ONE PIECE IF ~天災の副船長~ 作:ななみん@サメメイド
一、五歳の春
ベルナード島に、春が訪れた。
海から吹く風はまだ少し冷たかったが、丘の上の大きな木には白い花が咲いていた。
その木の下で、カイル・D・ヴェインは木剣を振っていた。
「……九十八!」
ぶんっ。
「九十九!」
ぶんっ。
「……百!」
最後の一振りを終え、カイルはその場に座り込んだ。
「はぁ……はぁ……」
額から汗が流れる。
五歳の身体は、思った以上に疲れやすい。
前世で二十九年間生きていた記憶があるとはいえ、今の自分は紛れもない子供だった。
(……百回でこれか)
カイルは、小さな手を見つめた。
(先は長ェな……)
四歳の誕生日に前世の記憶を取り戻してから、すでに一年近くが経とうとしていた。
この世界が『ONE PIECE』であること。
海軍と世界政府が存在すること。
そして、これから先、海を震わせる怪物たちが現れること。
知識としては覚えている。
だが、知っていることと、生き残れることは別だ。
(覇気の使い方なんか分かんねェし、悪魔の実だってそう都合よく落ちてねェしな)
カイルは木剣を拾い上げた。
そのとき。
「カイルー!」
丘の下から声が響いた。
振り返る。
茶色い髪を揺らしながら、少女が走ってくる。
ミーナだった。
「また剣の練習してたの?」
「ああ」
「毎日やってるじゃん!」
「強くなりたいからな」
ミーナは頬を膨らませた。
「そんなことより、海行こ!」
「そんなことって……」
「今日は大きな船が来てるんだって!」
カイルの手が止まった。
「……船?」
「うん! すっごく大きいやつ!」
ミーナは両手を広げた。
「こーんな!」
カイルは首を傾げた。
「それじゃ分かんねェよ」
「とにかく大きいの!」
「……分かった分かった」
木剣を肩に担ぎ、立ち上がる。
「行こうぜ」
「やった!」
ミーナはカイルの手を掴んだ。
二人は丘を駆け下りていった。
その先に待っているものを、まだ知らずに。
二、港に来た船
ベルナード島の港は、いつもより騒がしかった。
漁師たちが集まり、商人が店を閉め、町の代表者まで姿を見せている。
沖合には、一隻の大型船が停泊していた。
帆には、青い海鳥を描いた旗。
海賊旗ではない。
海軍の旗でもなかった。
「……商船?」
カイルが呟く。
隣でミーナが頷いた。
「外国の船だって!」
だが、何かがおかしい。
港の人々は、歓迎しているようには見えなかった。
誰も笑っていない。
船から降りてきた男たちは、商人にしては妙に統率されていた。
同じ色の外套。
腰には剣。
何人かは銃も持っている。
その中央に、背の高い男がいた。
黒い礼服。
白い手袋。
整えられた口髭。
男は町の代表者へ、一枚の書類を差し出した。
「世界政府より通達です」
カイルの背筋が、わずかに冷たくなった。
(……世界政府?)
代表者の老人が、書類を受け取る。
「……我々は非加盟国ですが」
男は微笑んだ。
「承知しております」
「それならば、何のご用でしょう」
「確認したいことがありまして」
男は港を見渡した。
「この島には、外部へ申告されていない鉱物資源があるそうですね」
代表者が眉をひそめる。
「……鉱物?」
「ええ」
「我々の島に、大規模な鉱山などありません」
男は微笑んだままだった。
「それは、こちらで調べます」
カイルは、少し離れた場所から会話を聞いていた。
(……何だ、あいつら)
世界政府の人間。
ただの役人には見えない。
そのとき。
背後から、大きな手が肩へ置かれた。
「カイル!」
振り返る。
父親のレオンだった。
「こんなところにいたのか!」
「……とーちゃん」
レオンは沖合の船を見た。
その顔から、いつもの笑みが消えた。
「……帰るぞ」
カイルが眉を上げる。
「え?」
「今日は家にいろ」
レオンはミーナにも目を向けた。
「ミーナ、お前もだ。寄り道しねェで帰れ」
少女は不満そうに口を尖らせた。
「えー!」
「いいから」
レオンの声は、普段より強かった。
ミーナは驚いたように瞬いた。
「……うん」
カイルは父親の顔を見上げた。
(……何か知ってんのか?)
