夜の第二格納庫は昼とはまるで別の艦のように静かだった。整備の灯りは半分ほど落とされ、鋼鉄の梁がつくる影が床に長く伸びている。
ヤマトはギターケースを抱え、足音を忍ばせて奥の備品庫へ向かった。眠れなかった。昨夜の作戦の疲れが体に残っているのに、頭だけが妙に冴えていた。弦に触れれば、少しは落ち着く。そう思ったのだ。
備品庫の扉を開けると先客がいた。コスターだ。クレートの上に腰かけ、古びた携帯プレイヤーを膝に置いている。ヘッドホンの片側を耳に当て、もう片方をだらりと垂らしていた。ヤマトが入ってくると、彼は顔だけ上げた。前髪の奥の琥珀色が、薄暗がりの中でわずかに光る。
「悪い、邪魔したか」
ヤマトが言うとコスターは首を振った。そして、垂らしていたヘッドホンを持ち上げ、差し出した。
「聴く?」
短い誘い。ヤマトは頷き、隣に座った。クレートは冷たく、少し硬い。ヘッドホンの片側を耳に当てると、低いベースラインが流れ込んできた。太く、遅く、しかし確かな脈拍のように刻む音。その上を、乾いたギターが滑っていく。ボーカルは囁くように、しかしどこか怒っているように歌っていた。
「いい曲だ」
ヤマトが言うと、コスターは小さく頷いた。
「ノクターナル・シー。古いバンド。ベースが主役」
「ベースが主役の曲は少ない」
「だからいい」
コスターは珍しく続けて言葉を紡いだ。音楽の話になると、彼は少しだけ饒舌になる。その変化をヤマトは前から面白いと思っていた。無口な男の内側に、音楽という別の言語が棲んでいる。それは、ヤマトがギターに感じているものとよく似ていた。
「このベース、聴こえる? 表では単純な八分音符。でも裏で、ずっと三連の動きをしてる。だから疾走感があるのに、どこか不安なんだ」
「わかる。飛行機と同じだ。編隊の表は整っていても、裏でそれぞれが微調整してる。それが見えないから、美しい」
コスターはヤマトを見た。少し驚いたような顔だった。それから、口の端をわずかに上げた。笑みというにはあまりに控えめだが、確かに笑っていた。
「ヤマトは、音楽を飛び方で語るんだな」
「そうかもしれない。俺にとっては、どっちも同じだ。空を読むことと、音を読むこと。似てる」
「じゃあ、ベースは何?」
ヤマトは考えた。ギターを膝に置き、指で空中にコードをなぞる。
「骨かな。ベースがないと、体が立たない。でも目立たない。縁の下で、全部を支えてる。コスターみたいだ」
コスターは一瞬目を逸らした。照れているのだと、ヤマトにはわかった。彼はヘッドホンを外し、プレイヤーの停止ボタンを押した。静寂が戻る。遠くで波の音が聞こえる。艦が揺れるたび、鉄の骨がきしむ。
「俺は、ベースを弾いてた」
コスターがぽつりと言った。ヤマトは黙って頷いた。前にも聞いた。だが、彼が自分から続けるのは初めてだった。
「高校の時。友達とバンドを組んだ。名前は、シルバー・アッシュ。ダサいだろ」
「いや、悪くない」
「ギターの奴が、いつも前で騒いでた。ドラムは無口で、でもリズムは正確だった。俺は後ろで、彼らが転ばないように支えてた。ライブハウスは、地下の息が詰まるような場所だった。でも、あそこだけが俺のいた場所だった」
コスターの声はいつもより少しだけ熱を帯びていた。前髪の奥の目が、遠くを見ている。ヤマトは何も言わずに聞いた。音楽の話をしているのに、それはパイロットの話にも似ていた。仲間がいて、それぞれの役割があって一緒に何かを作る。飛ぶことと、同じだ。
「戦争が始まって、みんな散った。ギターの奴はどこかに行った。ドラムは、たぶん死んだ。俺はここにいる。ベースは、置いてきた。もう弾けないと思ってた」
「でも、忘れられなかった」
「ああ」
