その日は珍しく午後から自由時間が与えられた。整備の都合で飛行訓練が中止になったのだ。艦内はどこか緩んだ空気に包まれ、兵士たちは思い思いに時間を過ごしていた。ヤマトは格納庫の片隅でギターを弾いていたが、弦が一本切れてしまい予備の弦を探しに備品庫へ向かおうとしたところで、ターシャに捕まった。
「ヤマト! 暇でしょ? ちょっと付き合って」
有無を言わせない口調。彼女はいつもそうだ。ヤマトは諦めて頷いた。
「どこへ」
「格納庫。今、人が少ないんだよ」
案の定、格納庫はがらがらだった。ターシャはパイプ椅子を用意してヤマトを向かいに座らせた。隣にはいつのまにかコスターがいる。ターシャは両肘をついてじっとヤマトの顔を見た。その目は妙に真剣だ。
「何だよ、改まって」
「前から聞きたかったんだよね。ヤマトって、ここに来る前何してたの?」
ヤマトは少し面食らった。この二ヶ月、彼は自分の過去についてほとんど話してこなかった。レックスには少しだけ話したが、ターシャには何も。別に隠していたわけではない。ただ、話す機会がなかっただけだ。
「貨物機のパイロットだったって。それは聞いたことある。でもさ、それ以前は? どこで生まれたとか、家族とか、恋人とか。・・・恋人。いるの?」
ターシャは身を乗り出した。その勢いにヤマトは思わず笑ってしまった。
「いないよ」
「本当に?」
「本当だ。いたことはある。でも、もうずっと前だ」
「なんで別れたの?」
「うーん、仕事が忙しかったから、かな」
「それ、よくあるパターンじゃん」
ターシャはつまらなそうに言った。ヤマトは苦笑した。
「そうだな。でも、当時はそれが全てだった。飛ぶことが。他のことは、後回しでいいと思ってた」
「後悔してる?」
「少しは。でも、あの時の選択は間違ってなかったと思う。飛ぶことを選んだから、今ここにいる。それだけは確かだ」
ターシャは腕を組んでうんうんと頷いた。なんだか、尋問を受けている気分だ。
「じゃあさ、家族は?」
「両親はもういない。父は十年前、母は五年前に。病気だった。兄弟はいない。一人っ子だった」
「寂しくない?」
「・・・慣れた」
ヤマトは窓の外を見た。海が広がっている。青く、果てしなく。
「どうしたの、黙っちゃって」
ターシャが覗き込む。ヤマトは首を振った。
「何でもない。それより、ターシャは? ここに来る前は何を?」
「あたし?」
ターシャは自分を指差して、それから少し照れたように笑った。
「うーん、秘密」
「なんだよそれ。人に散々聞いておいてそれはないだろ」
「だーめ。乙女の過去を探るもんじゃないよ~」
ターシャはけらけら笑った。
どうやら今は答えてくれそうにない。ヤマトは質問を変える
「戦闘機に初めて乗った時、怖くなかったか?」
「全然!むしろ空を自由に飛べるのサイコーって感じ」
「まじか。すげぇな」
「でしょ?」
ターシャは胸を張った。それから、ふと思い出したように言った。
「ねえ、ヤマト。あんたギター以外に趣味あるの?」
「趣味か。あまりないな。強いて言えば、読書」
へえ、何読むの?」
「古い小説。冒険もの。昔、父の本棚にあったのをよく読んでた」
「冒険ものか。あたしも好きだよ、そういうの。映画とかも」
「映画はあまり見ない。劇場に行く時間がなかった」
「あんた、人生損してるよ」
ターシャは呆れたように言った。ヤマトは笑った。
「そうかもしれない」
「じゃあさ、これからいっぱい教えてあげる。いい映画とか、いい音楽とか。コスターと三人で、そういう話しようよ」
「いいな」
「分かった」
「決まりね。あたし、そういうの好きだから」
ターシャは満足そうに頷いた。それから、また真面目な顔になった。
「ねえ、ヤマト」
「何だ」
「あたし、あんたのこと最初は正直、大丈夫かコイツって思ってた」
「知ってる」
「でも、今は違う。あんたはあたしの仲間だ。あたしが守りたいって思える人だ。だから、そういう話をしてくれるの嬉しい」
