The painを使ってから、一週間が経った。
頭痛は、もうない。
吐き気も収まった。
食事も取れるし、夜も眠れる。少なくとも、あの三日間のように、眠りに落ちかけては頭痛に引き戻されることはなくなった。
身体だけを見れば、シューレ・ショットはすっかり回復していた。
――身体だけを見れば、だ。
「……」
「……シューレ?」
「……なんですの?」
「いや、今の話、聞いてたか?」
「ええ。聞いておりますわ〜」
「じゃあ、なんでそんなに機嫌悪そうなんだよ」
「機嫌は悪くありませんわよ?」
にこり。
いつもの笑顔。
ただし、テーブルに置かれたカップの取っ手を握る指には、妙に力が入っていた。
レオリオは、向かい側で額を押さえた。
「……お前、最近ずっとそんな感じだぞ」
「まあ。そうでしたかしら?」
「そうだよ。ちょっとしたことで黙り込むし、話しかけても返事が短いし、休憩中も妙にピリピリしてるし……」
「レオリオさん」
「なんだよ」
「ワタクシ、今、たいへん穏やかな気持ちですわ」
「その握り方でカップを粉砕しそうになりながら言うな!」
シューレは、自分の手元を見た。
カップは無事だった。
「……あら。本当ですわね」
そう言って、指の力を抜く。
彼女自身、分かっていた。
痛みは消えた。
けれど、あの三日間の記憶は消えていない。
ふとした拍子に思い出す。頭の中を締め上げるような痛み。胃の底から込み上げる吐き気。眠れない夜。
そして、必要ならば、またあの苦痛を引き受けることになるという事実。
普段なら、笑って流せる。
今までだって、そうしてきた。
けれど今回は、どうにも駄目だった。
一度気になり始めると、些細なことまで癇に障る。
思ったように身体が動かないわけではない。能力が弱くなったわけでもない。
ただ、いつものように余裕を持って笑うことが、少しだけ難しくなっていた。
「……まあ、いいですわ」
シューレはカップを置いた。
「少し身体を動かしてまいります」
「おう。無茶すんなよ」
「ええ。もちろんですわ〜」
そう答えた彼女は、いつもの調子を取り戻したように見えた。
レオリオは、少しだけ安心した。
――その数分後。
彼は、安心したことを心の底から後悔することになる。
⸻
「なあ、シューレ」
訓練場へ向かう途中だった。
キルアが、隣を歩くシューレに声をかけた。
「なんですの、キルアさん?」
「前からちょっと気になってたんだけどさ」
「はい?」
「シューレって放出系だろ?」
「そうですわねぇ」
「銃みたいな念能力が得意なのも分かるし、威力がヤバいのも知ってる。肉弾戦も強いって話は聞いたけどさ」
そこで、キルアはニヤリと笑った。
「ステゴロの訓練って、やったことなくね?」
シューレの足が、ほんのわずかに止まった。
「……ステゴロ?」
「素手での殴り合い。銃も念弾もなし。純粋に殴る、避ける、投げるってやつ」
「ええ。意味は分かりますわよ」
「いや、だってさ。今までの訓練って、シューレが撃って、俺たちが避けるのが中心だったじゃん?」
「そうですわねぇ」
「だったら、もしかして――」
キルアは、わざとらしく首を傾げた。
「実はステゴロだと、大したことないんじゃね?」
空気が止まった。
少し離れたところで話していたゴンが、顔を上げた。
クラピカの手が止まる。
ビスケは、ゆっくりとキルアを振り返った。
レオリオだけが、いち早く異変を察知した。
「……おい、キルア」
「ん?」
「お前、今のは――」
「貴方達全員相手でも」
シューレの声が、割り込んだ。
低かった。
普段の、ふわふわとした語尾が消えている。
キルアが振り向く。
シューレは、笑っていなかった。
「十秒あれば十分ですわよッ」
吐き捨てるような声だった。
ゴンが固まった。
クラピカは、思わず眼鏡のない鼻梁を押さえるような仕草をした。
ビスケの眉が上がる。
レオリオは、天を仰いだ。
「……あー、やっちまった」
「え?」
キルアは、まだ事態を理解していなかった。
