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蟻が歩いていた。
黒くて小さい蟻が、一匹、また一匹と、地面の上を忙しなく歩いている。
何かを運んでいる蟻もいる。自分の身体よりずっと大きなものを抱え、よたよたと進む。途中で別の蟻とぶつかると、ほんの少し触角を動かし、それから何事もなかったように同じ方向へ歩いていく。
何をそんなに必死になっているんだろう。
別に、急いだって大して何かが変わるわけでもないだろうに。
……むかしどこかで、巣の外で働く蟻には、年老いたメスが多いと聞いたことがあった。なるほど、姥捨山の蟻版か。なかなかにえげつない。
この蟻たちは、巣から解放されたいと思ったことはないのだろうか。
かわいそうに。
そう考えながら行列を眺めていると、なぜだか無性に腹が立ってきた。
もちろん、蟻が悪いわけじゃない。蟻には蟻の事情がある。餌を運ばなければならないのかもしれないし、巣に帰らなければならないのかもしれない。
それでも、理不尽に腹が立った。
小さな身体で、何の疑問も持たず、決められた場所へ向かっていく。
そういうふうに何も考えず、悩むこともなく死ぬまで生きられるのが、少し羨ましかったのかもしれない。
………………。
いや。
いやいやいや。
そんなわけないだろ。
蟻の一生を羨ましいと思うなんて、どうかしている。
私は公園のベンチに座り、そんな景色を延々と眺めていた。
どれくらいそうしていたのかは分からない。気がつけば太陽は少し位置を変え、風が吹くたび木の葉が揺れ、その向こうから子供たちの声が聞こえてくる。
笑い声。
走り回る足音。
ゴムボールが地面で弾む音。
楽しそうな「ギャー」という叫び声。
全部、やけに耳についた。
うるさい。
子供たちが悪いわけじゃない。公園なのだから、子供が遊んでいるのは当たり前だ。平日の真昼間に、ベンチで女ひとり、蟻の行列を眺めている私の方がおかしい。
分かっている。
分かっているのに、うるさかった。
楽しそうにするな、とさえ思った。
その言葉が胸の中に浮かんだ瞬間、私は自分にぞっとした。
子供たちは何も知らない。
……私が勝手に逃げて、勝手に苛立っているだけだ。
それなのに、楽しそうにするな、なんて。
私は一息吐き、膝に肘をついて地面を見た。
蟻はまだ歩いていた。
同じ方向へ、何匹も連なって進んでいる。その先に何があるのか、私には分からない。蟻にだって分かっているのか怪しい。
それでも歩いている。
私は深く息を吸い、ゆっくり吐き出した。
体の中に溜まったものを、全部吐き出すつもりで。
もう一度息を吸おうとしたところで、唾液が気管に入った。
「うぇっ! げっほ……ごほっ、おぇっ!」
盛大にむせる。
涙目になりながら咳き込んでいると、その拍子に、押し込めていた記憶が滑り込んできた。
──────鳥子が、妊娠した。
だから、私は逃げた。
逃げてきて、公園でひとり……蟻を眺めている。
一時間だか二時間くらい前。
鳥子に呼ばれて、私は日暮里にある鳥子のマンションへ来ていた。
珍しいことではないが、頻繁にあることでもない。鳥子と二人で過ごしたいけれど、良い場所が思いつかないときに、何度か遊びに来たことはあった。
私に聞いてほしい話がある。来てほしい。
そんな主旨の、いつもより簡素なメッセージが、空いている日時の一覧とともにスマホに送られてきた。
暇だった私は《今から行く》と返信し、いつもの動きやすい服装にマカロフ入りのトートバッグを肩にかけて、鳥子の家へ向かった。
鳥子の家に着き、インターホンを鳴らす。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
たぶん、そんなやりとりをした。
よく覚えていない。
ただ一つ、鳥子の顔がいつもより真剣さを帯びていたことだけは覚えている。
連絡にあった通り、何か大事な話があるんだ。
そう思った。
リビングに通され、椅子に座る。
鳥子がコーヒーを淹れてくれた。
それから、しばらくお互いに何も言わなかった。
私は出されたコーヒーを一口飲んだ。
……わずかに緊張しているせいだろうか。あまり匂いも味も感じなかった。ただ苦く、ただ酸っぱい。
熱い液体をちびちび飲み込み、コーヒーカップをテーブルに置く。
ふう、と息を吐いたところで、鳥子は告げたのだ。
妊娠した、と。
最初は意味が分からず、しばらく何も言えなかった。
言葉の意味が分からなかったわけじゃない。
妊娠。
子供ができたということだ。
でも……鳥子が?
冗談だと思った。
ものすごく真剣な顔を装って、冗談を言っているのかもしれない。
けれど……鳥子がそんなことをするか?
一瞬で答えは出た。
しない。
するわけがない。
鳥子は、こういうタイプの冗談は言わない。
そうなると、これは……何だ?
私は何を聞かされた?
何を求められている?
分からないことが多かった。
けれど、鳥子の声色や表情から、言葉が嘘ではなく、真実なのだということだけは分かってしまった。
私は黙り込んだまま鳥子を見る。
すると鳥子は、机の下からゆっくりと手を出した。
白くて細長い棒状の物体。
ネットで見たことがある。
妊娠検査薬だった。
私は、自分の方に向けられた検査薬の窓を見た。
そこには、陽性を示す線がくっきりと浮かび上がっていた。
妊娠している。
そこでようやく、本当なのだと確信した。
同時に、頭が真っ白になった。
何か……何か言わなければいけない。
でも、何を言えばいい?
こういうとき、普通は何と言うんだったんだろう。
ああ、確か──。
「お、おめでとう……?」
迷いながら言ったせいで、言葉は歪んだ。
自分で言っておいて、ひどく変な言葉だと思った。
まるで他人事のようだった。
だが、違う。
他人事ではない。
鳥子のことなのだから、私に関係がないはずがない。
なのに、そう言うしかなかった。
おめでとうと言えば、何かが普通の形に戻る気がした。
妊娠は喜ぶものだ。なにせ鳥子は子供が好きだ。なら、私は祝えばいい。
そうすれば、鳥子の顔が少しでも明るくなるかもしれない。そう思った。
けれど、鳥子は笑わなかった。
代わりに、静かに頷いた。
……いや、でも。
本当に、妊娠したのか?
妊娠検査薬だって、絶対ではないはずだ。
私はもう一度、確認した。
「えと……本当に? 本当に、本当なの?」
言い終わってから、馬鹿みたいな質問だと思った。
だけど、聞かずにはいられなかった。
鳥子は病院に行って、改めて確認するつもりだと言った。
妊娠していた場合には、これからいろいろ考えなければならないこともある。
けれど、まだ何も決めていない。
ただ、その前に、まずは私に話しておきたかったのだと言う。
私たちは「鵼」だから。
そんなことを、鳥子は言った。
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。
どこを見ても焦点が合わない。耳鳴りがしている。
私は、しばらく黙っていた。
何か言わなければと思った。
「……どう、するの?」
鳥子はすぐには答えなかった。
「産むのか、産まないのか、とかも」
鳥子は少し間を置いてから、まだ決めていないと答えた。
私は、また黙りかけた。
頭の中から言葉を絞り出す。
「……私に、何かしてほしい?」
鳥子は首を横に振った。
今すぐ何かをしてほしいわけではない。
ただ、話しておきたかった。
そういうことだった。
私は鳥子の顔を見た。
真剣な顔だった。
なによりも……必死な顔だった。
その表情を見ていると、別の疑問が浮かんできた。
どうして……そんな顔をしているんだろう。
さっきも考えたが、鳥子は子供が好きなのだから。
なら、妊娠したこと自体が嫌なわけではないのではないか。
では、なぜ……。
そこで、私はようやく気がついた。次いで、頭を思い切り殴られたような衝撃を覚えた。
私と鳥子は「女」だ。
女同士だ。子供は、できない。
そんな当たり前のことも分からなくなっていた。
普通に考えれば、私の知らない誰かが妊娠に関わっている。
その事実が、遅れて胸の中に落ちてきた。
私の知らない誰か。
鳥子が、私の知らない誰かと、私の知らない時間を過ごした。
そして、妊娠した。
……誰、なのか。
どうして、なのか。
考えたくなかった。
でも、考えてしまった。
鳥子が誰かと関係を持った。
私に黙って。
私以外の誰かと。
そんなことが、本当にあったのか?
もし、これが本当に不貞だったら。
私は、どうすればいい?
鳥子を責めるのか。
それとも、何も言わずに受け入れるのか。
……いや、待て。
そもそも、鳥子が望んでしたことなのか?
もし、そうじゃなかったら。
もしも誰かに無理矢理、何かをされたのだとしたら、っ──。
その光景を想像した瞬間、胃の奥から吐き気が込み上げてきた。
頭が真っ白になった。
私は立ち上がった。
「ちょっと……ごめっ──」
足が勝手に動いた。
壁にぶつかりながら廊下を走ってトイレに入る。
足腰に力が入らず、便器の前にぺたんと座り込んだ。
瞬間、胃の中のものが一気にせり上がってきた。
吐いた。
何度か、吐いた。
何が原因なのか、自分でも分からない。
嫉妬なのか。
怒りなのか。
鳥子が傷つけられたかもしれないという想像なのか。
それとも、全部なのか。
分からない。
でも、わかることがある。
私は、最初に「おめでとう」と言ったのだ。
ふざけるな。
もし鳥子が、誰かから乱暴を受けたのだとしたら。
私に助けを求めていたのだとしたら。
……なにが……なにが「おめでとう」だ。
ふざけんなよ……?
言っちゃったぞ、私……「おめでとう」って。
私は、拳が真っ白になるほど強く握りしめていた。
しばらくして、背中に気配を感じた。
鳥子だった。
何も言わずに、水を差し出してくれた。
「ありがどぅ……」
私はそれを受け取って、口をすすいだ。
水を吐き出す。
もう一度、口をすすいだ。
顔を上げることができなかった。
鳥子がそこにいる。
それなのに、私は何も言えない。
鳥子に、聞かなければならないことがある。
もし、誰かに無理矢理何かをされたのだとしたら。
もし、鳥子が望んでいないことをされたのだとしたら。
私は、どうすればいい?
……いや。
考えているだけじゃ、何も分からない。
「……鳥、子」
声が掠れた。
鳥子が、私の背中をさする手を止める。
「……誰かに、何か、無理矢理されたり、してない?」
口にした途端、胸の奥が冷たくなった。
聞いてしまった。
今さら、聞かなかったことにはできない。
鳥子は少し間を置いてから、首を横に振った。
されてないよ。
そう答えた。
誰かに無理矢理何かをされたわけではない。
そのことが分かって、私はようやく息を吐いた。
よかった。
少なくとも、そこは。
……本当によかった。
でも。
それなら、どうして妊娠したんだろう。
鳥子は、誰かと関係を持ったのだろうか。
私の知らない誰かと。
その相手は、誰なんだろう。
どうして、私には何も言ってくれなかったんだろう。
胸の奥が、また冷たくなった。
安堵したはずなのに、何も解決していなかった。
私はまだ、何も知らない。鳥子のことがわからない。
誰と関係を持ったのかも。
どうして妊娠したのかも。
これから、どうしたいのかも。
何一つ分からない。
それなのに、私は勝手に傷ついていた。
……でも。
鳥子は、女性しか愛さない。
少なくとも、私の知っている鳥子はそうだった。
だったら、男性と恋愛関係になって、私を裏切ったわけではないのかもしれない。
……でも、それなら。
鳥子が男性と恋愛関係になったわけではないとしても、妊娠したこと自体は変わらない。
誰かと関係を持ったのかもしれない。
もしくは、人工授精のような方法だったのかもしれない。
それとも、私の知らない、別の何かがあったのかもしれない。
どれも、今の私には分からない。
分からないのに、私は勝手に答えを決めようとしている。
鳥子が私を裏切ったのかどうか。
これから私たちがどうなるのか。
そんなこと、まだ何も分かっていないのに。
……もう、嫌だ。限界だった。
これ以上、一人で考えていても仕方がない。
鳥子の顔を見たら、何かを聞いてしまう。
どうして妊娠したのか。
誰との子なのか。
何があったのか。
鳥子は今、何を考えているのか。
私は、鳥子の気持ちを確かめるより先に、自分の知りたいことを問い詰めてしまうかもしれない。
聞くべきことではある。
でも、今の私が聞いていいのか分からなかった。
私は水の入ったコップを、背後の鳥子に返した。
「……ごめん。ちょっと、外……出てくる」
そのとき、鳥子が何かを言った。
だけど、耳鳴りのせいで、うまく聞き取れなかった。
聞き返すこともできた。
それなのに私は、何もしないまま玄関のドアを開けた。
ふらふらと外へ出る。
暗闇から真昼の日光に晒されたみたいに、目が眩む。
無意識に手すりに捕まり、伝い歩く。倒れないように歩くだけで精一杯だった。
少し頭を冷やしたかっただけ。
そう思っていた。
どこへ行くかは決めていなかった。
マンションのエレベーターで降りている最中に、肩が軽いことに気がついた。鳥子の家にトートバッグを置き忘れたことに、今更気がついた。
だけど、ポケットにはスマホが入っている。バッグぐらいなくたって、なんとでもなるだろう。
そうして歩いているうちに、私は公園にたどり着いた。
ベンチに座って、蟻を眺めている。
鳥子は、まだ何も決めていない。
それでも、私に話した。
ただ、それだけだった。
なのに私は、答えを出さなければならないような気がしていた。
鳥子が何をするのかも決まっていないのに、私たちのこれからまで、今ここで決めなければならないような気がしていた。
でも、何を?
