抜け出せない沼を持つ男と実力主義の教室。雛鳥は何を見るか。 作:末路雛鳥
今日はここまでです、明日必ず終わります。
日曜日。 俺はケヤキモールの前で、一人で突っ立っていた。
今日は、先日壊してしまった佐倉のカメラを修理に出す日だ。
携帯で時間を確認していると、前方から見覚えのある姿が歩いてきた。
「あ、比企谷くん! お待たせ……っ」
小走りで駆け寄ってくる佐倉。
淡い色合いのワンピース姿だ。
それがまた、清楚な彼女の雰囲気にめちゃくちゃよく似合っている。
純粋に可愛い。
だが、俺の視線は佐倉の隣にいるもう一人の人物に釘付けになった。
「やっほー、比企谷くん! 佐倉さんが心配だったから、私もついてきちゃった!」
……櫛田?
気まずい。気まずすぎる。
今すぐ回れ右して逃げ出したいが、佐倉の件があるから、逃げるわけにはいかない。
「あ、ああ……わざわざどうも。ま、まあとにかく、行くか」
引きつった愛想笑いを浮かべ、そそくさ中に足を踏み入れた。
店内を歩きながら、密かに驚いていた。 佐倉が積極的に俺に話しかけてくるのだ。
「比企谷くん、このカメラはね、すごく大切で……直るかな」
「あー、多分、部品が壊れてるだけだから、修理に出せばどうにかなるだろ」
さらに、櫛田とも
「櫛田さん、この間は、ごめんね」
「全然いいよー! こっちこそ、いきなり話しかけてごめんね?」
と、しっかりと会話のキャッチボールが成立している。
本当に人付き合いが苦手だったのか、と疑問に思うほどだ。
電気屋に入り佐倉がカメラのカウンターに向かった隙を突き。
隣に立った櫛田が、周囲に聞こえないギリギリのボリュームで、俺の耳元に顔を寄せた。
「……須藤の件が終わったら、覚えてなさいよ。この変態」
背筋が凍るような、ドスの効いた声。
恐怖に支配されかけた俺の口から、自暴自棄なのか、ポツリとある言葉が漏れ出た。
「……白」
その一言で、櫛田の肩が大きく跳ね上がり、素早く俺から離れた。
見れば、彼女の顔が耳の先までリンゴのように真っ赤に染め上がっている。
俺が自分の失言に殺されると本気で覚悟を決めた、次の瞬間。
「あははっ、比企谷くんってば面白いねー!」
パッと。 本当に、ほんの一瞬で。
真っ赤になっていたはずの顔を笑顔に戻し、何事もなかったかのように明るい声を出してみせたのだ。
流石櫛田、切り替えの速さが段違いすぎる。
そのとき、カウンターで店員と話していた佐倉が、ふと、助けを求めるような視線でこちらに振り返った。
首を傾げてカウンターへと近づく。
店員の説明を横で聞いていると、どうやらカメラを落とした衝撃で内部のパーツの一部が破損してしまい、電源が入らなくなっているらしい。
ただ、不幸中の幸いというか、これは学校に入学してからこのケヤキモールで買ったもので、きちんと保証書も持っていたため、修理自体は無償で受けられるとのことだった。
あとは、修理受付の用紙に必要な連絡先などを書くだけ。 だが、佐倉の手が、ペンを持ったまま止まっている。
理由は一目瞭然だった。
カウンター越しに佐倉を見つめる、男性店員の目。
それがもう、はっきり言ってヤバい。
客を見る目じゃない。獲物をねっとりと見るような、無遠慮で、薄気味の悪い欲望が混じった視線。
俺は彼女が握っていたペンを寄越すように手を伸ばした。
「……えっ?」
彼女はどこかホッとしたように俺にペンを渡してくれた。
俺はそれを受け取り、用紙の連絡先欄に名前と俺の携帯端末の番号、そして俺の寮の部屋番号を書いた。
「修理が終わったら、ここに連絡をください」
「ちょ、ちょっと君? このカメラの所有者は彼女だよね? それはちょっと……」
店員が苛立ちを隠しきれずに口を挟んできた。
「メーカー保証は販売店も購入日も問題なく証明されてるし、法的な問題はどこにもないと思います。購入者と使用者が異なっても、なんの問題もないと書いています」
「……彼女じゃなければならない理由でもあるんですか?」
指摘された店員は、ビクッと肩を跳ねさせ顔を引きつらせた。
「い、いえ。分かりました……大丈夫です」
程なくして手続きは完了した。
「はぁ……よかったぁ」
カウンターから離れるなり、佐倉が心の底からホッとしたように胸を撫で下ろす。
とりあえず無償修理の受付は済んだが、直ったデジカメが戻ってくるまでには一週間ほどかかるらしい。
モールの通路に出たところで、隣を歩く佐倉に視線を落とす。
「……平気か?」
先ほどの店員の視線があまりにも下心に満ちていたから、少し落ち込んでいるかと思ったのだが。
「ううん、平気だよ?」
佐倉は顔を輝かせて。
少しの翳りもない、とびきり可愛い笑顔を俺へ向けてきた。