ヤマトは少し驚いた。ターシャがこんなに素直なことを言うのは珍しい。いや、彼女は意外と素直なのかもしれない。思ったことをそのまま口にする。それが、時に生意気に見えるだけで。ヤマトは頷いた。
「ありがとう。俺も、ターシャ達と飛べてよかったと思ってる」
「当たり前でしょ」
ターシャは鼻で笑った。だがその耳は少し赤かった。ヤマトはそれを見て、また笑った。
「じゃあさ、もう一つ聞いていい?」
「何だ」
「あんたの師匠の話。ギターの。前にコスターが言ってた。亡くなったって。どんな人だったの?」
ターシャの質問にコスターも手を止める。
ヤマトは少し迷った。だが、話してもいいと思った。ターシャやコスターはちゃんと聞いてくれる。そういう人だ。
「古いブルースの人だった。名前は、知らない。みんなただマスターって呼んでた。小さなバーで、ずっと弾いてた。客はいつも三人か四人。でも、彼は毎晩本気で弾いてた」
「どうして名前も知らないの?」
「彼が教えてくれなかったから。『名前はどうでもいい。音が全てだ』って。それで、俺も聞かなかった」
「変わった人だね」
「そうだな。でも、最高のギタリストだった。俺は、彼から音楽を教わった。よく褒めてもらったよ。悪くない、って俺はその言葉が何より嬉しかった。それだけじゃない。生き方を教わった。自分が信じたことを、誰にも媚びずにやれって。たとえ、誰も見ていなくても」
ターシャは黙って聞いていた。いつもの生意気な顔は、どこにもない。ただ静かに、ヤマトの話を受け止めていた。
「彼は、戦争で死んだ。街ごと消えた。俺は、その時旅客機に乗っていた。だから、何もできなかった。連絡も取りようがなかった」
「会いに行けばよかったのに」
「ああ。後悔してる。でも、もう遅い。だから今を生きる。彼に教わったことを、忘れないように。そうやって飛んでる」
ヤマトはギターを持ち上げた。弦が一本切れたままのギター。だが、それでも音は出る。彼は残った弦で、静かにコードを弾いた。短いけれど確かな旋律。
ターシャは、じっと聞いていた。そして一曲終わると、小さく拍手をした。
「いいね。・・・悪くない。ね?コスター」
「ああ。悪くない」
「ふっ、ありがとう」
「あたし、音楽は詳しくないけど今の、好きだよ」
「そうか」
「うん。あんたの音、あたたかい。悲しいのにあたたかい。不思議」
ヤマトは、弦を押さえる指を止めた。その言葉が、胸に染みた。あたたかい。悲しいのに、あたたかい。それはマスターの音だった。それを、自分が受け継いでいる。それだけで、この数年は無駄じゃなかった。そう思えた。
その様子を見てターシャはにっこり笑った。
その時、コスターがベースを持ち上げた。
「俺も弾こうと思って。ヤマトの師匠に向けて」
「コスター・・・」
「ヤマトとも一緒に」
ヤマトは頷いた。
「いいね。ターシャも、聞くか?」
「聞く聞く! あたし、二人の演奏、好きなんだ」
ターシャは、椅子を引いてコスターの隣に座った。
ヤマトは、ギターの弦を残った三本で、静かに弾き始めた。コスターが、ベースを合わせる。ターシャが、鼻歌を歌う。音程は外れているが、楽しそうだ。
食堂の窓から、夕日が差し込む。オレンジ色の光が、三人の影を長く伸ばした。ヤマトは思った。ここに来る前は、一人だった。だが今は違う。仲間がいる。音楽がある。語り合える誰かがいる。それだけで、今日という日は十分に価値がある。
「悪くない」
小さくそう呟いた。明日も飛べる。明後日も。そして、いつか戦争が終わるその日まで。この仲間と、この音と共に。
演奏が終わるとターシャが拍手をした。今度は遠慮のない、大きな音の拍手だ。
「やっぱりいいね、二人の音。なんかこう、胸に来る」
「ありがとう」
ヤマトはギターを膝に置いた。コスターはベースを抱えたまま、小さく息を吐いた。その表情は満足そうだった。ターシャはそんなコスターの肩をぽんと叩いた。
「コスターも、前より上手くなってるよ」
「そうか?」
「うん。前はもっとこう、ガチガチだった。今はなんていうか、楽しそう」
