翌朝、ヤマトは珍しく寝坊した。目を覚ましたのは起床ラッパが鳴ってから十分後だった。慌てて飛び起き、制服に袖を通す。廊下に出ると、すれ違う兵士たちが一様に「おはようございます」と声をかけてくる。昨日までは好奇の目で見られていたのが今朝は少し違う。昨日の戦果が艦内に広まったのだろう。ヤマトは気恥ずかしさを覚えながら、足早に食堂へ向かった。
食堂は既に賑わっていた。パンとスクランブルエッグ、それに薄いコーヒー。簡素な朝食だが腹は減っていた。トレイを手に席を探していると、奥の窓際で手を振るターシャが見えた。隣にはコスターが座っている。
「ヤマト、こっちこっち!」
ターシャの声が食堂に響く。周囲の視線が一瞬集まるが、彼女は気にしない。ヤマトは苦笑しながら近づき、向かいの席に座った。
「寝坊? 真面目そうなのに」
「ちょっと寝つきが悪くて」
「緊張してたんでしょ。初陣の夜ってそういうもんだよ。あたしも最初は全然眠れなかった」
ターシャはパンを千切りながら言う。その仕草は豪快で、口の端にパンくずがついている。コスターが無言でそのくずを指差すと、ターシャは「あ、ありがと」と手の甲で拭った。
「コスターは平気だったのか? 初陣の時」
ヤマトが尋ねると、コスターはコーヒーカップを置いて少し考えた。
「眠れた。でも、夢は見た」
「どんな?」
「落ちる夢。ずっと」
短い言葉だがその重みは伝わってきた。コスターは前髪の奥で静かに目を細めた。ヤマトは頷いた。自分も似たような夢を見た。海に落ちる夢。だが、今朝の夢は違った。空を飛ぶ夢だった。誰かと並んで。
「そういえばさ」
ターシャが声のトーンを変えた。少しだけ真面目な顔になっている。
「ヤマトって、ギター弾くんでしょ? コスターから聞いた」
「ああ、趣味で。もう半年以上触ってないけど」
「なんで辞めたの?」
その質問は、ヤマトの胸の奥にしまってあったものに触れた。彼はコーヒーを一口飲んだ。苦い。だが、嫌な苦さではない。
「いろいろあって。仕事を辞めた時に、一緒に置いてきてしまった」
「もったいない。弾けばいいのに」
ターシャはあっさりと言った。その物言いには悪気がない。ただ純粋に、弾きたいなら弾けばいいというだけだ。ヤマトは少し笑った。
「そうだな。そうかもしれない」
「艦内に楽器くらいあるんじゃない? 探してみれば?」
「あるかな」
「コスター、知らない?」
ターシャが振ると、コスターは静かに頷いた。
「第二格納庫の奥。備品庫に古いのがあった」
「さすが詳しいね。音楽のためならどこでも探すんだ」
ターシャがけらけら笑う。コスターは少しだけ照れたように視線を逸らした。ヤマトは二人のやり取りを見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。こういう何気ない会話が、どれほどありがたいか。あの海で一人きりだった時には、想像もできなかった。
朝食を終え、ヤマトはコスターに案内されて第二格納庫へ向かった。通路をいくつも曲がり、普段はあまり使われない区画を通る。空気が少し埃っぽい。コスターは迷わず歩き、やがて小さな扉の前で止まった。
「ここ」
扉を開けると狭い部屋の中に古い備品が積み上げられていた。工具、予備の計器古びた無線機。そして、部屋の隅にギターケースが立てかけられていた。
「あった」
ヤマトはケースを手に取った。ほこりを払って開ける。中にはアコースティックギター。少し傷んでいるが、弦は張られている。誰かが手入れをしていたのだろう。彼はそっと弦を爪弾いた。乾いた音が部屋に響く。チューニングは狂っているが、鳴る。それだけで嬉しかった。
「これ、誰のかな」
「わからない。でも、置き去りにされたものだと思う」
コスターの言葉にヤマトは頷いた。この艦には、戦争に巻き込まれた民間人が何人か乗っている。ターシャのように。このギターの持ち主も、そんな一人だったのかもしれない。あるいは、戦死した兵士の遺品か。どちらにせよ、捨て置かれたものだ。
「借りてもいいかな」
「整備班に言えば大丈夫だと思う」
「そうする」
ヤマトはギターをケースに戻し、そっと抱えた。
その夜寝台の上で弦を交換し、チューニングを合わせた。爪弾く。低い音。静かなブルース。指が覚えている。体が覚えている。歌いたいわけではなかった。ただ、音を出したかった。それだけだ。
