M4星系。
ロシア連邦近郊。
暗黒の宇宙空間を、一隻のコルベットが漂っていた。
艦体の全長は約百メートル。
中型艦艇と比較すれば小柄だが、単独航行を前提に設計された船体には、輸送能力と戦闘能力が高い水準で両立されている。
船体各所には補修跡が残り、外装の一部には細かな傷が刻まれていた。
最新鋭の軍艦のような華やかさはない。
しかし、長い航海と数々の戦場をくぐり抜けてきたことが、ひと目でわかる船だった。
艦名は《イエローチェイン》。
そして、その操縦席には、ひとりの男が座っていた。
「んッ……ここ、どこだよ……」
男は寝起きのような声で呟いた。
長身の身体をシートに預け、片手で乱れた髪をかき上げる。
青みがかった黒髪には白髪が混じり、後ろへ流された長髪が肩口にかかっていた。
鋭い目元。
暗い青色の瞳。
ロシア系の整った顔立ちには、年齢相応の落ち着きと、長い戦場経験によって刻まれた疲労が滲んでいる。
年齢は百四十六歳。
身長は百八十二センチ。
鍛え上げられた身体は、数々の戦場を生き延びてきた戦士のそれだった。
左腕は肘から先を中心に、黒と銀を基調としたサイバネティックス製の義腕へと換装されている。
事故によって失った腕を補うためのものだが、その性能は通常の人工義肢とは比較にならない。
神経接続による精密な動作制御に加え、戦闘時の負荷にも耐えられるよう強化されている。
もっとも、本人にとっては特別なものでもなかった。
失ったものを補い、必要な機能を取り戻した。
ただ、それだけの話である。
男は目の前に表示された星系マップを見つめていた。
現在位置。
周辺の恒星。
航行可能な経路。
そして、目的地との距離。
数秒後。
彼の顔から、眠気が消えた。
「…………」
もう一度、表示を確認する。
現在位置を再照合する。
航法ログを呼び出す。
そして、最後にもう一度、星系マップを見る。
「……うげッ」
思わず声が漏れた。
「ロシアに帰ってきちゃったやん……」
彼はグラハム・トルストイ。
二つ名、ライトニング。
数々の戦場で名を上げた傭兵であり、この《イエローチェイン》の艦長でもある。
そんな彼が、現在直面している問題は、敵艦隊でもなければ、燃料不足でもなかった。
次元スキップ航法のシステムエラー。
それによって、予定航路から大きく逸脱したのである。
そして、飛ばされた先が、よりにもよって故郷の星系だった。
「いや、待てよ……」
グラハムは額に手を当てた。
「なんでだよ……」
予定では、まったく別の星系へ向かうはずだった。
補給物資を積み込み、依頼主との契約を確認し、次の仕事へ向かう。
その途中で次元接続が不安定になり、緊急復帰したところ、見覚えのある星系マップが表示されたのだ。
問題は、ここがどこなのかということではない。
どこなのかは、わかっている。
問題は、ここがどこなのかを、グラハム自身が知りすぎていることだった。
「……あー、最悪」
彼は操縦席の背もたれに身体を預けた。
十六年前。
彼は、この国を出た。
二度と戻らないと決めた。
正確に言えば、ロシア連邦に一ミリたりとも近づかないと固く誓ったのだ。
その誓いを胸に、宇宙を股にかける傭兵となった。
以来、数々の星系を渡り歩き、戦場を駆け抜け、さまざまな依頼をこなしてきた。
その間、一度たりとも故郷へ戻ろうとは思わなかった。
理由は単純だ。
帰れば、あいつがいる。
「……まあ、補給して出発すりゃいいか」
グラハムは現実逃避気味に呟いた。
そうだ。
別に何も問題はない。
ここは軍事的にも重要な星系だが、民間船や傭兵の往来が禁止されているわけではない。
必要な手続きを済ませ、補給を受け、燃料を積み込んで出発すればいい。
誰かに見つかる前に立ち去れば、それで終わりだ。
簡単な話である。
「よし。問題解決」
自分に言い聞かせるように頷いた。
その直後。
艦内に電子ブザーが鳴り響いた。
『こちら、ロシア連邦軍所属の星系監視船。航行中の中型艦艇に告ぐ。所属および登録コードを送信せよ』
「…………」
グラハムは目を閉じた。
「ですよねー」
正体不明の艦艇が突然、重要星系の近傍に出現したのだ。
監視船が接触してくるのは当然だった。
無視すれば警戒される。
下手をすれば、警告射撃どころか攻撃を受ける可能性もある。
面倒事は避けたい。
彼は通信回線を開いた。
「こちら中型コルベット《イエローチェイン》。傭兵登録コードを送信する。次元スキップ航法のシステムエラーにより、予定航路から逸脱した。現在位置を確認中だ」
登録コードを送信する。
「補給と休憩を兼ねて港湾施設への着艦を希望する。許可を求める」
『了解した。登録コードを照合する』
通信が一度、途切れた。
数秒後。
『……確認した』
通信士の声が、わずかに変化した。
『失礼だが、貴官は……』
「はい?」
『二つ名、ライトニングを持つグラハム・トルストイ殿で間違いないか?』
「…………」
グラハムは、ゆっくりと天井を仰いだ。
やめろ。
その名前を呼ぶな。
「えーと……登録名はグラハムです。できれば、そちらでお願いします」
『……了解した』
通信士は少し間を置いた。
それから、妙に感慨深い声で言った。
『着艦許可を発行する。誘導信号に従い、アムリタ惑星港湾区画へ向かわれたい』
「了解。助かるよ」
『…………グラハム殿』
「はい?」
『おかえりなさい、同志の英雄殿』
「…………は?」
通信が切れた。
グラハムは、しばらく通信画面を見つめていた。
やがて、深いため息を吐く。
「……なんで歓迎されてんの?」
誰も答えない。
当然である。
「嫌な予感がする……」
こういうときの勘は、昔からよく当たる。
そして今回もまた、例外ではなかった。