「いや、そんな怒ることかよ。俺はただ、実際にやったことないなら試してみようぜって――」
「ええ。結構ですわ」
シューレは、キルアを見た。
「今すぐ、試しましょう」
「……えっ」
「ステゴロの訓練、でしたわね?」
「いや、まあ、そうだけど……」
「ゴンさん、クラピカさん、レオリオさん、ビスケさん」
彼女は一人ずつ顔を向けた。
「皆さんも、参加なさいますわよね?」
ゴンは、困ったように笑った。
「えっと……うん。やるのはいいけど、シューレ、なんか怒ってない?」
「怒っておりませんわ」
「いや、怒ってるだろ」
レオリオが即座に突っ込む。
シューレは、彼を見た。
「レオリオさん」
「はい」
「ご心配なく」
「その丁寧な声が怖えんだよ!」
⸻
訓練場。
全員が、円形の訓練区画に集まっていた。
シューレは中央に立ち、手袋を外している。
右手。
左手。
指を一本ずつ曲げ、開き、手首を回す。
銃を撃つための手ではない。
今から使うのは、ただの拳だ。
「ルールを決めましょうか」
シューレが言った。
「武器は禁止。銃器型の念能力も禁止。念弾も禁止。遠距離攻撃は一切なし。素手と、身体強化のための念だけですわ」
「お、おう」
キルアが頷いた。
「あと、相手を殺すのは禁止ですわね。怪我をさせること自体が目的でもありません。危険だと判断したら、ワタクシが止めます」
「そこはちゃんとしてるんだな……」
レオリオが呟く。
「当然ですわ」
シューレは即答した。
そして、キルアを見た。
「では、始めましょうか」
「……おう」
キルアは、構えた。
ゴンも続く。
クラピカは間合いを測り、ビスケは軽く肩を回した。レオリオは少し遅れて構える。
五人が、シューレを囲むように立った。
シューレは、自然体だった。
肩の力は抜けている。
足幅も広くない。
両手は、腰の横に下ろしたまま。
キルアが眉をひそめる。
「……なあ、シューレ。ちゃんと構えなくていいのか?」
「必要ありませんわ」
「いや、でも――」
「始めますわよ」
その瞬間。
キルアは、反射的に横へ跳んだ。
シューレが消えたように見えたからだ。
違う。
消えたのではない。
一歩で間合いを詰められた。
キルアがいた場所を、シューレの拳が通り過ぎる。
その拳を避けたはずのキルアの視界に、今度は左手が迫っていた。
「ッ!」
キルアは腕を交差させて防御する。
――重い。
衝撃が両腕を突き抜け、身体が横へ流された。
「ぐっ……!」
吹き飛ばされる寸前、キルアは足を踏ん張った。
その隙に、ゴンが飛び込む。
「シューレ!」
ゴンの拳が、シューレの脇腹を狙う。
彼女は半歩だけ身体をずらした。
拳が服をかすめる。
そのままゴンの腕を軽く押し、身体の向きを変える。
ゴンの視界が回った。
気づいた時には、彼は地面に背中から倒れていた。
「うわっ!」
「ゴン!」
クラピカが動いた。
正面からではない。ゴンを倒した瞬間、シューレの視線が一瞬だけそちらへ向いたのを見逃さなかった。
側面から踏み込み、腕を取りに行く。
だが、触れる直前。
シューレの肘が、クラピカの前腕を軽く弾いた。
それだけで、掴む動作が崩れる。
次の瞬間、クラピカは自分の身体が前へ流れていることに気づいた。
「な――」
足を払われた。
倒れる。
しかし、地面に手をつくより早く、シューレは襟を掴んで衝撃を逃がし、クラピカを静かに下ろした。
「お怪我はありませんわね?」
「……あ、ああ」
「よろしい」
声は丁寧だった。
表情は、まだ怒っていた。
⸻
「ちょ、ちょっと待て!」
レオリオが叫んだ。
「お前、今、何秒だ!?」
「さあ?」
シューレは首を傾げた。
ビスケが時計を確認する。
「……まだ、四秒も経ってないわね」
「はあ!?」
キルアが声を上げた。
シューレは、彼を見た。
「まだ続けますわよ?」
「……っ、当然だろ!」
キルアは歯を食いしばった。
今度は慎重に距離を取る。
