イエローチェイン   作:聖骸

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05 逃げられない再会

宇宙間メトロが減速を始めた。

 

『まもなく、ロシア連邦軍第七支部に到着いたします』

 

車内アナウンスが流れる。

 

グラハムは窓の外を見た。

 

巨大な軍事基地が、ゆっくりと近づいてくる。

 

「……あー、帰りてぇ」

 

「もう到着しますよ、グラハム殿」

 

「聞こえてます。聞こえてますけど、聞きたくないんです」

 

バージィスは苦笑した。

 

グラハムは立ち上がり、左腕の義手を軽く動かした。

 

いざとなれば、戦闘なら何とかなる。

 

逃走経路の確保。

 

敵の無力化。

 

艦艇への帰還。

 

そのあたりなら、いくらでも方法を思いつく。

 

だが、相手は軍の第七支部司令長官だ。

 

武力で突破するわけにもいかない。

 

そもそも、アリーは敵ではない。

 

嫌いなわけでもない。

 

ただ、あの生活管理が問題なのだ。

 

「……俺、なんで帰ってきちゃったんだろ」

 

「航法システムの故障だそうですね」

 

「そうなんですけどね……」

 

「運命かもしれませんな」

 

「やめてください。そういうの、本当にやめてください」

 

メトロが停車した。

 

扉が開く。

 

グラハムは、重い足取りでホームへ降りた。

 

そこから先は、軍の中枢に近い区域だった。

 

壁面には作戦状況を示すホログラムが投影され、士官たちが慌ただしく行き交っている。

 

やがて、バージィスがひとつの扉の前で立ち止まった。

 

表札には、こう記されていた。

 

【ロシア連邦軍第七支部司令長官執務室】

 

「…………」

 

グラハムは、しばらくその文字を見つめた。

 

「……出世しすぎだろ、あいつ」

 

軍大学を卒業した頃は、自分と同じ一介の学生だったはずだ。

 

それが十六年で、ここまで上り詰めた。

 

いや、彼女ならあり得る。

 

昔から優秀だった。

 

自分より成績がよかったことも何度もある。

 

戦術眼も、指揮能力も、申し分ない。

 

ただ。

 

まさか、ここまでとは思わなかった。

 

「では、グラハム殿」

 

バージィスが姿勢を正した。

 

「こちらでお待ちです」

 

「いや、待ってください。心の準備が……」

 

コンコン。

 

扉がノックされた。

 

「グラハム・トルストイ殿が到着しました」

 

「…………」

 

おい。

 

ちょっと待て。

 

まだ何も覚悟できていない。

 

数秒の沈黙。

 

そして。

 

「――入って」

 

聞き覚えのある声がした。

 

昔よりも落ち着いた声。

 

けれど、間違いなく。

 

彼が知っている声だった。

 

扉が開く。

 

広々とした執務室。

 

大きな机。

 

壁一面に広がる星系図。

 

窓の向こうには、宇宙を背景に巨大な軍港が浮かんでいた。

 

そして、部屋の中央にひとりの女性が立っていた。

 

金色の髪。

 

澄んだ青い瞳。

 

幼さの残る美貌と、軍人らしい凛々しさが同居した顔立ち。

 

身長は百七十五センチほど。

 

旧ソ連を彷彿とさせる軍服の上から、厚手のウールコートを羽織っている。

 

その立ち姿には、長年の軍務によって磨かれた威厳があった。

 

アリー・パヴロヴァ。

 

百四十六歳。

 

ロシア連邦軍第七支部司令長官。

 

そして、グラハム・トルストイが十六年前に逃げ出した、幼なじみだった。

 

「…………」

 

「…………」

 

二人は、しばらく無言で見つめ合った。

 

グラハムは何か言わなければと思った。

 

久しぶりだな。

 

元気だったか。

 

ずいぶん出世したな。

 

言いたいことはいくつもあった。

 

しかし、口から出てきたのは。

 

「……よ、よう」

 

我ながら、ひどい挨拶だった。

 

アリーは答えなかった。

 

彼女は、ゆっくりと歩き出した。

 

一歩。

 

また一歩。

 

軍靴の音が、静かな執務室に響く。

 

そして、グラハムの目の前で立ち止まった。

 

「……グラハム」

 

「はい」

 

反射的に背筋が伸びた。

 

自分でも驚くほど自然な動作だった。

 