コスターは少し照れたように前髪をいじった。ヤマトはそれを見て、この二人の関係がいいなと思った。兄妹のような、気安さがある。ターシャは誰に対しても物怖じしないが、コスターに対しては特に自然体だ。
しばらくして、ターシャが口を開いた。
「あたしさ」
「ん?」
「ここに来る前、彼氏がいたんだ」
「いたのか」
「うん。でも、別れた。パイロットなんてキミには似合わないなんて。あたし、それが嫌で」
「どうしたんだ」
「別れてやった。『あたしの人生はあたしが決める』って」
ターシャは胸を張って言った。その表情は誇らしげだ。だが、ヤマトは思った。その選択は簡単なものではなかっただろう。戦争が始まって、先の見えない状況でそれでも自分の意思を貫く。それは、強い人間にしかできないことだ。
「後悔してないのか」
「してない。あたしは飛ぶことを選んだ。この空で、みんなと一緒に。それでいいの」
「かっこいいな」
ヤマトが言うと、ターシャは照れたように笑った。
「でしょ? あたし、かっこいいんだ」
「ああ。本当にかっこいい」
「ヤマト、あんた素直だね。そういうところ、嫌いじゃないよ」
ターシャはにししと笑った。その笑顔は、夕日の光を受けていつもよりずっと大人びて見えた。ヤマトは思った。生意気で、わがままで危なっかしいところもある。だが、その内側には確かな芯がある。自分が信じたことを貫く強さ。それは、ヤマト自身がマスターから教わったことでもあった。
「なあ、二人とも」
コスターが急に口を開いた。二人は彼を見た。コスターは少し言いにくそうに、前髪の奥の目を細めた。
「俺も、昔の話、少しだけ」
「聞く聞く!」
ターシャが身を乗り出す。コスターは、少し照れたようにそれでも話し始めた。
俺の父は、音楽を嫌ってた。『そんなので食っていけるわけがない』って。母は、味方だった。でも父が病気で亡くなってから、母も体を壊して。俺は音楽を高校を卒業すると同時にやめた。安定した仕事につくべきだと思った。整備士の資格を取って、造船所で働いた。ベースは押入れにしまった」
ヤマトは黙って聞いた。コスターの言葉は、いつもより少しだけ多かった。それは、彼がこの話題を話すのにどれだけの勇気が要ったかを物語っていた。
「でも、戦争が始まって造船所も爆撃された。母は、疎開先で亡くなった。俺は一人になった。ベースは、燃えた。もう何も残らなかった。だから、軍に入った。飛ぶことを選んだ。飛べば、何も考えなくて済むから」
コスターは、そこで言葉を止めた。ターシャは何も言わなかった。ただ、コスターの手を握った。コスターは少し驚いたように、ターシャを見た。それからその手を振りほどかなかった。
「でも」
ヤマトが言った。コスターは顔を上げた。
「でも、またベースを弾き始めた。やっぱり音楽が好きだって気づいた」
「ああ」
「好きな物に嘘つくのは辛いよな」
コスターはしばらくヤマトを見ていた。それから、小さく頷いた。
「そうだな」
ターシャが、にっこり笑った。
「なんか、いいね。こういうの。みんないろいろあるんだね。でも、今、一緒にここにいる。それだけで、なんかすごいことだと思わない?」
「思う」
ヤマトは答えた。心からそう思った。海に落ちて、拾われて、こんなに遠い場所でこんなに多くのものを得るなんて、想像もしていなかった。仲間。音楽。語り合える時間。戦争の中でも、こういうものがある。それなら、明日も飛べる。明後日も。そしていつか、戦争が終わるその日まで。
ヤマトはギターを抱え直した。コスターもベースを手に取る。ターシャが、歌うように言った。
「じゃあ、もう一曲。今度はあたしも歌う。音程、外すかもだけど」
「構わない」
コスターが言った。ヤマトも頷いた。
「ターシャの歌、聞きたい」
ターシャは、少し照れながらそれでも嬉しそうに、最初のフレーズを口にした。音程はやはり外れていた。でもその声は、夕日の海に溶けていく。ヤマトは弦を弾いた。コスターがベースで支える。戦争の中の小さな音楽会。
「悪くない」
小さく呟く
夕日が、ゆっくりと海に沈んでいく。夜が来る。だが、ヤマトの心は昼よりも明るかった。