彼は私を好きだと言い、私は彼を好きだと言った。
彼は私を抱きしめ、私は彼の胸に顔を埋めた。
何も変わっていないように見えた。
けれど、何かが確実に変わっていた。
彼の手は、以前よりも冷たかった。
彼の声は、以前よりも遠かった。
彼の笑顔は、以前よりも上手になっていた。
私は、それに気づいていた。
気づいていたのに、気づかないふりをした。
だって、彼はまだ私の隣にいる。
まだ私の名前を呼んでくれる。
まだ、私のことを好きだと言ってくれる。
ならば、信じるべきではないか。
疑うよりも、信じたほうがいい。
彼を責めるよりも、自分を変えたほうがいい。
私は何度も自分に言い聞かせた。
彼は疲れているだけ。
彼は少し忙しいだけ。
彼は、私の知らない悩みを抱えているだけ。
私がもっと優しくすれば。
私がもっと物分かりのいい人間になれば。
私が、彼の負担にならないようにすれば。
きっと、また昔みたいになれる。
そう信じたかった。
そう信じなければ、私は何のために彼を愛しているのか分からなくなってしまう。
彼が笑ってくれることが嬉しかった。
彼が私を必要としてくれることが嬉しかった。
彼が私の隣にいてくれることが、何よりも嬉しかった。
だから私は、彼がいなくなる未来を考えないようにした。
考えてしまえば、きっと耐えられないから。
私の世界は、いつの間にか彼だけになっていた。
彼が笑えば晴れた。
彼が黙れば曇った。
彼が私を好きだと言えば、私は生きていてもいいのだと思えた。
彼が私を見ていないと感じると、私という人間そのものが、どこにも存在していないような気がした。
それは、愛だったのだろうか。
それとも、ただの恐怖だったのだろうか。
もう、分からなかった。
◇◇◇
夜になると、私はよく彼の言葉を思い出した。
『ずっと一緒にいよう』
彼が初めてそう言ってくれた日のこと。
『君がいれば、僕は大丈夫』
彼が弱音を吐いてくれた日のこと。
『君だけだよ』
彼が私の手を握りながら、そう囁いた日のこと。
あの言葉は、全部本当だったのだろうか。
あのときの彼は、確かに私を愛していたのだろうか。
それとも、彼もまた、私が欲しがる言葉を与えていただけなのだろうか。
考えても、答えは出なかった。
答えが出ないから、何度も考えた。
考えれば考えるほど、分からなくなった。
分からなくなるたび、彼に確かめたくなった。
けれど、確かめるのが怖かった。
もしも彼が、私の知りたくないことを言ったら。
もしも彼が、私の知らない顔で笑いながら、私のことを好きではないと言ったら。
私は、どうすればいいのだろう。
だから私は、彼に聞けなかった。
聞けないくせに、彼が何も言ってくれないことを恨んだ。
彼が嘘をついているのではないかと疑いながら、嘘でもいいから愛していると言ってほしかった。
そんな自分が、たまらなく嫌だった。
嫌で、嫌で、仕方がなかった。
それでも私は、彼の隣にいた。
彼もまた、私を遠ざけなかった。
私たちは互いの手を握りながら、互いの心から少しずつ離れていった。
離れていくことに気づいていながら、離れることができなかった。
それはまるで、呪いみたいだった。
ずっと。
ずっと。
ずっと。
終わらせたいのに。
終わらせることができない。
彼がいなければ、私はきっと楽になれる。
彼がいなければ、こんなに苦しまなくてもいい。
彼がいなければ、毎晩、言葉の裏側を探さなくてもいい。
それなのに。
彼がいない世界を想像するだけで、胸の奥がひどく冷たくなる。
彼がいなければ、私は何を好きになればいいのだろう。
何を見て笑えばいいのだろう。
誰に「おはよう」と言えばいいのだろう。
彼のいない朝を、私はどうやって迎えればいいのだろう。
私は彼を憎んでいた。
彼を愛していた。
彼に会いたかった。
彼に会いたくなかった。
そのすべてが本当だった。
だから、もう何も分からなかった。