宇宙間メトロが発進した。
窓の向こうを、巨大な宇宙港の構造物がゆっくりと流れていく。
目的地は、M4星系ロシア連邦軍第七支部。
グラハムは座席に腰を下ろし、深いため息を吐いた。
「……マジか」
十六年前。
彼は軍大学を卒業すると同時に、ロシア連邦を出た。
誰にも告げず。
何の説明もせず。
そして、二度と戻らないと誓った。
理由は、ひとりの女だった。
アリー・パヴロヴァ。
初等部で出会った、幼なじみ。
当時の彼女は、人見知りで、引っ込み思案で、初対面の相手と話すことが苦手な少女だった。
金色の髪と澄んだ青い瞳。
北欧系の整った顔立ち。
同年代の子供たちの中でも、ひときわ目を引く容姿をしていた。
だが、その美貌とは裏腹に、彼女は他人との距離をうまく縮められなかった。
そんな彼女を、グラハムはよく遊びに連れ出した。
「アリー、行こうぜ!」
「え……どこに?」
「外!」
「外って……どこ?」
「行けばわかる!」
そう言って手を引き、校庭へ飛び出した。
放課後には一緒に遊び、休日には家を訪ね、時には悪戯をして大人たちに叱られた。
アリーは、グラハムの隣にいるときだけ、自然に笑うことができた。
彼女自身、その理由を理解していなかった。
ただ、彼がいないと寂しかった。
彼が別の友人と遊んでいると、胸の奥が落ち着かなかった。
彼が自分の名前を呼んでくれると、それだけで嬉しかった。
その感情の正体に気づくには、まだ幼すぎた。
中等部に進む頃には、二人は常に一緒にいるのが当たり前になっていた。
周囲からも、二人でひとつのように扱われていた。
「また一緒なのかよ」
「お前ら、本当に仲がいいな」
「もう結婚しちゃえば?」
そんな言葉を投げかけられるたび、アリーは顔を赤くした。
そして、グラハムは。
「ははっ、何言ってんだよ」
と、笑い飛ばした。
そのたびにアリーは、胸の奥が少しだけ痛くなるのを感じていた。
この頃には、もう自覚していたのだ。
自分はグラハムが好きなのだと。
誰よりも。
何よりも。
しかし、告白する勇気はなかった。
今の関係が壊れることが怖かった。
だから、いつか彼が自分の気持ちに気づいてくれるのを待つことにした。
彼も自分のことが好きなのだろう。
そう信じていた。
実際、グラハムはいつも彼女を頼っていたし、何かあれば真っ先に彼女のところへやって来た。
アリーにとって、それは十分すぎるほどの証拠だった。
もっとも。
グラハム本人に、そんな自覚はなかった。
彼にとってアリーは、大切な幼なじみだった。
一緒にいて楽しく、頭がよく、頼りになる。
それ以上でも、それ以下でもない。
少なくとも、本人はそう思っていた。
そして高等部。
二人の関係は、少しずつ変化していった。
ある日、グラハムはアリーに告げた。
「俺、軍大学を受けようと思うんだ」
「……軍大学?」
「ああ。戦術とか、艦隊運用とか、もっと本格的に勉強したくてさ」
アリーは一瞬、驚いたような顔をした。
それから、すぐに笑顔になった。
「そうなの。だったら、私も軍大学を受けるわ」
「……え?」
「一緒に勉強しましょう?」
「いや、俺は軍大学を受けるって言っただけで、お前が受ける必要は……」
「私も興味があるもの」
「……そう?」
「ええ」
アリーは微笑んだ。
彼女にとって、答えは最初から決まっていた。
グラハムが進む道なら、自分も進む。
彼が目指す場所なら、自分も目指す。
それが当然だった。
ただし、グラハムはひとつ大きな勘違いをしていた。
彼は、アリーが自分と同じく軍人になりたいのだと思っていた。
実際のところ、彼女が本当に望んでいたのは、彼の隣にいることだった。
そして、その頃から。
アリーは、グラハムの生活能力に重大な問題があることを知ることになる。
きっかけは、彼の部屋を訪れたことだった。
初めて足を踏み入れたグラハムの部屋。
そこに広がっていた光景は、彼女の想像をはるかに超えていた。
部屋の隅には、栄養補給ゼリーの空き容器が積み上がっていた。
洗濯物は山になり、床には脱ぎ捨てられた衣類が散乱している。
クローゼットを開ければ、同じデザインのTシャツとパンツが何着も並んでいた。
「…………」
アリーは、しばらく何も言えなかった。
「……グラハム?」
「ん?」
「あなた、普段どうやって生活しているの?」
「普通に?」
「これの、どこが普通なの?」
「え? 着る服はあるし、飯も食ってるし、問題なくね?」
アリーは頭を抱えた。
この男は、戦術理論の試験で満点を取る。
艦隊運用の演習では、教官すら驚く判断を見せる。
複雑な戦況を瞬時に把握し、最適な行動を導き出す。
それなのに。
洗濯ひとつ、まともにできない。
食事は栄養補給ゼリーで済ませる。
衣類は同じものを大量購入して着回す。
部屋の掃除という概念すら怪しい。
「……このままじゃ、あなたは生きていけないわ」
「いや、大げさだろ」
「大げさじゃない!」
珍しく声を荒らげたアリーに、グラハムは目を丸くした。
その日から、彼女の生活管理が始まった。
食事の時間。
睡眠時間。
洗濯の予定。
部屋の掃除。
勉強の計画。
健康診断。
そして、交友関係。
最初は、ただの世話焼きだった。
だが、アリーの中では、いつの間にか意味が変わっていた。
自分がいなければ、グラハムはまともに生活できない。
自分が面倒を見なければ、彼は身体を壊すかもしれない。
自分が隣にいなければ、彼は無理をして、誰にも頼らず、いつか倒れてしまうかもしれない。
それは彼女にとって、耐えがたい想像だった。
だから、彼女は世話を焼いた。
少しずつ。
確実に。
グラハムの生活の中に、自分の居場所を作っていった。
そしてアリーは、そんな自分の行動が、彼への愛情の表れなのだと信じていた。
告白など必要ない。
これだけ一緒にいるのだから。
これだけ彼の面倒を見ているのだから。
彼だって、自分の気持ちに気づいているはずだ。
……そう、信じていた。
一方のグラハムは。
「いやー、アリーがいて助かるわ」
などと、呑気に笑っていた。
アリーはその言葉を聞くたび、嬉しそうに微笑んだ。
そして、ますます彼の世話を焼くようになった。