コスターは短く答えた。それから、自分の手を見た。長い指。弦を押さえるために生まれたような、そんな手。
「音楽は、逃げない。待ってる。だからまた弾ける」
ヤマトは胸の奥が熱くなるのを感じた。自分もそうだった。あの海に落ちて、空も音楽も失ったと思った。だが、この艦でギターを見つけた。仲間がいた。そして今、ベースの話をしている。音楽は、確かに待っていた。
「前にも言ったけど俺の師匠は、ブルースの人だった」
ヤマトは話し始めた。自分でも意外なほど、言葉がするすると出てきた。
「小さなバーで弾いてた。客は三人か四人。でも、彼はいつも本気だった。『音楽は、聴く奴が一人でもいれば成立する』って言ってた。だから、俺も弾くときはたとえ一人でも、手を抜くなって」
「いい師匠」
「ああ。でも、もういない。戦争で街ごと消えた。ギターは、家に置いたままだった。もう二度と弾けないと思ってた。指が動かなくなったらどうしようって、そればかり怖かった」
コスターは黙って聞いていた。だが、その目はヤマトをまっすぐ見ている。前髪の隙間から、琥珀色がのぞく。彼はこういう時に言葉を挟まない。沈黙で、相手の話を受け止める。それが、どれほどありがたいか。ヤマトは続けた。
「でも、ここでギターを見つけた。古くて、傷んでて誰かの忘れ物で。弾いたら、音が出た。それだけで泣きそうになった。まだ、俺の中に音楽が残ってた。それって、生きてるってことだと思った」
「うん」
コスターが頷く。短い相槌。だが、その一言にはたくさんの同意が詰まっていた。
「なあ、コスター。好きなベースラインは?」
ヤマトが尋ねるとコスターの目が少し輝いた。彼はプレイヤーを操作し、別の曲をかけた。低いうねるようなベース。まるで深海を進む潛水艦のようだ。
「これ。ザ・チェイン。フリートウッド・マック。終盤のベース、最高」
「わかる。あれは、曲の中で一番最後に出てくるのに、全部を持っていく」
「そう。主役を奪う。でも、曲は壊れない。逆に完成する。ベースは、そういうものだ」
コスターは熱っぽく語った。ヤマトは笑った。
「俺は、ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス。あのギターソロ、泣いてるみたいだろ。でもベースは黙って支えてる。あれがないと、あの泣きは成立しない」
「ポール・マッカートニー」
「そう。彼は、メロディもベースも歌う。欲張りだ」
「欲張りは、いい」
コスターが言う。ヤマトは頷いた。二人の間に、しばしの沈黙が流れる。だが気まずくはない。同じ音楽を聴き、同じ種類の感動を共有した者同士の、温かい沈黙。
その時、備品庫の扉が少し開きターシャが顔を覗かせた。
「なに、二人でコソコソやってんの」
「音楽の話」
ヤマトが答えると、ターシャは眉をひそめた。
「また難しい話? あたし、ポップスしかわかんないよ」
「ポップスもいい」
コスターが言うと、ターシャは意外そうな顔をした。
「コスターがそう言うの、珍しい。じゃあ今度あたしの好きなの、聞かせてあげる。めっちゃノリノリのやつ」
「いいね」
ヤマトが言うとターシャは満足そうに頷き、扉を閉めた。足音が遠ざかる。再び静かになる。コスターは小さく息を吐いた。
「ターシャは、いつも明るい」
「ああ。でも、あれでいて、繊細なところもある。音楽の趣味は、たぶん派手なやつだ」
「だろうな」
コスターは少し笑った。それから、またプレイヤーを操作した。今度は、もっと古い曲。ブルースに近い。ギターの音が、擦り切れたレコードのように温かい。
「これ、好き」
コスターが言った。ヤマトは耳を澄ました。ベースが、歩くように鳴っている。ギターが、それに寄り添う。歌は失ったものを探しているように聞こえた。
