抜け出せない沼を持つ男と実力主義の教室。雛鳥は何を見るか。 作:末路雛鳥
……笑うところです。自分でも献立が酷いなって思います。
では本編をどうぞ。
パチリ、と目を覚ます。 ぼんやりとした視界に飛び込んできたのは、見慣れない天井だった。
ここはどこだ。俺は一体いつの間に異世界転移をしてしまったのか。ついにこの目が特殊能力として開花し、神から世界を救う使命でも与えられたというのか。
……なんて、ラノベの読みすぎでバカになっていた頭でそんなことを考えていたら、徐々に昨日の記憶が蘇ってきた。
ああ、そうか。ここは寮だ。 無事に初日を終え、泥のように眠りに落ちていたらしい。
体をよっこいしょと起こし、ベッドから這い出る。
洗面所で顔を洗い、タオルで適当に水気を拭き取ってから、俺は冷蔵庫の扉を開け、マッ缶を取り出す。
プシュッ、と心地よい音を立ててプルタブを開け、一口飲む。
「……あー、染み渡る」
暴力的なまでの甘さに、眠っていた頭を強制的に叩き起こしてくれた。やはり俺の朝はこれで始まらないと調子が出ない。実家と違って、この行動を注意してくる存在はいない。
壁に掛けられた時計を見る。ホームルームの開始時刻までは、まだかなり余裕があった。 ゆっくりと缶を傾けながら、部屋の中をぐるりと見渡す。
小町の「お兄ちゃん、早く起きないと遅刻するよ!」という愛らしい声が聞こえないのは、小町成分不足でひどく寂しい。それはもう胸が締め付けられるほどに。
だが、誰にも急かされず、誰の目も気にせず、自分のペースだけで朝の時間を過ごせる一人暮らしという環境は、控えめに言って最高だ。
自分の好きなタイミングで起き、好きなものを飲み、適当に制服に着替える。一人暮らしとは、かくも気楽で自由なものだったのか。
そんな風に、一人暮らしのありがたさを改めて実感し、マッ缶の残りを飲み干そうとした――その時のことだ。
ピンポーン。
静寂を切り裂くように、無機質な電子音が部屋に響き渡った。
俺の動きが止まる。
……もう、この時点で嫌な予感がビンビンにありすぎる。
入学二日目の朝、こんな時間に俺の部屋を訪ねてくる人間なんてこの世に存在するはずがない。
誰だ。クラスメイト? あり得ない。昨日誰とも会話をしていない俺の部屋を、わざわざ訪ねてくる物好きなんて……。
いや、一人だけいる。インターホンのカメラを見なくてもわかる。
思い当たってしまった。昨日、勝手に上がり込んできて俺と一緒に料理をして、一緒に食べ、最後に名前呼びまでかまして帰っていった、あの不思議ちゃんが。
居留守を使おうか本気で迷ったが、もし相手が俺の在室を確信していて、ドアの前で一生待ち続けられたりしたらホラーすぎる。 俺は足音を殺して玄関に向かった。
万が一の事態に備え、ドアチェーンはしっかりとかけたままにしておく。よし、これで無理やり押し入られる心配はない。
ガチャリ、と鍵を開け、ドアノブを回してほんの少しだけ扉を引いた。
「どうし――」
ガシャンッ!!
言葉を発するより早く、外側から凄まじい力でドアが引かれた。 金属のチェーンが限界までピンと張り詰め、悲鳴のような大きな音を立てる。
「うおっ!?」
思わず後ずさりしそうになる。なんだその腕力。細い指が出していい力じゃない。
もしチェーンをかけていなかったら、そのままの勢いでドアが開いて侵入してくるところだった。
張り詰めたチェーンの隙間。わずか十数センチの開いた空間から、スッと覗き込んでくるものがあった。
大きな瞳。 一切の感情を読み取らせない、能面のような無表情。 ボサボサの茶髪を少しだけ揺らして、綾小路は隙間から俺をじっと見つめていた。
完全にホラー映画のワンシーンじゃないか。「シャイニング」もびっくりだ。そのまま斧でも持ち出してきそうな雰囲気に、俺は嫌な汗をかき始めている。
「……開けて。一緒に行こ」
平坦で、抑揚のない声。 完全に決定事項として告げてきている。
俺はチェーン越しに、その無機質な顔を見つめ返しながら、心の中で盛大に毒づいた。
なあ、こいつは俺に対して何でもしていいと思ってないか?
