抜け出せない沼を持つ男と実力主義の教室。雛鳥は何を見るか。 作:末路雛鳥
朝の登校風景。
右腕には、いつものように綾小路が抱きついている。
俺はもうそれを否定しないし、こいつの想いを悟ってから、否定のしょうがない。
そして、そんな俺の隣を、楽しそうに歩いているのが一之瀬だ。
「それでね、今日の放課後は私の用事に付き合ってもらうでしょ? で、そのまま比企谷くんのお部屋でお泊まり、ってスケジュールだね!」
「……おう。」
もう泊まりに慣れきってしまっている俺は異常なのだろうか。
頭を抱えていても、一之瀬はにゃははっ、と笑顔で笑い飛ばす。
本当に、一之瀬のコミュ力はカンストしている。
どんなに無愛想な相槌を打っても、絶妙なパス回しで絶対に気まずい空気にさせないし、言葉に詰まることもないように自然体で会話を回し続けるのだから、恐ろしい才能だ。
それ故に、ひどく不思議だった。
こう言ってはなんだが、俺みたいな男が、一之瀬や綾小路といった他クラスのトップクラスの美少女たちと毎日並んで歩いているんだ。
普通なら
「あいつ、調子乗ってんじゃねえぞ」
とか
「なんであんな陰キャが」
と、嫉妬に狂った男子どもから裏に呼び出されてボコボコにされてもおかしくない。
なのに、どういうわけか。
変な噂が立っている様子もないし、直接絡んでくるような奴は一人もいないのだ。
まるで、見えない防護壁でも張られているような不気味な感じ。
どっちにしても、俺の預かり知らぬところで何かが働いていることだけは確実だった。
「ねえ、比企谷くん」
ふと、歩調を緩めた一之瀬が、少しだけ声を落としてこちらを見上げてきた。
その瞳にはどこか真剣な光が混じっている。
「比企谷くんって……告白とか、されたことある?」
――ブフッ。
危うく、むせ返りそうになった。
俺に、そんな甘酸っぱい経験があるわけ……。
即答しようとして、綾小路を見る。
……なるほど?
こいつが俺に向けている感情。
勘違いでなければ、それを俺は誰からも好かれたことがないと一蹴してしまうのは、綾小路に対して、いくらなんでも失礼なんじゃないか。
少しだけ躊躇い、それから視線を前に戻して、ボソリと答えた。
「……悪い。告白は、されたことないぞ」
綾小路に好意を向けられている自覚はある。 だが、告白を受け取ったことはない。だから、嘘はついていない。
一之瀬は、スッと。
俺の左手に、彼女の白くて柔らかい手が伸びてきた。 きゅっ、と。 指先を絡めるように、俺の手をしっかりと握りしめる。
一之瀬は、俺の手を握ったまま、少しだけ頬を桜色に染めて、真っ直ぐに俺の腐った目を覗き込んできた。
「よかったら、放課後に、体育館裏に来てほしい」
それだけを。 とびきり甘くて、ほんの少しだけ震える声で言い残して。
彼女はパッと俺の左手を離すと、そのまま逃げるように小走りで、駆け去っていった。
「…………は?」
女子が男子を放課後にあそこへ呼び出す理由は、一つしか存在しない。
まさか。いや、いくらなんでも。
ギリィッ……。
綾小路の指先が俺の腕の骨をへし折る勢いで、尋常じゃない力を込めて締め付けてきている。見下ろすと、そこには。
一之瀬が去っていった方向をジッと睨みつけている、綾小路がいた。
「あ、あの、綾小路さん? 腕、折れる。マジで折れるから」
「ダメ」
さいですか。
……放課後。
綾小路はぷんぷんしながら帰っていった。
いや、誤解のないように言っておくが、顔はピクリとも動いていなかった。
ただ、俺から離れて歩き出すその背中から、怒ってます、納得してません、という雰囲気を漂わせていたのだ。
時折こちらを振り返っては不満げにぷくっと膨らんでいた。
少しばかり申し訳ないとは思いつつも体育館裏へと向かった。
まあ、常識的に考えて出会ってまだ二ヶ月程度の男に、一之瀬がガチの告白なんてしてくるわけがない。
体育館の裏にはそこには待っていた一之瀬の姿があった。
「告白――」
「え、え?」
開口一番、一之瀬の口から飛び出した単語に、俺は素っ頓狂な声を上げた。
ま、マジで? 実は俺、知らないうちにフラグを乱立させていたラブコメ主人公だったのか?
