目を覚ました時ヤマトは自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。天井は低く、白い照明がぼんやりと光っている。消毒液の匂いが鼻につく。体のあちこちが痛んだが海にいた時のような刺すような冷たさはない。毛布の下で自分の体が清潔な衣類に包まれていることに気づいた。
「起きたか」
声のした方へ首を巡らせる。カーテンの仕切りの向こうから、大柄な男が姿を現した。短く整えた髪に、落ち着いた目。年齢は三十代後半だろうか。柔らかな笑みを浮かべている。
「ここは……」
「戦艦エンデュランスの医務室だ。アンタは三日間眠っていたんだよ」
三日。ヤマトは乾いた唇を舌で舐めた。喉が渇いている。
「水を飲か?」
男はまるで心を読んだかのように、ベッド脇のテーブルからコップを手に取り差し出した。ヤマトは上半身を起こし、受け取って一口含んだ。冷たい水が喉を通っていく。生きている、という実感がじわりと広がった。
「ありがとう、ございます」
「礼には及ばないよ。俺はバクスター。この艦の航空隊の一員だ」
バクスターと名乗った男はベッドの横の椅子に腰を下ろした。その動作はゆったりとしていて、どこか学者じみた落ち着きがあった。
「アンタの名前は?」
「ヤマト・サイトウです」
「ヤマト。いい名前だ」
バクスターは頷いた。それから少し声の調子を落として言った。
「残念だが、アンタが乗っていた旅客機の生存者はアンタだけだった。他の乗客、乗員は全員……」
「わかってます」
ヤマトはコップを握りしめた。指の関節が白くなる。あの日、隣の席には老夫婦が座っていた。通路を挟んだ向かいに、小さな女の子を連れた母親がいた。笑い声が聞こえていた。それが、全部。
「アンタは運が良かった。エンデュランスの見張りがアンタを見つけなければ、あと数時間で……」
バクスターはそこで言葉を切った。それ以上言う必要はなかった。
「なぜ、軍艦が民間機の航路に?」
ヤマトは顔を上げた。バクスターの表情がわずかに曇る。
「戦争だよ。二週間前、この海域で紛争が勃発した。アンタの乗っていた旅客機は、たまたま交戦区域に迷い込んでしまったんだ」
「戦争……」
ヤマトは呟いた。ニュースで遠い国の紛争の話は聞いていた。まさか自分が巻き込まれるとは思ってもみなかった。いや、それ以前に。自分はパイロットだ。戦闘機の。だが、軍に所属していたわけではない。民間の航空会社で、貨物機に乗っていた。それも半年前に辞めた。理由は——思い出したくない。
「ヤマト君」
バクスターの声が思考を遮った。
「君はパイロットだと聞いた。それに体についていた痕跡から、そう判断したんだが」
「ええ。民間の貨物機でしたが、一応資格は持っています」
「一応、か」
バクスターは微かに笑った。その目は何かを見透かすようだった。
「実は、頼みがあるんだ」
「頼み?」
「この艦は今、慢性的な人手不足でね。特に戦闘機のパイロットが足りない。君がもし飛べるなら——ジョーカー隊に加わってほしい」
ヤマトはバクスターの顔をまじまじと見つめた。冗談を言っているようには見えない。だが、あまりに唐突な話だった。漂流していた民間人を、いきなり軍の戦闘機隊にしかも戦時中に。
「俺は軍人じゃない」
ヤマトは小さく呟く。
「わかっている。だが、飛べる人間は貴重だ。それに」
バクスターは少し身を乗り出した。
「君は、飛びたいんだろう?」
その言葉は、ヤマトの胸の奥深くを正確に射抜いた。図星だった。貨物機を辞めてから、ずっと空に未練があった。飛ぶことを諦めきれなかった。だからこそ、あの旅客機に乗っていた。違う形ででも、空に関わっていたかった。
「どうして、そんなことがわかるんですか」
「俺も飛ぶのが好きでね。元は大学で教えていたんだが、空への未練が捨てきれなくて今はこうして、戦闘機に乗っている」
バクスターは穏やかに笑った。その笑顔には、どこか父親のような温かさがあった。
「返事は急がない。もう少し休んで、考えてくれ。ただし」
彼は立ち上がりながら付け加えた。
「艦を降りることはできない。この海域は封鎖されているからな。安全な場所に戻れるのは戦争が終わってからだ」
「つまり、選択肢は戦うかここで待つか」
「そういうことだ」
バクスターは頷き、カーテンを開けた。その時通路の向こうから甲高い声が響いてきた。
「バクスター先生! 聞いたよ、漂流者を拾ったって!」
ピンク色の髪をなびかせて一人の女が駆け込んできた。年はヤマトと同じくらいだろうか。目を輝かせて、物珍しそうにヤマトを見つめている。
「ターシャ、医務室では静かに」
「だってさー、三日も寝てたんでしょ? どんな人か気になるじゃん」
ターシャと呼ばれた女は、ヤマトのベッドの横にずかずかと入り込んできた。近い。距離感がバグっている。
「あんた、名前は?」
「ヤマト・サイトウ」
「ヤマトね。で、飛べるの?」
「まあ、一応」
「一応って何よ、それ。飛べるか飛べないかはっきりしてよ」
ターシャは腰に手を当ててじろりとヤマトを見た。その態度は随分と生意気だったが、なぜか嫌な感じはしなかった。裏表がないのだろう。
「飛べるよ」
「ふーん。じゃあ、ジョーカー隊に入るの?」
「まだ決めてない」
「なんでよ。飛べるなら飛べばいいじゃん。人手不足でみんなヘトヘトなんだからさ」
「ターシャ」
バクスターが窘めるように言った。ターシャは口を尖らせたが、それ以上は何も言わなかった。
その時、通路の向こうからもう一人静かな足音が近づいてきた。ヤマトは自然とそちらに目を向ける。入り口に立っていたのは、あの日甲板で見た男だった。金髪のショートヘア。無表情な青い瞳。
「レックス」
バクスターが声をかける。レックスは短く頷いただけだった。彼はヤマトのベッドの前に立ち、しばらく無言で見下ろしていた。その沈黙は重く、居心地が悪い。ターシャでさえ、この時ばかりは黙っていた。
やがて、レックスが口を開いた。
「飛べるのか」
低く、短い声。ヤマトは頷いた。
「はい」
「なら、決めろ。明日までに」
それだけ言うと、レックスは背を向けて出て行った。あまりに簡潔な物言いに、ヤマトは一瞬呆気に取られた。ターシャが小声で言う。
「あれがレックス隊長。無口で有名なの。でも、いい人だよ。口には出さないけどさ」
「そうみたいだな」
ヤマトは小さく笑った。そして、もう一度天井を見上げた。白い照明、消毒液の匂いに固いベッド。海の上ではない。ここは、鋼鉄の艦の中だ。
(飛べるのか、か)
自問するまでもなかった。答えは決まっていた。飛びたい。また、空へ。たとえそれが戦闘機でも。あの海で感じた絶望を、もう一度味わうくらいなら。それに——あの老夫婦や、女の子のことをなかったことにはしたくない。
ヤマトはバクスターを見た。
「俺、やります」
バクスターは静かに頷いた。
「ようこそ、ジョーカー隊へ。ヤマト・サイトウ」
ヤマトはもう一度、水を一口飲んだ。冷たい感触が、妙に心地よかった。