だが、レオンは何も言わなかった。
ただ、カイルの手を強く握った。
三、知らされなかった決定
その夜。
ヴェイン家では、いつもより早く夕食が終わった。
レオンはほとんど喋らなかった。
エレナも、窓の外を何度も確認している。
カイルは二人を見比べた。
「……何かあったの?」
エレナが振り返る。
「何でもないわ」
「……ほんと?」
「ええ」
優しく微笑む。
だが、笑顔がぎこちない。
レオンが立ち上がった。
「俺、ちょっと町へ行ってくる」
エレナの表情が変わる。
「……今から?」
「ああ」
「危なくない?」
レオンは、少しだけ笑った。
「大丈夫だ」
そして、カイルの頭を撫でた。
「父ちゃん、すぐ戻るからな」
カイルは、何も言えなかった。
レオンは家を出ていった。
扉が閉まる。
静かな夜。
遠くで、波の音だけが聞こえていた。
その頃。
港の倉庫。
ベルナード島の代表者たちが、世界政府の使者と向き合っていた。
机には、採掘権の譲渡を求める文書。
そして、もう一枚。
島内の住民名簿だった。
「……住民を調べる必要があるのですか?」
代表者が尋ねた。
使者は頷いた。
「安全保障上の確認です」
「我々は、あなた方へ敵対行為などしていません」
「もちろん」
使者は笑った。
「ですが、政府非加盟国における未登録資源の存在は、周辺海域の安定に関わります」
「だから、島を明け渡せと?」
使者は答えなかった。
その代わり。
「賢明な判断を期待しています」
とだけ告げた。
倉庫の外では、武装した兵士たちが出入口を固めていた。
会談というより、脅迫だった。
レオンは代表者の後ろに立ち、唇を噛んだ。
島で暮らす者たちは、誰も戦争など望んでいない。
船を造り、魚を獲り、畑を耕しているだけだ。
それなのに。
目の前の男たちは、その暮らしを紙切れ一枚で奪おうとしている。
「……ふざけるな」
思わず、言葉が漏れた。
使者が顔を上げる。
「……何か?」
レオンは一歩前へ出た。
「俺たちは、ここで生きてきた」
「……」
「何百年もだ」
使者は黙っている。
レオンは続けた。
「今さら来て、土地をよこせだの、資源を渡せだの……!」
そのとき。
代表者がレオンの腕を掴んだ。
「……レオン」
老人は首を振った。
レオンは歯を食いしばった。
使者は、静かに笑った。
「……残念です」
その声には、何の感情もなかった。
四、夜明けの砲声
翌朝。
最初に聞こえたのは、鐘の音だった。
カン、カン、カン。
けたたましい警鐘。
カイルは、ベッドから飛び起きた。
「……っ!?」
窓の外。
港の方角に、黒い煙が上がっていた。
次の瞬間。
どごおおおん!!
島全体が揺れた。
「……何だ!?」
カイルは窓へ駆け寄った。
沖合。
昨日の大型船の周囲に、何隻もの軍艦が現れていた。
白い帆。
海軍の紋章。
そして。
港へ向けられた大砲。
(……海軍!?)
どんっ!!
再び砲声。
港の倉庫が、炎に包まれた。
カイルの顔から血の気が引いた。
「……嘘だろ」
階下から、母親の声が響いた。
「カイル!!」
カイルは部屋を飛び出した。
階段を駆け下りる。
そこには、エレナが立っていた。
顔色が悪い。
手には、小さな鞄。
「……母さん?」
エレナは、カイルを抱き締めた。
「よかった……!」
その声は震えていた。
「無事でよかった……!」
カイルは、母親の背中へ手を回した。
「……何が起きてるの?」
エレナは答えなかった。
ただ、カイルの手を握った。
「……行きましょう」
「……どこへ?」
「港とは反対側の森よ」
外では、また砲声が響いていた。
五、崩れる日常
丘を下る道。
人々が逃げていた。
荷物を抱えた商人。
泣き叫ぶ子供。
負傷した老人を支える若者。
その頭上を、砲弾が飛んでいく。
轟ッ!!
