最初は、ほんの些細なことだった。
訓練の後片づけをしていたシューレが、左目を覆う髪に触れた。
ただ、それだけ。
左目は閉じている。痛みもない。吐き気もない。頭の奥に、あのイバラが巻きついているわけでもない。
何も起きていない。
何も。
「…………」
指先が、髪をつまんだまま止まる。
ふと、思い出したのだ。
左目を開いた直後の、あの感覚。
相手が倒れたことを確認する余裕もないまま、頭の奥を鋭い何かで抉られたような痛みが走った。
次の瞬間には、吐き気が喉元までせり上がっていた。
横になっても痛い。
目を閉じても痛い。
眠ろうとするたび、痛みに意識を引き戻される。
一時間が過ぎたと思ったら、時計の針はほとんど動いていない。
まだ一日目。
あと二日。
あと二日も、これが続く。
「…………っ」
シューレは、髪から手を離した。
大丈夫。
今は痛くない。
あの時とは違う。
分かっている。
分かっているのに、こめかみの奥が、じわりと疼いた気がした。
実際に痛みが始まったわけではない。
それでも、身体が先に思い出す。
また来る。
もし、また左目を使うことになったら。
もし、次はもっと長引いたら。
もし、今度こそ、耐えられなかったら。
「……っ、は……」
息が、浅くなった。
シューレは立ち止まった。
自分が呼吸をうまくできていないことに、少し遅れて気づく。
「……違いますわ」
小さく呟く。
「今は、何も……」
言葉が続かなかった。
何も起きていない。
それは分かっている。
だが、あの三日間を思い出している間だけは、今とあの時の区別がうまくつかなくなる。
頭痛が来る前の、あの嫌な予感。
痛みが始まった瞬間。
眠れない夜。
吐き気。
そして、終わりが来るまで何もできないという、どうしようもない感覚。
シューレは、きつく目を閉じた。
「……いや」
声が漏れた。
「……もう、あれは……」
そこから先を、口にできなかった。
⸻
気がつくと、シューレは休憩所の裏手にいた。
どうやって歩いてきたのか、よく覚えていない。
ポケットからタバコを取り出す。
一本。
指先が、わずかに震えていた。
「……落ち着きなさいませ」
自分に言い聞かせる。
いつも通りに。
火をつけて、吸って、吐く。
それだけだ。
何も難しいことではない。
ライターを取り出す。
一度目。
火がつかない。
二度目。
小さな炎が灯った。
シューレは、ようやくタバコに火をつけた。
煙を吸い込む。
喉に刺激が走る。
吐き出す。
白い煙が、夜の空気にほどけていく。
もう一度。
吸って。
吐く。
吸って。
吐く。
その繰り返しに、意識を押し込める。
今、息を吸っている。
今、煙を吐いている。
火が燃えている。
指先に、タバコの感触がある。
ここは休憩所の裏だ。
頭は痛くない。
吐き気もない。
左目は閉じている。
今は、あの三日間ではない。
「…………」
煙を吐く。
もう一度、吸う。
胸の中に、ほんの少しずつ余裕が戻ってくる。
記憶が消えたわけではない。
恐怖がなくなったわけでもない。
ただ、あの三日間に引きずり込まれそうだった意識が、少しずつ現在へ戻ってくる。
シューレは、目を閉じたまま、煙を吐いた。
「……よかった」
誰に聞かせるつもりもない声だった。
「……間に合いましたわ」
⸻
「……シューレ?」
背後から声がした。
彼女の肩が、びくりと跳ねた。
振り返る。
レオリオだった。
「あら……レオリオさん」
いつもの声を出そうとした。
「どうかなさいました? こんなところで――」
「お前、どうした?」
即座に返された言葉に、シューレは口を閉じた。
レオリオは、彼女の顔を見ていた。
笑っている。
一応は。
だが、頬の色が悪い。呼吸もまだ浅い。タバコを持つ指には、普段なら見せないほど強く力が入っている。
そして何より。
彼女は、レオリオが声をかけた瞬間、本気で驚いた。
敵の気配を察知することに長けたシューレが。
「……具合が悪いのか?」
「いいえ」
返事が早すぎた。
「どこか痛むのか?」
「いいえ。そういうわけでは……」
「じゃあ、何だよ」
シューレは笑おうとした。
「少し、気分転換をしていただけですわ〜」
「嘘つけ」
低い声だった。
シューレの笑みが止まる。
レオリオは、彼女の手を見た。
「……手、震えてるぞ」
「……」
「タバコを吸うのに、そんなに力を入れる必要があるのか?」
シューレは、手元に視線を落とした。
指先は、まだわずかに震えていた。
「…………少し」
言いかけて、止まる。
いつものように、軽くごまかせばいい。
少し疲れただけ。
大したことではない。
そう言えば、レオリオは心配しながらも、ひとまず引き下がるかもしれない。
けれど。
今は、それすら面倒だった。
ごまかすために笑う余裕が、まだ戻っていない。
「……少し、思い出してしまいましたの」
「何を?」
シューレは、タバコを持つ手を見つめた。
「……左目を使った時のことを」
レオリオの表情が変わった。
「……あの頭痛か」
「ええ」
「今、痛むのか?」
「いいえ。実際には、何も」
シューレは、言葉を探した。
「……何も起きていないのに、あの時のことを思い出してしまって。そうしたら、また始まるような気がして……」
そこで、喉が詰まった。
自分でも、ひどく情けない説明だと思った。
敵と戦うことなら怖くない。
怪我をすることも、血を流すことも、必要なら受け入れられる。
なのに、何も起きていない今、あの三日間を思い出しただけで、呼吸ひとつまともにできなくなる。