私は子供が好きじゃない。
できれば、関わりたくない。
自分が親になるなんて、考えたこともない。
ましてや、私と鳥子の間に子供が入ってくるなんて。
想像するだけで嫌だった。
鳥子は、その子のお母さんになる。
その子のために時間を使う。
私と過ごす時間が減る。
私より、その子を優先するようになる。
私は、鳥子に選ばれなくなる。
……そこまで考えていた。
子供が嫌なのは本当だ。
でも、それだけではない。
子供ができることで、鳥子との関係が変わってしまうことが怖い。
私は、それを認めたくなかった。
そもそも、鳥子がどうして妊娠したのかさえ、やっぱり分からない。
誰かと関係を持ったのか。
人工授精か何かだったのか。
あるいは、私の知らない別の理由があるのか。
どれも、今の私には分からない。
それなのに私は、まだ分かっていないことを一つずつ並べて、その全部に答えを出そうと頭をグルグル回していた。
……何をしているんだろう。
鳥子は今、どうしているだろう。
私がいなくなったあと、どんな気持ちでいたのだろう。
それすら、分からない。
私は鳥子のそばにいたい。
何かあったのなら、助けたい。
……でも、鳥子の答えを聞いて、自分が傷つくのが怖かった。
鳥子が誰かを選んだのだとしたら、嫉妬するかもしれない。
鳥子が本当は誰かに傷つけられていたのだとしたら、今度こそ、その手を離したくない。
どちらだったとしても、私は自分の感情を抑えられないかもしれない。
そんな自分を、鳥子に見せるのが嫌だった。
私はスマホを取り出した。
鳥子に電話をすればいい。
本人に聞けばいい。
そんなことは分かっている。
でも、電話をかけたら、答えを聞かなければならない。
その答えを聞いたあと、私はどうするのだろう。
鳥子を責めてしまうのか? 口汚く、罵るのだろうか。
それとも、何もかも受け入れられるのか。
分からない。
私はスマホを握りしめた。
鳥子の話を聞くのが怖い。
それでも、聞かなければ何も分からない。
そんなことは分かっているのに、指が動かなかった。
私はスマホをポケットにしまった。
もう少し……もう少し頭を整理してからにしよう。
そう思った。
けれど、頭を整理したところで、鳥子の答えを聞く覚悟までできるとは思えなかった。
考えれば考えるほど、分からないことが増えていく。
それだけではない。
そのうち、自分の中の嫌なものまで見えてくる。
嫉妬している。
怖がっている。
鳥子を心配している。
そして、そんな鳥子を置いて逃げた自分を、許せなくなっている。
だったら。
誰かに話を聞いてもらえばいい。
頭に一人の顔が浮かんだ。
小桜。
鳥子と私のことを知っている。
私たちの考える『鵼』がどういうものなのかも、少なくとも私たち以外の人間では一番よく知っている。
それに、小桜なら、私が何を言っているのか分からなくても、話くらいは聞いてくれる気がした。
私はスマホを持ち直した。
今度は迷わず、小桜の名前を選び、発信ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。
スマホを耳に当てる。
数回の呼び出し音のあと、小桜が出た。
《うーい、もしもし。空魚ちゃん》
「………………小桜さん」
《……なんだ? 調子、悪いのか?》
聞き慣れた声だった。
それだけで、少し肩の力が抜けた。
「……すみません。今、時間大丈夫ですか?」
《一応、次の予定までは……時間はあるけど》
小桜の声が少し低くなる。
《何かあった?》
「……」
《……空魚ちゃん?》
「あ……はい」
返事をしてから、言葉が出てこなかった。
何を話せばいい。
鳥子が妊娠した。
それだけ言えばいい。
なのに、口に出すのが怖かった。
《空魚ちゃん》
「はい」
《鳥子に関することで悩み事?》
「え……? ど、どうして……?」
《急に電話してきて、そんな声してたらさ、誰でも何かあったって分かるわ。空魚ちゃんが変になるなんて、裏世界絡みか鳥子かのどっちかだろ》
「……そう、ですか」
《うん。それで?》
「……あの、鳥子が」
そこで言葉が止まった。
スマホを握る手に力が入る。
私は言った。
「鳥子が、妊娠しました」
《…………》
電話の向こうが静かになった。
何秒経ったのか分からない。
《は……え?》
もう一度、言う。
「妊娠、したんです」
《……鳥子が?》
「はい」
《……冗談か?》
「いえ……本当です」
《……本当に?》
「はい」
さっき自分も同じことを聞いた。
そして今、小桜にも同じことを聞かれている。
《え、それは、どういう……検査薬とかは、やったのか?》
「はい……検査薬、見ました。……陽性でした」
《そう、か……マジか》
小桜の声にも戸惑いが混じっていた。
《それで、鳥子は?》
「……まだ、何も決めていないそうです」
《何も?》
「はい。病院にもまだ行っていないみたいで……これからどうするかも、決めていないって」
《……そうか》
「それで……まず私に話したかったみたいです」
《なる、ほど……?》
小桜が少し黙った。
《空魚ちゃんは、それを聞いて……どうした?》
「………………」
《ああ、言いたくなければ言わなくて構わない。いきなりそんな話されたら、誰だって多かれ少なかれ混乱するのは仕方ねえからな》
小桜が励ますような調子で言うので、私は自分の心の中の凍りついた部分が溶け出したように、ポツリと答えた。
「わ、わたし……に、逃げ、ました」
《……うん》
「な、何も聞けなくなって……どうしたらいいのか、分からなくなって、そのままぁ……」
《そうかぁ》
予想外にやわらかく受け止められて、半べそをかいてしまった。そんな状態でも受け入れてもらえるのが嬉しかった。でも、少しだけ子供みたいな自分が恥ずかしかった。
「私は……どうすればいいんでしょう」
《どうすれば……って?》
「それが、分からないんです……」
声が震えた。
「鳥子が何を考えているのかも。私に何を求めているのかも」
《……鳥子から、何かしてほしいって言われたのか?》
「いえ……」
《じゃあ、鳥子がまだ何も決めてないなら、空魚ちゃんも今すぐ何か決めなくてもいいんじゃないか?》
「……でも」
《いや、普通に考えたら、空魚ちゃんと鳥子は女同士だろ? だったら、人工授精だったのか、それともどこかで男が関わったのかって考えるじゃん》
「………………」
その言葉を聞いて、私は黙り込んだ。
確かに。
鳥子は、何も決めていないと言っていた。
けど私に、何かを決めてほしいとは言っていない。
それなのに私は、勝手に焦っていた。
「でも……怖いんです」
《何が?》
「……それも、よく分かりません」
小桜は少し黙ってから、
《まあ、今言った通り、いきなりそんな話されたら、そりゃ誰でも混乱するわ》
と言った。
「はい……」
《今すぐ全部整理しなくてもいいだろ》
「……」
《一個ずつでいいんじゃないか?》
「一個ずつ……」
《うん。まず今日は、空魚ちゃん自身が何に引っかかってるのか、そこからでいい》
「……分かりました」
《………………》
「………………」
一瞬、沈黙が訪れた。私が何か話を繋ごうと口を開くと、それよりも前に小桜が私に言った。
《一人で考えてても仕方ないだろ》
「……はい」
《ウチ、来るか?》
「はい……え? 今から、ですか?」
《うん。どうせそのまま自分の家に帰っても、ずっと悩み続けるだろ。鳥子の家に戻るのもキツイだろうし。……と思ったんだが、どうだ》
「……はい、たぶん、そうなると思います」
《だったら、ウチでさ、少しでもいいから話そうや》
「……分かりました」
小桜と直接話した方がよさそうだ。
そう思った。
電話越しに話しているだけでも、少しずつ頭の中が整理されてきた。
《あ、それと》
「はい?」
《鳥子には連絡しとけよ》
「………………」
《戻るのが遅くなる、って。それだけでいいからさ。そんな、無言でいなくなられたら、鳥子も心配するだろ》
「……はい」
《ん。じゃあ、それだけは済ませてからウチに来い》
「……分かりました」
《よし。じゃあ、また後でな。あと……早まったこと考えんじゃねえぞ》
「はい。……あの」
《ん?》
「ありがとうございます。小桜さん」
《……あいよ》
「それじゃあ……」
私は通話を切った。
スマホの画面を見る。
鳥子の名前が、通話履歴の上に表示されていた。
指が止まる。
電話をするわけじゃない。
メッセージを送るだけ。
それなら、できる。多分。
私は鳥子とのメッセージ画面を開いた。
しばらく何も入力せずに画面を眺める。
何と書けばいいのだろう。
思いつかない。
……いや。
ありすぎて書ききれない。
私は思いついた言葉を短く打ち込んでいく。
それを並び替えて必要のない文を削り、残った必要な文をまとめて文章にする。
よくレポート作成のときにやる方法だ。短文でよければ、たいした労力なく作れる。
《急に飛び出してごめん。戻る時間が少し遅くなるかもしれない。でも絶対に戻るから。待ってて》
それだけ。
大丈夫だろうか。
説明不足ではないか。
余計な誤解を招くことを言っていないか。
短い文章を何度も読み返す。
とりあえず……大丈夫そうだと確信するのに五分はかかった。
不安を払いきれないまま、それでも送信をタップした。
メッセージが送られた。
すぐに既読がつくのではないかと思って画面を見つめる。
けれど……何も変わらなかった。
私はスマホをポケットにしまった。
とりあえず、これでいい。
少なくとも、何も言わずにいなくなるわけではない。
私はベンチから立ち上がった。
小桜の家へ向かう。
今度は、一人で考えないようにするために。
2
日暮里から石神井公園まで、電車で移動する。
私は歩き慣れた高級住宅街を進み、小桜が住んでいる豪邸のインターホンを押した。
《うーい》
すぐに小桜の声が返ってきた。
「小桜さん、私です」
《おう、待ってろー》
インターホンが切れ、しばらくして玄関の扉が開いた。
鍵もかけていない。不用心だ。
「おいすー」
「……どうも」
いつもと変わらない小桜の顔を見て、少しだけ安心した。
それでも、胸の奥にはまだ落ち着かないものが残っていた。
「なんか飲むか? お茶とコーラとカルピスならすぐ出せるけど」
「あ、いえ、大丈夫です」
「まあ、ちょっと待ってろ。茶菓子も出すから」
小桜はそう言って居間へ向かった。私はその背を追う。
リビングには、存在感のある白い木製のテーブルが置かれている。
その周りには四つの椅子があった。
「座ってな」
「はい」
小桜に促され、私はそのうちの一つに腰を下ろした。
小桜は冷蔵庫からコーラを取り出すと、マグカップに注いで私の前に置いた。
「……いただきます」
「あい、めしあがれ」
そう言って、チョコ菓子や小さな饅頭などが乗った平皿をテーブルに置いて、小桜は自分の分のコーラを大きめのマグカップに注ぎ、レンジに入れて温め始めた。
私はその様子を眺めながら、一口コーラを飲む。
まもなく、チンッと音がして、小桜ができあがったホットコーラを自分の席に置いた。
私は黙って、小桜を見ていた。
小桜も黙っている。
数秒ほどして、小桜がマグカップに口をつけ、こくこくと喉を鳴らしてコーラを飲んだ。
「ふう」と息を漏らし、私に向き合うと、何とも言えない表情で口を開いた。
「なんかな、雑談するような空気じゃないよな」
「……すみません」
「いや、謝らなくていいんだよ」
小桜は少しだけ息を吐いた。
「それで、どんな感じよ。あれから何か変化あった?」
「いえ。特に、何も……ないです」
日暮里からここまで来る間、鳥子とは連絡を取っていない。
公園でメッセージを送ってから、何も変わっていなかった。
私は鳥子のことを考えながら、ただ電車に乗ってきた。
小桜が少しだけ姿勢を正す。
「空魚ちゃんから話を全部聞いてやりたいのは山々なんだがな。鳥子にとって、この話題はプライバシーの塊かもしれん。話せそうなところだけでいいなら聞くぞ」
「はい……鳥子が妊娠した、というところまでは話していいと思います。……たぶん」
「ああ。さすがにそこは話せないと始まらないからな」
ていうか、と小桜は少しだけ肩をすくめた。
「もう知ってるから、隠す意味ないんだけどな」
「……そうですね」
「それで?」
「それで……鳥子から妊娠したって聞いて。私、どうすればいいのか分からなくなって……」
そこで一度、言葉が止まった。
あのときのことを思い出す。
鳥子が妊娠したと言ったこと。
その言葉を聞いた瞬間、自分の中で何かが大きく揺れたこと。
何が起きたのか理解できないまま、怖くなったこと。
「それで……気づいたら外に出ていました。鳥子には何も──ほとんど何も言わずに」
「ふむ」
小桜は急かさず、マグカップを両手で持ったまま私を見る。
「……私、ひどい奴ですね」
「ん?……何が?」
「鳥子が大変な状況かもしれないのに……何も聞かずに逃げたんです」
「……まあ、そうだなあ。逃げたこと自体は褒められたもんじゃないかもな」
「……ですよね」
「でも、それだけで空魚ちゃんがひどい奴だって話にはならんだろ」
「……」
「怖かったんだろ?」
「……はい」
私は小さく頷いた。
「何が怖いのかも、よく分からないんです。ただ……鳥子から話を聞くのが怖くて」
「うん」
「聞いてしまったら、もう知らないふりはできないから」
「……そっか」
小桜はマグカップをテーブルに置いた。
「じゃあ、今も同じか?」
「……はい」
「鳥子から話を聞くのが怖い?」
「……たぶん」
「そっか」
小桜はそれ以上すぐには続けなかった。
私も黙って、白木のテーブルを見つめる。
さっきまで公園の地面を歩いていた蟻のことが、ふと頭に浮かんだ。
蟻たちは、何も迷っていなかったな。
自分が何をすればいいのか分かっているみたいに、せっせと歩いていた。
私には、蟻でもできるような単純なことができない。
「じゃあ、何を聞くのが怖いんだ?」
「何……を?」
「鳥子から、何を聞かされるのが、そんなに怖い?」
「……」
私は考えた。
「どうして妊娠したのか、とか……誰との子なのか、とか」
「うん」
「鳥子がこれからどうするつもりなのかとか。私にどうしてほしいのか、とか……」
そこまで言って、口を閉じた。
確かに、それらは怖いし、気になる。
けれど、それだけなのだろうか。
私はしばらく考えた。
「……でも」
「ん?」
「それだけじゃない気がします」
子供が嫌なのか。鳥子が変わってしまうのが嫌なのか。
それとも、その両方なのか。
心の中にあるものを、まだうまく分けられなかった。
「何が怖いのかは、やっぱりよく分からないです」
「そっか」
「……小桜さんは、どう思いますか?」
小桜はすぐには答えなかった。
マグカップの中身を一口飲んでから、私を見る。
「あたしが答えを出しちゃっていい話じゃないと思うぞ」
「……そうですか」
「うん。空魚ちゃんが何を怖がってるのかは、空魚ちゃん自身が考えた方がいい」
「……」
「ただ、気になるから一個だけ聞いていいか?」
「はい」
「鳥子が妊娠したって聞いたとき、最初に何を思った?」
「……」
私は黙った。
公園で考えたこと。
鳥子の部屋で考えたこと。
小桜との電話で口にしたこと。
その全部を、もう一度頭の中で辿った。
「……おめでとう、って言いました」
「……うん?」
「でも、思っていることは何も言えませんでした」
「どうして?」
「……分かりません」
また同じ答えだった。
けれど、今度はそこで終わらせたくなかった。
「……たぶん、嫌だったんです」
小桜は何も言わなかった。
「私、子供が苦手です」
「うん。そうだな」
「だから、子供ができたことそのものが嫌だったのかもしれません」
「……それだけか?」
「……」
私は答えなかった。
小桜も、それ以上は急かさなかった。
私はしばらく黙ってから、顔を上げた。
「でも……それなら、なおさら分からないんです」
「何が?」
「鳥子は、私にどうしてほしいんでしょう」
小桜が黙った。
「子供を産むのをやめてほしい、なんて言えるわけありません」
「うん」
「鳥子に、私との関係を変えないでほしいと言ったって……そんなこと、鳥子に押しつけていいのか分かりません」
私は顔を上げた。
「だから……私、どうすればいいのか分からないんです」
「……それで、鳥子がどうしたいのかは聞いたのか?」
「……聞けてません」
「どうして?」
「怖かったから……です」
「さっきと同じだな」
「はい……」
小桜は少し考えるようにマグカップを眺めた。