家が、一軒吹き飛んだ。
「きゃあああ!!」
悲鳴。
黒煙。
火の粉。
カイルは、母親の手を握り締めた。
(……何でだよ)
昨日まで、普通だった。
市場では魚が売られ。
子供たちは海で遊び。
父親は船を造っていた。
それなのに。
(……何で、こんなことに……!)
前世の記憶が、激しく警鐘を鳴らしていた。
この世界の政府は、正義だけで動く組織ではない。
都合の悪い国を消すこともある。
だが。
知識として知っていたことと、実際に目の前で起きることは違う。
カイルは、走りながら必死に考えた。
(逃げろ)
(とにかく、生き残れ)
そのとき。
「カイル!!」
前方から声がした。
振り返る。
父親のレオンだった。
全身が煤に汚れている。
右腕から血が流れていた。
「……とーちゃん!!」
カイルが叫ぶ。
レオンは二人へ駆け寄った。
「無事だったか!」
エレナが泣きそうな顔で言った。
「レオン……!」
「ああ、大丈夫だ!」
レオンは、カイルの頭へ手を置いた。
そして、強い声で言った。
「森を抜けろ!」
カイルが眉を上げる。
「……え?」
「北側の崖に、古い船着き場がある!」
「……!」
「そこから島を出るんだ!」
カイルは、父親を見つめた。
「……とーちゃんは?」
レオンは、一瞬だけ黙った。
そして、笑った。
「もちろん、一緒だ!」
だが。
その目は、笑っていなかった。
六、ミーナ
森の入口。
カイルたちは、多くの住民と合流した。
その中に、見覚えのある少女がいた。
「……ミーナ!」
カイルが叫ぶ。
少女が振り返った。
「カイル!!」
ミーナは泣いていた。
服は泥だらけ。
片方の靴が脱げ、裸足のままだった。
カイルは駆け寄った。
「大丈夫か!?」
ミーナは、震えながら頷いた。
「……うん」
「家族は?」
その言葉に、ミーナの顔が歪んだ。
「……分かんない」
カイルの胸が締めつけられる。
ミーナは、必死に涙を拭った。
「お父さんが、逃げろって……!」
カイルは、言葉を失った。
そのとき。
レオンが二人へ近づいた。
「……カイル」
「……とーちゃん」
レオンは、ミーナの頭を撫でた。
「一緒に来い」
ミーナが顔を上げる。
「……いいの?」
「ああ!」
レオンは笑った。
「当たり前だろ!」
そして、森の奥を指差した。
「さあ、急ぐぞ!」
一行は、再び走り始めた。
だが。
その直後。
森の外から、銃声が響いた。
ぱんっ!!
逃げていた住民の一人が倒れた。
悲鳴。
誰かが叫ぶ。
「兵隊だ!!」
木々の間から、武装した兵士たちが現れた。
彼らは、逃げる住民へ銃を向けていた。
カイルの身体が、凍りついた。
(……嘘だろ)
兵士の一人が叫んだ。
「止まれ!!」
住民たちが足を止める。
だが、誰も抵抗する気などない。
武器も持っていない。
その瞬間。
兵士が銃を撃った。
ぱんっ!!
また一人、倒れた。
カイルの目が見開かれる。
(……何で)
(何で撃つんだよ……!)