「私、告白されるの」
「……え?」
二度目の間抜けな声を漏らした。
俺に、じゃなくて。お前が、される側? 完全に一人でテンパっていた自分が恥ずかしくて、顔から火が出そうになる。
一之瀬は困ったように微笑みながら、一通の手紙を俺の目の前に差し出してきた。 受け取って中を見る。
優しい一之瀬が気になっていること、クラスに来てくれてる間に気になってしまったこと、そして最後は、今日この時間、この体育館裏という指定で締めくくられていた。
だが、俺の目を引いたのは内容じゃない。文字だ。丸みを帯びた可愛らしいその筆跡。
「……てことは?」
俺が顔を上げて確認すると、一之瀬はコクリと頷き
「女の子、なんだ」
と静かに呟いた。
oh。
俺は心の中でそっと十字を切った。まさかこの学校でも尊い百合の気配を拝むことになろうとは。
誰に対しても隔てなく接する一之瀬。
そりゃあ男子だけじゃなく、女子だって勘違いして惹かれてしまうのも無理はない。
一之瀬帆波という人間のカリスマ性が引き起こした、罪作りな話だ。
「彼氏役は、比企谷くんが絶対に嫌がりそうだから、選択肢から無くしたの」
手紙を返すと、一之瀬はやけに真剣な顔つきで俺を真っ直ぐに見据えた。
彼女はギュッと両手を胸の前で組み、痛みを堪えるような顔をした。
「……どうしたら、あの子を傷つけないで断れると思う?」
真剣だった。 この女の子は、本気で誰かを傷つけないため『優しい正解』を探している。
誰も傷つけたくない。みんなと笑い合っていたい。その善意が、彼女自身の身動きを取れなくさせている。
だが、そんな都合のいい話なんて、この世のどこにも存在しない。
平塚先生の受け売りを俺が語るのは少し情け無いが、一之瀬にはそれが必要だ
「なあ、一之瀬」
「人間なんて、存在してるだけで無自覚に誰かを傷つけているもんだ。生きていても死んでいても、な」
生きているだけで気づかないうちに何かを踏みつけている。
誰かに優しくすれば、優しくされなかった別の誰かが傷つく。
すべての人間に平等な優しさなんて、ただの残酷な欺瞞でしかない。
「お前が今傷つけたくないって悩んでるのは、相手を大切に思っているからだろ。……大切に思っているからこそ、傷つけたとずっと自覚してしまう」
顔を上げ、揺れる一之瀬の瞳を真っ直ぐに射抜く。
「必要なのは、その自覚だ」
「……」
「本当に相手を大切に思うなら、その人を傷つける『覚悟』をしろってことだ」
誰にも嫌われたくないという八方美人は、結局のところ誰のことも本当に救えはしない。偽りの優しさで取り繕って、相手の気持ちを宙吊りにして生殺しにするくらいなら。真っ向から叩き斬ってやる方が、よっぽど誠実な刃になる。
一之瀬が、ハッと息を呑んだ。
「……大切なら」
最後に、ダメ押しのように言葉を紡いだ。
「傷つけてでも、本音で話してあげるべきなんじゃないか?」
その言葉が、一之瀬の心にどう響いたのか。
じっと彼女の顔を見つめていると、一之瀬はゆっくりと、まるで吸い寄せられるように俺の方へと一歩、また一歩と近づいてきた。
「おい、一之瀬?」
距離が近い。思わず後ずさりしようとした俺の胸に。
一之瀬の額が押し付けられた。
「……え?」
制服越しに伝わってくる彼女の体温と、俺の腹に当たるその色々と暴力的な柔らかさ……いかん、考えたら終わる。
「変わらないなぁ」
胸に額を押し付けたまま、一之瀬がぽつりと、吐息のような声で呟いた。
……変わらない?