出会って一日、初対面の男の袖を掴みおねだりをして、勝手に部屋に上がり込み、夕飯を食い、そして二日目の朝には当然のように登校のお誘い。
……まあ、俺も初対面で頭を撫でてしまったから、人のこと言えないか。
距離感のバグり方が尋常じゃない。俺を完全に自分の世話を焼いてくれる都合のいい人間か何かだと認定しているだろ。
絶対になってるよね?
「……あのな。普通、朝っぱらから他人の部屋のドアを力任せにこじ開けようとするのは、強盗か借金取りくらいだぞ」
「私はどっちでもない」
「そういう問題じゃない。お前、自分の行動の異常さに少しは自覚を……」
俺の小言を遮るように、綾小路は隙間からスッと右手を伸ばしてきた。そして、俺のシャツの袖を、昨日と同じように指先できゅっと掴む。
じーっ。
何も言わず、ただひたすらに見上げてくる。
言葉はない。だが、その瞳の奥から放たれる「一緒に行かないの?」という無言の圧力が、俺の不満をゴリゴリと削っていく。
……はあ。
勝てる気がしない。この強引な綾小路の行動に、俺の自己主張が通用するとは思えなかった。
「わかった、わかったから。一旦袖を離せ、チェーンが外せないだろ」
「うん」
素直に手を引っ込めた綾小路を確認し、俺はチェーンを外してドアを大きく開いた。
廊下に立つ彼女は、きちんと制服を着こなし、鞄を提げて、浮世絵離れした雰囲気を醸し出している。
さっきまでの強引さが嘘のような、人畜無害な美少女の立ち姿だ。
「少し待ってろ」
そう言って、部屋に戻って真っ赤なブレザーに袖を通し、鞄を肩に引っ提げて再び廊下へ出る。
俺たちはそのまま並んで寮を出た。
春とはいえ、朝早いので少し冷たい風が吹き抜ける。
俺の右腕には、当然のようにぴったりと綾小路がくっついている。昨日からすっかり定位置と化した俺の右袖は、華奢な指先によってきゅっと掴まれたままだ。
すれ違う生徒たちが、チラチラとこちらを見ては通り過ぎていく。美少女が、死んだ目の男の袖をがっちり掴んで歩いているんだ。そりゃ二度見もするだろうよ。
はは、俺の右袖は綾小路の何かか?
