どろどろ   作:ちゃもさん

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春を食べた日

 私が春を食べてしまったのは、あなたと出会った年のことだった。

 もちろん、本当に食べたわけではない。

 ただ、あなたと出会ってから、春という季節がひどく甘美で、ひどく苦しいものになってしまったのだ。

 桜の花びらが舞う道を歩くたび、あなたの笑顔を思い出した。暖かな風が頬を撫でるたび、あなたの指先が私の頬に触れた日のことを思い出した。

 そうして私は、春が来るたびに、あなたを好きになった。

 何度でも、何度でも。

 まるで、春という季節そのものを食べてしまうように。

「ねえ、来年も一緒に桜を見ようね」

 あの日、私がそう言うと、あなたは少しだけ困ったように笑った。

「うん。見られたらいいね」

「なにそれ。見られるよ、絶対」

「そうだね」

 あなたは、いつだってそうだった。

 私が未来の話をすると、あなたは曖昧に笑う。

 私が愛を囁くと、あなたは同じ言葉を返してくれる。

 私があなたの手を握ると、あなたは握り返してくれる。

 だから私は、あなたも私と同じだけ幸せなのだと思っていた。

 あなたが笑うから。

 あなたが手を握り返してくれるから。

 あなたが、私のことを好きだと言ってくれるから。

 それだけで十分だと思っていたのだ。

 今思えば、私はあなたの言葉ばかりを信じて、あなたの沈黙を一度も見ようとはしなかった。

 あなたが笑うたび、その目の奥に何があるのかを考えなかった。

 あなたが「大丈夫」と言うたび、本当に大丈夫なのかと尋ねることをしなかった。

 私は、あなたがくれるものだけを愛していた。

 あなたがくれないものについては、考えないようにしていた。

 それが愛だと信じていた。

 それが、私たちの始まりだった。

 

◇◇◇

 

 私たちの関係は、きっと最初から少しだけおかしかったのだと思う。

 私はあなたが好きだった。

 あなたが好きで、好きで、好きで、好きで。

 好きという言葉では足りないくらい、あなたのすべてを知りたかった。

 朝は何時に起きるのか。

 何を食べるのが好きなのか。

 どうして時々、ひとりで悲しそうな顔をするのか。

 私の知らないところで何を考え、誰と話し、何に笑っているのか。

 知りたかった。

 あなたのことなら、どんな些細なことでも知っていたかった。

 だって、好きなのだから。

 好きな人のことを知りたいと思うのは、そんなにおかしなことではないでしょう?

 けれど、私の「知りたい」は、いつしか「知らなければならない」に変わっていた。

 あなたからの返事が少し遅れるだけで、私は落ち着かなくなった。

 あなたが友人の話をすると、胸の奥がちくりと痛んだ。

 あなたが私の知らない場所へ行くと聞けば、そこに私の居場所がないことを寂しく思った。

 あなたの世界に、私の知らないものが増えていく。

 それが怖かった。

 あなたが私なしでも笑えることが、怖かった。

 あなたが私の知らない誰かと幸せになれることが、何よりも怖かった。

 だから私は、あなたの世界を少しずつ狭くしていった。

「今日、誰と会ってたの?」

「友達」

「誰?」

「前に話した子だよ」

「ああ、あの子。……何を話したの?」

「普通のことだよ」

「普通って、どんなこと?」

 あなたは困った顔をした。

 私はその顔を見るたび、少しだけ安心した。

 あなたが困っている。

 私の言葉に困っている。

 つまり、あなたは私を無視できないのだ。

 あなたの心を揺らせるのは、私なのだ。

 そんなふうに考えてしまう自分が嫌だった。

 嫌だったのに、やめられなかった。

「ごめんね。私、変だよね」

 そう言えば、あなたは決まって首を横に振った。

「そんなことないよ」

「ほんと?」

「うん」

「嫌いにならない?」

「ならないよ」

 その言葉を聞くと、私はようやく息ができた。

 あなたの優しさに救われていた。

 あなたの優しさに溺れていた。

 そしていつからか、あなたの優しさがなければ息もできない人間になっていた。

 私は、それを愛と呼んだ。

 あなたも、そう呼んでくれた。

 だから、きっと。

 悪いのは、私だけではなかったのだと思う。

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