アリーは、じっと彼の顔を見つめた。

 

暗い青色の瞳。

 

青みがかった黒髪に混じる白髪。

 

鍛え上げられた身体。

 

そして、左腕のサイバネティックス製の義手。

 

彼女は、そのすべてを確かめるように見つめた。

 

「……本当に、グラハムなのね」

 

「いや、俺以外の誰に見えるんだよ」

 

いつもの調子で返してしまった。

 

言った直後、しまったと思った。

 

アリーの目が、わずかに揺れたからだ。

 

「……そうね」

 

彼女は、小さく笑った。

 

「本当に、帰ってきたのね」

 

その声は、驚くほど静かだった。

 

グラハムは曖昧に笑った。

 

「いや、まあ……事故みたいなもんで」

 

「事故?」

 

「次元スキップのシステムエラーだよ。気づいたら、この星系に飛ばされてたんだ」

 

「……そう」

 

アリーは目を伏せた。

 

そして、ゆっくりと息を吐いた。

 

「よかった」

 

「……え?」

 

「生きていて、よかった」

 

その言葉に、グラハムは何も返せなかった。

 

アリーは、そっと手を伸ばした。

 

白い手袋に包まれた指先が、彼の頬に触れる。

 

「……少し痩せた?」

 

「え? いや、そうか?」

 

「食事は?」

 

「普通に食べてるけど」

 

「睡眠は?」

 

「……まあ、そこそこ」

 

「そこそこ?」

 

「いや、ちゃんと寝てるって」

 

「何時間?」

 

「…………」

 

しまった。

 

この流れは知っている。

 

嫌というほど知っている。

 

アリーは、彼の顔を覗き込んだ。

 

「あとで健康診断を受けてもらうわね」

 

「いや、ちょっと待て」

 

「食事の記録も確認しましょう。あなた、昔から栄養管理が苦手だったでしょう?」

 

「昔の話だろ、それ!」

 

「それから、船の整備状況も確認しないと」

 

「いやいやいや!」

 

アリーは、嬉しそうに笑った。

 

十六年。

 

長すぎる時間だった。

 

何度も夢に見た。

 

何度も、彼が帰ってくる姿を想像した。

 

そのたびに、目を覚ますと隣には誰もいなかった。

 

けれど、今は違う。

 

グラハムが目の前にいる。

 

手を伸ばせば触れられる。

 

声をかければ返事がある。

 

彼は生きている。

 

帰ってきたのだ。

 

ならば、もう離す理由などない。

 

「……グラハム」

 

「ん?」

 

「住む場所も用意してあるわ」

 

「…………は?」

 

「軍施設の居住区よ。あなたの船を停泊させる専用ドックも確保してあるの」

 

「いや、ちょっと待て」

 

「必要なものは全部揃えておいたわ」

 

「……何を?」

 

アリーは、にっこりと微笑んだ。

 

「あなたが帰ってきたら、すぐに一緒に暮らせるように」

 

「…………は?」

 

時間が止まった。

 

いや、止まってくれた方がよかった。

 

グラハムは彼女を見つめた。

 

アリーは、本当に嬉しそうだった。

 

そこに冗談の気配はない。

 

「……一緒に?」

 

「ええ」

 

「……暮らす?」

 

「もちろん」

 

「……誰と?」

 

「あなたと、私」

 

「…………」

 

グラハムの脳裏に、逃走計画が浮かんだ。

 

まず、執務室を出る。

 

次に、港湾施設へ戻る。

 

そのまま《イエローチェイン》に乗り込み、通常航行で星系外へ離脱する。

 

次元スキップが使えなくても構わない。

 

多少時間がかかっても、ここから離れればいい。

 

そうすれば、少なくとも今日のところは逃げられる。

 

……問題は、目の前の女がそれを許すかどうかだ。

 

「……いや、アリー。俺、明日には出発するから」

 

アリーの笑顔が止まった。

 

「……明日?」

 

「あ、ああ。傭兵だからさ。次の仕事もあるし、航路の予定もあるし……」

 

「……そう」

 

彼女は一度、机の方へ視線を向けた。

 

そして、再びグラハムを見た。

 

「グラハム」

 

「はい」

 

「あなた、何年ぶりに帰ってきたと思っているの?」

 

「……十六年?」

 

「そうね」

 

アリーは微笑んだ。

 

「十六年と、数か月」

 

「…………」

 