我ながら馬鹿げた思考を頭の片隅で考えながらも、さすがにこれ以上無言の状態を続けるのは居心地が悪すぎる。
俺はずっと気になっていた疑問を、ポツリと口に出してみた。
「なあ、綾小路。昔からそんな風に、初対面の人間の袖を掴んだり、勝手に部屋に上がり込んだりしてたのか?」
もし仮にそうだとしたら、こいつはとんでもない天然か、世間知らずだ。いくらなんでも無防備にもほどがある。
俺の問いかけに、綾小路は俺の歩幅に合わせて歩く足を止めないまま、少しだけ考えるように視線を宙に彷徨わせた。
「……違う」
やがて、とても短く返ってきたのは否定の言葉だった。
「違う? じゃあなんで俺にはそんなに距離感がバグって……」
「……雪ちゃんが言ったから」
雪ちゃん。知らない名前だ。
「雪って、誰だ?」
他人のプライベートにズカズカ踏み込むのは、少し失礼すぎたか。
地雷を踏むのはごめんだ。だが、会話の自然な流れとして一応聞いておく。
綾小路は淡々と、まるで今日の天気を報告するような抑揚のない声で語り始めた。
聞けば、この高度育成高校に入学する直前、その『雪』という人物と少しだけ話す機会があったらしい。
詳しい事情は話せないらしいが、綾小路が言葉を選ぶように言った。
その雪という人の心は、深く壊れてしまっていたのだという。
急展開だし、重いよ……
朝の登校にそぐわない、とんでもなく重い話が飛び出してきたぞ。聞いたことを後悔するレベルだ。
どんな壮絶な過去を背負っていれば十五歳で心が壊れるんだ。俺の頭の警報が鳴り響く。
だが、綾小路はその雪と再会し、言葉を交わし、仲直りのようなものして、和解したと言う。
今の、綾小路の表情は、まるで何を思っているかわからなかった。
「別れるときに、言われたの」
ふと、俺の袖を掴む綾小路の指先に、ほんの少しだけ力がこもった気がした。
「『雛鳥、高校でたくさん楽しい思い出を作ってきてね。知ることは、すっごく楽しいことだから』って」
……なるほどな。 ようやく、俺は納得できた。
こいつが昨日、俺のマッ缶をおねだりして目を輝かせていたのも。勝手に部屋に上がり込んできたのも。そして今、俺の右袖をがっちりと握りしめているのも。
すべて、その『雪』とやらの言いつけを、バカ真面目に守っている結果ってわけだ。
雛鳥という名前の通り、巣から這い出たばかりのヒナ鳥みたいに、目に映るすべてのものを無我夢中で吸収しようとしている。
横顔を盗み見る。 相変わらず、その顔にわかりやすい喜怒哀楽は浮かんでいない。美しいだけの、能面のような無表情だ。 ……いや、違う。
……こいつの抱えている重い事情なんて、俺は一つも知らないが。
お前、そんな顔できるんだな。
俺が見ていることに気づいたのか、綾小路が不思議そうにコテンと首を傾げてこちらを見上げてきた。
その瞳の奥にある、ほんのわずかな温度の変化。冷たいガラス玉みたいに透き通っている瞳が、春の陽だまりみたいに微かに柔らかく和らいでいる。
口元は少しも笑っていないのに、全体の空気がひどく優しくて、温かさを纏っているのだ。
俺は思わず足を止め、彼女の顔を指差した。
「いや、お前、すごい……なんだろうな」
気の利いた言い回しなんて、俺の口から出てくるはずもない。 照れ隠しで茶化すのも違う気がして、俺は感じたままの事実をそのまま口にした。
「……大切な人を紹介できて嬉しい、みたいな顔だぞ」
言葉にした瞬間、自分で言っておいてなんだが、ひどく気恥ずかしくなって視線を逸らした。
くそ、何をロマンチックなポエムみたいなこと抜かしてんだ俺は。朝の変なテンションのせいだ、絶対にそうだ。
チラリと横目で確認すると、綾小路の大きな瞳が、ほんの少しだけ丸く見開かれていた。自分の顔にそんな感情が浮かんでいたなんて、まるで自覚していなかったような反応。
やがて彼女は、自分の空いた右手をそっと頬に当てて、小さく瞬きを繰り返す。
何を考えているのかはわからない。 でも、俺の袖を掴む右手の力は、また少しだけ強くなった気がした。
「……遅刻する」
気恥ずかしさを隠すように、そう告げて歩き出すと、綾小路もコクンと小さく頷き、再びトコトコと俺の歩幅に合わせてついてきた。
教室の前までたどり着き、自分のクラスに辿り着く
「じゃあな」
短く告げると綾小路は、コクンと一つ頷いてパッと手を離した。綾小路のクラスは知らないが、歩いていく。
……寄り道とかしそうだな。
右腕を軽く回し、俺は教室の扉を開けた。
