんだー、みたいな?
「おい、なんだその意味深な……」
俺が森下の言葉の意図を問いただそうと口を開いたとき。
「比企谷くん」
堀北だ。 彼女はいつの間にか鞄を手に持って俺の目の前までやってきていた。
そして相変わらず愛想の欠片もない表情のまま言い放つ。
「一緒に帰らない?」
…………は? 一緒に帰らない?
この、俺に? 他クラスの、俺に?
一緒に帰ろうと提案しているのか?
罠だろ、厄介な事態に巻き込まれる予感しかしない。
「え、やだ」
そう即答した。
だが。
「そう、ありがとう」
「…………え?」
「じゃあ、行きましょう」
そう言って、踵を返し、教室の出口へと歩き出しやがった。
「おい、ちょっと待て。会話しようや」
おかしいだろ。なんだその会話のキャッチボールの下手さは。
俺の投げたボールを完全に無視して自分のボールを取り出して勝手に投げ返してきている。
コミュニケーションのドッジボールですらない。完全に壁当てだ。
「ねえ、ちょっと話聞いて? ねえ、ちょっ……え?」
なんで佐倉までついて行ってんの?
えっ? なにこれ。
俺、ここで一人で教室に突っ立ってたら、ただの空気読めないバカみたいにならないか。
というか、佐倉が証言すると決めた以上、その保護者(?)みたいな立ち位置になってしまった俺がここで逃げるのは、ひどく寝覚めが悪い。
それに、堀北の来るのが当たり前みたいな顔。ここで帰ったら、後でどんな理不尽が待っているかわからない。
「……これ、ついて行かなきゃダメなパターン?」
誰に聞くでもなく呟くと、隣にいた森下が頷いた。
だよな。知ってた。
……暑い。
本日二度目。
ここ、特別棟は、家庭科室や視聴覚室などの頻繁には使用しない特別教室が揃った校舎だ。
普段授業で使われている時は冷暖房が効いているのだろうが、放課後の今は停止している。
窓が閉められた空き教室は、まるでサウナのような熱気が淀んでいた。俺のシャツはすでに汗でべっとりだ。
「ここにも無かったわね」
少し前を歩いていた堀北が、天井の隅を見つめながら呟いた。
無かった、というのは監視カメラのことだろう。
この学校は至る所に監視カメラが設置されている。設置されていない死角なんて、トイレと更衣室、あとはこの特別棟の一部くらいのものだ。
「それで。比企谷くん、何か案はある?」
「……おい待て」
「なんで俺が協力してるみたいになってんの? 俺はただ、お前らが特別棟に向かうから、なんとなく成り行きでついてきた男だぞ」
巻き込まれ事故もいいところだ。
俺は絶対に巻き込まれたくはない。
「悪いけれど。協力してもらえないのなら、佐倉さんが目撃者だと知ってしまっている以上、口封じさせてもらうわ」
「……え? なにそれ、俺、殺されるやつですか?」
冷たい声で物騒な宣言をされ、思わず数歩後ずさった。
口封じって、東京湾にコンクリート詰めで沈められるアレか? それともお兄様の回し蹴りですか?
というか、森下も同罪だろ。
こいつと一緒に……死ぬのか俺は、こいつは普通に死後の世界までついてきそうで笑える。
すると、佐倉が、ぶんぶんと首を横に振った。
「う、ううん、大丈夫だよ、堀北さん。……比企谷くんなら、絶対に誰にも言わないだろうから」
満面の笑みのまま、純度100%の信頼を込めた瞳で見つめてくる。
「え、あっ……そ、そうね」
あの堀北が、佐倉の真っ直ぐすぎる言葉にペースを乱され、絶妙に返事に困って視線を泳がせている。
というか、佐倉。お前、俺のこと信頼しすぎだろう。
俺の口の堅さはダイヤモンド並みだが、それは単に話す人がいないという事実に基づくものだ。
そんなキラキラした目で見られると、少し照れてしまう。
「……ねえ、比企谷くん。何してるの?」
ビクゥッ!!
