抜け出せない沼を持つ男と実力主義の教室。雛鳥は何を見るか。 作:末路雛鳥
雛鳥ちゃんの話し方、難しいすぎぃ!
では、本編をどうぞ。
ぶるぶる、と。 お尻の下から伝わってくる振動。
バスって、こんなに揺れる乗り物だったんだ。知識にはあったけれど、実際に体験してみると全然違う。カタッと音がして、体が少しだけ上下にバウンドする。
なんだか遊園地のアトラクションみたいで、ちょっと楽しい。遊園地行ったことないけど。
窓ガラスの外の景色を眺める。 すごいスピードで、いろんなものが後ろへと流れていく。
背の高いビル、キラキラと光る海。あの真っ白な部屋では、絶対に、一生見られなかった景色だ。
空って本当に青いし、雲は本当に白い。太陽の光は、じんわりと温かい。
目から入ってくる情報が多すぎて、頭の中がパンクしちゃいそうだ。でも、それがすごく心地いい。
新しいことを知るって、こんなにワクワクするものなんだ。これからも新しいことを知れるって思ったら楽しみで仕方がない。
視線を外の景色から、車内を見渡す。
私の乗っているこのバスには、同じ制服を着た人たちがたくさん乗っている。
そんな時、一つの声が聞こえた。
「席を譲ってあげようって思わないの?」
自分ではないだろう、だって私、小さくて見えないだろうから。
……もう少し身長が欲しかったな。
注意されていたのはどうやら私の少し前に座っていた男のよう。
優先席に腰を下ろしたガタイの良い金髪の男。
金髪、初めて見た。
その人の前には老婆、その隣にはOL風な女性が立っている。
「そこの君、お婆さんが困っているのが見えないの?」
「実にクレイジーな質問だね、レディ」
静かな車内に響く声、自然と周囲の人が注目している。
「何故この私が、老婆の席を譲らなければならないんだい? どこにも理由はないが」
「君が座っている席は優先席よ。お年寄りに譲るのは当然でしょう?」
「理解できないねぇ。優先席は優先席であって、法的な義務はどこにも存在しない。この場を動くかどうか、それは今現在この席を有している私が判断することなのだよ。若者だから席を譲る? ははは、実にナンセンスな考え方だ」
高校生らしくない喋り方。確かに男の子の言い分にも納得できる。
——でも。
「お婆さん、どうぞ」
私は席を譲った。
理由? 周りがどんな反応をするのか、それと私が席を譲り、どんなことを感じるのか、知りたい。三年間、バスに乗れないだろうし、これができるのは今しかない。
「ありがとうねぇ」
「……大丈夫」
席を立つ前に横に座っていた黒髪ロングちゃんを見る、すごい綺麗な髪の毛、私はボサボサしてて、少し羨ましい、目が合って慌てて逸らして席を立つ。
お婆さんが座ってOL風の女性が感謝してきた。周囲の人は私の顔……より下を見ている?