「あなたが卒業して、私に何も言わずに国を出て。それから、一度も連絡を寄越さなかった」

 

「……うん」

 

「私は何度も連絡したわ」

 

「…………」

 

「あなたの登録情報を確認して、通信を送って、所属している傭兵組合にも照会した」

 

「……悪かった」

 

グラハムは、素直に謝った。

 

そこに言い訳はなかった。

 

自分が何も言わずに出ていったことは、理解していた。

 

アリーが心配していたことも、想像できた。

 

ただ、当時の彼には、そうするしか方法が思いつかなかったのだ。

 

このままアリーに甘えていてはいけない。

 

自分のことは、自分でできるようにならなければならない。

 

そう考えて、彼女のもとを離れた。

 

……なお、十六年経った現在も、自活能力はほとんど改善していない。

 

グラハムは、その事実をまだ深刻には受け止めていなかった。

 

「……ごめん」

 

もう一度、彼は言った。

 

アリーは目を見開いた。

 

ほんの一瞬、表情が崩れた。

 

そして、彼の手を取った。

 

両手で。

 

「……いいのよ」

 

「え?」

 

「もう、いいの」

 

彼女は微笑んだ。

 

「だって、あなたは帰ってきたんだもの」

 

その声には、安堵が満ちていた。

 

そして、その安堵の奥には、長い年月をかけて積み重なった、強い意志があった。

 

「これからは、もう大丈夫」

 

「……アリー?」

 

「今まで、ずっとひとりで頑張ってきたんでしょう?」

 

「いや、まあ……」

 

「もう、そんな必要はないわ」

 

アリーは、彼の手を握り直した。

 

「これからは私が、あなたの面倒を見てあげる」

 

「…………」

 

嫌な予感がした。

 

ものすごく。

 

「食事も、睡眠も、健康管理も。仕事の予定だって、私が一緒に考えてあげる」

 

「……いや、仕事は自分で」

 

「遠慮しなくていいのよ」

 

「遠慮じゃなくて」

 

「住む場所も用意してあるわ。あなたの船の整備も、私のところで手配できるようにしておいたの」

 

「ちょっと待って」

 

「もちろん、必要な手続きはすべて済ませてあるわ」

 

「……何の手続き?」

 

アリーは、にっこりと微笑んだ。

 

「あなたの安全確認と健康管理について、私が責任を持つための手続きよ」

 

「……誰が決めたの?」

 

「私よ」

 

「…………」

 

「安心して。あなたの自由は尊重するわ」

 

グラハムは、わずかに安堵した。

 

だが。

 

「ただし、あなたの健康に悪影響を及ぼすような生活習慣は改善してもらうし、危険な依頼については事前に相談してもらうわね」

 

「……それ、自由って言うのか?」

 

「もちろん」

 

「…………」

 

ダメだ。

 

何も変わっていない。

 

いや、むしろ悪化している。

 

昔は同級生だった。

 

今は軍の第七支部司令長官だ。

 

権限が増えた分、面倒なことになっている。

 

「……アリー」

 

「なあに?」

 

「俺、もう百四十六歳なんだけど」

 

「ええ。知っているわ」

 

「子供じゃないんだけど」

 

「ええ。知っているわ」

 

「自分のことくらい、自分でできるんだけど」

 

アリーは、しばらく彼を見つめた。

 

そして、静かに言った。

 

「……本当に?」

 

「…………」

 

グラハムは黙った。

 

脳裏に浮かぶ光景。

 

栄養補給ゼリー。

 

山積みの洗濯物。

 

同じデザインの服が並ぶクローゼット。

 

そして、整備の都合で放置したままの船内の一角。

 

「…………」

 

「……あとで、あなたの船を確認させてもらうわね」

 

「いや、ちょっと待って!?」

 

「大丈夫。怒らないから」

 

「その台詞、昔から一番信用できないんだけど!?」

 

アリーは楽しそうに笑った。

 

十六年ぶりに聞く、彼の声。

 

十六年ぶりに見る、彼の表情。

 

そして、十六年ぶりに隣にいる、愛しい人。

 

もう、離さない。

 

二度と。

 

彼が自分を嫌っているわけではないことは、アリーにもわかっていた。

 

グラハムは昔から、彼女に優しかった。

 

彼女を気遣い、困ったときには助け、何かあれば頼ってくれた。

 

だからこそ、彼が自分のもとを去った理由がわからなかった。

 