ゴンも起き上がり、クラピカも構え直す。レオリオは遅れて二人の後ろへ回り、ビスケは正面からシューレの動きを観察した。
五人が、今度は同時に動く。
ゴンが正面。
キルアが死角へ。
クラピカが足を止めるように間合いを詰め、レオリオが隙を見て攻める。
ビスケは、全体を見ながら最適な瞬間を狙った。
悪くない連携だった。
少なくとも、普通の相手なら簡単には突破できない。
シューレは、その場から動かなかった。
ゴンの拳を、手のひらで受け流す。
キルアの蹴りを、膝の角度だけで外す。
クラピカの腕を押し、レオリオの踏み込みをわずかにずらす。
それぞれの攻撃を、最小限の動作で処理していく。
大きく避けない。
派手に跳ばない。
拳を振り回さない。
ただ、相手の攻撃が届く直前に、そこにいない。
あるいは、攻撃そのものが成立しない位置へ、相手を導いてしまう。
「なっ……!」
キルアが歯噛みした。
攻撃が当たらない。
それだけなら、まだいい。
自分たちの攻撃が、互いの動きを邪魔しないように組み立てているはずなのに、シューレはその連携の隙間に入り込んでくる。
しかも、誰かを倒すたびに、必ず次の相手が動きやすい位置に残されている。
まるで、こちらがどう動くか、最初から分かっているかのように。
いや。
違う。
分かっているのではない。
動きを見て、判断して、最適な場所へ移動している。
その判断が、異常に速いのだ。
「……この人、普段は撃って済ませてるだけなの……?」
キルアが、思わず呟いた。
「そうみたいね」
ビスケが答えた。
その声は、妙に真剣だった。
「それに……」
ビスケはシューレの足元を見た。
「この子、ほとんど力を入れてないわ」
⸻
七秒。
シューレは、ゴンの腕を取って投げ飛ばすのではなく、勢いを利用して地面に座らせた。
八秒。
クラピカの踏み込みを外し、肩に手を添えて方向を変えた。
九秒。
キルアが最後の一撃を狙って飛び込む。
シューレは、拳を避けなかった。
キルアの拳が彼女の顔の寸前で止まる。
止められたのではない。
シューレが、キルアの手首を軽く押さえていた。
もう片方の手は、キルアの胸元に添えられている。
押せば、倒せる。
引けば、投げられる。
拳を動かせば、関節を取られる。
キルアは、そのすべてを瞬時に理解した。
「……」
シューレは、彼の目を見た。
「十秒ですわ」
キルアの背中に、冷たい汗が流れた。
「……は?」
「十秒あれば十分、と申し上げましたでしょう?」
彼女は手を離した。
キルアは、その場から動けなかった。
ゴンは床に座り込んだまま、目を丸くしている。
クラピカは呼吸を整えながら、シューレの動きを頭の中で反芻していた。
レオリオは、両手を膝について息を切らしている。
ビスケだけが、腕を組んだまま、じっとシューレを見つめていた。
「……シューレ」
「はい、ビスケさん」
「あなた、どうして今まで肉弾戦の訓練をしなかったの?」
シューレは、少しだけ考えた。
「……必要がありませんでしたので?」
「そういう問題じゃないわよ!」
ビスケが叫んだ。
「この身体能力と技術があるなら、教えられることが山ほどあるでしょうが!」
「まあ。でも、撃てば済みますもの」
「その考え方をやめなさい!」
⸻
「……なあ、シューレ」
キルアが、ようやく声を出した。
「なんですの?」
「今の……本気だった?」
シューレは、少し考えた。
「……本気、ですわね」
キルアが息を呑む。
「ただし、皆さんを怪我させないように、ずいぶん加減はしておりましたけれど」
「……」
「本当に本気で殴ったら、訓練になりませんもの」
沈黙。
ゴンが、恐る恐る手を挙げた。
「……シューレ」
「はい、ゴンさん」
「じゃあ、今のって……どれくらい加減してたの?」
「そうですわねぇ」
シューレは自分の拳を見た。
「普段のパンチより、かなり控えめですわ」
レオリオが、ゆっくり顔を上げた。
「……普段のパンチって、どれくらいだよ」
「ウボォーギンさんの本気のパンチくらいでしょうか?」