なんでだろう、もっとこう、車内の雰囲気が良くなると思っていたんだけどなぁ。
自分も対して何も思わなかったし、譲っても何も得られなかった。
少し悲しくなりながら手綱を掴む、掴む——
……むう、手が届かない。
近くの手すりを掴む。
周囲を改めて見渡すと、みんな同じ制服のはずなのに、着こなしが少しずつ違っていてすごく面白い。
スカートの丈を短くしている子、カバンに目つきの鋭いパンダのぬいぐるみ(あれは何のキャラクターだろう?)をつけている子。
男の人も、ネクタイを少し緩めていたり、ワックスで髪をツンツンに立てていたりする。
こんな風に一人一人が「自分」を自由に表現している空間が、私にとっては新鮮で、キラキラ光る宝石箱みたいに見える。
黒髪ロングの人の髪の毛、触ってみたいな。
でも、初対面の人間の髪を突然触るのは、駄目だとわかっている。もし触ったら不審者扱いされてしまう。
ここはぐっと我慢しよう。いつかお友達になれたら、触らせてもらえるかもしれないしね。
自分の長い茶髪を指にくるくると巻き付けてみる。
物心ついた時からずっと伸ばしっぱなしで、ハサミを入れる習慣があまりなかったから、膝下まである。手入れはしているけれど、たまにどこかに引っかかったりして少し面倒だ。
でも、風に揺れるとくすぐったくて、わりと気に入っている。この髪も、外の世界の風にたくさん吹かれたら、少しは違う色を見せてくれるのかな。
耳をすますと、イヤホンの音や、誰かが小声で話す音が聞こえてくる。 いろんな音が混ざり合って、一つの「外の世界」を構成している。
ああ、なんて面白いんだろう。 世界はこんなにも色々なもので溢れていて、私の知らないことで満ちている。
ここなら、私はいろんなものを吸収できる。
自分の手で触れて、自分の目で見て、自分の心で感じる。そういう普通の高校生みたいな生活が、できるんだ。
「次は、高度育成高等学校前ー」
バスの中に、機械的なアナウンスが響き渡った。
窓の向こうに、大きくて立派な門が見えてくる。桜の木がたくさん植えられていて、風が吹くたびに淡いピンク色の花びらが舞っている。
すごい、本当に映画のワンシーンみたい。 あの門の向こうには、きっと私がまだ知らない「面白いこと」がいっぱい隠されているはず。 胸の鼓動が、トクトクと早くなる。
今の私、変な顔しちゃってるかもしれない。誰かに見られていたらどうしよう。
ゆっくりとバスが停車し、プシューっという音とともにドアが開いた。 他の生徒たちに続いて、私も出る。
バスを降りて、立派な校門をぽやーっと見ていた時のこと。
風に乗って舞い散るピンク色の花びらを、一つ捕まえてみようかななんて考えていたら、背後から突然、ツンと冷たい声に引き止められた。
「ちょっと、あなた」
ピタリと足を止め、ゆっくりと振り返る。 そこに立っていたのは、背筋をピンと伸ばした、さっきの黒髪ロングの女の子だった。
切れ長の涼しげな目元に、スッと通った鼻筋。風に揺れる黒髪はカラスの濡れ羽みたいにツヤツヤで、まるで芸術品みたいに綺麗。でも、私を見据えるその視線は、鋭く尖っている。
「バスの中で、ずっとこっちを見てたわね。……なんなの?」
あ。バレてた。 女の子は柳眉をひそめ、私をキツく睨みつけてくる。
ごめんなさい、悪気があったわけじゃない。ただ、あまりにも髪が綺麗で真っ直ぐだったから、つい見てしまった。
でも、ここで「髪が綺麗だから見てました。触ってもいいですか?」なんて正直に答えると、十中八九ヤバい人として見られてしまう。
だから私は、無言のままコテン、と小さく首を傾げてみせた。私は無害な生き物です、という精一杯のアピール。
私の仕草に、女の子は「……気味が悪いわね」と訝しげに目を細めたあと、ふいっとそっぽを向いて歩き去ってしまった。
……君味が悪い、私の顔、君味が悪いらしい、悲しい。
失敗しちゃったかな、なんて思いながら、私も新入生の人だかりへと向かう。
靴箱に設置された掲示板には、クラス分けの表が貼り出されていた。人の波に押し潰されないように気をつけながら、自分の名前を探す。これ、なんだか宝探しみたいで少しワクワクする。
あった。一年Dクラス、『綾小路雛鳥』。 それだけを確認して、入学式に向かった。
……退屈だった。立ったまま話を聞くことが、すっごく面倒くさい、また一つ知れたからよかったけど。