「だって、比企谷くんが助けてくれたから」
……おっふ。
可愛すぎる。なんだこの小動物。
さっきの少し怯えた様子から一転して、全幅の信頼を乗せたピュアな笑顔を至近距離で浴びせてくるなんて。
ふと横を見ると、櫛田が両手で自分の顔を覆い、天を仰いでいた。
言葉を交わさずとも、今ならあいつと完全に思考が一致している自信がある。
『佐倉が、天使すぎる』と。
あの櫛田でさえこの無垢な笑顔の前では悶えるしかないらしい。
俺と櫛田の間に、謎の連帯感が生まれた瞬間だった。
佐倉の天使すぎる破壊力に、俺も櫛田も完全に意識を持っていかれてしまっていた。
だから、気づかなかった。
先ほどまで対応していた男性店員が。
ガタガタと全身を震わせ、今にも泣き出しそうな真っ青な顔で壁際に追い詰められていたことを。
その店員を無言で追い詰めているのは、もちろん我らが綾小路。
定員にかかる、尋常じゃない圧倒的な殺気。
感情の一切ない瞳で、店員に絶対零度の圧がかかっている。
『あの3人に、二度と近づくな』
綾小路雛鳥はそう言い放ち、男の精神を完膚なきまでに叩き潰していることに。
綾小路は、このまま男を放置していたら八幡に危害が加わるとストーk……げふんげふん、監視していたため気づいたのである。
夜。 俺の部屋で佐倉と綾小路と夕食を食べていた。
元々予定していたし、今日でたくさん交流できたから、お泊まりを承諾って感じだ。
食後の麦茶をコップに注いでやると、佐倉がふと、不安げに上目遣いで俺を見てきた。
「ねえ、比企谷くん。……審議に、勝てると思う?」
口を開こうとしたその前に綾小路が口を開く。
「勝てない」
その身も蓋もない断言に、佐倉はビクッと肩を揺らしたけれど、すぐに力なく視線を落とした。
「……そうだよね」
小さく頷く佐倉。須藤が先に殴ったと自分が言っている以上、何かしらのペナルティは免れない。
佐倉は、震える両手を膝の上でギュッと握りしめた。
「でも、須藤くんは、退学には……」
すがるような、最後の希望を確認するような問いかけ。 それに対しても、綾小路は何の感情も浮かべないまま、淡々と答える。
「ならないと思う」
「……ほんと?」
「うん。でも、ペナルティは重いと思う」
学校側がこの一件をどう判断するか。
どちらのクラスの言い分も完璧には証明できない以上、両成敗という形に着地する可能性が一番高い。
だが、実際に拳を振るったと須藤が認めてる以上、Dクラス全員の連帯責任でクラスポイントの減少、須藤の停学といったペナルティは、絶対に免れない。
綾小路の言葉を聞いて、佐倉は、うん、と小さく呟き、ひどく落ち込んだようにうつむいてしまった。
自分の勇気が、クラスメイトを完全に救うには至らないかもしれない。
そんな無力感に苛まれているのだろう。
自分の証言一つで他人の人生が左右されるかもしれないというプレッシャー。大人だって胃に穴が空くような重圧を、佐倉が一人で背負おうとしているのだ。
「気に病むな」
正直に言おう。俺は須藤がどうなろうと、心底どうでもいい。
口を開けば悪態をつき、助けてもらうのが当たり前だという態度で机を蹴り飛ばして出て行ったようなガキだ。
ペナルティを食らおうが、ポイントを全額没収されようが、それは本人が蒔いた種。
完全に自業自得だ。
須藤が反省するのなら、まだ弁明の余地はある、まだだが、入学からまだ二ヶ月ちょっとだし、周りのクラスメイトのヘイトは須藤に集まるだろう。だがそれからの本人の対応次第では、あるいは。
それに。
佐倉が自分の殻を破って、素顔を晒して、真っ直ぐに前を向いて歩き出せたこと。
それ自体が、今回何よりも価値のあることなんじゃないか。
俺の独りよがりな説教がきっかけだったとしても、佐倉自身が一歩を踏み出し、変われたのなら。
それだけで、首を突っ込んだ甲斐があったと、俺は本気で思っている。
「お前は、やるべきことをやるだけだ。その結果をどう捌くかは、学校の問題だろ。お前が全部背負い込む必要なんて、どこにもない」
そう告げると、佐倉はポカンと口を開け、それから目をゆっくりと細めた。
「……比企谷、くん」
頬をほんのりと赤く染め、佐倉が柔らかく、どこか嬉しそうな微笑みを浮かべる。
それを見た瞬間。 俺の右手の骨が軋むほどの恐ろしい圧力が掛かった。
「痛っ!?」
横を見ると、綾小路が俺の右指を握りしめていた。
「ちょっ、綾小路、腕! 腕ちぎれる!」
「……私は何もしてない」
息を吐くように嘘をつくな。
佐倉は俺の痛がる様子にオロオロしながらも、クスリと小さな笑い声を漏らした。
暖かく賑やかな声が部屋に響いていた。
一之瀬さんと佐倉さんの温度差よ。