どろどろ   作:ちゃもさん

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藍色の秘密

 僕が彼女に飽きてしまったのは、いつのことだっただろう。

 正確な日付は覚えていない。

 ある朝、彼女から届いた「おはよう」というメッセージを見ても、何も感じなかった。

 以前なら、たった四文字の挨拶だけで一日が明るくなった。

 彼女が僕を思い出してくれたこと。

 僕が彼女の一日の始まりにいること。

 それだけで、世界が少しだけ優しくなった気がした。

 なのに、その日は違った。

 またか、と思った。

 それだけだった。

 画面を閉じて、顔を洗い、朝食を食べた。

 それから一時間ほど経って、彼女に返信をした。

『おはよう』

 たったそれだけ。

 彼女はすぐに返事をくれた。

『今日も大好き!』

 僕は、何も返せなかった。

 大好き。

 その言葉を、僕は何度彼女に伝えただろう。

 何度、心にもない言葉を口にしただろう。

 彼女は僕を愛している。

 それは疑いようのない事実だった。

 彼女は僕の好きなものを覚えていたし、僕が疲れているとすぐに気づいた。僕が何気なく口にした言葉を、何か月も経ってから覚えていたこともあった。

 彼女は僕のことをよく見ていた。

 僕が自分自身でさえ気づいていない感情まで、見つけ出そうとしていた。

 そんな彼女が、僕には少しだけ恐ろしかった。

 僕は、彼女ほど彼女を見ていなかったからだ。

 彼女が悲しんでいるとき、どうすればいいのか分からなかった。

 彼女が不安を訴えるとき、何を言えば納得してくれるのかを考えた。

 彼女が泣きそうな顔で「好き?」と尋ねるとき、僕は自分の心ではなく、彼女が安心できる答えを探した。

「好きだよ」

 そう言えば、彼女は笑う。

「本当に?」

「本当だよ」

「ずっと?」

「ずっと」

 彼女が笑う。

 僕も笑う。

 それで、ひとまずその場は収まる。

 何度も繰り返すうちに、僕はいつしか、自分の気持ちを考えることすらしなくなった。

 彼女が欲しがる言葉を与えること。

 彼女が安心できるように振る舞うこと。

 彼女が僕を疑わずに済むように、曖昧な未来を約束すること。

 それが、僕の役目になっていた。

 彼女を傷つけたくなかった。

 だから本当のことを言わなかった。

 彼女が泣くところを見たくなかった。

 だから別れを切り出さなかった。

 彼女の隣にいるのが苦しくなった。

 だから、忙しいふりをした。

 少しずつ会う回数を減らし、返信を遅らせ、彼女が話しているときに別のことを考えるようになった。

 それでも彼女は、僕を愛してくれた。

 僕が冷たくすればするほど、彼女は優しくなった。

 僕が離れようとすればするほど、彼女は僕の手を強く握った。

 僕が笑わなくなれば、彼女は以前よりもたくさん笑った。

 まるで、僕の中から失われていくものを、自分の愛情で補おうとするみたいに。

 そんなことをされると、僕はますます何も言えなくなった。

 彼女は悪くない。

 そう思いたかった。

 けれど、彼女と一緒にいることが苦しい。

 彼女を失うのも、苦しい。

 どちらを選んでも誰かが傷つくのなら、何も選ばなければいい。

 そうして僕は、彼女を愛しているふりを続けた。

 優しさのつもりだった。

 臆病だっただけなのに。

 

     ◇◇◇

 

「ねえ、最近何かあった?」

 ある日の夕方、彼女が尋ねた。

 僕たちはいつもの喫茶店にいた。

 窓際の席。二人分の飲み物。彼女はミルクの入ったコーヒーを、僕は冷めかけた紅茶を飲んでいた。

「何が?」

「なんか、元気ないから」

「そうかな」

「うん。私、何かしちゃった?」

 彼女はそう言って、僕の顔を覗き込んだ。

 僕は視線を逸らした。

「別に、何もないよ」

「……そっか」

 彼女は笑った。

 その笑顔が、ひどく痛々しく見えた。

 何か言わなくてはならない。

 今ならまだ、間に合う。

 彼女の不安を否定するのではなく、僕の気持ちを伝えればいい。

 好きではなくなってしまったこと。

 一緒にいることが苦しくなってしまったこと。

 彼女のせいにするつもりはないこと。

 それでも、もう以前のようには戻れないこと。

 全部、正直に話せばよかった。

 けれど、僕は言わなかった。

「君は何も悪くないよ」

 代わりに、そんなことを言った。

 彼女は一瞬だけ目を見開いて、それから俯いた。

「……そういうこと言わないでよ」

「え?」

「何も悪くないって、何?」

 声が震えていた。

「じゃあ、何が悪いの? 何が変わっちゃったの?」

 僕は答えられなかった。

 彼女はテーブルの上で指を組み、ほどき、また組んだ。

「私、ちゃんとするから」

「何を?」

「分かんない。でも、ちゃんとするから」

 その言葉を聞いた瞬間、僕はようやく気づいた。

 彼女は、自分が悪いと思っている。

 僕が離れていく理由を、すべて自分の中に探している。

 僕の気持ちが変わっただけなのに。

 僕が彼女に嘘をついているだけなのに。

 それなのに彼女は、僕に捨てられないために、自分を変えようとしていた。

「君は、そのままでいいよ」

 僕は言った。

 また、嘘だった。

 そのままでいいと思っているのなら、僕はどうして彼女から離れようとしているのだろう。

 そのままでいいと思っているのなら、どうして本当のことを伝えられないのだろう。

 どうして僕は、彼女が僕のために変わろうとする姿を見て、少しだけ安心してしまったのだろう。

 僕は最低だった。

 彼女を傷つけたくないと思いながら、彼女を傷つけ続けていた。

 それでも僕は、口を閉ざした。

 彼女が僕の手を握った。

 僕は、その手を振りほどかなかった。

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