教室に入り、自分の席を見つける。一番後ろの、窓際の席。外の景色がたくさん見えそうで、授業中も退屈しなさそうな特等席だ。嬉しくなって、ちょこんと椅子に腰を下ろす。
――と、隣の席にカバンを置いた人を見て、私はパチリと瞬きをした。 そこにいたのは、さっき校門前で私を睨みつけてきた、あの黒髪ロングちゃんだったのだ。
すごい。この四クラスある学校で、さっき言葉を交わした(正確には一方的に怒られただけだけれど)相手と、ぴったり隣の席になるなんて。
これが世に言う『運命』というやつに違いない。「隣の席になった相手とは親友か恋人になる」という小説をいくつも読んだ、つまりこれは絶対的なお友達フラグが立ったってことだ。
私はスッと居住まいを正し、隣の席の彼女をじっと見つめた。
「……綾小路雛鳥。よろしく」
私なりの最大限の親愛の情を込めて自己紹介をする。
よし。これでお互いに名前を教え合えば、私たちは晴れてお友達だ。ふんす、と。胸を張って、自信満々のドヤ顔を決めてみせる。
顔はきっと一ミリも動いていないと思うけれど、私の心はぴょんぴょん踊っている。
ところが。 彼女は私の方をチラリと一瞥しただけで、氷点下まで冷え切った声で言い放った。
「馴れ馴れしく話しかけないでくれるかしら。その自己紹介、破棄させてもらうわ」
――ばっさり。 綺麗に、見事なまでに一刀両断されてしまった。
しょぼん。 悲しいかな、初めての自己紹介が、こんな結果に……
お友達作戦、失敗。
どうして。運命の隣の席なのに。
ショックのあまり、私は無言のまま、机に突っ伏した。もう、終わりだ、私はこれから友達が1人もいない寂しい学校生活が待ってるんだ。
数秒の沈黙後。
小さく一つため息を吐く。
そして、観念したように、ポツリと口を開いてくれた。
「……堀北鈴音よ」
ボソリと、けれどはっきりとした声で教えてくれた名前。
堀北鈴音さん。鈴の音なんて、すごく可愛らしくて綺麗な名前だ。凛とした彼女の雰囲気に、とてもよく似合っている。
名前を知ることができたのは、すごく嬉しい。これは大きな第一歩だ。 でも、肝心のお友達になるのはきっちり拒否されちゃったままだから、やっぱり悲しい。
しばらくしたら茶柱先生という、女の先生が入ってきて学校のルールやポイントについての説明を受け、最初のホームルームがあっさりと終わる。
先生が教室を出ていった直後だった。クラスの真ん中あたりに座っていた好青年がスッお手を挙げた。
「みんな、少し話を聞いて貰ってもいいかな?」
「僕らは今日から同じクラスで過ごすことになる。だから今から自発的に自己紹介を行って、一日でも早く皆が友達になれたらと思うんだ。どうかな?」
その一言で、教室の空気が一気に賑やかになる。
すごい人だ……大半の生徒が口を挟まなかった。
ここは一つ、気合いを入れて自己紹介の準備をしよう!
けれど。 私の視線は、教室の窓越し――廊下を歩く、一人の男の子に完全に釘付けになっていた。
ガタッ、と。
私は迷うことなく席を立ち、イケメンくんが作り上げた自己紹介の空気を綺麗にスルーして、フラリと教室の外へ歩き出した。隣の席の堀北さんが「……は?」と呆れたような、怪訝な顔でこちらを見た気がするけれど、今はそれどころじゃない。
廊下に出て、その後ろ姿をじっと見つめる。 そこを歩いていたのは、一人の男の子。
背中を丸めた、猫背の姿勢。
チラリと見えた瞳は、見事なまでに腐りきっていた。
でも、そんな死んだ魚みたいな目よりも。私の好奇心を刺激したもの。
頭だ。 彼の頭頂部に、ぴんっ、と一本だけ元気にそそり立つ、一房の髪の毛。 いわゆる、アホ毛。
……すごい。 一体どういう原理なんだろう、どうしたら、あんな風に垂直を保てるの?
首を傾げる。 不思議だ。観察すればするほど、物理法則を無視したあのアホ毛から目が離せなくなる。
触ってみたい。いや、ツンツンと指で弾いてみたら、バネみたいにビヨヨンって元に戻るのかな。それとも、倒れるのかな。
面白い。面白すぎる。 アホ毛、それと、腐った目の奥にある、何か。
足取りは自然と、その猫背の背中を追跡し始めていた。
でも、呼び止められてしまった、平田くんに。
むぅ、邪魔だなぁ、でも、クラスも大切だし。
って、ちょっと、堀北さんとか一部の人どこかいってるよ? なんで私だけ?
