あたしの他に、初めて彼女の存在に気づいたのはお母さんだった。
『メルちゃん、いったい誰とお話してるの……?』
『あたしの中にいる、女の子だよ』
『……そう』
少し震えた声で、お母さんはそれだけ言った。
あの時の、なにかを諦めたようなお母さんの儚げな微笑を、あたしは今でも忘れられないでいる。
*
まだ少し冬の匂いが交じる暖かな風が、ふいにあたしの髪をはためかせた。
桜の花びらたちが、まるで踊っているかのように目の前を通り過ぎていく。
「おお、ここがトレセン学園の寮かぁ……」
まだ何回かしか袖を通していない新しい制服に身を包み、あたしはまるでマンションのような建物の前に立っていた。
学生寮ってなんだか古くて小汚いってイメージがあったから、思っていたより綺麗そうで安心する。
「突然すみません!」
出てくるご飯も美味しかったらいいけどなぁ……なんて考えていると、男性の大きな声が背後から飛んできた。
びくん、と思わずしっぽの付け根を震わせながら後ろを振り返ると、何人かの大人の人がスマホやカメラを持ってあたしを取り囲んでいた。
「はい?」
「私、週刊キャンターの者です! スティルインラブさんの娘、メルティラブさんでお間違いないですよね!?」
そう聞いてきた男の人は顔を上気させ、貼り付けたような笑顔を浮かべている。
「ええ、まぁ」
あたしが短く答えると、彼らはこちらへ一歩にじり寄ってスマホを構える。
「メルティラブさん、トレセン学園へのご入学おめでとうございます!」
「あ、どうもありがとうございます」
「中学生ウマ娘ステークス・ミドルディスタンス部門2連覇と、活躍されたメルティラブさんには大きな期待がかけられているわけですが……。トリプルティアラウマ娘の娘としてトゥインクル・シリーズに臨むにあたって、今のあなたの心境や目標などを聞かせてくださいますか?」
おっ、これが取材ってやつか。
あたしぐらいの有名ウマ娘になると、デビュー前からけっこう注目されちゃうもんなんだなぁ~。
「う~ん、そうですねぇ」
<ちょっとメル。これ、取材ってやつよね? 勝手に受けちゃって大丈夫なの?>
得意げになってあたしが質問に答えようとすると、頭の中から女の子の声が響いてくる。
まったく、この子はいつも神経質でうるさいんだ。
だからあたしは、彼女の声を無視することに決めた。
「あたしの才能は、お母さんに負けないものがあると思っています。あたしもお母さんと同じようにティアラ路線へ挑むつもりです。みなさんのご期待に応えられるよう、がんばります!」
力強く宣言すると、記者たちから『おお~……』という感嘆の声が上がる。
<またあなたは、そんなビッグマウスを叩いて……>
脳内の彼女が、あきれたようにつぶやく。
うるさいなぁ。
あっちが求めてそうなことを言っただけだから、別に問題にならないって。
それに、あたしならきっと……。
「将来的にはティアラ路線に進まれるとのことですが、デビューはいつぐらいに?」
さっきとは違う記者が、ボイスレコーダーを差し出してくる。
「ん~。トレーナーと相談してからになるのですが、今年の夏の終わりから秋の初めぐらいになるんじゃないでしょうか」
「なるほど。ところで、メルティラブさんを担当されるトレーナーというのは?」
その質問にあたしは少し口角を持ち上げ、もったいつけるように息を整えた。
「あたしを担当してくれるのはお母さんをトリプルティアラに導いたトレーナー、つまりあたしの父ですね」
「えっ!? しかし、あなたのお父様は……」
「取り込み中、失礼します」
あたしの背後から、記者の質問を遮るように鋭い声が飛んできた。
思わず後ろを振り向くと、一人のウマ娘が探るような視線をこちらに向けている。
腰まで届く、艶のあるネイビーブルーのロングヘア。
切れ長の大きな瞳に、影が落ちそうなほど長いまつげが縁取っている。
ヨレひとつない制服姿の美貌のウマ娘が、そこにいた。
「あなたたち……マスコミの方々とお見受けいたしますが、学園に取材の許可は取られたのでしょうか? 誰一人取材許可の腕章をつけていらっしゃらないようですが」