変わらないってなんだ。
俺たちが初めて言葉を交わしから、まだ二ヶ月ちょっとしか経っていない。
その間に俺の何が変わらないというのか。
聞き返そうとした時。 一之瀬はゆっくりと顔を上げ、至近距離で俺の目を見つめてきた。
「ねえ、比企谷くん」
潤んだ瞳。いつもみんなに向けている眩しい笑顔はどこにもなくて。
「なんで、私と綾小路さんは違うの?」
「……へ?」
どう答えればいいのか迷って視線を泳がせていると、一之瀬はふるふると小さく首を横に振った。
「ううん。なんでもない」
強がるように微笑んで、彼女は再び視線を俺の胸元へと落とす。
「ただ、ね」
ポツリと、誰に聞かせるでもないような、ひどく静かな声。
「昔、男の子に言われたの。……今が一番だって」
息を呑んだ。
「過去を思い出せば後悔しかないし、未来を考えれば不安で鬱になるって」
――ドクン。
……あまりにも、聞き覚えがありすぎる。
どうして一之瀬はその言葉を知っているんだ。
「……私はずっと、抑えてきた」
一之瀬は、俺の胸を、小さな拳で軽く叩いた。
「ずっと、ね。家族にも話せなくて、優等生だって周りからもてはやされて。……完璧な、良い子でいなきゃいけなくて」
彼女の拳が俺の胸を叩くたび、その内側に隠し持っていた、張り裂けそうな重い痛みが伝わってくる気がした。
その笑顔の裏で、この子は一体どれだけのものを一人で抱え込んできたのだろうか。
トスッ、と。 少しだけ強く、彼女の拳が俺の胸を叩いた。
「なんで、中途半端で逃げちゃうかな」
震える声。 咎めるような、すがるような、ひどく不器用な響き。
「その人の顔が、頭から離れないの。……どんどん、忘れていっちゃう。記憶の中の輪郭は薄れていくのに」
一之瀬は、潤んだ瞳で、俺の顔を真っ直ぐに見上げてきた。 その瞳の奥にあるのは、クラスメイトに向ける親愛でも、ただの優しさでもない。
もっとずっと深くて、重くて、長い時間をかけて煮詰まったような、ひどく純粋な執着。
「でも、その人の優しい顔はずっと離れない。……ねえ、なんでだと思う?」
何も言えなかった。
ただ、彼女の言葉の端々に散りばめられたピースが、一つに纏まりつつある。
中途半端な助け、そして、その言葉。
『過去を思い出せば後悔しかないし、未来を考えれば不安で鬱になる』
昔、 俺はどこかで、誰かに、そんな言葉を吐き捨てて、逃げるように去ったことがあっただろうか。
……まさか。
あの時の少女と目の前にいる少女の姿と重なりかけーー
「ねえ、比企谷くん」
一之瀬はひどく重く、ねっとりとした声で言葉を紡いだ。
「優しい、優しい比企谷くん」
「……っ」
「ずっと、心に残ってた、比企谷くん。……私を救って、すぐに目の前からいなくなった比企谷くん」
ビンゴだった。
どうして今まで気づかなかったんだ。いや、気付けるわけがない。いくらなんでも出来すぎている。ラノベのご都合主義じゃないか。
一之瀬はゆっくりと顔を上げ、一歩だけ俺から距離を取った。
その顔には、いつもの眩しい笑顔が戻っていた。
だが、その笑顔の奥に潜む熱量は、さっきまでとは全く違う。
「もう、平気」
彼女は、ふわりと微笑んだ。 吹っ切れたような、何か重い枷を外したような、とびきり美しい笑顔。
「でも、私は遠慮なんてしないから。……これから、ずっと」
俺が呆然としていると。
足音が近づいてくるのが聞こえた。
その足音は、どこか覚束ないリズムを刻んでいる。
ハッと我に返った。
ここにいてはダメだ。
女子同士の、しかも告白という空間なら余計にだ。
「じゃ、じゃあ……俺は、もう行くな」
俺はひきつった顔でそう言い残し、逃げるように踵を返した。
「うん。……聞いてくれて、ありがとう。比企谷くん」
背中越しに一之瀬の優しい声が聞こえたが振り返ることなく、足早に体育館裏から抜け出した。
角を曲がろうとした、その時。
「あ……」
告白の主と、すれ違った。 俺と同じクラスの白波だった。
ああ、なるほど。
白波は男子が苦手だった。
そんな彼女が、優しくて誰にでも分け隔てなく接してくれる一之瀬に惹かれ、憧れ、そして特別な感情を抱いてしまった。
その気持ちなら。痛いほどよくわかる。