レオンが、カイルとミーナを背後へ押しやった。
「……下がれ」
その声は、低かった。
七、父の背中
「……てめェら」
レオンが、兵士たちを睨んだ。
「何のために撃ってる」
兵士の一人が答えた。
「命令だ」
「……命令?」
「島内の抵抗勢力を排除する」
レオンは、思わず笑った。
だが、それは怒りに震えた笑いだった。
「……抵抗勢力?」
そして、叫んだ。
「子供が銃を持ってるように見えるか!!」
兵士たちは答えない。
代わりに、銃を構え直した。
レオンは、近くに落ちていた斧を拾った。
船大工が使う、ごく普通の道具。
戦うための武器ではない。
だが。
今は、それしかなかった。
「……エレナ」
レオンは、背後へ声をかけた。
「カイルとミーナを連れて行け」
エレナの顔が青ざめる。
「……あなた?」
レオンは振り返らない。
「頼む」
短い言葉だった。
エレナは唇を噛んだ。
そして、カイルとミーナの手を握る。
「……行きましょう」
カイルは首を振った。
「……嫌だ」
エレナが振り返る。
「カイル……」
「とーちゃんも、一緒に……!」
レオンが、少しだけ振り返った。
そして、笑った。
いつもの、あの笑顔だった。
「……カイル」
「……っ」
「母ちゃんを頼むぞ」
その瞬間。
銃声が響いた。
ぱんっ!!
レオンの身体が、わずかに揺れた。
だが、倒れない。
斧を握り締め、兵士へ突進する。
「うおおおおお!!」
どごんっ!!
斧の柄が、兵士の顔面を打ち抜いた。
別の兵士が銃を向ける。
レオンは、その腕を掴んで捻り上げた。
だが。
数が違いすぎた。
一人。
二人。
三人。
次々と兵士が集まってくる。
カイルは、母親に引っ張られながら叫んだ。
「とーちゃん!!」
レオンは振り返らなかった。
ただ、叫んだ。
「走れェ!!」
八、最後の約束
森の奥。
エレナは、二人の子供を連れて走っていた。
枝が顔をかすめる。
足元には木の根。
何度も転びそうになる。
その背後から、銃声が聞こえていた。
カイルは、必死に母親の手を握っていた。
「……母さん」
返事はない。
「……とーちゃんは?」
エレナは答えなかった。
ただ、走り続けた。
やがて、森の先に小さな船着き場が見えた。
崖の下。
岩に囲まれた入り江。
そこには、数隻の小舟が残されていた。
住民たちが、必死に船を出そうとしている。
「早く乗れ!」
「子供を先に!」
「急げ!!」
エレナは、カイルとミーナを一隻の船へ押し込んだ。
「……母さん?」
カイルが顔を上げる。
エレナは、必死に笑っていた。
「……カイル」
そして、頬へ手を添える。
「いい?」
「……うん」
「何があっても、生きるのよ」
カイルの胸が、強く締めつけられた。
「……母さん?」
エレナは続けた。
「誰かに言われたからじゃない」
「……」
「あなた自身が、生きたいと思う道を選びなさい」
そのとき。
船着き場の上から、声が響いた。
「いたぞ!!」
兵士たちだった。
銃口が、こちらへ向けられる。
エレナは振り返った。
そして、船を押した。
「出して!!」
船頭が、慌てて櫂を握る。
小舟が、岸から離れ始めた。
カイルは、母親へ手を伸ばした。
「……母さん!!」
エレナは、泣きながら笑った。
「……カイル」
そして。
「愛してるわ」
ぱんっ。
銃声。
エレナの身体が、崩れた。
カイルの世界から、音が消えた。
九、沈む故郷
小舟は、入り江から外海へ向かっていた。
カイルは、船の縁へしがみついていた。
「……母さん?」
返事はない。
「……母さん!!」
岸辺が遠ざかる。
倒れたエレナの姿が、小さくなっていく。
カイルは身を乗り出した。
「戻れ!!」
船頭が叫ぶ。
「駄目だ!!」
「戻れって言ってんだろ!!」
カイルは暴れた。
五歳の身体で。
必死に。
だが、大人たちに押さえられる。
「離せ!!」
「……坊主!!」
「母さんが!!」
その瞬間。
どごおおおん!!