「あたしからすると、空魚ちゃんが今悩んでることって、鳥子に聞かないと分からないことばっかりに聞こえるんだ」
「……」
「鳥子がどうして妊娠したのかも。これからどうするつもりなのかも。空魚ちゃんに何を伝えようとしてたのかも」
「はい」
「なのに空魚ちゃんは、鳥子に何も聞かないまま、一人で答えを出そうとしてる」
「……そう、ですね。私が逃げたから──」
「いやいや、そういう話じゃなくて」
小桜は私の言葉を遮った。
「空魚ちゃんは、鳥子に何も聞けてない。それなのに、自分たちの関係がどうなるのかまで、一人で考えてるだろ?」
「……はい」
「でも、鳥子がどうしたいのかも、空魚ちゃんに何を望んでるのかも、まだ分からないんだろ?」
「……そう、ですね」
私は黙った。
鳥子に何も聞いていない。それなのに、私は二人の未来を勝手に想像していた。
「……私、何をしてるんでしょう」
「別におかしなことではないだろ」
「でも……」
「怖いことや悩み事が起きたら、先のことを考えてしまうのは普通だし、別に間違っちゃいない」
小桜はそう言ってから、少しだけ笑い、マグカップを置いた。
「まず、鳥子が何を考えてるのかは、鳥子に聞くしかない」
「……はい」
「でも、その前にさ」
「はい……?」
「空魚ちゃん自身が、現実に起こりそうなことと、自分が怖がってることを分けた方がいいと思う」
「……?」
「たとえば、鳥子に子供ができたら、空魚ちゃんと過ごす時間が減る。……その可能性は高い」
「……」
「そこは、たぶん本当にそうなる」
「……そうですか」
「育児って時間食って生きる妖怪だからな」
小桜はコホンと咳払いをしてから続けた。
「乳児期なんか特にそうだ。授乳、睡眠、食事、排泄、病院。子供の生活に合わせて親の生活がひっくり返る。親が自由に使える時間が減るのは、まあ当たり前だ」
「……」
「霞が今の年齢だから、うちはそれほどの苦労はないけどな」
その名前を聞いて、私はふと居間を見回した。
そういえば、ここに来てから霞を見ていない。
小桜の子供。血は繋がっていない。
それでも、霞は小桜にとって娘だ。
小桜は実際に、子供と一緒に暮らしている。
「……そうでしたね」
「ん?」
「小桜さん、霞を育ててるんでした」
「ああ」
小桜が頷いた。
「だから、空魚ちゃんが言ってることの一部は分かるぞ」
「……」
「子供ができたら、自分の時間がなくなる。誰かと過ごす時間も減る。そこは綺麗事じゃなくて、普通にそうなる」
私は黙って聞いていた。
「だから、空魚ちゃんが『鳥子と今まで通りにいられなくなるかもしれない』って怖がってるのは、別に考えすぎってわけじゃない」
「……はい」
しばらくすると、小桜が渋い顔で私を見た。
「……それとな、空魚ちゃん」
「はい?」
「空魚ちゃんは、鳥子に子供ができたら、自分たちの関係がどうなるかまで考えてるんだろ?」
「……はい」
「でも、鳥子がこれからどうしたいのかも、空魚ちゃんに何を望んでるのかも、まだ分からないんだよな?」
「どういう……ことですか?」
「たとえば、鳥子に子供ができたら、空魚ちゃんと過ごす時間は減るだろう」
「……」
「でも、それと鳥子が空魚ちゃんを大事にしなくなることは、別の話だろ?」
「……」
「空魚ちゃんは鳥子から捨てられて、選ばれなくなる。……その根拠は?」
「……」
「根拠はあるのか? そこまで、鳥子に聞いたのか?」
「……聞いてません」
「だよな」
小桜は、そう言ってから少し沈黙した。
「空魚ちゃんは、鳥子がどうするか決める前から、勝手に未来を作ってるんだよ」
「……」
「しかも、その未来の中で一番傷つく役を自分にやらせてる」
自分の考えていたことを見透かされたようで、胸の奥がじくじくと痛んだ。
「……そんなつもりは」
「つもりがないのは分かってる。空魚ちゃんがそんな奴じゃないことは知ってる。でも、事実としてそうなってしまってる」
小桜は少しだけ困ったような顔をした。
「空魚ちゃんが鳥子のことを大事にしてるのは分かる」
「……」
「だったら、なおのこと、もうちょっと鳥子のことも考えろよ」
私は眉を寄せた。
私は私なりに鳥子のことを考えているつもりだった。
けれど、いきなり考えていないと言われても……じゃあ何を考えればいいのか分からなかった。
私は顔を上げた。
「……鳥子のこと、考えているつもりです」
「うん。考えてるな」
拍子抜けするほどあっさりと、小桜が頷いた。私は肩透かしを食らった気分になった。
「じゃあ、なにを……」
「今の空魚ちゃんは、自分が鳥子を失うかどうかばっかり考えてるように見える」
「……」
「鳥子が今、何を考えてるのかは?」
「……分かりません」
「何を望んでるのかは?」
「分かりません」
「どうして妊娠したのかは?」
「……」
私は黙った。
「分からないんだろ?」
「……はい」
小桜は、それ以上追及しなかった。
「……今は、分からないままでもいいんじゃないか?」
「……いいんですか?」
「今の段階ではな」
「でも……原因くらいは」
「それも、可能性はいくつかあるだろ」
「……」
「普通に考えれば、男が関わってる可能性が高い。人工授精みたいな方法だってないわけじゃないが、たしか……あれは原則、未婚の女一人では受けられなかったと思う。あとは……強姦された可能性も考えなきゃならなくなる。空魚ちゃんにとっては酷かもしれんが」
小桜はそこで言葉を切った。
私は、慌てて口を挟んだ。
「でも、鳥子は、無理矢理何かをされたわけじゃないって言っていました……」
「お?……おお、そうか。……それは、良かった」
小桜は、少し考えるように黙った。
「だったら、少なくとも鳥子はそう言ってるんだな。……悪い、余計な可能性まで口にしてた」
「いえ……」
私は首を横に振った。
小桜が悪いわけではない。私だって、鳥子がどうして妊娠したのか分からないのだから。
「ただ、原因が何であれ、今の話だけじゃ、あたしにも何も分からん。鳥子がこれからどうするつもりなのかも、空魚ちゃんに何を伝えたかったのかも、な」
「……はい」
「結局、鳥子本人に聞かないと分からないことばかりだ。でも、空魚ちゃんがまだ聞けてないなら、今ここで無理に答えを出す必要もないだろ」
私は返事をしようとしたが、うまく言葉が出てこなかった。
鳥子は、無理矢理何かをされたわけではないと言っていた。
それは分かっている。
それでも、どうして妊娠したのかは分からない。
鳥子が何を考えているのかも、これからどうしたいのかも分からない。
分からない、分からない……分からないことばかりだった。
そして私は、その答えを本人に聞くのが怖かった。
「……それから」
小桜が少しだけ言葉を止める。
「裏世界絡みって可能性も、まあ、ゼロとは言えない」
「……え?」
「昔の話だから、空魚ちゃんは覚えてないかもしれんが、ハイネックについて話したのは覚えているか?」
「ハイネック……」
「第四種とかの定義を決めた人だ」
「あ、ああ……確か、初めて会った頃に言ってましたね」
「そう。んで、これはハイネックが作った分類ではないんだが、分類には第七種接触者と言うものもある」
「七種……ですか。内容は……?」
「人と宇宙人の間に子供が生まれること」
「う、宇宙人と、子供……?」
「ああ、すまん。無駄に混乱させたな。今のは気にしなくていい。こういうとんでもな話も、可能性としてなら存在しうるってことだ。例えば『裏世界の奴らが鳥子にちょっかいを出してきてる』みたいな」
私は小桜の語る話に、ただ頷くしかなかった。
「でも、今の情報だけじゃ何も断定できないのも間違いない」
「はい……」
「検査薬が陽性だったことと、妊娠の原因が分かることは当然別だからな」
私は俯いた。
「……私、原因が分かれば、何か決められると思ってました」
「何を?」
「それも……分かりません。何もかも、分かってないんです」
分からないことをなくそうと必死になっていたのに、自分が何を知りたいのかさえ分かっていなかった。
呆れて、恥ずかしくなる。
「じゃあ、今は決めなくていい」
「……」
「鳥子だって、まだ何も決めてないんだろ?」
「はい」
「だったら、落ち着いて飲み物でも飲め。空魚ちゃんが決める必要はないんだから」
小桜はそう言って、コーラを飲んだ。
「……小桜さん」
「ん?」
「私、鳥子に今まで通りでいてほしいんです」
「うん」
「……でもそれって、鳥子に『変わらないで』って言ってるのと同じですよね」
「そうなるな」
「……幼稚、ですね」
私には自分の都合ばかりを優先しているように思えた。
「だからって、空魚ちゃんがそう思っちゃいけないわけじゃないがな」
「……?」
「嫌なものは嫌でいいだろ。あたしがいつも『怖いものは怖い』っつってんのと同じだ。……怖いものを怖いって言うのは、幼稚か?」
小桜はそう言って、椅子の背もたれに体を預けた。
「だけど、自分が嫌だから、怖いからって理由で、鳥子まで同じ場所に縛るのは違う。そうなったら確実に、悪い意味で幼稚だ」
「……」
「そこは別々に考えろ」
私は黙って頷いた。
「……難しいです」
「今まで意識してなけりゃ、そら難しいだろうな」
「すぐには……答えが出そうにありません」
「出さなくていいんだって」
「でも……」
「空魚ちゃんさ」
小桜が身を乗り出して、私を見る。
「何回も訊くけど、鳥子は、空魚ちゃんに今すぐ答えを出せって言ったのか?」
「……いいえ」
「じゃあ、今はそれでいいんだよ」
私はもう一度、頷いた。
問題が解決したわけではない。鳥子が妊娠した原因も、これからどうするのかも、何一つ分かっていない。
私は白木のテーブルに目を落とした。
鳥子に何を求めているのか、自分でもまだよく分からなかった。
ただ。
今まで通りでいてほしい、という願いだけを、大変な目に遭っているかもしれない鳥子に押しつけるのは違う気がする。
鳥子が何を選んだとしても、その話を聞くことはできるはずだ。
でも。
変わってしまうことと、終わってしまうことは、同じではない。
「……私」
「ん?」
「鳥子に、今まで通りでいてほしいと押しつけたいわけじゃないのかもしれません」
「ほう?」
「子供をどうしてほしいとか、そういうことじゃなくて……」
言葉を探す。
もし何かが変わってしまったとして。
それでも鳥子と話すことができるなら。
それでも鳥子の隣にいられるなら。
「ただ……」
胸の中に浮かんだものを、慎重に言葉にする。
「鳥子と、ちゃんと話せる関係でいたいんだと思います」
「……そうか」
「何かが変わったとしても」
言って、自分でも少し驚いた。
「……何かが変わったとしても?」
「はい」
私は考えながら続けた。
「今まで通りじゃなくなるのは、怖いです」
「うん」
「でも……今まで通りじゃなくなったら、もう終わりってことでもないです……よね?」
小桜はすぐには答えなかった。
ただ、少しだけ笑った。
「そうだな」
「……」
私は小桜を見る。
怖さがなくなったわけではない。
「……小桜さん」
「ん?」
「まだ、よく分からないですけど……少しだけ、分かった気がします」
「ん……そうか」
「はい。忙しいなか、ありがとうございました」
「あいよ……ん? もういいのか?」
「はい。……たぶん」
まだ、鳥子に電話をする勇気はない。
それでも、さっきまでとは少し違う。
鳥子に何をしてあげたいのかも、今度は一人で勝手に答えを決めつけるのではなく、ちゃんと考えてみようと思った。
3
「じゃあ、そろそろ失礼します」
「なあ、本当に平気か?」
「はい」
正直に言って、あまり「はい」という状態にはなれていない。
それでも、小桜に話を聞いてもらう前よりは、かなりマシになったように思えた。それに、なにより私のせいで小桜に時間を無駄にしてほしくなかった。
甘えてばかりはいられない。ここから先は、私自身が考えなければ。
「そうか。まあ、あたしもこれから用事あるしな……」
小桜が眉を下げて、私に向かって心配そうに言う。
そんな小桜を安心させようと、私は薄く微笑んでみせた。
すると、小桜の表情がさらに曇った。
「なんだよ、その顔。不気味だな……」
小桜の暴言を受け流して、家を出ようと椅子を引いて立ち上がると、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
ぱたぱたとした、小さな足音だった。
「小桜ー来たよー」
声と一緒に、廊下の角から霞が顔を出した。
「おお、自分で起きてこれたか」
「起きてる。見りゃわかるだろ」
霞はそう言って、こちらを見た。
「おーい、空魚ちゃん」
「うん。こんにちは、霞」
「あいあい、こんちはー」
霞は私を見たまま、少し首を傾げた。
それが「何しに来たんだ? おまえ」と訝しげに訊かれているように感じて、私は言い訳をするように言った。
「ああ、えーと……少し困ったことがあってね。小桜さんに相談しにきたんだ」
「相談?」
霞はさらに首を傾げると、訊いてきた。
「鳥子のばかやろー?」
「……………………」
思わず言葉に詰まった。
小桜は霞になんて言葉を教えているのだろうか。
というか、なんで霞まで私の悩みに気付いているんだ。
「ああ」
代わりに小桜が答えた。
「まあ、そんなところだな」
「ふーん?」
霞はそれ以上興味がなくなったように、私から視線を外して壁掛けの電波時計を見た。
小桜も時計を見る。
「お、そろそろ出るか。連絡きてたし」
「どこに行くんですか?」
「ああ。霞の予防接種」
「予防接種?」
「こないだな、貰ってた母子手帳を見たらさ、接種歴の欄が白紙で、ワクチンとか一つも受けてないことに気付いてな」
「そうなんですか? マズくないですか? それ」
「ああ、マズいんだよ。だからまあ、念のためDS研に相談したらな、『ワクチン取り寄せるから打ちに来い』って言ってくれたんだわ」
小桜はそう言いながら、霞の頭に手を置いた。
「普通に接種しようとするとあっち行ったりこっち行ったりで時間も費用もかかるからな。ありがたくお言葉に甘えることにしたんだよ」
「そうですか……」
DS研。
その名前を聞いて、私は少し考えた。
DS研。汀や医者、第四種の患者たちがいる場所。
私もこれまで、何度も行ったことがある。
……鳥子と共に。
「……じゃあ、私はこれで……」
そう言いかけて、私は玄関の方を見る。
小桜と霞がDS研へ行く。
私は一人で帰る。
それだけのことだ。……なのに、このまま出ていくのが──急に嫌になった。
さっきまで小桜に話を聞いてもらって、少しだけ頭の中が整理できたのに。
でも、自分の家に帰れば、また一人になる。
そこで鳥子のことを考え始めたら、また同じところをぐるぐる回ることになりそうだった。
鳥子には、必ず戻ると約束してある。
それなら、もう少しだけ誰かの話を聞いてみてもいいのかもしれない。
「……あの」
私は小桜を見る。
「やっぱり私も、ついて行っていいですか?」
小桜が私を見る。
「ん?」
「DS研に……小桜さんの、お邪魔じゃなければ」
「おー、うん。別にいいけど」
小桜は少し考えてから、霞を見る。
「霞もいいよな?」
「あいよー」
霞はあっさり答えた。
「じゃあ決まりだな」
小桜はそう言って、玄関へ向かった。
私は玄関で靴を履きながら、少しだけ考える。
鳥子のことを誰彼となく話すつもりはない。
鳥子の許可なく、これ以上事情を明かすのは避けたかった。小桜には勢いで話してしまったが。
ただ、小桜と話したことで、自分一人では気づけないこともあるのだと分かった。
もう少しだけ、他人の考えにも触れてみていいのかもしれない。
「なあ、空魚ちゃん」
「はい?……え?」
「見てみ」
振り返ると、外行きの高級感のある、綺麗な洋服に身を包んだ霞がこちらを見ていた。すごく満足そうな顔をしている。
口調で霞を小桜と勘違いした。……本当によく喋るようになったものだ。紛らわしい。
視線を移すと、当の小桜は霞の背後に立って、霞の服装をチェックしていた。すっかり親だ。
「霞は……よし、いいな。靴履いて出る準備してな。空魚ちゃんも問題なさそうか?」
「あ、はい。大丈夫です」
私は立ち上がり玄関の扉を開けた。
小桜は霞の手を引いて、外へ出た。
その手を見ていたら、どうしても訊ねたい事柄が胸の鼓動を早めた。
「あの……小桜さん」
「ん?」
「大変じゃ、ないんですか? その……霞の世話って」
小桜は一瞬だけこちらを見て、それから霞に視線を戻した。
「んまあ、大変なときもあるけどな」
小桜は、いつもと変わらない調子で言った。