急いで自己紹介をした。
『綾小路雛鳥……よろしく』
これだけだったのに、男子はすごい歓声を上げていた。なんでだろう。
それよりもあの腐った目とその奥にある何か、それとアホ毛。
あの男の子は、一体どんな声で、どんな風に喋るんだろう。
気がつけば、私の思考は、見たこともない新しいおもちゃを見つけた子供のようなワクワク感でいっぱいになっていた。
早く追いつかないと。 あの男の子と、どうしても話してみたい。
廊下を小走りで追いかけてみたけれど。 私は完全に見失ってしまった。
「むう」
少し拗ねてしまう。 せっかく最高に面白い観察対象……男の子を見つけたのに、見失ってしまうなんて。不満だ。
楽しみにしてたのに水を刺された気分。
追いかけるのは一旦諦めて、私は敷地内にあるコンビニに行くことにした。初めてのコンビニ、少しワクワクするが、あの男の子みたいにこう、ビビッとくる感じじゃない。
そう思ってコンビニの中を歩いていた時のこと。 あっ。 視界の端に、見覚えのある猫背とアホ毛を見つけた。
あの男の子だ。 彼は私服姿で、手にした何かの缶をじーっと見つめている。
私は思わずパチリと瞬きをした。
さっきまで、死んだ魚の目をしていたはずなのに。今はどうだろう。
その腐った瞳は、まるで最高の宝物を見つけた子供のように、信じられないほどの熱量でキラキラと輝いているじゃないか。
黄色と茶色の、波打つようなデザインの缶。飲み物? だよね。
ただの小さな缶だというのに、彼はそれをものすごく慈しむような目で見つめている。
何あれ。すごく、すごく気になる。一体どんな飲み物があんな目をした人間の希望になるのか、気になって仕方がない。
私の中の好奇心が、限界突破している。 気がつけば、私の足は自然と彼の方へと向かっていた。ちょうど買い終わったタイミングでついていく。
彼が嬉しそうに缶のプルタブを開け、至福の表情でその飲み物を口に運んでいた。
歩き出そうとしていた男の子のパーカーに私はすっと手を伸ばし、彼の右袖を、指先できゅっと引っ張った。
クイ、クイ。
突然の接触に驚いたのか、彼がビクッと肩を揺らして振り返る。 至近距離で目が合った。
近くで見る彼の目は、やっぱり絶妙に濁っていて少し怖い。でも、頭の上のアホ毛は近くで見ても立派にピンとそそり立っていた。触りたい欲求をぐっと堪え、私は彼の右手にある黄色い缶に視線を移す。
これだけ彼を揺さぶる、飲み物。 自分の舌で、飲んでみたい。
私は彼をじっと見上げたまま、私は自己紹介をする、挨拶は大切だもんね。
「綾小路雛鳥、よろしく」
彼は「えっと……え?」と困惑した顔で完全にフリーズしている。
ごめんね、いきなり袖を引っ張って。でも、今の私の目には、その黄色い缶しか見えていないの。
「飲みたい、ちょうだい」
私の唐突すぎるおねだりに、その人は見事なまでに目を丸くして「……は?」と反応した。
その瞳が私を見つめてくる。
「いや、これ俺の飲みかけだし……」
「気にしない」
「俺が気にするんだよ……距離感バグってんのか」
? 思わず首を傾げた。何を気にするというのか。私はただその飲み物が欲しいだけなのに。それに頭の片隅では理解しているつもり。失礼だって。
でも、好奇心には勝てなかった。
数秒の沈黙の後。 彼は「はあ……」と、とても深くて重いため息を吐いた。
そして、レジ袋に手を入れて新品をくれた。
「ほらよ。新しいやつだ。これでいいだろ」
わぁ。 嬉しい!