ホームルームが始まる前の教室は、すでにいくつかのグループが形成されていて、あちこちで騒がしい話し声が飛び交っている。
俺はそんな陽キャたちを刺激しないよう、気配を完全に消して自分の席に座った。
鞄からライトノベルを取り出し、ページを開く。
やはり、朝はこうでなくては。
誰にも邪魔されない最高の時間……の、はずだった。
「なあ、少し時間いいか」
不意に、頭上からかけられた声。
俺はラノベから視線を上げなかった。
いやいや、俺に話しかける奴なんているわけがない。俺の隣の女子に話しかけたのだろう。
だが、声の主は俺の机に手を置いた。
あっ、俺なのね。
仕方なく顔を上げると、そこには一人の男子生徒が立っていた。
少し長めの前髪に、端正な顔立ち。どこからどう見ても真面目で誠実そう。
あとイケメン。
「……何か用か?」
極力無愛想に、かつ「今、忙しい」という感じを全力で発しながら尋ねる。
すると男は、周囲の様子をチラリと窺ってから、少し声を潜めて切り出してきた。
「昨日のホームルームでの、お前の質問についてだ。星之宮先生に、十万ポイントが本当に支給されるのか聞いていただろ。実は俺も、少し違和感を抱いていてな。お前はどう考えているのか、意見を聞かせてもらえないかと思って」
……マジか。 ド直球に相談事じゃないか。 しかも、十万っていう昨日解決した話だ。
俺は小さく息を吐き、ラノベをパタンと閉じた。
「悪いが、パスだ」
「パス?」
「ああ。俺は、有益なアドバイスなんて出っこない。そういうのは、もっと頼りがいのある奴に聞くべきだろ」
きっぱりと断りを入れる。
実際その通りだ。俺に相談事なんてできっこない。奉仕部で数々の面倒事を押し付けられてきたが、他人の悩みに首を突っ込んでろくな目に遭った試しがない。
……修学旅行の件がいい例だな。
俺の拒絶を聞いた神崎は、少しだけ目を見張った後。
「……そうか。突然すまなかったな、無理を言って悪かった」
とても素直に、そして心の底から申し訳なさそうな顔をして、踵を返そうとした。
……なんだよ、その綺麗な引き際は。
普通、ここで「そこをなんとか」とか「お前にしか頼めないんだ」とか食い下がってくるもんじゃないのか。こんなにあっさりと、しかも礼儀正しく引かれると、逆にこっちの良心がチクチクと刺激されてしまう。心にくるものがあるじゃないか。
それに、よくよく考えてみれば。 タダで十万ポイントを与えられる。
俺自身、薄気味悪さを感じているのは事実だ。
ここで完全に突っぱねるよりも、同じ疑念を持つ男と情報を共有しておくのは、悪くないかもしれない。
数歩歩き出したところで、俺は後頭部をガシガシと掻きながら口を開いた。
「……あー、待て」
男の足がピタリと止まる。
「俺も、少しだけ、気になることが、あるから。……まあ、話そうぜ」
視線を明後日の方向へ向けながら、ボソリと呟く。 すると、男は驚いたように振り返った。その真面目な顔に、フッと柔らかい笑みが浮かぶ。
「……ああ。ありがとう、俺は神崎。神崎隆二だ」
そう嬉しそうに頷き、自己紹介をして、再び俺の机のほうへと近づいてくる神崎。
ああ、くそ。なんだそのイケメンスマイル。顔面偏差値が高すぎると、笑うだけで一枚の絵画みたいになっちまうな。
俺が同じように笑ったら十中八九不審者として通報されるに違いないのに。世の中の不平等さを痛感する。
まあいい。 俺の平穏な生活を守るためだ。
今はそういうことにして、少しばかり真面目に情報を共有しようか。
机を挟んで向き直った神崎は、周囲の喧騒に紛れさせるように、少し声を潜めて本題を切り出してきた。
聞けば、来月本当に『十万』プライベートポイントがそっくりそのまま支給されるのかどうか、疑問に思っているらしい。
「いや、昨日俺が質問したとき、星之宮先生は『ポイントは必ず毎月の一日に振り込まれる』って明言してただろ。嘘はついてないはずだぞ」
一応、俺自身が引き出した言質だ。そこを疑われると俺の勇気ある挙手が無駄になってしまう。
俺の指摘に対し、神崎は真剣な顔つきのまま、静かに首を横に振った。
「ああ。だが先生は、来月『十万』プライベートポイントが支給されるとは、一言も言っていなかった」
「……あー」
流石にそれは言葉尻を捉えすぎというか、気にしすぎじゃないか? そんな重箱の隅をつつくような理屈、屁理屈だろ。
それが本当なら、立派な悪徳商法にして詐欺行為そのものだ。
国屈指の名門校が、国から援助を受けている教育機関が、入学したての一年生相手に仕掛けるか?