「……」
「でももう親だしな。それに……」
小桜はそう答えて玄関を出た。私もその後に続く。小桜は家の鍵を閉めてから、改めて口を開いた。
「付き添う。ってのは、こういうもんなんだと思うぞ。どれだけ大変でもな」
屋敷の門扉の外に黒塗りの高級車が停まっているのが目に入った。
私たちが車に近付くと、運転席が開いて中から長身の男がスッと降りて来た。汀だ。
「こんにちは。小桜さん、霞さん。お迎えに上がりました。紙越さんも、ご無沙汰しております」
深々と慇懃な調子でお辞儀をする汀に引っ張られるように、私も思わず頭を下げてしまう。
「あ、いえ、私の方こそ最近伺うことができなくて、すみませんでした。色々あって……」
顔を上げると、ほぼ同じタイミングで汀が頭を上げた。
「お気になさらないでください。無理をしてUBLに向かう方が危険ですから」
お互いに軽く微笑んでいると、横から小桜が汀に向かって手を挙げた。
「おっす、いや、悪いねー。タクシー代わりに使っちゃって」
「お気になさらず、これも大事な仕事ですからね」
「へえ、コーヒータイム代わりの気晴らし?」
「いえいえ、違いますよ」
汀が笑いながら言った。
「コーヒーも飲んでから来ました」
小桜と汀が、ハッハッハと笑う。私も微笑んでみたが、笑いどころがどこなのかわからなかった。
私が表情筋をピクつかせて微笑んでいると、再び汀が私に向けて問いを投げかけて来た。
「ちなみに紙越さんは、本日はどのようなご用件でしょうか? UBアーティファクトの買取でしたら、喜んで査定させていただきますが」
「あ、あー……えーとですね……」
「空魚ちゃんは、今日はただのあたしの付き添いなんだ。問題なければ一緒に連れてってくれると助かる」
小桜の軽い説明に、汀は微笑みを崩さず首を縦に振る。
「もちろん、歓迎いたします」
「助かるよ」
小桜がそう言って、車の後部座席へ回る。
私もその後に続いた。
小桜が先に乗り込み、霞が真ん中に座る。
私は反対側の席に腰を下ろした。
扉が閉まり、車がゆっくりと走り始める。
窓の外へ流れていく景色を眺めながら、私は膝の上で手を組んだ。
DS研。
さっきは何となくついて行くことにした。
でも、せっかく行くのだから、誰かに何か聞いてみてもいいのかもしれない、と考えた。
もちろん、鳥子のことを直接話すつもりはない。
ただ、一般論として。
妊娠について。
あるいは、私が知らない何かについて。
そう思った。
「空魚ちゃん?」
「え?」
顔を上げる。
小桜がこちらを見ていた。
「どうした?」
「あ、いえ……なんでもないです」
「そうか?」
「はい」
小桜は少しだけ私を見ていたが、それ以上は何も言わず、励ますように私の肩をポンポンと叩いた。
車内に沈黙が戻る。
私はまた、窓の外を見る。
空はまだ青いが、夕方も近い。
鳥子に「絶対に戻る」とメッセージを送った以上、いつまでもこうしているわけにはいかない。そう思うほど、時間が過ぎていくのが怖かった。
車が溜池山王にあるDS研のビルに着くと、地下駐車場へと潜っていった。
「お待たせいたしました。どうぞ、足元にお気をつけて」
「運転ありがとねー」
小桜や私より先に、霞が感謝の言葉を述べていた。成長、してるんだな。出会ってから一、二年経つが、感慨深かった。
それは汀も同じなようで、いつもの礼儀正しい社交的な笑みではなく、親戚のおじさんが姪っ子にでも向けるような顔で笑った。
「ええ、霞さんもお気をつけて」
「はいよー」
言って、霞は小桜の方に体をずらした。小桜は霞の頭を撫でて、そのまま頬擦りした。
「よしよし。良い子だな」
「おーい。早く降りるんだぞー」
「ああ、そうだな。悪い悪い」
霞に言われて小桜がドアを開けて外に出る。それに霞が続いて降りて、そのまま二人でエレベーターの方へと歩いて行った。
私も汀に向けて言う。
「すみません。いつも運転していただいて」
「お気になさらず。趣味──いえ、仕事ですから」
私は軽く会釈して車を降りようとした。そのときだった。
「ところで、紙越さん」
「え? あ、はい」
「何か気になることがおありですか?」
「え?」
「先ほどから、少し考え込んでいらっしゃるようでしたので」
私は一瞬、返事に困った。
「……そう、見えちゃいます?」
「ええ、かなり深刻な様子で」
即答して、汀は微笑んだ。
「もっとも、私に話をする必要があるかどうかは別問題ですが」
「……」
悲報。私のポーカーフェイス誰にも通じていない説。
「……一つだけ、聞いてもいいですか?」
「私に答えられることでしたら」
「……あの、妊娠についてなんですけど」
言ってから、しまったと思った。
鳥子のことを話さないつもりだったけど、私が言ったら鳥子のことだとすぐにバレかねない。
「あー……これ、し、知り合いの話です。もちろん」
すぐに付け足す。
「ああっ、私のでもありません! もちろん!」
「承知しております」
「……まだ何も言ってないですよ」
「ええ」
汀は微笑んだ。
「私もまだ何も聞いていません」
……絶対、分かってる。
何があったのかまでは、まだ知らないはずだ。けれど、私が何について悩んでいるのかくらいは、もう察している気がした。
鳥子のことだと。
そう言い当てられたわけでもないのに、私は勝手にそう確信していた。
……いや、待て。
そもそも、どうして私は鳥子のことを隠そうとしているんだろう。
別に、汀に話したところで何かが変わるわけでもない。鳥子の許可なく事情を話すのは避けたいけれど、妊娠について一般的な質問をすることまで気にする必要はないはずだ。
なのに、私は「知り合いの話」だと念を押した。
まるで、鳥子のことだと知られるのが困るみたいに。
あ、いや……実際、困るのかもしれない。
鳥子が妊娠した。
その事実を口にするだけで、私はまだ、こんなにも落ち着かなくなるのだから。
私は小さく息を吐いた。
「妊娠って……普通は、原因というか、どうして妊娠したのかって、分かるものですよね?」
「医学的な意味でしたら、妊娠に至る経路を特定できる場合もあれば、本人の認識だけでは判断できない場合もありますね」
「?……そうですか」
何だか難しい言い回しが出て来て、一瞬頭がハテナでいっぱいになったが、とりあえず相槌を打っておく。要するに、「妊娠の経緯が分かる場合もあれば、分からないこともある」ということだろう。たぶん。
私が一瞬考えているうちに汀が話を続けた。
「また、自然妊娠だけが妊娠の方法ではありません。人工授精などの生殖補助医療もありますし、当然ですが、本人の意思に反して妊娠に至る可能性もあります」
淡々とした説明だった。
私は言葉を噛み砕き、ゆっくりと頷いた。
「……もし、あ、その友人は大丈夫だったんですが……本人が望まない形で妊娠したのだとしたら、どうすればいいんでしょうか?」
「………………」
汀が急に黙り込んだ。どうしたのだろう、と尋ねようとしたとき、汀が言った。
「ご友人は──本当に大丈夫だったんですか」
汀には珍しい、深刻な声色だった。
「あ、はい……。本人は、そういうことはなかったと……言っていました。……はい」
「……そうですか」
私の言葉に、汀はほんの少し安堵したように見えた。そして息を吸い込んで話を続けた。
「先ほどの続きですが、望まぬ形での妊娠であれば……状況によりますね。本人の安全を確保したうえで、医療機関や警察など、適切な窓口に相談することも考えられます」
「……そうですか」
「ただ、現時点では詳しい事情が分からないのですよね? でしたら、まずは事実を確認することが先決かと思います」
私は小さく頷いた。
「……それじゃあ、本人が『分からない』と言っている場合、本当に分からないことも……あったりするんですか?」
「あります」
即答だった。
「本人が何かを隠しているとは限りません」
「……」
「分からないものを、本当に分からないと言っているだけかもしれませんから」
鳥子。
あのときも、鳥子はまだどうするか決めていないと言っていた。
病院にも行くつもりだと。
それなのに私は、その先にあることまで勝手に考えていた。
「……裏世界が関係している可能性は?」
私の質問に、汀は少しだけ考える。
「可能性だけなら、否定はできないでしょうね。UBL──いえ、裏世界は可能性の塊です。何が起きても不思議ではありません」
「やっぱり……」
「ただし、可能性があることと、そうであることは別です」
「あ、はい……分かってます」
私は答えた。
「でも、可能性があるなら……調べることはできますよね?」
「何を、でしょう?」
「え?」
「原因をですか?」
「……はい」
「何か具体的な手掛かりがあれば、調査のしようもあるでしょう。しかし、手掛かりがない状態で可能性を並べていくことなら、いくらでもできてしまいます」
「……」
汀は続ける。
「男性との性交渉があったのか。人工授精なのか。第三者によるものなのか。裏世界の影響なのか。それ以外なのか。可能性を列挙するだけなら簡単です」
「それじゃあ……」
「ですが、それだけでは何も分かりません」
その言葉が、妙に引っ掛かった。
「……何も?」
「ええ。なにも」
汀は穏やかに答えた。
「いろいろな可能性を考えることはできます。でも、実際に何が起きたのかを知るには、証拠や本人の話が必要です」
私は頷きながら、ふと、先ほど小桜から聞いた話を思い出した。
「……第七種の場合は、どうでしょう?」
「第七種、ですか」
「はい。人間と……その、別の生物との間にできた子供とか」
「そういった可能性も、理論上は考えられます」
「それなら、普通の妊娠とは違うんですよね?」
「当然、検査項目や確認すべき事項は増えるでしょうね。ただ、そこも結局は個別の事情によります」
私は頷いた。
「……ありがとうございます」
「いいえ」
汀は一礼した。
「ただ、もし本当にお困りの方がいらっしゃるのでしたら、医学的な確認については専門家に相談されたほうがよいでしょう。私よりも、医療の専門家に相談するほうが確実ですから」
「はい」
「原因を推測するより、まず現在どういう状態なのかを確認するほうが大切な場合もありますから」
「やっぱり……そう、ですよね」
まさに、今の私の状態を言い当てられたようで気まずく、私はそうとしか答えられなかった。
汀は、少しだけ私の顔を見てから、穏やかな口調で言った。
「……もし、何かありましたら、お声がけください」
「はい?」
「何でも、というわけにはいきませんが……紙越さんや仁科さんたちのような個人では難しいことでも、DS研にはできることはありますので」
私は返事に詰まった。
何かあったら。
その言葉を、頭の中で繰り返す。
鳥子のことで、私一人ではどうにもできないことがあったとしても、頼れる場所がある。
そのことに、少しだけ安心した。
「……ありがとうございます」
「いえ。お気になさらず」
汀はいつものように微笑んだ。
「では、小桜さんと霞さんをお待たせしておりますので、行きましょうか」
「え? あ、はいっ!」
私は車を降り、汀が車の鍵をかけるのを見届けた。
汀はこちらを一瞥すると、背を向けて離れていく。
私はしばらく、その背中を眺めていた。
鳥子の声が、頭の中で再生された。
〈──空魚、私、妊娠したみたいなの〉
その記憶が蘇った途端、視界がぐらりと揺れ、心臓がバクバクと大きく鳴った。
私はすぐに、その記憶を振り払おうとした。
……駄目だ。
こんな場所で思い出すものじゃない。
私は小走りで車と車の間を抜け、エレベーターに向かった。
走っても、記憶が追ってくる。
鳥子の声。
私の声。
さっきの会話。
──まだ、どうするかは決めてない。
私は頭の中で響く音を誤魔化すために耳元を掻いた。
鳥子は、まだ何も決めていない。
病院で確認してから、これからのことを考えるつもりなのだ。
妊娠した原因についても、私はまだ何も聞けていない。
なのに私は、勝手にその先を考えていた。
鳥子が母親になる。
私と会う時間が減る。
私たちの関係に変化が起きる。かもしれない。
鳥子が誰かを選ぶ。かもしれない。
私を……置いていく。……かもしれない。
小桜と話して、それがまだ起きていない未来であり、私の想像にすぎないことは分かった。
それでも、考えるのをやめられなかった。
けれど。
鳥子がどうして妊娠したのか。
私は、それを調べようとしていた。
しかし、と頭をぶんぶん振る。
「だから……本人に訊けばいいじゃん」
小さく、呆れた声が自分の口から漏れた。
自分で言っておいて、嫌になった。
そんなことは、分かっている。
でも、訊けば答えが返ってくる。
その答えを聞くのが怖い。
だから私は、答えの代わりになるものを探している。
可能性を集めて。
情報を集めて。
誰かの話を聞いて。
そうすれば、鳥子に直接聞かなくても、鳥子のことが分かるような気がしていた。
──そんなわけがないのに。
頭の中で声が響き、視界がチカチカと明滅する。私は額を押さえた。
「……あー、バカみたい。マジで死ねばいいのにな、私──」
「空魚ちゃん」
「ひゃっ!?」
「ひぃっ!?」
突然、横から声がして、私は肩を跳ねさせた。
見ると、胸を抑えて驚いた様子の小桜が立っていた。
「な、なんですか?」
「い、いや、逆になんなんだよ。いつまでも来ないからさ。エ、エレベーターで全員待ってるんだよ……ビビったぁ」
「あ……あ、はい。ごめんなさい」
小桜は私の顔を見た。それから上から下まで見ると口を開いた。
「また、なんか考えてただろ」
「……はい」
「そうか」
小桜は、それ以上何も聞いてこなかった。
霞がその後ろから顔を出す。
「空魚ちゃん、やっぱもう帰る? それかDS研で少し横にならせてもらってから帰るとか」
「……え、と」
帰らなければならない。
鳥子の家へ。戻ると約束したのだから。
それなのに私は、鳥子に会う前に、また別の場所で答えを探そうとしていた。
「……小桜さん」
「ん?」
「私、ちょっとだけ分かった気がします」
「お、何が?」
「鳥子の──」
そこで言葉が止まった。
喉の奥が詰まる。
小桜は何も言わず、私を見る。
「……いや」
私は首を振った。
「ごめんなさい。やっぱりまだ、分かってないです」
「……そうか。まあ、焦るなよ。な?」
小桜はそれだけ言った。
それが嬉しかった。
今の私には、何かを決めろと言われるより、答えが出るまで待ってもらえるほうがありがたかった。
エレベーターに小桜と向かう。
エレベーターの室内灯が、暗い駐車場を照らしている。
中にはパネルの前に立つ汀と、汀に寄りかかって目を閉じてウトウトとしている霞がいた。
「すみません、遅れました」
「いえ、お気になさらないでください」
私と小桜がエレベーターに乗った。
DS研へ向かうために必要な鍵とパスワードは、もう入力していたらしい。ゆっくりとドアが閉まり、階数を表示するパネルの数字がどんどんと変わっていった。最終的にパネルは数字を表示しなくなる。
やがて目的の階層に到着すると、チャイムと共にドアが開いた。
私たちは、ひとりずつエレベーターを降りていく。
──今日は、鳥子の家に戻る。
そこから先のことは、そのとき考えればいい。
今の私にできるのは、それくらいだった。
4
エレベーターを降りると、見慣れたホールに出た。
普段、DS研には鳥子と一緒か、一人で来ることが多い。だから、こうして違うメンバーと来るのは、なんだか落ち着かなかった。
「こちらへどうぞ」
汀の案内に連れられて来たのは、応接室だった。室内は落ち着いた色合いで統一されていて、リラックスできる空間だった。この部屋だけで、私の家が三つ並んだ分より広い。
「どうぞ、おかけになってお待ちください」
私たちは汀の言葉に従ってロングシートのソファに座った。
扉の前に立っている汀が言った。
「では、担当のものに霞さんが到着したことを伝えますので、もうしばらくお待ちください」
それと、と汀が続ける。
「本日このあと、辻さんと潤巳さんもいらっしゃる予定ですが……小桜さん。いかがされますか?」
「はぁ? あの二人が? いかがって……なんでまた今日に限って……あ、いや、待て」
小桜が露骨に嫌な顔をする。
「あいつらが来るの……なんか医療行為するため? ワクチン接種とか」
小桜の言葉を聞いて、汀がわずかに目を見開いた。
「さすがですね。はい。ワクチンを打ちに来られます」
「るなが? 辻は付き添いか」
「はい。辻さんは潤巳さんの付き添いです」
「つまりお互いすぐに用は済むんだな……ならいいよ。同じ部屋で。そっちの手を煩わせたくないし」