大人たちを見据えて強い口調で問いただす彼女の声は、氷のように冷たい。
「あ、アドマイヤシャノンさん……」
突然現れた彼女の姿を見て、さっきあたしに質問してきた記者のひとが気まずそうに地面に目を向ける。
「当学園の生徒に取材をしているということは、当然学園の許可を得ていますよね? 許可証の提示をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「それは、その……」
「ふむ。誰も許可証を提示できない、と。つまり無断で学園に侵入し、勝手に取材を行った、ということですね?」
あたしと同じ年頃の小娘の詰問に大人たちはみんな押し黙って、視線をあさっての方へ向けているだけだ。
「わかりました。今ここにいる記者さんたちの会社には、学園を通じて厳重に抗議させていただきます。今日のところは、お引き取りください」
あくまで冷静な口調で申し伝える彼女に、マスコミたちはなにも反論することなく、すごすごと足早に立ち去ってゆく。
「……助かりました。いきなりマスコミの人達に囲まれて、どうすればいいか困っていましたので……」
彼らの姿が遠くなってから、あたしは愛想笑いを浮かべながら彼女に話しかけた。
<なに言ってるのよ。あなた、ノリノリで彼らの質問に答えていたじゃない>
……あのさ。
ちょっと、黙っててくれないかな。
「そう。私には、あなたが進んで記者たちの質問に答えていたようにみえたけど」
アドマイヤシャノンさんは腕を組むと、脳内のあの子とほぼ同じ事を言って呆れたような視線をあたしに向けてくる。
「あ、いえ。決してそのようなことは」
「……まぁいいわ。次からああいう許可をもらっていない記者の取材を、勝手に受けたりしないように」
そう言って彼女は小さくため息をつくと、すっと右手をあたしの前に差し出した。
「今日から入寮する、新入生のメルティラブさんね?」
「あ、はい……」
あたしがちょっと気まずそうに返事すると、彼女はうん、と首を縦に振る。
「私、この栗東寮の寮長を務めているアドマイヤシャノンといいます。寮長として、あなたの入寮を歓迎するわ」
「ありがとうございます……。どうぞよろしくお願いします」
あたしは差し出された彼女の白い手を、おずおずと握る。
小さい手はさらりとしていて、少し冷たかった。
「まずは寮の中を案内しながら、ここでのルールと決まり事を説明させてもらうわね。あなたの荷物はもう部屋の前に届いているはずだから、そのあとで確認してちょうだい」
「……わかりました。お願いします」
「それから」
「はい」
「あなた、高等部の1年生でしょう? 私も同学年だから敬語はいらないわ」
アドマイヤシャノンさんは無表情でそれだけいうと、「こっちよ」と言って寮の玄関へ脚を向けた。
*
食堂・談話室・浴場・洗面所などを案内してもらい、アドマイヤシャノンさんとあたしはまた食堂に戻ってきた。
「寮内の設備はこんな感じね。消灯は22時。それ以降は原則的に部屋から出るのは禁止で、破ったら罰則があるわ」
「その罰則って?」
「400字詰の原稿用紙に3枚以上の反省文よ」
「そうなんだ……」
なんとも古めかしい罰則だ。
しかし、その程度のルール違反で1200字も反省することがあるんだろうか。
小説家のお母さんなら、らくらく書いてしまいそうだとは思うけど。
「他になにか、聞いておきたいことはない?」
「いえ、特には……」
<メル。眠れない時にここへ飲み物を買いに来るのもダメなのか、聞いておいたほうがいいんじゃない?>
おお、そうだ。
それは確かに聞いておいたほうがいい。
いつも余計なことばかり言うヤツだけど、たまにはこうして役に立つことも言ってくれる。
「あ、ごめん。やっぱひとつだけ。消灯後、ここに飲み物を買いに来るのは……」
「同室の娘が高熱を出して水分が必要とか、そういう理由がない限りそれもダメよ。部屋には小さい冷蔵庫があるから、前もって購入して冷やしておくことね」
「わかった。気をつけるようにするよ」
「他に質問がないようなら、解散にするけど」
「あ、うん。もう大丈夫。今日はありがとう」
「これも寮長としての仕事だから。気にしないで」