突然、本当に唐突に。俺の右耳のすぐそばから、吐息のかかる距離で甘い声が降ってきた。
心臓が止まるかと思ったわ。寿命が確実に三日は縮んだ。
バッと振り向くと、そこにはピンクブロンドの髪を揺らし、ニコニコと笑顔を浮かべた一之瀬が立っていた。急展開すぎるだろ。
「ひ、比企谷くん、大丈夫……?」
胸を押さえてむせ返っていると、佐倉が心配そうに俺の背中をさすってくれる。
なんだこの至れり尽くせりな状況。背中をさすってくれる手の感触が優しくて、思わず泣いてしまいそうだ。
一之瀬はそんな俺たちを面白そうに眺めた後、スッと堀北の方へ向き直った。
「デートは……ありえないし。悪いけど時間貰うね」
有無を言わせない、柔らかいけれど絶対的な圧。
堀北が口を開くより早く、一之瀬はさらに言葉を重ねた。
「なんで、比企谷くんがここに? ……貴女は手伝ってもらってるの?」
冗談じゃない。俺は手伝いをしていない。
ただ巻き込まれただけの被害者だ。
そう否定しようと口を開きかけた、その瞬間。
「ええ、そうよ。協力してもらってるの」
堀北が、平然とした顔で俺の退路を完全に断ち切った。
「……は?」
俺の口から、間抜けな声が漏れる。
おい、ふざけんな。なんで勝手に味方に組み込んでんだ。
「そっかー」
一之瀬はポンと手を叩き、パァッと顔を輝かせた。
「無理矢理だったら、どうしようかなと思っちゃったよー」
……え?
今、すごく怖いこと言わなかったか? 無理矢理だったらどうしようって、具体的に何をしようとしていたんだ。先がないのが怖すぎる。
何なのかわからないが、ドス黒い部分が、チラリと顔を覗かせた気がして背筋が凍る。
そこから先は、俺の意志なんて完全に置いてけぼりだった。
堀北は一之瀬に対し、須藤の暴力沙汰について、Cクラスの目論見や今の行き詰まった状況を詳しく話し始めた。
情報を隠すメリットがないと判断したのか、あるいは一之瀬の持つ情報網 を利用しようと考えたのか。
堀北の判断は的確で無駄がない。俺はただ佐倉の隣で、蚊帳の外のまま話を聞いているしかできなかった。
「なるほどにゃー。有栖ちゃんの聞きたそうなことも聞けたし、話してくれてありがとう!」
一通り事情を把握した一之瀬は、満足そうに頷いてみせた。
「有栖?」
俺が思わず首を傾げると、一之瀬はふんわりと微笑んだ。
「そう、坂柳有栖(さかやなぎ ありす)ちゃん。……今は幼馴染と再会しているんだって」
へえ。 知らんがな。坂柳って誰だ。
「有名なのか?」
「坂柳有栖。Aクラスの葛城派閥の対となる、坂柳派閥のリーダーです」
森下が、補足情報を入れてくれた。
な、なるほど? Aクラス内の二大勢力。完全に覇権争いみたいな構図じゃないか。
「……それ、俺たちみたいな他クラスの人が聞いて大丈夫なやつか?」
「問題ありません。普通に知られていることです」
森下は俺をジト目で見つめて、容赦のない言葉を突き刺してくる。
「それすら知らないなんて、本当にぼっちなんですね」
「ぐはっ!」
か、火力が高すぎる。
膝から崩れ落ちそうになる俺の背中を、佐倉が必死に優しくさすってくれている。
あぁ、癒やし。この空間における唯一の味方だ。
俺の荒んだ心が浄化されていく。本気で好きになりそうだわ。
そんな俺を気にせずに、一之瀬がふんわりと笑う。
「私は協力はできないけど、情報は集めてみるよ」
「……それ、実質的に協力じゃないか?」
そうツッコミを入れると、一之瀬は小首を傾げて、いたずらっぽく片目をつぶった。
「んー? 集めた情報をただで教えるとは言ってないもん」
まあ、なんとも可愛らしい笑顔だこと。
一之瀬のそれは破壊力が高すぎて余裕で死ねる。
これでようやく解散か。
そう思って息を吐きかけた時
「じゃあ、今日は焼肉を食べに行きましょう」
「……え?」
森下の口から飛び出した突拍子もない提案。
佐倉も、堀北も、一之瀬も。そしてもちろん俺も、全員が目が点になって固まった。
森下はそんな周囲の困惑を完全にスルーして、真っ直ぐに俺の顔(というかアホ毛)を見つめてくる。