なんだかすごく、困り果てたような顔をしているけれど、ちゃんと私に譲ってくれるんだね。この男の子、見かけによらずすごく優しい人だ。
私は両手で大切にその缶を受け取ると、指先に力を込めて開けた。
そして、缶の縁に口をつけてこくりと流し込む。
――甘い。 舌に触れた瞬間、強烈な甘みが、口の中いっぱいに爆発した。
『コーヒー=苦い大人の飲み物』という情報とは、明らかに矛盾している。これはコーヒーの皮を被った、練乳と砂糖の暴力的な塊だ。
すごい刺激。甘すぎて、とてもじゃないけれど一気には飲めないや。
ちびちびと、少しずつ舐めるように味わう。でも、この暴力的な甘さ、なんだかクセになる。すごく美味しい。飲んでいると体がじんわりと温かくなってきて、不思議と元気になれる。
ふぅ、と満足げな息を吐きながら缶を抱きしめていると。 ふと顔を上げた先で、その男の子はすでに背を向けてスタスタと歩き出していた。
あっ、どっかいっちゃう。
せっかく面白い男の子を見つけて、しかもこんな美味しい飲み物までくれた優しい人なのに。
このまま逃がしてしまうのは、すごくもったいない。
私は手の中の缶をちびちび飲みながら、小走りでその後を追いかけた。
トコ、トコ、トコ。
私の足音に気づいたのか、彼がピタリと足を止める。 私も同じように、距離を保ってピタリと止まる。
勢いよく振り返った彼と、ばっちり視線がぶつかった。腐った瞳が、心底わけがわからないというように揺れている。
「……なんでついてくるんだよ」
「……?」
? 私が君のことが気になるからだけど。
私が不思議に思ってコテンと首を傾げてみせると、彼は私の目を見てなんだかすごく変な顔をした。
諦めと、戸惑いと、どこか不器用な感情が混ざり合ったような、複雑な顔。あと、私がわからない感情が少しだけあった。
そして、そのまま無言でこちらへスッと手を伸ばしてきたのだ。
ぽん、と。 私の頭の上に、少し大きな男の人の手が乗せられた。
「……えっ」
思わず、私にしては珍しく小さく声が漏れてしまった。 撫でるように、少しだけ乱暴に、わしゃわしゃっと髪を梳かれる。
驚いて彼を見上げると、彼自身も「しまった」というようにハッとしていて、自分の行動に一番驚いているみたいだった。誰かと間違えたのかな。それとも、無意識に体が動いちゃったのかな。
でも手は離れない。
あの頃の私なら、すぐに警戒して離れていたはず。
でも、私はその手を振り解かなかった。 避けられなかった。なんだろう、これ。
彼の少し高めの体温が、髪越しにじんわりと私の頭へと伝わってくる。 ちょっとだけ不器用で、ぎこちない手つき。でも、その感触が、なぜかとても心地よかった。
純粋な感情だけで向けられたなでなでは初めてだ。
間違いなく、生まれてから一番優しいなでなで。
私は目を細める。
猫が喉を鳴らすような、温かい気持ちが胸一杯に広がっていくのを感じる。すごく不思議な感覚。ずっとこうされていたいって、心のどこかで思ってしまっている自分がいる。こんなこと、初めてだ。
……これは、危ない。
そんな思考をどこか他人事に思っていたら、その温もりはほんの数秒で、彼が慌てて手を引っ込めたことでぷつりと途切れてしまった。
スッと離れていく手の感触が、急に寂しい。
もっと撫でてほしかったな、なんて。自分でも理解できない考えが、浮かぶ、浮かんでしまう。
私は瞳を開けて再び彼を見上げ、少しだけ距離を詰め、パーカーの右袖を指先できゅっと掴んだ。
絶対に、逃がさない。 ただの死んだ目をした男の子だと思っていたけれど。
不思議で、優しくて、面白い人を、もっともっと近くで観察しなくちゃ。
袖を握る手に少しだけ力を込めると、彼はこの世の終わりみたいな顔をした。