彼女は平坦な口調でそれだけ言うと、椅子から立ち上がってあたしに背を向けた。
……悪い人じゃないんだろうけど、一緒にいて気疲れするタイプだな。
ぼんやりとそんなことを思い、あたしは小さく息を吐きだす。
すると急に、食堂から出ていこうとしていた寮長が脚を止めてこちらを振り向いた。
ツリ目気味の瞳にため息を見咎められた気がして、喉の奥で息が詰まる。
「……マスコミたちとのやり取りを聞いていたんだけど、あなた、来年トリプルティアラ目指しているんですって?」
「えっ?」
唐突な質問に、あたしはごくり、とつばを飲み込む。
「うん、まぁ一応……そうだね」
あたしが答えた瞬間、彼女の瞳に闘争心というには少し強すぎる光が宿った。
「私もティアラ路線を歩むつもりなの」
そう言い放ち、彼女はあたしの目を覗き込むようにして睨みつけてくる。
「負けないから」
きっぱりとそれだけ言うと、アドマイヤシャノンさんは寮を案内してくれていたときより少し大股で、食堂から出ていった。
*
<あまり似てないわよねぇ>
割り当てられた部屋に向かっている途中、頭の中からなにかに引っかかっていそうな声が聞こえてきた。
「似てないって、なにが?」
<アドマイヤシャノンさんのことよ。彼女、あのアドマイヤグルーヴさんの娘なんでしょ?>
「そうだね」
脳内ボイスに、あたしは気のない相槌を返す。
寮長はエリザベス女王杯を連覇した、アドマイヤグルーヴさんの娘だ。
中等部からトレセン学園に通っているエリートで、あたしと同じようにティアラ路線での活躍を期待されている。
<なんというか……お母さんと雰囲気が似てないように思うのよ>
「え~、そうかなぁ。あのツリ目とかクールビューティーっぽいところとか、アドマイヤグルーヴさんにけっこう似てない?」
<それはそうなんだけど、アルヴさんとは体型も結構違うみたいだし>
「あ~……体型は、確かにねぇ」
あたしは組んだ腕をバストの下にくぐらせて、うんうん、とうなずく。
<アルヴさんは女性らしい起伏に富んだスタイルだったようだけど、アドマイヤシャノンさんはどちらかと言えばスレンダーな感じよね。……まぁ体型のことで言うなら、あなたもお母様とはあまり似てないわね>
「あ~、そうかもね」
<お母様はあんなにスラリとしてて美しいスレンダー体型なのに……。あなたはどうして、そんなはしたなボディになっちゃったのかしら>
「
ちなみにあたしのスリーサイズは上から92・58・88、身長は158センチだ。
あと、その言い方はなにげに巨乳の女性全員をディスってるからな?
「せめてナイスバディと言え」
<その言い方も、なんだかおじさんくさいわねぇ>
「じゃあもう黙ってて。雄弁は銀、沈黙は金っていうから」
と、(わりとどうでもいい)脳内会議を繰り広げているうちに、今日から生活する部屋に到着する。
部屋の前には、大きめの段ボールが4つほど積まれていた。
<結構な荷物ね>
「あ~。寮生活って、なにを持っていけばいいのかわかんなかったから。とりあえず必要そうなものを詰めていたらこの量になっちゃったんだよね」
<あなたの荷造り見てたけど、ドライヤーとかスキンケアの道具はともかく……将棋の盤駒とかトランプとかポーカーチップって必要なの?>
「必要必要。将棋はトレーニングでも使うし、ルームメイトとはポーカーで楽しくコミュニケーション取らないと」
<……絶対コミュニケーション以外も取る気でいるでしょ、あなた>
それは相手のスキル次第なので、あたしはただ笑っているだけにした。
<荷物のことはともかくとして……私のこと、ルームメイトにどう説明するか、考えてあるの?>
「まぁ、それなりに」
彼女の疑問に、あたしはあいまいにうなずく。
ルームメイトとは、文字通り寝食をともにする間柄になる。
そうなると、あたしの中にいるもう一人の自分のことを隠し通すのはどう考えても不可能だ。
「ルームメイトはあたしと同じ新入生で、高等部一年生らしいよ。話しやすいタイプの人だったらいいんだけど……」
まだ見ぬルームメイトがいるはずの部屋の扉を、あたしは少し力の入った拳で、コンコンとノックした。