巨大な砲声が響いた。
島の中心部で、大きな爆発が起きる。
建物が崩れ、炎が上がった。
ベルナード島。
生まれ育った故郷。
父親と母親がいた家。
ミーナと遊んだ浜辺。
市場。
丘の上の大きな木。
そのすべてが、炎に飲まれていく。
カイルは、呆然と見つめていた。
(……何で)
(……何でだよ)
五歳の身体では、何もできなかった。
誰も守れなかった。
木剣を振っていた自分。
強くなりたいと願っていた自分。
そのすべてが、あまりにも無力だった。
カイルは、震える拳を握り締めた。
(……世界政府)
その名前を、心の奥へ刻み込んだ。
だが。
今は、憎むことさえ苦しかった。
涙が止まらなかった。
十、海の上の絶望
数時間後。
小舟は、波に揺られていた。
陸地は、もう見えない。
周囲には、負傷した住民たち。
泣き疲れた子供。
そして、動かなくなった人々。
カイルは、船の隅へ座っていた。
何も喋らない。
何も食べない。
ただ、膝を抱えている。
隣には、ミーナ。
彼女も泣いていた。
「……カイル」
小さな声。
カイルは顔を上げない。
「……ねえ」
ミーナが、震える手を伸ばした。
「……一緒にいよう?」
カイルの指が、わずかに動いた。
だが。
言葉が出なかった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
ごめん。
怖かった。
助けたかった。
全部、意味がない気がした。
そのとき。
遠くから、船の汽笛が聞こえた。
ぼおおお……。
船頭が顔を上げた。
「……船だ!」
住民たちが、一斉に海を見た。
水平線の向こう。
一隻の大型船が近づいてくる。
その帆には、海軍の紋章。
カイルの身体が、強張った。
(……海軍)
小舟の住民たちも、顔を青ざめさせた。
「また……!」
「逃げろ!」
「もう嫌だ!!」
だが、小舟には逃げる力が残っていなかった。
軍艦が、ゆっくり近づいてくる。
その甲板には、一人の大男が立っていた。
黒い外套。
巨大な体格。
短く整えた黒髪。
そして、鋭い眼光。
男は、小舟を見下ろしていた。
「……何だ、こりゃ」
低い声が響いた。
その隣で、若い海兵が報告する。
「漂流者と思われます!」
男は、眉をひそめた。
「……子供がいるじゃねェか」
「はい!」
「引き上げろ」
海兵が顔を上げる。
「……しかし、命令では……」
男の目が鋭くなった。
「……何?」
海兵は、息を呑んだ。
男は、低い声で言った。
「俺は、助けろと言ったんだ」
その威圧感に、海兵たちは言葉を失った。
そして。
「……はっ!」
すぐに救助の準備が始まった。
十一、黒鬼
甲板へ引き上げられたカイルは、海兵たちを睨んでいた。
全身が震えている。
疲労。
恐怖。
怒り。
そのすべてが、混ざり合っていた。
海兵の一人が、水を差し出す。
「……坊や」
カイルは、手を払った。
水が床へこぼれる。
「……触るな」
海兵が眉をひそめる。
「……何?」
カイルは、歯を食いしばった。
「……お前らが」
その声は震えていた。
「お前らが、みんな殺したんだろ……!」
海兵たちの表情が変わった。
「……何の話だ?」
「とーちゃんも……!」
涙が落ちる。
「母さんも……!」
カイルは叫んだ。
「海軍が殺したんだ!!」
甲板が静まり返った。
そのとき。
「……おい」
低い声が響いた。
カイルが振り返る。
目の前には、先ほどの大男。
黒い外套。
大きな身体。
男は、カイルの前へしゃがみ込んだ。
そして、静かに尋ねた。
「……名前は?」
カイルは答えない。
男は、しばらく待った。
やがて。
「……カイル」
少年が呟いた。
男の目が細くなる。
「……そうか」
そして。
「俺はゲンザだ」
カイルは、顔を上げた。
「……ゲンザ?」
「ああ」
男は、少しだけ笑った。