「比企谷八幡が前に言っていました。今は高校生だと。なら、放課後は青春を謳歌する時間のはずです。……もちろん、奢りです。比企谷八幡の」
「おいちょっと待て、なんで俺が奢る前提なんだーー」
俺の言葉を堀北が綺麗に遮って言う。
「そう。比企谷くんの奢りね……行くわ」
「おい堀北。今、俺の奢りだって強調したの、なんでだ」
こいつ、俺にダメージを与えられると知った途端速攻で乗ってきやがったぞ。
俺が内心で悲鳴を上げていると、佐倉が、もじもじと指先を合わせながら上目遣いでこちらを見てきた。
「えっと……もう少し、一緒にいたい、かな」
――天使。
なんだこの可愛い生き物は。結婚してくれ。
専業主夫として君のグラビア撮影のスケジュール管理から食事の栄養バランスまで完璧にサポートさせてもらいたい。
さらに一之瀬までもが、楽しそうに笑い声を上げる。
「にゃははっ、私も比企谷くんと一緒に遊んでみたいかな! 私もポイント出すからさ」
――天使二号。
頭の切れる優しい女子だとは思っていたが、これはもう慈愛の塊だろ。
そんな女子たちの反応に圧倒されていると。
張本人の森下は、真顔のまま、俺に向けてビシッとサムズアップをキメていた。
…………な、殴りたい。 この、一切の感情が見えない無表情を。
マジで人を殴りたいと心の底から思ったのは、生まれて初めてだ。
だが、気づけば全員がなんとなく行くという空気でまとまり、あの堀北すらどこか楽しそうにしている。
いや、堀北の笑みはなんか違うな、あれは、そう。
雪ノ下が俺を罵るときに浮かべる、ドSの微笑み。こーれは、2万以上は覚悟しないといけなか。
それに、こんな空気で帰ると断れるほど、俺のメンタルは強くない。
多数決になると、ぼっちというのは常に不利なのだ。これが民主主義の暴力か。
ため息を吐きながら、俺は森下に手を引かれ、ドナドナと引きずられていく羽目になった。
* * *
そんな光景を、壁の陰から、ずっと、見つめていた。
八幡が、女の子たちに囲まれている。 それも、一人じゃない。
胸が大きくてキラキラした一之瀬さん。
多分、佐倉さん……かな? あと、美人な堀北さん。
そして、八幡の手を引いている、憎き森下さん。
全員が全員、美人で、スタイルが良くて、それぞれ違った魅力を持っている人たちばかり。
そんな華やかな女の子の群れの中に、私の八幡が、文句を言いながらも引きずられていく。
……あれ。 おかしい。頭の奥で、ジリジリと何かが焼け焦げるような音がする。
視界がぐらぐらと歪んで、心臓が握り潰されそうなくらい痛くて、呼吸の仕方がわからなくなる。
……頭が。
…… の、脳が、破壊される。
私が必死に八幡のためにポイントを稼いでいる間に。
どうして、彼があんなにたくさんのメスたちに囲まれて、楽しそうに放課後を過ごしているの。
許せない。
私の、私だけの八幡なのに。
あの温かい場所は、私だけの場所なのに。
「……八幡」
壁を、指が白くなるほど強く引っ掻く。
あの泥棒猫たちを、どうやって排除しようか。
八幡の視界から、どうやって私以外の女の子を消し去ってしまおうか。
こんなことなら、銀髪ロリの話なんて聞くんじゃなかった。生まれて初めての後悔が大きすぎて、若干トラウマになりそうだ。
須藤くんは、割と殴ってきそうですが、彼なりに学校にいないといけないんです。プロのバスケプレイヤーなり、惚れた女と一緒にいたかったり、色々です。なので、生かします(確信) まあ、原作通りなら絶対に殴ってましたね。
ちなみに雛鳥ちゃんと自称幼馴染が会った経緯は美術部です、あそこに世話焼きちゃんがいるので。
佐倉は割と強引ですが、この時点から鍛えておかないとマジであの試験で退学になってしまいますから、許してください。
清隆くんがいなかったらならないか? そう思いましたが、今から全然仲が悪くなりそうなので、こうしました。
雛鳥ちゃん、初めての脳破壊。食費の恨みは怖いんだよ。
最後に、本当に風邪に気をつけてください、しっかりと夜は暖めておやすみなさい(誰目線)
次回は、修羅場、かな? それともそれは間話にしてストーリーをもう終わらせるか、お楽しみに。
ここまで読んでくださりありがとうございます!