「煩わしくはありませんよ。お気になさらずに決めてください。最初から念のため別の部屋を空けておいてありますので」
「良いって。大丈夫だから……ふぅ」
「申し訳ございません。配慮が足りませんでした」
「良いんだって、いい歳して人の好き嫌いでギャアギャア言うのも問題だし、そんなの霞に見せるべきじゃなかった。それに部屋別にしても、辻のことだから、どうせどこかで会うんだろうし。もう文句は言わないからさ、気にしないで」
「そうですか……では、改めてごゆっくりお待ちください」
汀の言葉を最後に、応接室は静かになった。シーンという耳鳴りと、霞が足をぷらつかせる衣擦れの音だけが聞こえる。
静かなのは好きだが、なんとなく今の静けさは苦手だった。
さっきの小桜の推理が気になっていた。私は、その理由を訊ねてみることにした。
「小桜さん」
「うん? なんで声潜めてんの?」
「なんとなく……」
小桜が声を潜めなかったので、私も普段の声量で話す。
「さっきはなんで、るなたちがワクチン打ちに来たってわかったんですか?」
「……なんとなくだな。あんま考えて言ってたわけじゃないし」
「へえ……?」
「なんだよ」
「いえ、小桜さん、頭いいじゃないですか。そんな人の口から『あんま考えてない』って言葉が出てくると不思議な感じがして」
「頭に湧いてきたこと言語化してたら、脳の言語野爆発してみんな死ぬんじゃねえか?」
そう言うと、小桜は視線を下ろし、自分の靴の爪先に目を向けた。
「あー……そうだな。辻のやつが、特に用もなくるなを連れてここに来るとは思えない。あたしらと時間が被ってるのも、偶然じゃなさそうだしな。霞がワクチンを打つって聞いて、ついでにるなの分も取り寄せてもらった……とか、そんなところか? もちろん本当にただの偶然で、辻がるなに仕事教えてるとかも考えたが、今回は当たってたらしいな」
「はー……なるほど」
「なに感心してんだよ。これくらい空魚ちゃんだってやってるだろ」
「へ? いえ。出来ませんよ」
「そうか?……あたしからしてみれば、裏世界で敵に襲われてる真っ最中に相手の正体を推測、対策を練って、そして何回も撃退して帰って来てる時点で、あたしはいつも『こいつら何食ったらそんなふうに肝が座るんだ?』って思ってるぞ。ランボーかよマジで。普通なら恐慌状態になって死ぬだろ」
「それはまあ……そう、なんですかね?」
「そうなんだよ。空魚ちゃんは自認してるより普通じゃないからな」
「わかりました」
「言っておくけど、すごいなとは思ってるけど、褒めてはないからな。他の人間にその肝の太さを求めるなよ?」
「あ……はい」
私は、少しだけ肩を落とした。
そのとき、コココン! と軽やかなノックが室内に響いた。扉の前に立っていた汀がドアノブにゆっくり手を掛けると、軽く小桜の方を一瞥し、そのまま扉を開いた。
「や〜、おはよう汀くん! 小桜くんに霞ちゃんも! おはようおはよう! おや? おやおや! え〜! 紙越くんがいる! 見て見てるなちゃん! 紙越くんだよ!」
「あー、はいはいはーい。汀さんに小桜さんに紙越さんに霞ちゃん。みなさんどうもでーす。お邪魔しまーす」
テンションの高い辻と、辻を諌めることを放棄したように振る舞うるなが部屋に入って来た。辻は満足そうな笑みでつかつかと歩いてくると、小桜の前に座った。小桜はさっきのまま、つま先を見て辻の存在を視界からシャットアウトしているようだ。
少し遅れてるなが私の前に座る。
「久しぶり。るな」
「ん?……ふふふ。ご無沙汰してまぁす。紙越さん」
私が流れでるなに挨拶を返すと、るなが微笑みと共にぺこりと頭を下げた。その仕草を追うように、るなの長い髪が揺れる。
なんとなくそのままるなを見ていると、今までとは違う系統の服を着ていることに気が付いた。可愛らしいピンクのシャツにシックな雰囲気の黒いスカート。傷跡と顔を隠すためだろう黒い布マスク。こういう服のジャンルを何というか知らないが、大学とかでサークルをクラッシュしてそうな見た目だ。今まで制服姿と病院着姿しか見たことがなかったので少し新鮮に映る。素直に似合っているな、と思った。
「もしかして、紙越さんもワクチン打ちに来たんですか?」
「ううん。私は小桜さんにくっついて来ただけ」
「へーそうなんですか? じゃあ紙越さんはもう接種済みなんですね」
「いや? してないけど。そもそもるなが何のワクチンを打ちに来たのかも知らない」
「あ、そうなんですね。私は子宮頚がんワクチンってヤツです。なんか三回も打たなきゃいけないらしくって、めんどいなーって感じですね」
「へえ、私も打ったことないからなあ」
私が興味薄そうにそう言うと、るなが覗き込むように私の顔を見てきた。なんだか心配そうな顔をしている気がする。
「いままで興味なくて放ったらかしてた私が言うのも何ですけど、打っておいた方がいいですよ。ワクチン」
「うーん……いや、いいかな。めんどいし」
「ちなみに他所だと合計で十万円くらいかかるそうですよ。でもDS研なら無料なんですって」
「いつ打とうかな」
「もーお金に正直すぎですよねー紙越さんは」
私とるなの会話が、そこで一瞬途切れると、隣の会話が聞こえて来た。
「いやー! 久々だね〜! もっとウチに遊びに来てくれればいいのに。そういえば、なんか雰囲気変わった? てか髪切った? 前のスタイルも良かったけど、今の感じも素敵だネ!」
「いや……切ってねえよ。たまに梳いてもらう程度」
「うんうん。わかるよ! でも梳いてない状態のモコモコ小桜くんもきっとかわいいんだなあ、これが!」
「……そうかよ」
その後も辻の投げるボールは打ち返されることなく見送られ続けていたのだが、辻はまったく意に介した様子もなく、ボールを投げ続けている。
私はその光景を横目に見ていたが、ふと視線をるなの方に戻すと、るなも二人のことを眺めていた。
私の視線に気づいたるなは、居心地の悪そうに頭を掻いて言った。
「普通の時は、悪い人じゃないんですよ……? ごく稀にあんな感じになっちゃうだけで」
るな……それは、ダメな奴を庇う時のセリフだぞ……?
それからわずかに時間が流れたころ。
室内にスマホの呼び出し音が鳴った。私のものではないが、念のためポケットのスマホの画面を確認してしまう。……やはり私のではない。
視線を巡らせると、汀がスマホを耳に当てているところだった。
「わかった。いまお連れする」
小さく呟くようにそう言ってから、汀は私たちを見ると一礼して言った。
「お待たせいたしました。準備が完了しましたので、小桜さん、霞さんをお連れいたします。……紙越さんはどういたしますか?」
「ええと……じゃあ、私はここで待ってます」
「かしこまりました」
汀が首肯すると、小桜と霞がソファから立ち上がってドアの方へと歩き出す。
「じゃあ、空魚ちゃん。また後でな」
「あ、はい。待ってます」
「いってらっしゃーい小桜くーん! 霞ちゃんも注射頑張ってねー!」
小桜と霞の姿がドアの向こうに消えていく。
「行っちゃったー。寂しいなー」
全然寂しくなさそうな口調で辻が言う。
「そうですか?」
るながソファに座り直す。お尻の良いポジションを探るように。
私もその対面で姿勢を正した。
さっきまで小桜と霞がいたせいか、ドア前に立っている汀を含め、四人だけになると実際より部屋が広く感じる。
辻は、そんなことを気にする様子もなく、ソファの背もたれに体を預けていた。
「いやー、それにしても小桜くんも大変だねえ」
「……何がですか?」
辻の言葉に私は問いかけた。
「霞ちゃんの付き添い」
「そう……ですか?」
「だって注射でしょ? 嫌がる子供を病院に連れてくるのって、結構疲れるんじゃないかな?」
「……」
私は少し考えた。
「でも、小桜さんは慣れてそうですよ。それに霞自体、全然嫌がってませんし」
「そうなの?」
「霞のこと、よく見てますし」
「まあ、あの二人はいいよね。まだまだ短い付き合いのはずなのに、ずっと昔から一緒にいるみたいでさ」
辻がニマニマと笑った。
「小桜くん、なんだかんだ面倒見いいんだよね」
「そうですね」
「ああ見えて結構優しいし」
「……それは知ってます」
「お?」
「いままで、何度も助けてもらったので」
「おー、そっかそっか」
辻は満足そうに頷いた。
「じゃあ、小桜くんのこと嫌いじゃないんだ」
「はい……? 嫌いなわけ、ないですよ。どこから出て来たんです? その言葉」
私の割と真剣な質問を「アハハ」と笑い流して辻は言葉を続ける。
「よかったー。小桜くん、紙越くんに嫌われたら結構本気でへこみそうだから」
「……そうなんですか?」
「たぶんねー」
小桜が落ち込む姿を想像してみる。
……へこんだ小桜。あまり想像できない。
私がそんな考えを思い浮かべていると、黙って話を聞いていたるなが口を開いた。
「でも、小桜さんって辻さんのことは嫌いですよね」
「うん! そうなんだよねえ」
辻がひと笑いする。そして元気いっぱいに頷いた。
「否定しないんですね」
「だって、そうだと思うし」
辻は楽しそうだった。
「でも、あれくらいの方が面白いじゃん」
「小桜さんからしたら、面白くないと思いますけど」
「そうかなあ」
「そうですよ」
るなが即答する。
「そっかー」
辻はまったく反省していない顔で笑った。
私は二人のやり取りを眺める。
「るなは、辻さんと一緒にいて……あー、楽しいの?」
「さあ? 好き嫌いでは語れないですね。敢えて言うなら、慣れました」
「慣れたんだ……」
「はい」
「強いね」
「そうですか?」
「うん」
るなは少し考えてから、辻を見る。
「でも、たまに面倒ですね」
「えー。そうかなー?」
辻がるなに言葉に疑問の声をあげた。
「ほら、さっきのウザ絡みとか、今みたいなときとか」
「あれぇ? 今? そうかなあ?」
「これは本当のことですよ」
「るなちゃん、るなちゃん。最近ちょっと私に冷たくない〜?」
「そうですか?」
「そうだよぉ」
「じゃあ、優しくします」
「え、ほんと?」
「はい」
るなが少しだけ笑った。
「その代わり、辻さん今日の注射、るなの代わりに頑張ってくださいね?」
「私がやるの!?」
私は思わず吹き出した。
「ふふ……」
「紙越くんまで?」
「ちょっと、すみません……」
「いや、いいんだけどさ〜」
辻はニマニマとチシャ猫のように笑いながら、るなの方を見る。
「う〜ん。でも、るなちゃんは本当に今日頑張らないとかなぁ」
「……はい」
るなの表情が少しだけ真面目になる。
「どうしたの。注射、嫌とか?」
「……別に」
「怖いの?」
「まあ……人並みにですね。人並みに憂鬱です」
「そっか」
私が質問をやめて口を閉じると、室内が急に静かになった。
辻もそれ以上からかうようなことは言わなかった。足を組み、肘を付いて手のひらに顎を乗せる。普段よりもグンと大人びて見えた。
その様子が、少し意外だった。
いや、いい歳した大人なんだけど。
さっきまで小桜を相手に一方的に話しかけていた人とは、少し違って見える。
「辻さん」
「ん?」
「るなのこと、結構ちゃんと見てるんですね」
「うん。そりゃあ見るよ」
辻は当たり前のように答えた。
「付き添いで来てるんだからね」
「……」
私は少しだけ黙った。
鳥子のことを考えていると、また同じところをぐるぐると回ってしまいそうだった。
今は、少しだけ別のことを考えたい。
「あー……やっぱり、私もワクチン打とうかな」
私が話題を変えると、辻とるなが反応してきた。
「お、勇気あるね。いいじゃーん」
「でも、今るなが言ってたんですけど……三回もあるんだよね?」
前半は辻に、後半はるなへの問いだった。
「そうですね」
私の質問にるなが答える。
「一回で終わらないんですよ」
「……面倒だな」
「ええ、ホント。面倒ですよね」
「お金もかかるし」
「DS研なら無料ですよ」
「それはさっき聞いた」
「じゃあ、もう決まりですね」
「何が?」
「打つんですよ」
「まだ決めてないよ」
「え〜、今日一緒に打ちましょうよお」
るなが少しだけ笑う。そのまま話し続けた。
「……でも、紙越さん、そういうところありますよね」
「どういうところ?」
「面倒なことは後回しにするところ」
「……」
否定できなかった。
「よく気が付きましたね? 潤巳さん」
「実に簡単な推理でしたよ。紙越さん」
すると、辻が突然るなに言った。
「そういや、るなちゃん。今日、注射なんだよねー」
「うん……? そうですけど、その話もう何回もしてますよね? 若年性の認知症ですか」
「じゃあ、知ってる?」
辻がるなの言葉を無視して、そのまま話し続ける。
「何をです?」
「子宮頸がんワクチンってさ、子宮頸部に直接注射打つんだけど、これがくっそ痛いんだよね〜しかも、直前に子宮の中まで検査されるんだよ」
「…………」
「しかも、下も全部脱いでぇ、……クスコって器具を使って中まで調べるんだ。ありゃ恥辱の極みだね」
るなの顔が固まった。
「ほ……ほんと? え、冗談?」
「ほんとほんと」
「いやいやいや……辻さん」
「んー?」
「さすがに嘘でしょ?」
「いやいや、本当だって。私も経験者だから分かるよー?」
「……」
るなの顔が少しずつ赤く、険しくなる。
「絶対! 絶対に嘘!」
「なんで? 私はちゃんと受けたことあるから分かるよー?」
「だって、そんなわけっ……え、嘘っ、やだ……先生に見られるってこと!? やだやだ、せめて女の人じゃなきゃ無理だから! ありえないありえない! 私、今日なにも準備して来てないのに!! キャ、キャンセルッ、キャンセルします!」
「えー、るなちゃん、ワクキャン勢? せっかく来たのにもったいないなあ〜」
「辻さん」
低く静かな声が室内に響いた。今まで半ば置物と化していた汀が真顔でこちらを見ている。
「からかうにも限度がありますよ」
「ありゃー、汀くんに叱られちゃった。まあ、私も途中からやりすぎかなって思ってたし」
「……???」
汀と辻のやりとりを聞いて、顔を赤らめていたるなが、混乱したように二人を見る。
「ごめんなさい。潤巳るなくん。いまの話ね、全部嘘! 注射は確か……上腕のあたりだったかな! 嘘ついて、ごめんなさい! あはははは!」
「……………………」
座りながら深々と頭を下げるアラフォー女性。そしてそれを無表情で見下ろす女子高生(元)。その構図は見れたものじゃなかった。
「汀さん。紙越さん……」
しばらくして、るなが口を開いた。
「この人には『声』、使っても良くないですか?」
「ごめんごめんごめん! ほんの冗談だよー! 反省するから許して! ね?」
るなはまだ無表情のまま流し目で辻を睨みつけている。
見ている限り、その視線には、怒りは籠っているが殺意のようなものは感じられない。しばらく時間が経てば、るなのことだ。ケロッとしているだろう。
──そのときだった。
着信音が鳴った。さっき鳴ったのと同じメロディ。
汀の携帯だった。
「失礼します」
汀は軽く一礼し、電話に出る。
「汀だ。どうした?」
電話の内容はわからないが、汀の表情が少し厳しくなった。
「……わかった。すぐに行く」
通話を切った汀がスマホをポケットにしまうと、私たちに一礼した。
「申し訳ございません。少々問題が起きたため、外させていただきます」
「どうしたのー? 大丈夫?」
辻の質問に汀が簡潔に応える。
「大丈夫かの確認も兼ねて行って参ります。もしかしたら……問題になるかも、という件です」
汀の話を聞いていたら、汀にチラリと見られた。
意図がわからず、内心私は首を傾げる。
「それでは、失礼します」
そういうと、汀は室外へと出ていった。
私たちは互いに顔を見合わせた。
何があったのだろう。
汀の、あの一瞥には……何か意味があったのだろうか。
考えても分からない。
今は、私たち三人だけが応接室に取り残されていた。
5
それから十数分後。
応接室の扉が勢いよく開いた。
「空魚ちゃん!」
小桜だった。後ろにはタブレットを片手に神妙な顔をした汀が立っている。
小桜はハッハッと浅く息を切らしている。顔が真っ赤だ。私は思わず小桜に駆け寄り、なんとか落ち着かせようと肩に右手を回し、空いている左手で背中を撫でる。
「どうしたんですか? 何が──」
「霞が、シフトした!」
「え?」
私は、背中を撫でる手を止めた。
「霞が?」
しかし、霞がシフトすること自体は、来客の一人でしかない私ですら見慣れている。小桜だって、そんなことは知っているはずだ。
それなのに、いったいなぜこんなにも取り乱しているのだろうか?