「比較対象がおかしいんだよッ!!」
レオリオの絶叫が、訓練場に響いた。
シューレは、そこでようやく少しだけ表情を緩めた。
「……ふふ」
笑った。
いつもの、軽い笑い方だった。
けれど、キルアは気づいていた。
彼女はまだ、完全にいつもの調子に戻ったわけではない。
ほんの些細な挑発に、あそこまで反応してしまった。
普段なら、きっと笑って流していたはずだ。
「……なあ、シューレ」
「はい?」
「……悪かったよ」
シューレの笑顔が、少しだけ止まった。
「何がですの?」
「いや、その……大したことないとか言ったのは、さすがに言いすぎた」
キルアは頭を掻いた。
「実際にやってみたら、全然そんなことなかったし」
シューレは、彼を見た。
数秒。
それから、ふっと息を吐いた。
「……そうですわね」
「うっ」
「少し、言いすぎでしたわねぇ」
「そ、そうだよな……」
「ワタクシも、少し言いすぎましたわ」
キルアは、ほっと息をついた。
――次の瞬間。
「ですから、もう一度やりましょうか」
「なんで!?」
シューレは、にこりと笑った。
「今度は十秒ではなく、皆さんがワタクシに一発でも当てられるまで、ということで」
「待て待て待て待て!!」
レオリオが飛び起きた。
「お前、今の流れで何で追加訓練を始めようとしてんだよ!?」
「せっかくですもの」
「せっかくじゃねえ!!」
ビスケは、額に手を当てた。
「……ああ、もう。分かったわ。やるなら私が仕切る。安全管理も、休憩も、全部こっちで決めるわよ」
「まあ。ビスケさんが?」
「あなたは今、少し頭を冷やしなさい」
シューレは、一瞬だけ黙った。
それから、珍しく素直に頷いた。
「……はい」
その返事に、全員が驚いた。
シューレは、手袋を拾い上げた。
「では、今日はここまでにいたしましょうか」
「……いいのか?」
キルアが尋ねる。
「ええ」
彼女は、いつものように微笑んだ。
「ワタクシも、少々熱くなってしまいましたので」
その言葉は、軽かった。
けれど、ほんの少しだけ、本音が混じっていた。
⸻
訓練場を出た後。
シューレは一人で、廊下の窓辺に立っていた。
指先を開き、閉じる。
まだ、拳に力が残っている気がした。
怒りは、もう収まっていた。
キルアに腹を立てたことも、十秒で十分だと言い放ったことも、今になれば少し大人げなかったと思う。
けれど。
あの瞬間、確かに、頭の中の余計なものが消えた。
痛みの記憶も。
また左目を使うことへの恐怖も。
三日間眠れなかった夜のことも。
目の前にいたキルアと、殴り合うという課題だけがあった。
それは、思っていたよりもずっと楽だった。
「……困りましたわねぇ」
シューレは、小さく呟いた。
本当は、あまりよくない。
怒りに任せて訓練を始めるのも。
心の余裕がないことを、力で押し流そうとするのも。
分かっている。
分かっているのに。
「……ステゴロの訓練、ですか」
彼女は、少しだけ笑った。
「案外、悪くないかもしれませんわねぇ」
その背後から、レオリオの声がした。
「……おい、シューレ」
「はい?」
「明日は、俺も参加するからな」
「まあ」
「ただし、十秒で終わらせるのは禁止だ。ビスケの監督付き。ちゃんと技術を教えろ」
シューレは振り返った。
レオリオは、真剣な顔をしていた。
「お前が強いのは分かった。でも、強いからって、何でも一人で片づけりゃいいってもんでもねえだろ」
「……」
「お前が教える側になってもいい。俺たちが、お前のことを知る機会になってもいい。……だから、勝って終わりにすんなよ」
シューレは、しばらく彼を見つめた。
やがて、ゆっくりと微笑んだ。
「……レオリオさん」
「なんだよ」
「明日は、少し厳し目でよろしいですの?」
「その言い方は信用できねえ!!」
廊下に、レオリオの叫び声が響いた。
シューレは、久しぶりに心の底から笑った。
痛みが完全になくなったわけではない。
記憶が消えたわけでもない。
けれど、今は少しだけ、息がしやすかった。