シューレ・ショットがタバコを吸うことを、レオリオは以前から知っていた。
初めて見た時には、当然のように注意した。
「おい、シューレ! タバコなんか吸ってんじゃねえよ!」
「まあ。レオリオさん、煙がお嫌い?」
「そういう話じゃねえ! 健康に悪いって話だよ!」
「存じておりますわ〜」
「知ってんならやめろ!」
「それはまた、別のお話ですわねぇ」
当時のレオリオは、いつもの調子で煙に巻かれたと思っていた。
まさか、あの左目の話が関係しているとは考えもしなかったのである。
⸻
ある日の夕方。
訓練を終えた一行は、山中の休憩所で一息ついていた。
ゴンとキルアは食事の準備を手伝い、クラピカは今日の訓練内容を整理している。
ビスケは疲労具合を確認し、レオリオは医療用品の点検をしていた。
その時、シューレがふらりと外へ出ていった。
「……あいつ、またか」
レオリオは窓の向こうを見た。
シューレは休憩所から少し離れた場所で、タバコに火をつけていた。
紫煙が、夕暮れの空へゆっくりと流れていく。
特に何をするでもない。
ただ、ぼんやりと煙を吐いている。
その姿を見て、レオリオはため息をついた。
「ったく……」
注意するべきだ。
医者を目指している人間として、健康に悪い習慣を見過ごすわけにはいかない。
そう思って、立ち上がった。
「……レオリオ」
クラピカが声をかけた。
「ん?」
「シューレのタバコについてだが……」
「おう。今からちょっと言ってくる」
「……いや」
クラピカは、少し言いづらそうに視線を落とした。
「君は、あの左目を使った後のことを知っているな?」
「……ああ」
「三日間、ひどい頭痛と吐き気が続く。眠ることもままならない」
「知ってるよ」
「では、彼女がなぜタバコを吸っているのか、考えたことはあるか?」
レオリオは黙った。
「……まさか」
クラピカは静かに頷いた。
「本人から、少し聞いた」
⸻
「頭の中をイバラで締め上げられているような痛みが、三日間続くんですのよ」
以前、シューレはそう説明した。
「眠れない。気持ち悪い。何をしていても痛い。痛みから意識を逸らそうとしても、結局、痛みが追いかけてくる」
それでも、彼女は軽い調子で笑っていた。
「……あれは、何度経験しても慣れませんわねぇ」
その言葉を、クラピカは覚えていた。
シューレは左目を使うことを嫌がる。
当然だ。
あれは、単に疲れるとか、少し頭が痛くなるとか、そういう代償ではない。
眠りたくても眠れず、身体を休めたくても休めない。
三日間、逃げ場のない苦痛に付き合わされる。
そして、使った後に何かあっても、すぐには本来の力を発揮できない。
それを承知で、彼女は必要な時には左目を開く。
仲間を守るために。
自分の判断で。
「……あの子、タバコを吸っている時だけは、少し気が紛れるらしい」
クラピカの言葉に、レオリオは顔をしかめた。
「だからって、タバコがいい理由にはならねえだろ」
「ああ。私もそう思う」
「だったら――」
「ただ、彼女が何を紛らわせようとしているのかを知った上で、君は同じように言えるか?」
レオリオは口を閉じた。
⸻
「……シューレ」
外へ出ると、シューレはちょうど煙を吐いたところだった。
「あら、レオリオさん。どうかなさいました?」
「いや……」
レオリオは、彼女の隣に立った。
タバコの先が赤く光る。
シューレはいつものように、のんびりとした顔をしていた。
「……それ、うまいのか?」
「さて。おいしいかと聞かれますと、少々難しいですわねぇ」
「じゃあ、何で吸ってんだよ」
「気が紛れますの」
「……何から?」
シューレは、少しだけ黙った。
それから、タバコを持つ手を軽く振った。
「頭の中の、嫌な記憶からですわね」
レオリオの表情が変わった。
「……左目か」
「ええ」
シューレはあっさり頷いた。
「使った後の痛みを思い出すだけで、少し嫌な気分になりますの。実際に痛むわけではないのですけれど、あの三日間を思い出すのは、あまり愉快ではありませんわねぇ」
「……」
「タバコを吸っている間は、そちらに意識を向けずに済みますの。煙を吐いて、ぼんやりして。そうしていると、少しだけ頭が休まる気がいたしますわ」
彼女は、また煙を吐いた。
「もちろん、タバコが健康にいいとは思っておりませんわよ?」
「……だったら」
レオリオは言いかけた。
やめろ。
身体に悪い。
他にストレスを解消する方法を探せ。
言いたいことはいくらでもあった。
だが。
「……だったら、もうちょっと身体を大事にしろよ」
出てきたのは、それだけだった。
シューレは瞬きをした。
「まあ」
「いや、タバコも身体に悪いしよ。そこは俺だって、やめてほしいと思ってる。思ってるけど……」
言葉が続かない。
左目を使った後のシューレを、レオリオは直接見ていないわけではない。
痛みに顔を歪め、まともに立つこともできず、眠ることすら許されない三日間。
彼女は、それを知っている。
知っていて、それでも必要なら左目を開く。
そして、その記憶を抱えたまま、いつものように笑っている。
「……お前、あんな目を使った後、三日間も苦しむんだろ」
「ええ」
「だったらせめて、使わずに済む時くらいは……」
レオリオは、そこで言葉を切った。
シューレは、タバコを持ったまま彼を見つめていた。
いつもの笑顔。