「ああ。診察室で注射を受けて、その途中──」
小桜は言葉を切った。
「急にシフトして、どっかへ行っちまった!」
「……」
「汀が監視カメラ見て探してくれてるけど、倉庫や危険な場所に入り込んだり、UBアーティファクトに触っちまったりするかもわからない」
「小桜さん。一旦落ち着いてください。大丈夫です。きっとすぐに戻って来ますよ」
私は宥めようと、努めて落ち着いた口調で話しかけた。
それに対して、小桜はこくこくと頷いた。
「ああ、わかってる。焦ってるのも、焦りすぎなのもわかってんだよ。でも、こんなふうにっ! 十分以上も向こうから帰ってこないことなんて今までなかったんだ。シフトする時はすぐに帰ってこいって言ってたし──もしかしたら向こう側でワクチンの副作用でも起こしてぶっ倒れてるかもしれないって、そんなことばっか頭に浮かんでくるんだ……っ!」
一息にそう言うと、小桜は大きく息を吸い込んだ。小桜の方が今にもぶっ倒れそうだ。
小桜が私の服を掴み、必死に懇願する。
「頼む、何とか霞を連れ戻してくれ……!」
そう言われた瞬間、頭の中が一気に切り替わった。
「──わかりました。行ってきます。必ず連れ帰ります。診察室に連れてってください」
「紙越さん」
私の言葉に被せる勢いで汀が言った。
「今日はバッグやリュックをお持ちでないようですが、拳銃はお持ちですか?」
「ないです」
「仁科さんが同行していない状態では、ゲートを開けられないと我々は把握していますが、実際はどうなのでしょうか。そもそも入れない、あるいは入れても出てこられない状態になるのではありませんか?」
「入れるかどうかは、今ここでは正直わかりません。診察室に行かないと、ゲートの状態を確認できませんから。それと、出ることに関しては心配ないと思います。鳥子がいなくても、霞に新しいゲートを開けてもらえばいいので」
汀は一瞬、考えるように顎を上げて目を閉じ、それから言った。
「紙越さん。単純に、一人での行動は危険です」
「分かっています」
私は小桜を見る。
「でも、霞が向こうにいるんですよね?」
「ああ……!」
小桜は大きく頷いた。
「なら、行きます」
私は立ち上がった。
小桜が何か言おうとした。
でも、私はもう動いていた。
道案内を頼むために小桜の手を引き、汀を避けて応接室のドアを開けた。小桜を促しながら、診察室へ向かって早足で歩き出す。
診察室は歩いて三分ほどの場所にあった。中の様子はすりガラスに隠れて見えない。私はノックをして、返事を待たずに真っ白なスライドドアを開けた。
中に入るとスキンヘッドの医者と、るなファンクラブ襲撃事件で医者と共にいた、見覚えのある看護師も、どうしたものかと困り果てた顔でこちらを見ていた。
私は右目のカラコンを外しながら言った。
「急に入ってきてすみません。霞が消えたのはこの部屋で間違いないですか?」
私の問いに医者が即座に応える。
「ああ、先ほどワクチンの注射をしている途中で、パッと消えてしまったんだ」
私は取り外したカラコンをケースにしまおうとして、ケースもトートバッグごと鳥子の家に忘れてきたことに気付いた。
諦めて手近な机にコンタクトを置く。振り返りながら小桜に問う。
「小桜さん、間違いありませんね」
「あ、ああ。この部屋で間違いない」
私は無言で右目に集中すると、部屋を見渡した。
……部屋は青白い燐光に溢れており、ゲートがどこなのか判別がつかないどころか、目の前の自分の手がどこにあるのかさえわからなかった。
予想外な燐光の量だった。
こう言う時に鳥子の左手があれば、パッパッパッと燐光を手で払って散らしてくれるのだろうが、今ここに鳥子はいない。
自力で何とかしなければ。私は試しに燐光を両手で払ってみた。しかし燐光に触れることができない。手で起こした風も、燐光には何の影響も与えられないらしい。
即座に諦めて、私は燐光に向かってフーッと息を吹きかけてみた。風が燐光に影響しないことは分かっていたので、結果は言うまでもなかった。
私は最後の手段として燐光の濃霧の中を手探りで歩き始めた。
「皆さんはそこから動かないでください! どこにゲートがあるかわかりません。最悪ゲートに誤って入ってしまう可能性があります。その場合、私もなるべくすぐに助けに行くつもりですが、ゲートが閉じて入れなくなる可能性もあります。そうなると『あっち側』に取り残されるかもしれません! しばらく動かないでください!」
私は前方に集中し、両手を突き出して診察室を歩き回りながら、声を張り上げた。
「わかりましたか!」
「わ、わかった」
小桜が戸惑った様子で質問に応えた。続いて医者と看護師も返事をした。私は頷きながら室内を歩き回る。何度か壁や医療器具にぶつかったところで、一つ思いついた。
「先生、すみません。霞が消えたのはどこら辺ですか?」
「私の目の前だよ。……ここの辺りだった」
「はい、先生の目の前、その辺りです」
医者と看護師に言われて、私は右目を手で隠し、左目を開けた。
眩いほどに輝いていた燐光が、室内から消失した。
医者と看護師が指差していたのは、机を挟んで医者の目の前。私の立っている位置から五メートルほど離れた位置だった。
私は左目だけを開いたまま、その位置まで移動した。
私は隠していた右目を再び開ける。すると青白い輝きが目の前を塗りつぶしていた。私は両手を前に伸ばしたまま慎重に進む。
一歩。
二歩。
三歩。
もう一歩──歩き出そうとした瞬間、唐突に燐光が消えて無くなった。
光の残像で目がチカチカする。私は右目を手で覆ったまま、左目で辺りを見回した。
ここは、さっきまでいた診察室の中だ。しかしあの場所とは違う。
暗くて、誰もおらず、物音ひとつしない。
片目だけで歩き回るのが不安だったため、右目を開ける。なによりゲートだ。何かあった時に自力で帰れるよう、ゲートが開いているのが理想だった。
振り返ると楕円型のゲートが開いていた。それはぐにゃぐにゃと形を曖昧に変えながら、小さくなっていく。まるで私が通るのを待っていたかのようだった。
私が見つめているうちに、ゲートは熱したフライパンの上で踊る水滴のように、跡形もなく消えてしまった。
中間領域。
以前、鳥子と来たときから、何も変わっていない。
見慣れたような、見慣れないような景色。
静かな空気。
どこまでも続いているように見える場所。
「霞ー?」
私は声をかけた。
「霞、いる?」
無人の空間に私の声が孤独にこだまする。
返事はない。
私はゆっくり歩いた。
走ることはしなかった。
霞がどこにいるのかは分からない。
だから、あのとき鳥子と一緒に霞を探したときのように、急に近づいて驚かせないよう、声をかけ続けた。
「霞ー」
もう一度呼ぶ。
「一緒に帰ろう」
返事はない。
それでも歩く。
「霞ー」
少し進んだところで、どこか見覚えのある景色の前を通り過ぎた。
私は振り返って確認する。
たしかここは──会議室だ。
前にも、同じことがあった。
あのとき霞がシフトしたのは、この会議室だった。そこから鳥子と一緒に霞を探しに行ったのを覚えている。
……もしかしたら、今回も前と同じ場所にいるのではないか。
あの病室にある、霞のテント。
確実なことは言えない。けれど、今の私には、それが唯一の手掛かりだった。
私は以前の記憶を頼りに、テントまでの道順を進んでいった。
第四種接触者が収容──いや、入院している病室まで移動した。開きっぱなしの部屋を念のため一室ずつ軽く確かめながら、奥へ奥へと進んでいく。
「かーすーみー。帰るよー」
声を上げながら、前に霞がいた部屋に近付いていく。
そして、ついにかつて霞のいた部屋に辿り着いた。部屋の中には、霞手製のテントのようなものが、あのときのまま置いてある。
私はそのまま部屋の中へゆっくり入ると霞に向けて声をかけた。
「……霞? いる?」
テントを覗き込むと……あの時と同じ、小さな人影があった。二つの瞳がきらきらと光って、私のことを見ている。
霞だった。膝を抱えて、身じろぎ一つせずそこにいた。
「霞?」
呼びながらゆっくり近付くと、霞の顔が鮮明に見えてきた。
目が赤い。目の端から、つうっと一筋の涙が流れていた。
……泣いている。
「………………」
霞は私を見る。
そして、少しだけ顔を背けた。
「……一緒に帰らない?」
霞は答えない。
「小桜さんも、すごく心配してるよ。倒れちゃいそうなくらい」
「……」
少し間を置いて、
「みんなも。私も」
と言った。
霞がこちらを見る。
少し、むくれている。………………むくれている?
「霞、どうしたの?……もしかして、病院が怖かった?」
霞は答えない。
「それとも……注射が痛かった?」
そう言うと、霞の頭が少しだけ動いた。小さいが、確かに頷いた。
「そっか……なるほどね」
私は霞の隣に座った。
「お医者さんも、もう注射あんまり痛くしないようにするって言ってたし、今度は小桜さんが手握っててくれるってさ」
嘘をついた。けど、許される嘘だと思う。
先生も痛くしたくて注射しているわけではない。だが痛みは主観だ。痛くないと思わせれば多少はなんとでもなりそうだ。手の方は小桜に一言お願いするだけで問題は解決する。
霞は、私を見る。
「ほんのちょっとチクってするだけだったんだよ。知らなかったのかな?」
今度は、霞が大きく頷いた。
「えー、そっか……そりゃ、ビックリするよね。急に刺されたら」
霞がまた、頷いた。
「でも、あれは霞のためにやってることなんだよ。痛いことって教えてくれてなかったのは酷いけど、今回のところはみんなを許してあげてくれない?」
言ってから、霞を見る。
表情はむくれたままだったが、頑なな雰囲気は緩んでいた。
私は立ち上がる。
「霞、どう? いけそう?」
霞に向けて手を差し出すと、霞は手に掴まって立ち上がった。
「じゃあ、行こうか。入ってきたところまで戻れる?」
「──うん」
霞は、珍しくノイズのない声で「うん」と答え、私の手を引いてゆっくり歩き始めた。部屋から出る。診察室への帰り道は、来たときより少しだけ短く感じた。
誰もいない診察室に到着すると、何も言わなくても、霞が手を上げてゲートを開いた。
私と霞は手を繋いだまま、元の世界に戻る。
ゲートの先では、小桜たちが待っていた。
「霞!」
小桜が駆け寄る。
「……よかった」
小桜は霞の頭を撫でた。
「怖かったか?」
霞は小さく頷いた。
「そうか。もう大丈夫だからな」
小桜は霞を抱き寄せる。
霞は小桜の胸元に顔を埋めた。
しばらくして、小桜が私を見る。
「ありがとう、空魚ちゃん。危ない目に遭わせて悪かった。本来なら、あたしが率先して迎えに行くべきだったのに……本当に助かった」
「いえ、私は特に何も……」
「何もないことはないだろ」
小桜はそう答えながら額の汗を拭い、霞の肩に両手を置いて目線を合わせると、真剣な顔で言った。
「霞、なんでゲート使ったのかはわからないけど、いきなり消えるのはやめてくれ。せめて一言くれないと、あたしもみんなもビックリするんだ。な?」
数秒間、沈黙が部屋を漂った。
霞が私の方を見上げる。その顔には不満がありありと現れていた。……私は口を開く。
「さっき霞と話したんですが……」
室内にいる全員の視線が私に集まった。若干の居心地の悪さを覚えながら、私は続けた。
「たぶん、注射が痛くて……ビックリして逃げたんだと思います」
「注射が……?」
小桜が不思議そうな顔で呟いた。そしてそのまま霞の方に向き直る。
「あたし、今日注射するぞ、痛いぞって言わなかったか……?」
小桜の言葉に、霞は怒りを露わにして言った。
「言って、ない!」
霞の一言に驚いた表情をしていた小桜は、顎に手を当てると、ぶつぶつと何かを呟き始めた。
「いや、言ったはずだろ……? ああいや、あの時はそこまで考えてたところで空魚ちゃんから電話が来て、一瞬忘れて……いやでも電話終わってから、そのあと、言おうとしたよな……? あれ? いやでも霞が昼寝してたから、後に回したんだったか、ん? そうするとやっぱり伝えてなかったのか……? いや……でも──」
「あのー……」
ひとりごとが止まらなくなった小桜を遮るように、私は小桜に話しかける。
遠い目をしていた小桜が驚いたような表情で応えた。
「え? あ、なんだ? 空魚ちゃん」
「小桜さんが事前に伝えていたかどうかはともかく……霞にとっては、思った以上に注射が痛かったことが、納得できなかったみたいです。なので先生にはなるべく──無理な要望をして恐縮なんですが、なるべく、本当になるべくで良いので、痛くないように注射をしてほしくて……それと、小桜さんには手を握っていてほしいみたいなんで、そんな感じでお願いしても……良いですか?」
私は霞を見る。霞が見上げ返した。まだ目が若干赤い。
「……そうだったのか?」
霞は強く頷いた。その様子を見て、まだ怒っているのだと分かった。
「あー……」
小桜は少し困ったように苦く笑った。
「すまん……とにかく、あたしの言葉足らずだったんだな。手ならいくらでも握るから、注射の続き、やってもいいか?」
こくり。皆の視線を一身に受けながら、霞は頷いた。
「よし。じゃあ、もう一回だけ頑張ろうな」
小桜が霞の手を両手で優しく握る。
霞はまだ少し不安そうだったが、覚悟を決めたように、小桜の手を握り返した。
医者が準備を整えながら言う。
「霞ちゃん。今度は、なるべく痛くないようにするからね」
霞は小桜の手をぎゅっと握った。
「……いくぞ」
小桜が声をかけた。
霞がキュッと目を閉じた。
ほんの一瞬だった。
「終わったよ」
霞が目を開く。
「……?」
「終わったぞ。霞」
小桜が笑う。
霞は自分の腕を見た。
それから、何かを確かめるように小桜の顔を見上げながら言う。
「……意外と悪くない」
「そうか? よかったな」
小桜が霞の頭を撫でた。
霞は少しだけ嬉しそうな顔をしていた。
その様子を横目に、私はカラコンを回収する。
……薬液に浸していたわけでもないカラコンを右目に戻すかどうか迷っていると、スキンヘッドの医者が少しだけ気まずそうに言った。
「あー、すまない。小桜くん。ワクチンのことなんだけどね……」
「?……はい、なんでしょうか?」
「霞ちゃんの打つべきワクチン、まだたくさんあるんだよね。可能であれば今日のうちに全部打ってしまったほうが、病気にかかるリスクは減らせるんだけど……どうする? 日を改めることができないわけじゃないけど」
医者がそう言うと、小桜と霞が顔を突き合わせた。
みるみる強張った顔をして小桜を見る霞と、困ったように頭を掻く小桜。小桜は申し訳なさそうに霞の肩に両手をぽんと置き、言った。
「霞……頑張れるか?」
「………………」
霞が強く首を振る。口を尖らせ、徹底抗戦の構えだ。
「何回も何回もな、それぞれ別の日に注射プスプス刺すの、嫌だろ? それに、ワクチンを打ち終わる前に病気になったらすごく大変で、注射なんて比べ物にならないくらい辛くて痛い思いをするかもしれないんだ。だから、今日のうちに済ませないか?」
「………………」
それでも霞は首を振った。だが、さっきよりもだいぶ抵抗が弱まっているように見えた。それを小桜も感じたのか、口の端を吊り上げている。