翌日、ヤマトは格納庫の片隅でギターを弾いていた。人目につかない場所を選んだつもりだったが、音は思ったより響く。しばらくすると、コスターが無言で近くに座った。何も言わず、ただ聞いている。
ヤマトは弾き続けた。古いブルース。ゆっくりとしたコード進行。指が弦を押さえ、離す。音が消えまた生まれる。コスターは目を閉じていた。その表情は穏やかで、前髪の奥の目は見えなかったが、心地よさそうだった。
一曲終えると、コスターが小さく拍手をした。音のない拍手。手のひらを三回、打つだけ。
「いい曲」
「古いんだ。名前は知らない。昔、師匠に教わった」
「師匠?」
「ギターを教えてくれた人。もう亡くなったけど」
ヤマトはギターの胴を軽く叩いた。木の温もりが伝わる。コスターは少し考えてから言った。
「俺も、弾く」
「ギター?」
「ベース。昔、少し」
「じゃあ、いつか一緒にやろう」
コスターは小さく頷いた。その目が、ほんの一瞬だけ前髪の隙間から見えた。琥珀色。優しい色。
その時、格納庫の入り口からターシャが駆け込んできた。
「いたいた! 二人で何やってんの、こんなとこで」
「ギター」
「へえ、本当に弾いてるんだ。聞かせてよ」
ターシャは遠慮なくヤマトの隣に座り込んだ。距離が近い。ヤマトは少し照れながら、もう一度弦を弾いた。今度は明るい曲。ターシャが鼻歌を合わせる。音程は外れているが、楽しそうだ。
しばらくして、バクスターが通りかかった。彼は足を止め、三人の様子を眺めてから静かに近づいてきた。
「楽しそうだな」
「先生も聞く?」
ターシャが言う。バクスターは少し迷ってから近くのクレートに腰を下ろした。
「昔、俺も少しだけギターをやっていたよ」
「本当ですか?」
ヤマトが驚いて尋ねる。バクスターは懐かしむように目を細めた。
「大学時代にな。だが、いつの間にか触らなくなった。ヤマトの演奏を聞いていたら思い出した」
「じゃあ、これ使いますか?」
ヤマトがギターを差し出すと、バクスターは笑って首を振った。
「いや、気にせず弾いてくれ。俺は聞く側でいい」
ヤマトは頷き、再び弦を弾いた。今度は静かな曲。夕暮れのような旋律。格納庫の騒音も、遠くの波の音もこの瞬間だけは音楽に溶けていく。
ターシャが小さく言った。
「戦争、終わったらさ。みんなで演奏会とかやろうよ」
「いいね」
ヤマトが答える。コスターが頷く。バクスターが笑う。
四人の間に、しばしの沈黙が流れた。だがそれは気まずいものではない。同じ音を共有した者同士の、穏やかな沈黙。
その時、格納庫の扉が開きレックスが入ってきた。彼は四人の姿を見つけると、少しだけ足を止めた。ヤマトは慌ててギターを置こうとしたが、レックスはそれを制するように小さく手を挙げた。
「続けろ」
短い言葉。レックスはそのまま自分の機体の方へ歩いていった。整備兵に何か指示を出している。その背中を見ながら、ターシャが囁いた。
「レイって実は音楽好きなのかもね」
「どうだろう」
ヤマトは首を傾げた。だがもしかしたら、と思った。あの短い「続けろ」には、少しだけ柔らかさがあった。無口な男の、精一杯の気遣いかもしれない。
その夜、ヤマトは寝台でギターを抱えながら、小さな音で弦を弾いた。明日はまた訓練だ。そして、いつか来る次の作戦に備えなければならない。だが、今はこの音を楽しんでいたい。指先が覚えている旋律。海に落ちる前に弾いていた曲。それを、今は仲間と共有できる。それだけで、今日という日は十分に価値があった。
目を閉じる。ギターの音が波の音に混ざる。遠くで誰かが笑っているような気がした。ターシャだろうか。コスターだろうか。それとも、バクスターだろうか。
「悪くない」
ヤマトは小さく呟く。悪くない。師匠の口癖。久しぶりに感じたこの感覚。
ギターをケースに戻し毛布をかぶる。窓の外では、月が雲の間から顔を出していた。銀色の光が、鋼鉄の艦を静かに照らしている。ヤマトは目を閉じた。夢の中では、また空を飛んでいた。今度は隣に何人もの機体が並んでいる。ターシャ、コスターにバクスター、そしてレックス。みんなで飛んでいる。
(いい夢だ)
そう思いながら、ヤマトは深い眠りに落ちていった。指先には、まだ弦の感触が残っていた