だが、からかうような笑みではなかった。
「……ありがとうございます、レオリオさん」
「礼を言われるようなことは言ってねえよ」
「いいえ。ワタクシの身体を心配してくださったのでしょう?」
「……そりゃ、医者を目指してるからな」
「ふふ。そうでしたわねぇ」
シューレは小さく笑った。
「でも、ご心配なく。左目は、必要がなければ使いませんわ」
「……分かってるよ」
「タバコについては……」
「……」
「今すぐやめる、とまではお約束できませんけれど」
「……だろうな」
レオリオは頭を掻いた。
「そこは、少しずつ考えてくれ。別に、今すぐ全部やめろって言いたいわけじゃねえから」
言ってから、自分で驚いた。
以前なら、そんな言い方はしなかった。
健康に悪いものはやめろ。
それで終わりだったはずだ。
けれど、今は違う。
タバコを吸う彼女の姿を見るたび、頭の中をイバラで締め上げられるような痛みが、三日間続くことを思い出してしまう。
そして、眠れない夜を何度も越えなければならないことも。
「……ただし」
レオリオは、少しだけ真剣な顔をした。
「頭痛がひどくなったり、吐き気がしたり、体調がおかしい時は、絶対に俺に言えよ。タバコで紛らわせようとするな。いいな?」
「ええ。承知いたしましたわ〜」
「本当だな?」
「本当ですわよ」
「……ならいい」
レオリオは、深く息を吐いた。
シューレは最後に一度だけ煙を吐き、タバコを消した。
「……さて。そろそろ戻りましょうか」
「ああ」
二人は並んで休憩所へ戻った。
⸻
その夜。
キルアは、レオリオの様子がおかしいことに気づいていた。
「……なあ、レオリオ」
「何だよ」
「今日、シューレにタバコのことで何も言わなかっただろ」
「……ああ」
「やめろって言わねえの?」
レオリオは、少しだけ眉を寄せた。
「言いたいさ。そりゃ、身体に悪いんだからな」
「じゃあ、何で?」
「……事情を知っちまったからだよ」
キルアは黙った。
レオリオは、机に肘をついた。
「タバコが身体に悪いのは事実だ。そこは変わらねえ。でもよ……あいつが何を紛らわせるために吸ってるのか知っちまったら、簡単にやめろとは言えねえだろ」
「……」
「三日間だぞ。三日間、頭が痛くて、吐き気がして、眠れねえんだ。俺だって、そんなの経験したことねえ」
レオリオは拳を握った。
「それでも、あいつは必要なら左目を使うんだ。自分がどんな目に遭うか分かっててもな」
「……ああ」
「だったらせめて、タバコを吸ってる間くらいは、あいつが少しでも楽でいられるなら……」
そこまで言って、レオリオは口を閉じた。
医者を目指す者としては、褒められた考え方ではない。
身体に悪い習慣を、事情があるからと見過ごす。
本来なら、別の方法を探してやるべきなのだ。
それでも。
「……俺は、今すぐやめろとは言えねえよ」
キルアは、しばらくレオリオを見ていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……お前、そういうとこは本当に医者っぽいよな」
「どういう意味だ?」
「患者の事情を知ったら、簡単に切り捨てられなくなるとこ」
「……うるせえ」
レオリオは顔を背けた。
「ただ、いつかは別の方法を一緒に探してやりてえとは思ってる」
その言葉に、キルアは何も言わず頷いた。
⸻
翌日。
シューレは、休憩時間にタバコを取り出そうとした。
すると、隣からレオリオが声をかけた。
「……シューレ」
「はい?」
「吸う前に、少し散歩でもしねえか?」
「散歩?」
「ああ。身体を動かすのが嫌なら、座って話すだけでもいい」
シューレは目を丸くした。
「……タバコをやめろ、とはおっしゃらないんですの?」
「言いたい気持ちはある」
「まあ」
「でも、いきなり取り上げるような真似をするつもりはねえよ。……別の方法で少しでも楽になるなら、それに越したことはないだろ」
シューレは、しばらくレオリオを見つめていた。
そして。
「……ふふ」
小さく笑った。
「レオリオさんは、お優しいですわねぇ」
「別に、優しくなんかねえよ」
「そうですの?」
「……医者になりたいだけだ」
「それは、素敵なことですわ」
シューレはタバコをしまった。
「では、今日はお散歩にいたしましょうか」
「おう」
二人は歩き出した。
その日、シューレがタバコを吸わなかった時間は、いつもより少し長かった。
それだけのことだ。
すぐにやめると約束したわけでもない。
頭痛の記憶が消えたわけでもない。
それでも、レオリオは思った。
いつか、あの左目の代償を紛らわせるために、タバコ以外の選択肢を増やしてやりたい。
タバコをやめろと一方的に命じるのではなく。
彼女が苦しみを抱えたままでも、少しだけ楽に過ごせる方法を、一緒に探してやりたい。
「……なあ、シューレ」
「はい?」
「今度、頭痛がひどくなった時は、遠慮せず俺を呼べよ」
シューレは、少しだけ驚いた顔をした。
それから、いつもの笑顔で頷いた。
「ええ。頼りにしておりますわ、レオリオさん」
その言葉に、レオリオは照れくさそうに顔を背けた。
――医者の卵には、言えないことがある。
けれど、言えないからといって、何もできないわけではない。
少なくとも今は。
彼女がタバコを吸う理由を知ってしまったレオリオには、ただ「やめろ」と言う代わりに、隣を歩くことができた。