ごめんね。 でも、なんだかすごく面白くなりそうな予感がする。 君の瞳は、すごい優しいと、今ならわかる。私は、それを知らなかったから、今、それを直に受けて、私は理解した。
右手の袖を掴んだまま、大人しく彼の隣を歩く。
この男の子の歩幅は、私の足に合わせようとしてくれているのか、すごく丁寧でゆっくりだ。
そんな心地よいペースで歩いていると、彼が止まった。
一瞬だけ少し震えたけど、どうしたんだろう。
視線を上げると、すごく綺麗なピンクブロンドの髪をした女の子が、ニコニコと笑顔を振りまきながらこちらへ歩いてくるところだった。
誰から見ても優しそうで、キラキラとした光のオーラを纏った女の子。
そのまま通り過ぎるのかなって思っていたら、彼女は私たちの前でピタリと足を止めて、話しかけてきた。すごい私の手を振り解こうとしてくる。やだ、離れたくない。
「ひき……ねえねえ、君たち、名前を教えて?」
小首を傾げて微笑む彼女。でも、私はその瞬間、パチリと瞬きをした。 このピンクブロンドの女の子、この男の子を見る目が、ほんの少しだけ違う気がする。
普通の人なら見落としてしまうような、瞳の奥の微かな色。ただの好奇心や親切心だけじゃない……。
敵意はない。でも、私が感じたことない、独特な気配。
なんだか、その視線の意味を探ることが、少し怖くて。
私は無意識のうちに後退し、この男の子の少し広くて猫背な背中の後ろに、すっぽりと隠れちゃった。
初対面の人を盾にしちゃって、ごめんね。でも、ここ、すごく落ち着くポジションなんだ。
「私は一年Aクラスの一之瀬帆波! よろしくね!」
眩しい笑顔で名乗る一之瀬さん。
彼が痛い視線に耐えるように「同じく一年で、Bクラスの比企谷八幡だ」とボソリと答えたので、私も彼の背中からひょっこりと顔だけを出して口を開く。
「綾小路雛鳥」
それだけ。それに、私は今、この男の子の名前が比企谷八幡くんって知れてすごい嬉しいの。一之瀬さんは「比企谷くんに、綾小路さんね!」と嬉しそうに頷いた。
その直後だった。 今までで1番危険な色が一之瀬さんの瞳に一瞬見えて、袖をギュッと握りしめてしまう。
「それじゃあね! またどこかで!」
その言葉とは裏腹に比企谷くんの耳元に近寄った。
長いピンクブロンドの髪が、彼の肩にかかるほどの至近距離。
ナイショ話をするように、唇を小さく動かして何かを囁く。
比企谷くんの体が、ビクッと硬直するのがわかった。 何を言ったんだろう。私の位置からは、その声はうまく拾えなかった。
囁き終えた一之瀬さんは、パッと顔を離すと、何事もなかったかのように「じゃあね!」と手を振って、周りの男女の人たちと一緒に軽やかに去っていった。
あとに残されたのは、呆然としている比企谷くんと、その袖を掴んだままの私だけ。
じーっ。 私は彼を見上げて、無言の圧をかけてみる。 ねえ、今、何を言われたの?
私の知らないことを、あの一之瀬さんからコソッともらっていたのが、なんだか少しだけずるい。それに、耳元に近づきすぎだと思う。
でも、私の口から言葉が出ない、何故だろう。
この人の前だと上手く話せないや。
私は袖を引く手に少しだけ力を込めて、比企谷くんについていく。
エレベーターに乗って、男子フロアの四階へ。彼は時々止まりながらも自分の部屋の前に立ち、カードキーをかざして電子音が鳴った、まさにその瞬間。
私は、彼とドアの隙間をスッとすり抜けて、見知らぬ部屋の中へと滑り込んだ。
「……いやいや、さすがにダメだ、帰ってくださいお願いします!」
当然のように、彼は慌てて私を追い出そうとしてくる。 でも、私は絶対に動かない。その場にピタリと立ち止まり、彼の腐った瞳をじーっと見上げる。
だって、少し寂しいんだもん、悲しい、泣きそう、しょぼん。
追い出すの? 私を?