彼は、自分を愛していなかったのだろうか。

 

それとも、何か誤解があったのだろうか。

 

アリーは、その答えをまだ知らない。

 

だが、ひとつだけ確かなことがあった。

 

彼は、帰ってきた。

 

ならば、今度こそ。

 

自分の気持ちを理解してもらえばいい。

 

自分がどれほど彼を大切に思っているのか。

 

彼がどれほど自分にとって必要な存在なのか。

 

そして、二人が一緒にいることが、どれほど自然なことなのか。

 

時間はいくらでもある。

 

寿命が千年近くに延びた時代だ。

 

十六年など、長い人生の中では短い時間にすぎない。

 

彼が理解してくれるまで、何年かかっても構わない。

 

百年でも。

 

二百年でも。

 

彼が自分の隣にいる未来を、アリーは決して諦めない。

 

「さあ、行きましょう。グラハム」

 

「……どこに?」

 

「あなたのお部屋よ」

 

「船があるんだけど!?」

 

「船の管理は専門の整備班に任せておくわ」

 

「そういう問題じゃねぇ!」

 

アリーは彼の腕に、自分の腕を絡めた。

 

そして、嬉しそうに歩き出した。

 

グラハムは引きずられるようにして、その後を追った。

 

「……神様、俺が何をしたっていうんですか」

 

小さく呟く。

 

「何か言った?」

 

「……いえ、何も」

 

「そう。なら、まずは健康診断ね」

 

「…………」

 

終わった。

 

少なくとも、今日の自由は終わった。

 

そして、このときのグラハムはまだ知らなかった。

 

アリーが彼の帰還を知った瞬間、何を決めたのか。

 

十六年間、何を考え、何を待ち続けていたのか。

 

そして、彼女がどれほどの権限を手に入れ、どれほど周到に彼の帰還へ備えていたのかを。

 

宇宙を股にかける傭兵。

 

数々の戦場を駆け抜けた雷光。

 

あらゆる戦闘において、一騎当千と称される男。

 

その男が、今。

 

たったひとりの女に腕を絡められ、抵抗することもできずに連れていかれている。

 

戦場ならば、敵艦隊を相手にしても一歩も引かない男だった。

 

だが、彼女を相手にすると、どうにも調子が狂う。

 

昔からそうだった。

 

そして、これからも。

 

きっと、そうなのだろう。




幕間 イエローチェイン

グラハム・トルストイ。

二つ名、ライトニング。

彼は、自由を愛していた。

誰にも縛られず、自分の腕ひとつで生きていく。

誰かに頼らず、自分の力で未来を切り開く。

そのために、彼は故郷を離れた。

しかし、彼が知らなかったことがある。

人間は、自由になるために、必ずしも誰かから離れなければならないわけではない。

誰かに頼ることは、弱さではない。

誰かに愛されることは、束縛されることと同じではない。

ただし。

愛する者が、その違いを理解しているとは限らない。

アリー・パヴロヴァ。

ロシア連邦軍第七支部司令長官。

彼女は、グラハムを愛していた。

初等部で出会った日から。

中等部で恋心を自覚した日から。

高等部で、彼の生活を管理し始めた日から。

そして、彼が自分のもとを去った日から。

十六年が経っても、その気持ちは変わらなかった。

むしろ、彼がいなくなった時間が長ければ長いほど、彼女の中でその想いは強くなっていった。

彼女は、彼が戻ってくることを信じていた。

そして、戻ってきた彼を二度と失わないために、準備を続けていた。

グラハムは、まだ知らない。

自分が乗ってきた《イエローチェイン》の整備が、すでに軍の専属整備班によって手配されていることも。

彼の傭兵登録情報が、第七支部司令長官の権限によって確認されていることも。

彼が滞在する予定の居住区が、アリーの執務室からほど近い場所に確保されていることも。

そして。

彼が十六年前に置き去りにした幼なじみが、今もなお、自分を恋人だと思っていることも。

雷光は、自由に宇宙を駆ける。

だが、その足元には、目に見えない鎖が伸びていた。

鎖の色は、黄金。

その先を握っているのは、金髪碧眼の美しい司令長官。

彼女は、今日も微笑んでいる。

「おかえりなさい、グラハム」

その声は、優しい。

その手は、温かい。

そして、その愛情は。

あまりにも、重かった。

――イエローチェイン。

第一章・了。
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