「ゲンザ・クロガネ」
そして。
「……昔は、海軍にいた」
カイルの目が見開かれた。
「……海軍?」
ゲンザは頷いた。
「そうだ」
カイルの顔が歪む。
「……じゃあ、お前も……!」
ゲンザは、静かに首を横へ振った。
「俺は、今は違う」
そして、カイルを見た。
「……何があった?」
その声には、命令も威圧もなかった。
ただ、真剣だった。
カイルは、しばらく黙っていた。
そして。
「……島が」
声が震える。
「……燃えた」
ゲンザの目が細くなる。
「……どこの島だ?」
「……ベルナード島」
その瞬間。
ゲンザの表情が変わった。
「……何?」
カイルは、涙を流しながら続けた。
「……海軍が」
「……」
「みんな……殺した……!」
ゲンザは、しばらく動かなかった。
そして。
「……そうか」
低く呟いた。
その声には、深い怒りがあった。
だが、カイルには分からなかった。
ゲンザは、ゆっくり立ち上がった。
そして、背後の海兵たちへ命じた。
「……この子らに、飯と水を持ってこい」
「はっ!」
「怪我人は医者に見せろ」
「はっ!」
そして、もう一度カイルを見た。
「……坊主」
カイルが顔を上げる。
ゲンザは、少しだけ笑った。
「……腹、減ってるだろ」
カイルは、何も答えなかった。
ゲンザは、豪快に笑った。
「ガハハハ!」
「まず飯だ!」
その笑い声に、カイルは少しだけ驚いた。
大きい。
うるさい。
でも。
不思議と、怖くなかった。
十二、別れ
翌朝。
軍艦は、近くの中立港へ到着した。
漂流者たちは、少しずつ船を降りていった。
負傷者。
老人。
子供。
カイルは、甲板に立っていた。
隣にはミーナ。
「……カイル」
少女が、静かに声をかける。
「……ん?」
ミーナは、涙をこらえていた。
「わたし、行かなきゃ」
カイルの目が見開かれる。
「……どこに?」
ミーナは首を振った。
「……分かんない」
そして、少し離れた場所にいる女性を指差した。
ベルナード島から逃げ延びた、親戚の女性だった。
「……一緒に、別の町へ行くんだって」
カイルは、しばらく黙った。
「……そうか」
ミーナは、唇を噛んだ。
「……また会える?」
カイルは、答えられなかった。
この世界は広い。
海は危険だ。
そして、自分たちはまだ五歳。
簡単に会える保証など、どこにもない。
それでも。
「……会える」
カイルは、静かに答えた。
ミーナが顔を上げる。
「……ほんと?」
カイルは頷いた。
「……ああ」
そして、少しだけ笑った。
「絶対、会おう」
ミーナは、泣きながら笑った。
「……うん!」
二人は、小さな手を重ねた。
そして。
ミーナは、親戚の女性に連れられて船を降りていった。
カイルは、その背中を見送った。
最後まで。
姿が見えなくなるまで。
十三、黒鬼の決断
夕方。
軍艦の甲板。
ゲンザは、一人で海を見つめていた。
その隣に、若い海兵が立っている。
「……ゲンザ様」
「何だ?」
「本当に、あの少年を引き取るおつもりですか?」
ゲンザは、しばらく黙っていた。
そして。
「ああ」
短く答えた。
海兵は、眉をひそめる。
「……しかし」
「何だ?」
「世界政府が、ベルナード島の件を隠そうとしている可能性があります」
ゲンザの目が細くなった。
「……知ってる」
「では、あの少年を連れていれば……」
ゲンザは、鼻を鳴らした。
「狙われるかもな」
海兵は、黙った。
ゲンザは、ゆっくり笑った。
「……だから?」
「……え?」
「俺が、政府の連中を怖がると思ってんのか?」
海兵は、息を呑んだ。
ゲンザは、豪快に笑った。
「ガハハハハ!!」
そして。
「あんな小せェガキ一人、守れねェで何が大将だ!!」
その言葉に、海兵は目を見開いた。
ゲンザは、静かに続けた。
「……俺はもう、海軍を辞めた」