「……頭では、分かっておりますのよ」
シューレは、かすかに笑った。
「今は痛くない。左目も使っていない。あの時とは違う。そんなことは、ちゃんと分かっておりますわ」
「……」
「でも、思い出してしまうと……どうしても、次にあれが来ることばかり考えてしまって」
彼女は一度、煙を吸った。
「……タバコを吸わないと、そこから戻ってこられない時があるんですの」
レオリオは、黙った。
「吸えば治る、というわけではありませんわ。これが身体にいいとも思っておりません。そんなことは、もちろん存じております」
シューレの声が、少しずついつもの調子を取り戻していく。
だが、それは普段の余裕からではなかった。
言葉を整えているのだ。
自分が今、どれだけ切羽詰まっていたのかを、他人に伝えられる形に。
「……ただ、何かひとつ、今ここにあるものに意識を向けていないと、頭の中があの三日間でいっぱいになってしまいますの」
タバコを持つ手が、わずかに下がった。
「煙を吸って、吐いて。それを繰り返していると、少しずつ今に戻ってこられるんですの」
シューレは、レオリオを見た。
「……ですから、今は、これが必要でしたの」
その言葉に、言い訳はなかった。
タバコが健康にいいからでもない。
依存していないと言い張るためでもない。
ただ、今この瞬間をやり過ごすために必要だった。
彼女はそれを、隠さなかった。
⸻
「……そっか」
レオリオは、ようやくそれだけ言った。
もっと何か言うべきだと思った。
タバコは身体に悪い。
吸わない方がいい。
他の方法を探すべきだ。
どれも正しい。
だが、今ここで、その正しさを並べても仕方がないことくらいは分かった。
彼女は今、困っている。
タバコをやめるかどうかという、長い目で考える問題ではない。
今、この瞬間に、あの三日間の記憶からどうやって抜け出すか。
そのために、彼女は火をつけたのだ。
「……今は、もう大丈夫か?」
レオリオが尋ねた。
シューレは、少し考えてから頷いた。
「……ええ。先ほどよりは」
「本当か?」
「ええ。まだ少し、嫌な感じは残っておりますけれど」
「じゃあ、座れ」
「……はい?」
「立ったまま無理すんな。ほら」
レオリオは近くの木箱を引き寄せた。
シューレは一瞬だけ迷ったが、やがて腰を下ろした。
レオリオも隣に座る。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
シューレは、タバコを吸った。
今度は、先ほどほど急いではいなかった。
吸って、吐く。
煙が流れていく。
レオリオは、それを止めなかった。
⸻
「……レオリオさん」
「何だ?」
「タバコを吸っていること、叱らないんですの?」
「叱りたい気持ちはある」
「まあ」
「身体に悪いのは事実だからな」
シューレは小さく笑った。
「でしょう?」
「けど、今のお前に『やめろ』って言ったところで、何にもならねえだろ」
彼女は、目を瞬いた。
「……今は、やめろって言わないんですの?」
「今はな」
レオリオは、まっすぐ前を見たまま答えた。
「今のお前は、何かをやめる話をしてるんじゃねえ。どうにかして、今の状態を抜け出そうとしてたんだろ」
「……」
「だったら、まずそっちだ。タバコの話は、その後でいい」
シューレは、しばらく彼を見ていた。
それから、ふっと視線を落とした。
「……困りましたわねぇ」
「何がだよ」
「そんなふうに言われると、もう少し頼ってもよいのかしら、と思ってしまいますわ」
「頼れって言ってんだよ」
「……そうですの」
彼女の声が、ほんの少しだけ小さくなった。
「……では、今度また、こうなってしまったら」
「ああ」
「少しの間、そばにいていただいても?」
レオリオは、即座に頷いた。
「当たり前だろ」
シューレは、目を伏せた。
「……ありがとうございます」
その声には、いつもの軽さがなかった。
⸻
タバコを吸い終える頃には、シューレの指の震えはほとんど治まっていた。
彼女は吸い殻をきちんと消し、立ち上がる。
「……もう大丈夫ですわ」
「ならいいけどよ。まだ変だったら、ちゃんと言えよ」
「ええ」
「あと、次に同じことが起きた時は、タバコを出す前でもいい。俺を呼べ」
シューレは少し驚いた顔をした。
「……でも、レオリオさんにもご都合が」
「そんなもん、後で考えりゃいいだろ」
「……」
「お前がひとりでどうにかしようとして、余計に苦しくなる方が嫌なんだよ」
シューレは、ゆっくりと瞬きをした。
それから、いつものように微笑んだ。
「……では、お言葉に甘えさせていただきますわ〜」
「おう」
二人は休憩所へ戻った。
シューレはもう笑えていた。
いつもの口調で、レオリオに軽口を叩くこともできた。
けれど、レオリオは忘れなかった。
あの時の彼女は、いつものように余裕があったわけではない。
タバコを吸うのが好きで、のんびり煙を楽しんでいたのでもない。
あの記憶に呑まれそうになって、どうにか自分を今へ引き戻そうとしていた。
タバコが健康に悪いことは変わらない。
それで苦痛が治るわけでもない。
それでも、彼女があの瞬間に何を必要としていたのかは、もう分かった。
だからレオリオは、いつか別の対処法を一緒に探そうと思った。
タバコを取り上げるためではない。
彼女が、あの記憶に追いつめられた時。
火をつける以外にも、今へ戻ってこられる道を増やすために。
そして、その道を見つけるまでの間くらいは。
彼女がひとりで耐えようとしなくてもいいように。