あまりにも現実的ではない。
俺が呆れ半分に内心でツッコミを入れていると、神崎はさらに言葉を続ける。
「それに」
そう言って、彼は教室の天井付近へと視線を向けた。
「教室に監視カメラがあるなんて、少し変だと思わないか」
釣られて見上げると、黒板の斜め上や教室の後方など、監視カメラが設置されていた。
昨日の今日で、俺はまったく気がついていなかった。ていうか、普通に教室内に監視カメラがある風景なんて違和感の塊だ。ここは刑務所かよ。
「昨日、放課後に少し時間があったから、校内を見て回ったんだが。少なくとも、監視カメラがない場所はどこにもなかった」
え、待って。
入学初日の放課後から、そんな粗探しみたいな校内散策をやってたの? 真面目な顔して結構エグい行動力してるな、このイケメン。普通は浮かれて友達作りに励んだり、部活の見学に行ったりする時間だろ。
「なんでそんなもん気付いたんだよ。普通、そこまで注意して上なんて見ないだろ」
素朴な疑問をぶつけてみる。
監視カメラの存在なんて、よほど意識していなければそもそも気づかない。
すると神崎は、さも当然の事実を述べるように、涼しい顔で答えた。
「……微かに、視線を感じたからだ」
いや、視線て。
アニメじゃないんだから。お前はどこの特殊工作員だ。あるいはニュータイプか何かか。
天井にある監視カメラから視線を感じて見破るなんて、完全にアニメの主人公ムーブじゃないか。「俺の後ろに立つな」とか真顔で言い出しそうな気配すらある。
だが、神崎の目は大真面目そのものだった。冗談を言っている気配は微塵もなく、ただ純粋に自分の感じた事実を述べているだけらしい。
イケメンだから絵になるものの、一歩間違えればただの重度な中二病患者だぞ。
「……そ、そうか。視線、ね。まあ、お前の直感の鋭さはよく分かった」
俺は引きつりそうになる頬の筋肉を必死に抑え込みながら、適当に相槌を打つ。
ただ、冗談抜きにして事態が俺の想定以上に面倒な方向へ転がり始めているのは事実だ。
「疑問をそのままにしておいて、後悔はしたくないからな。放課後、星之宮先生のところへ聞きに行こうと思う、お前もどうだ」
真剣な眼差しで提案してくる神崎に、俺は軽く肩をすくめた。
「まあ、わかった。俺も、少し気になるしな、あと、俺の名前は比企谷八幡だ」
俺が同意して名前を言うと、神崎は少しだけホッとしたような笑みを浮かべ、自分の席へと戻っていった。
はあ、と小さく息を吐く。
本当に、そんなドラマみたいな設定、あるのかね。
やがてチャイムが鳴り、教師が教室に入ってきた。 今日からハイレベルな授業が始まる――と、思いきや。
午前中に行われたのは、オリエンテーションばかりだった。
しかも、教壇に立つ教師たちはどいつもこいつもフレンドリーで、星之宮先生を筆頭に、名門校の重圧を感じさせないほど緩い空気を纏っている。
拍子抜け、という言葉がぴったりだった。周りの生徒たちも、最初こそガチガチに緊張していたものの、授業が進むにつれてどんどん肩の力が抜けていくのがわかる。
たまにヒソヒソと私語が聞こえてきたりもするが、そこは腐っても高校生。すぐに静かになり、真面目に黒板に向かっている。
まあ、俺としてはスパルタでしごかれるより、このくらい適当な方が性に合っているからありがたい限りだ。
そして、待ちに待った昼休み。
せっかくなら、食堂で食べてみたいので、俺は早々に席を立ち、教室を抜け出して廊下へ出た。