だからこそ、一之瀬はあんなにも真剣に悩んでいたのだ。
俺があんなことを言った以上、一之瀬の口から真っ直ぐ断られて、傷つくことになる。
だが、それは中途半端な優しさでなあなあにされるよりは、ずっと彼女のためになるはずだ。
……そう、思いたい。
気まずさに目を伏せ、無言のまま通り過ぎようとした。
だが。 すれ違いざま。
ふと横を見ると白波が、立ち止まって俺の方をジッと見つめている。
「……」
「……」
いつもなら、俺と目が合った瞬間に肩を震わせて視線を逸らすはずの彼女が。
なぜか今は、俺を逃げることなく真っ直ぐに見つめ返している。
その瞳の奥に、何かを言いたげな、あるいは何かを探るような、微かな光を宿しながら。
「……っ、じゃあな」
耐えきれずに短く呟き、逃げるようにその場を立ち去った。
背中に突き刺さる白波の視線を振り切るように、足早に寮まで向かう。
その間も、視線は突き刺さったままだった。
……真夜中。
私は、隣で規則正しい寝息を立てている八幡の右腕に抱きついたまま、その寝顔をそっと覗き込んだ。
いつもの特徴的な目は、今は閉じられている。 まつ毛が長くて、少しだけ幼く見えて。
……すっごく、かっこいい。
じっと見つめているだけで、胸の奥がきゅんきゅんって締め付けられてしまう。
顔の周りにカッと熱が集まって、お腹の下の方がムズムズする。
八幡から、可愛い小鳥のしおりと、私が欲しかった化粧品をもらってから、もうどうやって自分を制御すればいいのかわからない。
ずっと、彼の唇から、目が離せない。
どうしよう。
ちゅって、してみたい。
あれ、近づいてくる。なんで動いてるの。
あっ、これ、私が動いてるんだ。私が、八幡にキスしようとしてる。
あと少し、あとほんの数センチで、私の唇が彼に当たりそうだった、のに。
スッ、と。 私の唇と八幡の唇の間に、手が割り込んできた。
「――っ」
止められた。 そういえば、すっかり忘れていた。
今日は、この部屋に不純物が混ざっているんだった。
「何してたのかな。……雛鳥ちゃん」
一之瀬さん。彼女は、もう隠す気はないのか、その瞳の奥に底なしの昏い熱を宿していた。
私が彼女を睨みつけていると、一之瀬さんは小さく笑って、私の手から八幡を奪うように、その頬を優しく撫でた。
「もう、ダメだよ。……八幡くん」
彼女の声は、とろけるように甘くて、そして重かった。
「私が忘れそうになってた時に、目の前に現れちゃ。……そんなことされたら、もう抑えきれないよ」
八幡の頬を撫でる彼女の指先には、狂おしいほどの執着がべっとりと絡みついている。
私はずっと疑問だった。
私や森下さん、それに一之瀬さんみたいな目立つ女の子が、これほど頻繁に八幡に絡んでいるのに。
なぜこの学校で、彼に対する嫉妬や悪意の噂が一切流れないのか。
八幡の平穏が、なぜあんなにも保たれていたのか。
その答えが、今、彼女の口から語られた。
「ずっと、八幡くんのためと思って……彼が平穏に過ごせるように、裏で噂とか流れないようにしてたけど」
一之瀬さんは、八幡の寝顔を見つめたまま、ため息のように甘く囁く。
「でも、もう限界だよ。……私、遠慮なんてしないって決めちゃったから」
八幡を独占したい。その強烈なエゴが美しくも恐ろしい執念へと変貌している。
一之瀬さんは、八幡の頬から手を離すと、今度は私の方へ真っ直ぐに顔を向けてきた。
その笑顔は、優しくて、残酷だった。
「ねえ、雛鳥ちゃん。もう、二千万ポイント貯まりそう?」
私の胸の奥が、ピクリと反応する。
「有栖ちゃんと勝負、したんだよね」
いざという時の保険にチェスで勝負して、一個お願い事を聞いてくれることになっていることを一之瀬さんはお見通しだったみたい。
坂柳さんは、何故か私の幼馴染を自称してて、甘いから。
「……いや、まだ溜まってない」
事実だけを告げる。 一之瀬さんは満足そうに微笑むと八幡の隣に自分の体をすり寄せた。
「じゃあ……雛鳥ちゃんがBクラスに移籍する前に、八幡くんの隣は、私がもらっちゃうから」
それは、私の心を掻き乱す言葉だった。
絶対に、渡さない。 八幡の隣は、八幡の温もりは、私だけのもの。
また後で出します。