そんな無言の圧力をかけ続けると、彼は目に見えてたじろぎ、やがて絞り出すように言った。
「……メシだけだぞ」
やった。私の完全勝利だ。 こっそりとガッツポーズを決める。
そうして始まった、人生で初めてのお料理タイム。 彼が小さなキッチンに並んで立ち、野菜の切り方を教えてくれた。
でも、料理という作業は知っている以上に難しかった。頭の中のやり方とすることがうまくいかなくて、包丁の刃先が少しだけブレてしまう。
それを見た彼が、「危ないってマジで、俺がこっちやるから」と慌てて私の手から包丁を取り上げてしまったのだ。
むう。 なんだかちょっとだけ、悔しい。私だって、あと数回して力の入れ具合や角度を調整すれば、きっと完璧な千切りだってできるのに。
頬を膨らませていると、彼は代わりにT字型の不思議な道具――ピーラーというらしい――を私に手渡してくれた。
「そこの皮は、もう少し薄く剥いてくれ」 言われた通りに、じゃがいもの皮をするすると剥いていく。なんだこれ、すごく綺麗に剥ける。楽しい。
楽しくて、すごい早くできてしまった、私でも料理ができた。
むふー
やがて完成したお料理が、小さなローテーブルの上に並べられた。 肉じゃがに、お味噌汁、サラダ、そして白いご飯。 二人で向かい合って座り、お箸を割る。
「いただきます」
「……いただき、ます」
声、震えてないかな。今、すごい感動している。
一口食べてみて、私はすごく不思議な感覚に包まれた。 誰かと一緒にキッチンに立って、食べ物を作る。 誰かと一緒に机を囲んで、同じものを食べる。
それらはすべて、私にとって初めての経験だった。あの真っ白な部屋では、食事は全てが理想的な栄養バランスで、味気なかった。
それが今は、どうだろう。
温かい。 とても、温かい。
口の中の食べ物の温度だけじゃない。胸のずっと奥の方、今まで空っぽだった何かが、じんわりと満たされていくような感覚。あのコーヒーを飲んだ時よりも、ずっと優しくてそして熱い熱が全身を巡っていく。
「どうだ?」
彼が少し不安そうに、こちらの様子を窺いながら質問してくる。
味の評価を求めているのは分かった。でも、今の私の中には、この胸を満たす未知の感情の正体を正確に説明する語彙が、どうしても見つからない。
だから、一番強く感じたことだけを素直に口にする。
「温かい」
それしか、言えなかった。 彼は「そりゃあ出来立てなんだから当然だが……」と困惑していたけれど、私にとってはそれが何よりの真実で、一番の発見だったのだ。
お皿の上のご飯を綺麗に食べ終わると、急にぽわんと睡魔が襲ってきた。
お腹がいっぱいになって、安心しきってしまったら、なんだかすごく眠い。私は手でゴシゴシと自分の目を擦った。
「帰る」
そう伝えて立ち上がると、彼は一瞬ぽかんとした後、「……あっ、そう。お疲れ様でした」と少し間の抜けた声を出した。
ふふっ。 一緒に料理を作って、一緒にご飯を食べたんだ。外の世界の一般常識に照らし合わせれば、これはもう間違いなく「友達」にカテゴライズされるはず。
いや、入学初日でここまで濃密なイベントをこなしたんだから、もはや「親友」と言ってもいいんじゃなかろうか。いや、絶対にそうだ。そういうことにしておこう。
私はゆっくりと玄関へと向かう。 ドアノブに手をかけ、振り返らないまま言葉を紡ぐ。
「ごちそうさま。八幡」
親友の証としての、 名前呼びぐらい、許して。
私は温かい部屋を、初めて名残惜しいという感情になりながら、外に出る。
口元に本当に小さな微笑みを浮かべていると、気が付かずに。
いや、長かった! これだけ長いとめちゃくちゃ時間がかかりますね。 それに、ここまで来て一ミリも原作が進んでないって、マジ? いや、早急に進めなくては、明日から本格的に進んでいくと思います。
最後まで見てくださりありがとうございました!