「悪くない」
「うん。これ、俺の師匠が好きだった」
「コスターにも師匠がいたのか」
「ベースの先生。厳しかった。『ベースは目立つな。でも、存在を消すな』っていつも言ってた」
「いい言葉だ」
ヤマトはギターを手に取った。チューニングは狂っていない。彼は静かに弦を弾いた。コスターがかけた曲のコード進行をなぞる。すると、コスターが小さく手を上げた。
「待って」
彼は立ち上がり備品の山をかき分けた。しばらくして、古いベースを取り出した。埃を被っているが、弦は張られている。誰かが手入れをしていたのだろう。ヤマトは目を丸くした。
「それ、あったのか」
「さっき見つけた。整備班に言ったら、使っていいって」
コスターはベースを抱えクレートに座り直した。指で弦を押さえ、ぽん、と弾く。低い音が格納庫の空気を震わせた。
「合わせる?」
ヤマトが尋ねるとコスターは頷いた。二人は顔を見合わせ、同時に弾き始めた。即興だった。ヤマトは静かなアルペジオを奏で、コスターはその下で歩くようなベースを刻む。完璧ではなかった。何度かコードが外れた。リズムも少しずれた。だが、音は生きていた。二人の呼吸が、少しずつ重なっていく。まるで編隊飛行のように。前を飛ぶ者と、後ろを守る者。互いの存在を信じなければ、できないこと。
やがて、ヤマトは手を止めた。コスターも止める。静寂が戻る。だが、さっきまでの静寂とは違う。音楽の余韻が、まだ空気の中に漂っている。
「楽しかった」
コスターが言った。その声は、少しだけ震えていた。ヤマトは笑った。
「ああ。戦争が終わったら、本当にバンドをやろう。ターシャに歌わせて、バクスターさんにギターを教えて、レックスさんには……何をやらせよう」
「「ドラム」」
2人の意見が合う。
「無口で、正確。ぴったりだ」
「だな」
二人は声を出して笑った。小さな、しかし確かな笑い。夜の格納庫に、それはよく響いた。
その時、扉の外に気配を感じた。ヤマトが振り返ると、レックスが立っていた。いつからいたのかわからない。無表情のまま、腕を組んでいる。
「レックスさん」
ヤマトが慌てて立ち上がると、レックスは小さく手を挙げた。
「続けろ」
それだけ言って足音が遠ざかる。ヤマトはコスターを見た。コスターもヤマトを見た。そして、二人はまた笑った。今度は声を殺して。
「聞いてたのかな」
「たぶん」
「ドラム、やるかな」
「わからない。でも、悪い気はしてないと思う」
ヤマトはギターをケースに戻した。コスターもベースを元の場所に戻す。二人は備品庫を出て、格納庫の出口へ向かった。外はまだ暗い。だが、東の空がわずかに白み始めている。夜明けが近い。
「なあ、コスター」
「何」
「音楽って、飛ぶことと似てるな。一人でもできるけど、誰かと一緒の方がずっと遠くへ行ける」
コスターは少し考えた。それから、静かに言った。
「うん。ベースは、一人では歌わない。誰かの上で、初めて意味を持つ。飛ぶのも同じだと思う」
「そうだな」
ヤマトは空を見上げた。星が一つ、また一つ、消えていく。代わりに青が広がる。今日も飛ぶ。明日も。そして、いつか戦争が終わったら本当に演奏会を開こう。この艦の仲間たちと。海の上で。空の下で。
「また、セッションしよう」
ヤマトが言うと、コスターは頷いた。
「ああ。次は、もっとうまくやる」
「楽しみにしてる」
二人は格納庫を後にした。朝の光が、鋼鉄の艦を照らし始めている。その光の中で、ヤマトの指先にはまだ弦の感触が残っていた。コスターの指先にも、きっとベースの感触が。音楽は、逃げない。待っている。戦争の中でも、こうして鳴り続ける。だから明日も飛べる。
「悪くない」
そう呟呟きながらヤマトはそう思った。