霞は小桜の顔を見たまま、しばらく迷うように黙っていた。しかし、その迷いを打ち消すように、小桜が勢いよく言った。
「じゃあ、全部の注射が我慢できたらさ、ケーキ買って食べないかー? 美味しいやつ!」
小桜の言葉に、凍っていた氷が一瞬にして溶けたように、霞がハッとした表情で小桜を見つめる。
その熱い期待に応えるように、小桜が指折り立ててさらに言う。
「一つだと思うか? 一つじゃないぞ。二個……いや、三個まで買っても良──」
「やってやるぞお!」
霞が即答する。その様子を見て、医者と看護師が口角を緩めて微笑んでいた。
「よし、それじゃあ霞。頑張ろうか!」
小桜の言葉に勢いづけられたように、霞は腕を乗せるクッションに自分から腕を置いたのだった。
6
「そっかそっか。大変だったね〜。いやホント、有能な人は引っ張りだこで苦労するんだよねえ」
「いえ別に、有能ではないです」
「そんな謙遜しないでよ〜。『能が有る』と書いて有能って言うんだからさ。実際に普通の人には真似できない『能』があるんだし、もっと紙越くんは自信持って良いと思うよ!」
「はあ……」
「るなちゃんもそう思わないかな?」
「そうですねえ……」
私と辻の会話を黙って聞いていたるなが、顎に手を当てて考えるような仕草をした。
「紙越さんが否定するなら、わざわざ有能とは言いませんけど、霞ちゃんのために単身で不気味空間に飛び込んでいくのは、シンプルにかっこいいですよね。なんか映画か漫画の主人公みたいで」
「ええと……ありがと?」
「どーいたしましてー」
るなは髪をいじる手を止めず、気のない返事をした。
数分前。
──霞がワクチンを打つ準備を始めたところで、汀が声をかけてきた。
「まだ時間がかかるかと思いますが、一度応接室に戻られますか?」
「……そうですね」
やることがなくなり、診察室の隅に突っ立っているだけの地蔵になっていた私は、小桜たちに一声かけてから、汀と一緒に部屋を後にした。
応接室に戻ると、手持ち無沙汰といった様子で辻とるながソファに座っていた。何があったのかと訊かれたため、細部を省いて説明した。
その結果が、最初のやりとりだった。
「でも、これで安心だね。るなちゃんが逃げても紙越くんが追っかけて捕まえてくれそうだし」
「いや、注射くらいで逃げませんから。私の行動パターンを子供と一緒にしないでくれます?」
「えー、つまんないなあ」
「そうやって煽られると、逆に本気で逃げてやりたくなりますね」
「えー、それは困るなあ」
るなが呆れたように辻を見る。
「辻さんも、もう少し小桜さんみたいに大人の付き添いらしくしてくださいよ」
「してるしてる。ちゃんと付き添ってるでしょ?」
「さっき私に酷い嘘ついたの、まだ忘れてないですからね」
「あれはね、付き添いの一環だよ」
「どういう一環ですか」
「心の準備?」
「余計に不安になってただけですけど」
「じゃあ失敗だね」
「大失敗ですよ!」
二人のやりとりを見るでもなく見る。
けれど、目の前の二人を眺めながらも、頭の片隅に引っ掛かっていることがあった。
小桜はずっと霞のそばについていて、霞が逃げ出せば、私に土下座する勢いで頼み込んででも追いかける。そして、連れ戻した霞を無理矢理押さえつけることもなく、きちんと諭して注射を打たせている。
ふと小桜の家で、小桜が言っていたことを思い出した。
──『付き添う』ってのは、こういうもんなんだよ。どれだけ大変でもな。
あのときは……ただ小桜らしい説教混じりの言葉だと思った。
小桜は霞の親。厳密には親代わりで、保護者だ。
だから、霞の世話をする。
そういうものなのだろうと、私は思っていた。
……だけど。
辻も、るなの付き添いとしてここにいる。
しかし、霞と小桜のような親子らしい関係ではないように見える。
小桜と辻──二人の立場は違う。
それでも、どちらも保護している子供に付き添っている点では同じだ。
……付き添うって、何をすることなんだろう。
気になって私は、ふと辻に視線を送る。
「辻さん」
「んー?」
「るなの付き添いって……大変じゃないんですか?」
「はいっ!?」
正面に座るるなが、心外そうな視線で私を見た。
「私、子供みたいな迷惑かけませんよ? 変なトラブルも起こしませんし、今はむしろ私が辻さんのお世話係やってるんですから!」
「ああ、ごめん、るな。他意はないんだ。ちょっと……保護者の立場にいる人から話を聞きたくてね」
私がそう言うと、るなはへの字に曲げた口元を少しだけ緩めた。
「なら……良いですけど。……ホント紙越さん、言葉は選んでから喋った方がいいですよ」
「うん。ごめんごめん」
「……そのうちマジで刺されますからね」
そう言うるなに向かって軽く頭を下げた私は、その流れのまま辻へと視線を移す。
「んー……」
るなの主張をよそに、辻は少し考えるような顔をした。
しかし、数秒もかけないで口を開いた。
「まあ、そりゃ面倒なこともあるよね」
神妙な声で、辻が静かに言う。
すると、るなの顔から「普通の顔」という仮面が剥がれ落ち、みるみるうちに血の気が引いていった。
「何かあればこうやって、病院とかまで来なきゃいけないだろうし、時間を取られるようなことは、これからもあるんだろうしね。もちろん、さっきるなちゃんが言った通り、霞ちゃん程の規模でも頻度でもないだろうけど」
「………………」
るなは辻の様子をうかがうように顎を引き、ゆっくりと顔を上げた。
「まっ、でもさー」
今までの神妙さをポイと捨てたような、普段の飄々とした調子に戻って、辻は言葉を続けた。
「付き添いってそういうもんじゃない?」
「……そういう、もの」
「うん」
辻はるなの方を見る。見られたるなは、まだ顔が青い。
「本人が行くって言うなら、一緒に行くだけなんだよね」
「………………」
るなは相変わらず顔色が悪かったが、探るように話を聞いていた。
「本人が何を考えてるかなんて、全然分からないしさ」
私は少しだけ目を見開いた。
「全然、ですか? 一緒に住んでるのに?」
「そりゃ分からないよー。ダイアン・フォーチュンみたいな大魔術師でもなきゃね。私なんてただの端くれだよ? 何言ってんのさ。紙越くん」
誰の名前を引用したのか、さっぱりわからなかったが、辻はあっさりとそう言った。
「ウチのるなちゃんがね、今何考えてるかなんて、私にも分からないし。ね? そうでしょ?」
そう言って、辻はるなの目を見た。
突然話を振られたるなが、顔を隠すように反対側を向いた。
「……何がです? それ、なんの『ね?』ですか」
「今、何考えてた?」
「………………注射、早く終わらないかな、って」
「ほらね。全然分からなかった」
「それ、分かる必要あります?」
るなが不服そうな調子で言った。
「いやあ? ないない」
辻は笑った。
「そういうわけで……いや、どういうわけなんだって感じではあるんだけど、やっぱり付き添うって、そういうことじゃない?」
「……」
「本人が何考えてるか分からなくても、本人が行くなら一緒に行く。怖そうなら、そばにいる。終わったら、一緒に帰る。それだけできれば上等よ」
「……なるほど」
辻の言葉に私は頷く。
「そういうもの、かもしれませんね」
「でしょー? ところで、るなちゃんはなんで顔背けてるの?」
「そんなの……察してください」
「ええ〜? 他人の心を察するなんて無理無理ー! って話じゃなかったっけ? いまの話」
辻の抗議の声に、反対側を向いていたるなが、辻の方へ向き直った。顔色は、もう悪くなかった。
「辻さん」
「ん?」
「……昨日の夜ごはん、美味しくなかったですか?」
「なあに、急に? 美味しかったけど。……あれ? るなちゃんが言えって言ったから、ちゃんと『美味しい!』って言ってたよね?」
「言ってました。じゃあ……昨日、断りなく洗濯したり、部屋の片付けしたりしたの、迷惑じゃなかったですか?」
「両方とも、ありがとうって言った気がするんだけど……え、なあにこれ。認知症のテスト?」
「違います。──他意はない、ってヤツですよ」
喋りながら、すっかり調子を取り戻したるなが、目元に笑みを浮かべてニヤニヤしている。マスクに隠れてわからないが、きっと口元も笑っているだろう。
私は二人の会話を聞きながら、黙っていたが、話が終わりそうなので口を突っ込んだ。
……鳥子の許可なく、こんなことを他人に話していいのだろうか。
そう思わないでもなかった。
それでも、今の私には、一人で考え続けることしかできないのが一番よくない気がしていた。
「あの……私、もうちょっと相談していいですか?」
「ん?」
辻がるなから目を離して、こちらを見る。
るなも私を見る。
「これは……その、友達の話なんですけど」
「うんうん」
「……その友達が、妊娠したんです」
言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。
るなの表情が変わる。
「妊娠……?」
「はい」
「へえ……ふぅん」
るなの表情が険しくなった。
一方、辻は少し驚いた顔をした。
「それは大変だねぇ。妊娠何ヶ月って?」
「……いえ、それはわからないみたいで」
「わからない? 病院に行ってないの?」
「そう、みたいです」
「なるほどね。それで? どうしたの」
「ええと、まだ、何も決まってないみたいです」
「何もって、何も?」
「はい。まずは病院には行くけど、これからどうするのかとかは、まだ決めていないって」
「じゃあ、本当に何も決まってないんだ。出産どうしよう、とか。育児どうしよう、とか」
「そうです」
辻は少し考える。スッと息を吸って、口を開いた。
「誤解のないように、念のため言っておくんだけどさ。もし本当にその子が紙越くんにとってただの友達なら、部外者の紙越くんが先回りして私たちに相談する必要はないんじゃないかな?」
「……」
その言葉に、私は黙った。相手が鳥子であることを明かさないと、辻にはこれ以上は相談できないかもしれない。
「その子がどうしたいのかも、紙越くんには分からないんでしょ?」
「……はい」
「そっか。じゃあ、聞けばいいじゃん? 嫌がられない範囲でね」
「……」
随分と、簡単に言う。
私は少し苦笑した。
「それが、怖いんですよ」
「怖い?」
「はい」
「なんで?」
「……それは、分かりません」
本当に分からなかった。このやりとり、一日で何回やるんだろう。
黙っていたるなが、私の顔を見ながら言う。
「その……ええと、友達さんは……紙越さんに何かしてほしいって言ってたんですか?」
「……」
私は少し考えた。
「……いや、まだ、特には」
「じゃあ」
るなは少し首を傾げる。
「まだ、辻さんの言うように紙越さんが何かを決める必要も資格もないんじゃないですか?」
「……」
同じことを言われた。
小桜にも。辻にも。そして今、るなにも。
私は膝の上に置いた自分の手を見る。
「でも……原因は知りたいんです」
「原因……まあそうね、原因ね」
「どうして妊娠したのか。誰との子なのか。そういうことを知れば、その人がどうしたいのかも分かるんじゃないかって」
「それはどうかなあ」
私がそう言うと、被せるように辻が首を傾げた。
「原因が分かったら、その人がどうしたいかまで、紙越くんは分かるの?」
「……」
「例えば、誰か病人がいて、その人が病気になった理由が分かったとしても、その人が本当は何を求めているかなんて本人に聞かないと全然分からないじゃん?『あー、回らない寿司食いてえー』とか考えてるかもしれないよ?」
「……それは」
その例えはどうかと思うが、鳥子の妊娠の原因が分かったところで、今何を考えているのかまでは分からない。
言われてみれば、その通りではある。
辻は肩をすくめる。
「本人が決めてないって言ってるなら、それ以上こっちで考えても仕方ないんじゃないかな?」
私は答えられなかった。
鳥子の顔が浮かぶ。
真剣な顔。
必死な顔。
そして、
──まだ、どうするかは決めてない。
という言葉。
私は、それを知っていた。
なのに。
私はずっと未来を、その先を勝手に考えていた。
小桜が言っていたように。
「……そうですね」
小さく呟いた。
るなが私を見ている。
「その人、紙越さんを信じて話してくれたんですよね?」
「……うん。そう」
「じゃあ、話してくれたことについては、もっともっと聞いてあげればいいんじゃないですか? 相手が『これ以上は話したくない!』『もう何も言うこと思い浮かばない!』ってなるまで」
「……」
「その人が話したいことを、話したいだけ話してもらえばいいんじゃないですか?」
るなの言葉は、それだけだった。
難しいことは何も言っていない。
けれど、私はしばらく何も返せなかった。
鳥子のことを知りたい。
そう思うあまり、私は何も知らないまま鳥子に向き合うことを恐れ過ぎていたのかもしれない。
でも……ついさっき起きた霞の失踪について考えてみれば──。
霞を迎えに行ったとき、何が原因かなんて私は何も知らなかった。
どうして逃げたのか。
何があったのか。
何を考えていたのか。
これからどうするのか。
ほとんど何も知らなかった……それでも、行った。
今の私だって、そうなのかもしれない。
……鳥子が何を選んでも。
私は、鳥子のそばに戻りたい。
何があったのかも、これからどうなるのかも、まだ分からない。
それでも──鳥子のそばに戻ることくらいは、先に決めてもいいんじゃないか。
そう思った。
「辻さん、るな……ありがとうございます」
「はい。どいたまです」
どいたま?……ああ、どういたしまして、か。
私は笑った。
「るなの意見、結構参考になったよ。ありがとう」
「え? そうなんですか? なら良かったです」
会釈するるなに向けて、私も軽く頭を下げた。そして心の中でヨシ! と声をあげる。
とはいえ……まだ、何も決まっていない。
鳥子がどうするのかも。
私がどうするのかも。
それでも。
少なくとも一つだけ、確実と言えるほど分かったことがある。
鳥子の答えを、私が先に作る必要はない。
まずは、鳥子が何を話したいのか。
それを聞けばいい。
それで良いはずだ。
そう思ったところで、廊下の方から足音が聞こえてきた。
顔を向けると、汀が扉を開けているところだった。
開かれた扉の向こうから、小桜と霞がこちらへ歩いてくる。
霞は下唇を尖らせて、かなり不機嫌そうな顔をしていた。
「注射、終わったんですか?」
私が訊くと、小桜が肩をすくめた。
「ああ。まあ、なんとか」
「なんとか、ですか」
「ああ、霞がな──」
小桜はそう言って、霞の頭に手を置いた。
「まあ……よく頑張ったんだよな、霞」
「………………」
霞はそっぽを向いた。
けれど、小桜の手を振り払うことはしなかった。
それを見て、私は少し笑いそうになった。
さっきまでの話を思い出す。
小桜は、霞が嫌がっても、必要だと思ったことなら付き添う。霞が何を考えているのか分からなくても、そばにいる。
そして、霞も。
嫌なことがあっても、小桜の隣に戻ってくる。
それが……親子、というものなのか……?