他クラスの様子をなんとなく横目で眺めながら歩いていると、やがて一年Dクラスの教室の前に差し掛かる。 そこで、ふと見覚えのある長い茶髪が視界に入った。
綾小路だ。 廊下の端で、一人の女子生徒と向かい合って何やら話をしている。
相手の女子は、ショートボブが似合う、いかにも愛想が良さそうな可愛らしい子だった。昨日出会った一之瀬とはまた違うタイプの、クラスの中心で誰とでも分け隔てなく仲良くできそうな、完璧な優しそうなオーラを放っている。
なんだ、俺と違って、綾小路はちゃんとクラスメイトと交流できてるじゃないか。少しだけ安心したような、保護者目線みたいな謎の感情を抱きつつ、俺はそのまま通り過ぎようとした。
「……櫛田さん。私と堀北さんは別に仲良くないよ」
すれ違いざま、綾小路のひどく平坦な声が耳に届いた。
「えー、でも、隣の席だし、綾小路さんなら堀北さんのこと知っているかと思って」
櫛田、と呼ばれた女子は、身振り手振りを交えながら必死に食い下がっている。
どうやら堀北という人物についての情報を引き出そうとしているらしい。
女子特有のグループ作りや人間関係の構築というやつか。
と、視線を逸らして立ち去ろうとした、まさにその時。
不意に、綾小路がこちらへと顔を向けた。
俺の姿を捉えた瞬間。
彼女の能面のような無表情は一ミリも崩れないまま、大きな瞳の奥だけがパァッと強烈な光を放った。
まるで、救世主を見たような、わかりやすすぎる目の輝き。
「八幡」
会話の途中だというのに。綾小路は目の前の櫛田を完全に置き去りにして、トコトコとこちらへ歩いてくる。
えっ、ちょ、待て。
相手の女子が「えっ? 綾小路さん?」ってめちゃくちゃ戸惑ってるだろ。会話のキャッチボールを物理的に強制終了させるなよ。
俺の内心の焦りなど知る由もなく、綾小路は俺の隣にピタリと張り付くと、一切の躊躇なく、俺の右袖をきゅっと掴んだ。
昨日からすっかり見慣れてしまった光景。
「……お前なぁ」
「行く」
どこへ行く気だよ。俺は一言もお前を誘っていない。
背後から、取り残された櫛田の「あ、あの……お知り合い?」という困惑の視線が、俺の背中にチクチクと突き刺さってくるのを感じる。
痛い。またしても変な目立ち方をしてしまった。
「はあ……」
俺は今日何度目かもわからない深いため息を吐きながら、袖を引く綾小路と一緒に歩き出く。どこに連れていくんでしょうかねぇ。
結局、俺の右袖は綾小路の小さな手に掴まれたまま、混雑する食堂までドナドナされた。
すれ違う生徒たちの視線が、俺の全身に突き刺さってくる。
「……なんであんな美少女に引っ張られてんの?」
「目つきヤバくない?」
ほんと、周囲の視線が痛すぎる。
あと「目つきやばくない?」は普通に傷つくからやめて。
なんとか券売機の前まで辿り着き、ズラリと並んだメニューのパネルを見上げる。
上段には『スペシャル定食・1000ポイント』なんていう、豪華そうな定食がある。
だが、俺の視線は隅っこにある定食に目が釘付けになった。
『山菜定食・0ポイント』
ありがたいな、マッ缶は安いとはいえ、あまり使いすぎるのも、さっきの話で尚更怖くなっているから、これにしよう。
「どうした? お前も早く選べよ」
袖を掴んだままの綾小路に促すと、彼女は俺の顔と券売機を交互にチラリと見てから、スッと指を伸ばす。
押されたのは俺と同じ山菜定食だった。