「……はい」
「だがな」
その目が、鋭くなる。
「正しいと思ったことまで、辞めた覚えはねェ」
海兵は、しばらく黙っていた。
そして、深く頭を下げた。
「……承知しました」
ゲンザは、海を見つめた。
ベルナード島。
政府によって消された、小さな故郷。
その名を、忘れるつもりはなかった。
終章 新しい家族
夜。
港町の小さな宿。
カイルは、窓際に座っていた。
外では、知らない町の灯りが揺れている。
両親はいない。
故郷もない。
ミーナも、遠くへ行ってしまった。
カイルは、小さな拳を握り締めた。
(……何も、守れなかった)
頭の中に、何度も同じ景色が浮かぶ。
レオンの背中。
エレナの笑顔。
燃える故郷。
そして、銃声。
カイルは、ゆっくり目を閉じた。
(……強くなりたい)
もう二度と、あんな思いをしたくない。
誰かに奪われるだけの人生など、嫌だった。
そのとき。
こんこん。
扉が叩かれた。
「……坊主」
ゲンザの声だった。
カイルは顔を上げる。
「……なに?」
扉が開いた。
大男が、顔を覗かせる。
「飯だ!」
カイルは、少しだけ眉をひそめた。
「……いらない」
ゲンザは、しばらく黙った。
そして。
「……そうか」
珍しく、あっさり引き下がった。
だが。
数秒後。
「じゃあ、俺が食うか!」
どかっ。
ゲンザは、部屋へ入ってきた。
巨大な皿。
そこには、山盛りの肉料理。
見た目は、少し焦げている。
カイルは、思わず顔をしかめた。
「……なに、それ」
ゲンザは胸を張った。
「俺が作った!」
「……黒いけど」
「焼いたからな!」
「……焦げてる」
「細けェことは気にすんな!」
ゲンザは豪快に笑った。
「ガハハハハ!!」
そして、一口。
肉を頬張る。
数秒の沈黙。
ゲンザの顔が、固まった。
「…………」
カイルが眉を上げる。
「……どうした?」
ゲンザは、ゆっくり皿を見た。
そして。
「……まずいな」
カイルは、思わず笑った。
「……ぷっ」
ゲンザが顔を上げる。
「お?」
カイルは、もう一度笑った。
「……あはは」
ゲンザは、しばらく少年を見つめていた。
そして。
「ガハハハハ!!」
豪快に笑った。
「笑えるじゃねェか!」
カイルは、涙を拭った。
それが悲しみの涙なのか、笑いすぎた涙なのか、自分でも分からなかった。
ゲンザは、焦げた肉の皿を横へ置いた。
そして、静かに言った。
「……カイル」
少年が顔を上げる。
「……ん?」
「俺と一緒に来るか?」
カイルは、しばらく黙った。
「……どこに?」
ゲンザは、少しだけ笑った。
「俺の家だ」
「……」
「広くはねェが、寝る場所くらいある」
カイルは、ゲンザを見つめた。
大きな身体。
黒い外套。
豪快な笑い声。
怖そうな顔。
だが。
不思議と、温かかった。
「……どうして?」
カイルが尋ねる。
ゲンザは、少しだけ考えた。
そして。
「……放っとけねェからだ」
カイルは、目を見開いた。
ゲンザは続けた。
「お前の親父さんも、お袋さんも、もういねェ」
「……」
「だが、お前は生きてる」
その言葉に、カイルの胸が震えた。
ゲンザは、静かに言った。
「……だから」
そして。
「これからは、俺が面倒見てやる」
カイルは、しばらく黙っていた。
やがて。
「……うん」
小さく頷いた。
ゲンザは笑った。
「ガハハハ!!」
そして、大きな手を差し出した。
カイルは、その手を握った。
温かかった。
かつて、父親のレオンが握ってくれた手。
それとは違う。
もっと大きくて、硬い手。
だが。
確かに、温かかった。
その日。
カイル・D・ヴェインは、新しい家族と出会った。
元海軍大将。
黒鬼。
ゲンザ・クロガネ。
後にカイルへ剣と覇気を教え、命を懸けて彼を守る男。
そして。
カイルが、心から「親父」と呼ぶことになる男だった。