……いや。親子という表現は、ちょっと嫌だな。
そんなに単純な話でもないのだろうし。
私は、まだ何も分かっていない。少なくとも理解は十分じゃない。
「お疲れ様、霞」
「………………」
私が言うと、霞が私に向けて小さく首肯する。
それから、ソファに座っていた辻とるなを見た。
「お疲れー! 霞ちゃん!」
「おつー」
「…………うん」
霞が静かに呟くと、控えめに頭を下げた。それを見たるなが、目を見開いて上から下へと霞を数秒観察した。
「霞ちゃんが普通に返事するの、るな初めて聞いたかもしれません!」
「私も〜!」
キャッキャッとはしゃぐ辻とるなを無視して、私はソファから腰を上げ、小桜の方へ歩み寄る。
「小桜さん」
私は話題を変えることにした。
「もう帰りますか?」
「ん? ああ。あたしはそのつもりだけど」
小桜は霞の方を見た。
「霞も、今日は疲れただろ。帰ってゆっくりしような?」
「……ケーキ」
「もちろん、ケーキは買って帰る。食べたいヤツ選んでおきな」
霞は今度は素直に頷いた。
その様子を見て、私は少しだけほっとした。
帰る。
私はスマホで時間を確認した。もうこんな時間だ。……外も暗くなっているはずだ。
私も──帰らなければならない。
自宅ではない。鳥子の家に。
そう考えた途端、胸の奥がまた、わずかに強張った。
さっきまで、あれだけ良い調子で考えていたのに……まだ怖いのか。私は。
鳥子の答えを先に作る必要はない。
まずは、鳥子が何を話したいのかを聞けばいい。
繰り返して言えるほど、そう思えるようになったはずなのに。
いざ帰ることを考えると、まだダメだった。
鳥子は、どんな顔をするだろう。
私が帰ってきたら、何と言うだろう。
そもそも、私があんなふうに飛び出したあと、鳥子は何を考え、何をしているのだろう。
逆の立場だった場合を嫌でも想像してしまう。
私が妊娠したと事情を話したら、鳥子が家を飛び出して、いつまで経っても帰ってこなかったら……私だったらどうするだろう。……そう自分が想像するだけで、割と死んでしまいたくなる。
そういえば、公園から小桜屋敷に移動する直前、小桜に促されて短いメッセージを送ってあったのだが、読んでくれただろうか? せめてあのメッセージだけは読んでおいてほしい。
スマホを取り出してメッセージアプリを開く。
最後に見た時には未読だったが……今は……。
〈既読〉。そう表示されていた。私は、ふぅっ、と短く息を吐いた。
「んで? 空魚ちゃんはどうすんの?」
小桜に訊かれて気付く。小桜に帰るかどうか尋ねたのは私だ。
「私も──帰ります。やることがあるので」
私は小桜の目を見て、そう答えた。
小桜が視線を返す。ジッと見てから、短く言った。
「そうか」
「はい」
「もう少し、胸張れ。猫背気味だからな。頼り甲斐のある感じでいけ」
「わかりました」
小桜が頷く。
「では、お送りいたしましょう」
「お、助かるわ。頼む」
「ありがとうございます。汀さん」
「いえ、霞さんの件でお助け頂いたのはこちらです。ありがとうございます。お礼を申し上げるのが遅くなり、申し訳ございません」
汀が慇懃に一礼した。反射的に私も頭を下げる。
そんなことをしていた時、ふと首を傾げながらるなが言う。
「そういえば、紙越さん」
「なに?」
「さっきのご友人の話ですけど」
心臓が、どくんと鳴った。
「……うん」
「その方も、なかなか大変そうですね」
るなは、いつもの調子で言った。
「相手の方が鈍感だと、色々と気苦労も多そうですし」
「…………」
私は、るなの顔を見た。
るなはニヤニヤと笑っている。
特に何かを問い詰めるような顔ではない。
ただ、こちらの反応を楽しんでいるようには見えた。
もしくは、るななりの何かしらの忠告なのかもしれない。
いや……ていうか、こいつ、この話の「友達」が鳥子なことに気が付いてるな?
──本気で、私の顔面、どうなってるんだ……? 何も隠せてない。小桜は除外しても、汀とるなにも、バレてしまった。隠せてるのは……辻、ぐらいか?
「あ、紙越くん。仁科くんによろしく言っておいてね! きっと君たち二人なら、これくらいの壁なんて乗り越えられるヨ!」
もうダメだ何も隠せてねえ。
「はは……そう、ですね。はい。ありがとうございます……」
私は曖昧に答えた。
るなは、そんな私の顔を見て、「ふふふ」と笑った。
「頑張ってくださぁい。この応援は、るなの本心ですから」
「ああ、うん……ありがとうね」
私はそう答えるしかなかった。
「挨拶はもういいか? んじゃ、帰るぞ」
「えー? 小桜さん、もう帰っちゃうんですか? 一緒におしゃべりしましょうよ〜」
「おまえ今からワクチン打って帰るんだろ? 話す暇なんかねえよ」
「打った後、どこか食べにいきましょうよぉ!」
「パス。つうかワクチン打った後は安静にして、家帰って寝てろ。それに、あたしは霞の夕飯とかいろいろあって忙しいんだよ」
「ええ〜、さーみーしーい〜」
「私もーさみしいよ〜小桜くん〜」
小桜は心底面倒くさそうに、ペッペッと追い払うように手を振った。
「とにかく、忙しいんだよ。あたしは。じゃあな」
「それじゃあ、私もこれで」
私は立ち上がった。
「今日はありがとうございました。辻さん、るな」
「いやあ、特に私は何もしてないんだけどね」
そう言って辻が軽く手を振る。
「まあ、気にしないで。また何かあったら、いつでも聞くよ? 偉そうに説教するのは大人の嗜みだからねえ」
るなも笑顔で言った。
「……何もないのが一番ですけど、なにかあったらまた相談してください。聞くだけならできますから」
「うん……。ありがとう、るな」
頭を下げて、るなと辻に手を振って、扉を閉めて応接室を後にする。
そのままエレベーターに乗って地下駐車場へ向かい、黒塗りのベンツに乗り込んだ。
エンジンをかけると、汀が訊いてきた。
「念のため確認なのですが、紙越さんはどちらに向かわれますか?」
「あ……その、日暮里で、お願いします」
言って、もう少しハキハキ喋れるようになりたいと願う。鳥子の家に帰るのは確定事項なのだから、もっとこう、覚悟を決めて漢らしく……漢らしく? とにかく、強くなりたい。
私の返事に対して汀が言う。
「では、まず日暮里の仁科さんのお宅へ、その後、小桜さんのお宅へ向かいます。よろしいでしょうか?」
「私は、それでお願いします」
「あたしと霞は駅前に降ろしてくれる? ケーキ屋に寄りたいんだよね」
小桜が言い終わると、汀が気軽な調子で返した。
「でしたら、よろしければ、買い物の間ロータリーでお待ちしますよ」
「お、マジ? 駅から家までちょい遠いから助かるわ」
「それはよかったです。では先ほどの経路で運転します。──僭越ですが、紙越さん」
急に話を振られて私はテンパる。バックミラー越しに汀と目があった。
「紙越さんは、どこかに立ち寄られるご予定はありますか?」
「……? 立ち寄るところ、ですか?」
そんなの……特に、ないけど……。
汀の質問の意図が読めず私は首を傾げた。
すると霞の向こうから小桜の手が伸びてきて、私の手の甲をキュッとつねった。痛い。
「なんですかっ」
「おまえ、何時間も待たせまくった鳥子に対して、手土産一つ持たないで行くつもりかよ」
「あっ!」
完全に忘れていた。
というか、そういう発想がなかった。自分の社会性のなさが恥ずかしくなる。社会性に加え、自己肯定感。マイナス五十点。
「で? どうすんだ」
「せ、急かさないでください、焦っちゃうと考えられなくなるんですよぉ」
私は弱々しく反論すると、小桜がキッと鋭い目つきになってピシャリと言い放った。
「選択肢なんかねえだろ。なんか買って帰る一択だ!」
小桜は身を乗り出して運転席の汀に言う。
「この辺で一番高くてうまい洋菓子店かなんかに寄らせてくれ。店の端から端まで買わせてやる」
「かしこまりました」
かしこまらないでほしい。
そのお金の出所は私のクレジットカードなのだから。
そう考えた。
だが……小桜の言うことは最もだ。これだけ待ちに待たせて、何も持って帰ってこないのは、よくない気がする。もしこれで少しでも鳥子の気分が良くなるのなら、買う以外の選択肢なんてない。
私は咳払いすると、改めて汀に言った。
「お、お菓子、欲しいです! たくさん、私!」
カタコトみたいになってしまった。
しかし汀は気にした様子もなく、同じ言葉を繰り返すのだった。
「かしこまりました」
必要なものを買い、汀の運転する車に乗り込んでからも、私はしばらく窓の外を眺めていた。
霞は疲れたのか、私と小桜の間で静かにしている。
小桜も、しばらくは何も言わなかった。
車が走り出して、いくらか経った頃。
「……空魚ちゃん」
小桜が、前を向いたまま言った。
「はい?」
「さっき、DS研で辻たちと何話してたんだ?」
「……え?」
私は思わず小桜を見た。
「いや、別に詮索したいわけじゃない。ただ、少し雰囲気変わったみたいだし、ちょっとは整理できたのかと思ってさ」
「……そう、ですね」
私はちらりと運転席に視線を送った。今さら隠したところでバレているだろうけど……そう考えながら、小声で答えた。
「少しだけ、分かった気がします」
「ほう?」
「……私、鳥子がどうしたいのか、全然分かっていなかったんです」
「うん」
「それなのに、どうして妊娠したのかとか、誰との子なのかとか、そういうことばかり考えていて」
言葉にすると、少し恥ずかしかった。
「原因が分かれば、鳥子がどうしたいのかも分かるんじゃないかって……そんなふうに考えていたんだと思います」
「……そうか」
「でも、小桜さんと汀さん、辻さんとるな……相談した人たちに言われて改めて気づきました。やっぱり原因が分かったところで、鳥子が何を考えているのかまで分かるわけじゃないんですよね」
「そうだな」
小桜はあっさりと頷いた。
「病気の原因が分かったからって、本人がどうしたいかまで分かるわけじゃない。できて推測まで。それと同じだ」
「……はい」
辻と同じような例えかたをしているな。と思ったが、余計なことは言わないように私は口をつぐんだ。
「それで?」
「はい……まずは、鳥子が何を話したいのかを聞けるだけ聞けばいいんだと思いました」
小桜は少しだけこちらを向いた。
「そっか」
「はい」
私は窓の外に視線を戻した。
「……でも、まだ怖いです」
「そこは変わらなかったか。でもまあ、そうだろうな」
「鳥子が何を言うのか。何を考えているのか。聞いたら、きっとまた色々考えてしまうと思います」
「そうだな」
あまりにも普通に返されたので、私は少し拍子抜けした。
「……いいんですか?」
「何が?」
「怖いまま、悩んだままでも」
小桜は少し考えてから答えた。
「怖くなくなるまで待ってたら、いつまで経っても帰れないんじゃないか?」
「……」
「『怖いもんは怖い』……だろ? そこはもう、仕方ないんだよ」
小桜は肩をすくめた。
「それに、怖いからって、何もしちゃいけないわけでもないだろ」
「……」
「さっきの霞だって、注射が怖いから逃げたわけだしな」
だが、そうだ。
霞は注射が怖かった。
だから逃げた。
でも、私は霞を置いて帰らなかった。
怖がっている霞を迎えに行って、一緒に帰ろうと声をかけた。
理由が分からなくても、何があったのか知らなくても、目の前で困っている霞を放っておけなかった。
……だったら。
鳥子に対しても、同じことができるんじゃないだろうか。
何があったのか分からなくても。
鳥子が何を考えているのか分からなくても。
それでも、そばにいることくらいはできるはずだ。
私は、鳥子の家から逃げた。
鳥子の言葉を、ほとんど何も聞かずに。
自分が何を怖がっているのかも分からないまま。
でも、今なら帰ることができる。
何も解決していなくても。
何を言えばいいのか分からなくても。
もう一度、鳥子の前に立つことはできる。
「……小桜さん」
「ん?」
「ありがとうございました」
「何がだ?」
「色々、たくさんです」
「そっか」
小桜はそれ以上、何も聞かなかった。
私は窓の外を眺めた。
少しずつ、見慣れた景色が、後ろへと流れていく。
鳥子の家に近づいている。
そう思うと、胸の奥がまた落ち着かなくなった。
でも、さっきとは少し違う。
怖い。
それは変わらない。
何を話せばいいのかも、まだ分からない。
それでも、鳥子の答えを先に作る必要はない。
鳥子が何を話したいのか。
まずは、それを聞けばいい。
私は今日一日で感じたことと、学んだことを頭の中で反芻した。
しばらくそうしているうちに、車が止まった。
「こちらでよろしいのですか?」
汀の声に、私は頷いた。
「はい。ありがとうございました」
「気をつけてな」
「はい」
「今日じゃなくてもいいから、どうなったかメッセージくれるか?」
「あ、はい。わかりました。送ります」
ドアを開けて、車を降りる。
閉まった車の窓越しに、小桜と霞が軽く手を振っていた。
私は深く頭を下げる。
汀にも頭を下げると、手を挙げて微笑み返された。
静かに車が走り去っていく。
車が見えなくなるまで見送ってから、私は鳥子のマンションを見上げた。
ここまで来た。
帰ってきた。
なのに……やっぱり、足が動かなかった。それでも無理やり歩いてみると……大したことはない。膝が震える程度だった。
鳥子は、多分まだ部屋にいる。と思う。
私が飛び出したときのまま、そこにいるのだろうか。
それとも、どこかへ出かけているだろうか。……可能性はゼロではないが、低く感じられた。
大量に買った洋菓子の袋を両手から左手に持ち替えると、私はスマホを取り出した。
鳥子から連絡は、来ていなかった。
私は画面を見つめた。
何か、連絡を入れた方がいいだろうか。
今から帰る、と。
いや。
もう、ここにいるんだ。
いまさら何を誤魔化すんだ。いるんだったら、さっさと行けばいい。
私はスマホをしまった。
マンションの入口へ向かう。
エントランスでテンキー付きの操作盤を見た瞬間、最初のハードルがここにあることを思い出した。
でも……こんなところで燻っているわけにはいかない。私は意を決してテンキーに手を伸ばした。
四、〇、四。ピンポーン、と呼び出し音が鳴った。額に浮いた汗を拭いながら応答を待つ。操作盤のスピーカーからザッとノイズが走った。──繋がった。
そう思ったが……スピーカーからは何も聞こえてこない。それでも、ノイズの向こうから、何か息遣いのようなものが聞こえた気がした。不審に思った私が操作盤のカメラに向かって手を振ると、操作盤から再びザッとノイズが聞こえ、無音になった。同時にエントランスのドアが開く。
……見えていたのか。それに、少なくとも出入りを拒まれるほど鳥子を怒らせているわけではなさそうだ。それが分かっただけでも大きい。
私はドアを抜けるとエレベーターに乗る。
階数表示が一つずつ上がっていく。
その間、何度も言うべき言葉を考えた。
何を言えばいいんだろう。
やはり、最初に謝るべきだろうか。
逃げてごめん、と。
それから、話を聞かせてほしい、と。
でも、どこまで聞けばいいのだろう。
妊娠した理由も。
誰との子なのかも。
これからどうするのかも。
全部、聞かなければならないのだろうか。
……違う。
最初から、全部聞こうとする必要はない。
まずは、鳥子が話したいことを聞けばいいんだ。
鳥子が話したくないことまで、無理に聞き出す必要はない。
私は、ただ。
──ちゃんと、鳥子と話がしたい。
それだけだ。
エレベーターが四階で止まった。
扉が開く。
私は廊下に出て、鳥子の部屋の前まで歩いた。
見慣れたドア。
何度も出入りした場所。
なのに、今日はひどく遠く感じた。
インターホンを押そうとして、手が止まる。
尋常じゃない手汗が湧いてくるのを、ズボンで拭って事なきを得る。
自分の家に帰るときみたいに、普通に入ればいいのだ。
そう思っても、指は動かなかった。
私は一度、深く息を吸った。
ゆっくり吐く。
もう一度、吸う。
それから、チャイムを押した。
しばらくして、扉の向こうで物音がした。
足音が近づいてくる。
扉が開いた。
鳥子が、そこにいた。午後早くに見た、その姿のまま……。いや、厳密には違う。
ボサボサに乱れた髪と、少しやつれたように見える顔が目に入った瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
何を言えばいいのか。
何から話せばいいのか。
まだ、分からない。
それでも、私は目を逸らさなかった。
自然と、腕や首などの露出した部分に目がいく。自傷に走った様子はなさそうだ。
少し安心する。
「た……ただいま」
声が、少しだけ震えた。
「待たせて……ごめん」
私は一度、言葉を切った。
今度は、逃げない。
鳥子が何を考えているのか分からなくても。
私が何を感じているのか、まだ整理できていなくても。
まずは、聞く。
「鳥子さえよければ、今日の話を……もっと聞かせてほしい」
私は、鳥子の顔を見た。
「全部受け止める準備はできてるから」
……本当に?
一瞬、胸の奥で声がした。
何もかも受け止められるのか。
どんな答えを聞いても、鳥子を責めずにいられるのか。
まだ……分からない。結局、最後まで分からなかった。
それでも。
私は、両手に持っていた荷物を地面に置いた。自由になった両手で、おそるおそる鳥子の頬を包み込んだ。
肌と肌が触れた一瞬の冷たさが、互いの体温で溶けてなくなった。涙に濡れた赤い目元。頬には、ずっと泣いていたことを示す跡が残っている。私はそこを親指でそっとなぞった。
そのままキスをした。
私は今、ここにいる。
情けなく逃げたけれど、戻ってきた。
だから、今はこれでいい。
「何があっても、大丈夫だよ」
私は、もう一度深く息を吸い、言った。
「だって私たちは『鵼』なんだから」
おわり