「……無理して俺に合わせる必要はないんだぞ」
「……これがいい」
平坦な声で言い切る綾小路。
まあ、本人がそれでいいなら、いいか。
俺たちは食券をおばちゃんに渡し、トレイに乗せられた山菜定食を受け取った。
ご飯に味噌汁、そして山菜。無料でこれなら、いい方じゃないか。
適当な空き席を見つけて向かい合わせに座り、箸を割る。
「いただきます」
俺がそう言って白米に手をつけると、綾小路も無言で箸を持ち、山菜を口へと運んだ。
もぐもぐと、小動物のように控えめな咀嚼を繰り返す彼女。
その大きな瞳が食堂全体を見渡すように動いた。
「ねえ、八幡」
「……山菜定食を食べている人、少し多くない?」
「ん?」
言われて、俺は周囲のテーブルへ視線を巡らせた。 まあ、確かに、綾小路の言う通りだ。
色々な定食を食べる生徒たちに混じって、俺たちと同じ山菜定食を食べている集団が目につく。
特に、年上な感じの人が多い気がする、まあ、俺は周りを見ないから全然顔を知らないし、上級生かどうかわからないが。
「? 確かにそうだが。単純にポイントを使いすぎた奴らのための救済措置だろ」
俺は素直な感想を口にする。
手持ちのポイントが底をついた連中が、無料の定食を食べている。
極めて自然な光景じゃないか。十万ポイントという大金を手にして、金銭感覚が狂う高校生なんてごまんといるだろうし。
だが、綾小路は小首を傾げ、さらに言葉を続けてきた。
「でも、それにしても。多くない?」
「いや、だから、計画性がない連中が……」
言いかけて。 ピタリ、と。俺の体が止まった。
……待て。 何か、致命的な見落としをしていないか。 山菜定食を食べている連中。ポイントを使い切ったから、無料の定食を食べている。
仮に月末なら、まだ話はわかる。だが、まだ四月になったばかり。十万を使い切るのは、はっきり言って無理だ。
俺たちは十万ポイントが支給された。
上級生も同じルールだろう。
だから、十万円もの大金を貰ったばかりの人間が、こんなにも山菜定食を食べている状態に陥るなんてあり得るか?
いくらなんでも、たった数日で十万を使い切るバカがこんなにホイホイいてたまるか。 ……つまり、だ。
あの山菜定食を食べている上級生たちは使い切ったんじゃない。
……最初から、持っていなかったんじゃないのか。
『先生は、来月十万プライベートポイントが支給されるとは、一言も言っていなかった』
今朝の神崎の言葉が、ラッシュバックする。
背筋に、ゾクッとした冷たい悪寒が駆け抜けた。
もし毎月十万ポイントが振り込まれるというのが嘘で、何らかの理由でポイントがなくなったというのなら。
教室にある監視カメラの意味、はまだ謎だが、異常なほどの太っ腹な待遇も、繋がってくる。
タダより高いものはない。 何が、何が条件で、いや、まだ決めつけるのは———
比企谷八幡が深く思考している、その前で。
綾小路雛鳥が、比企谷八幡のその思索に耽る顔を見てひっそりと。
安心したように、ただ一度だけ、小さく満足そうに頷いていたことに。
比企谷八幡は気づいていなかった。
滑り込みセーフ!
ここまで読んでくれてありがとうございます!
追記。独自の話ですが、雪ちゃんは救われてます、そこで綾小路と何を話したのか、何があったのか、それは、いつか書きます。
活動報告でヒロインの募集を開始しました! もしよかったら、その活動報告のコメント欄にコメントをして教えてください!