イツカノヨル ~5omeday, Under the Starlight~ 作:アムロ・メイ
処刑まで、あと三日。
翌日の夕暮れ時。仮眠を終えたシュウは、食堂で買ったばかりのまだ温かい白パンを紙袋に入れ、地下の特別監視室へと向かう廊下を歩いていた。
昨日の夜、ガラスの向こうで膝を抱えていたミラの細く頼りない肩が、ずっと頭から離れなかったのだ。竜族の死刑囚には、処刑の日まで最低限の食事しか与えられないと聞く。
どれほどお腹を空かせているだろうか――そんな事を考えると、居ても立ってもいられなかった。
「よう、シュウ。ご苦労だったな、昨日の任務は」
階段の踊り場で声をかけてきたのは、昼番の巡回を終えたライラックだった。
シュウは顔を輝かせて親友に向き直ったが、ライラックの表情を見た瞬間、その笑顔が凍りついた。
ライラックは口元に笑みを浮かべていたが、その目はまったく笑っていなかったのだ。
「聞いたぜ。昨日の夜、あの竜族の娘が『殺してくれ』って騒いだのに、お前は処刑ボタンを押さなかったんだってな」
「あ、ああ……。でも、彼女は暴れたわけじゃないし、ただ口でそう言っただけで……」
言い訳をするシュウの言葉を遮るように、ライラックは鼻で笑った。
「優しいんだな、お前。もし俺がお前の立場だったら、有無を言わさずボタンを押してアイツを殺してるよ」
氷のように冷たく、棘のある皮肉だった。
いつもなら冗談めかして肩を組んでくるはずの気さくで優しい親友が、まるで別人のように冷酷な声でそんな言葉を吐く。
シュウは心臓を冷たい手で撫でられたようなショックを受け、言葉を失った。
「……ライラック?」
「――ま、お前のお人好しは俺もよく知ってるからな。……だが気をつけろよ、シュウ。お前のその甘さが、いつかお前自身の首を絞めることになるぞ。竜族って奴は、そういう奴だ」
ライラックはシュウの脇を通り過ぎ、足早に階段を上っていった。
残されたシュウは、紙袋に入ったパンの温もりを強く握りしめ、唇を噛んだ。
親友の言葉は重い鉛のように胃の底に沈み込んだが、それでもシュウの足は、地下の独房へと向かうことを止めなかった。
◆
重い鉄扉を開けて監視室に入ると、昨日と同じように、分厚い防弾ガラスの向こうにミラの姿があった。
しかし、彼女の様子は昨日よりも明らかに悪化していた。壁に背中を預けて座り込み、顔色は紙のように白く、浅い呼吸を繰り返している。
「ミラ! 大丈夫か!?」
思わずシュウがガラスに駆け寄ると、ミラは重たげに瞼を持ち上げ、紅い瞳をシュウに向けた。
「……こんばんは、シュウさん。また、いらっしゃったのですね」
「顔色がすごく悪いじゃないか。昼間の食事は――まさか、何も食べていないのか?」
「死刑囚の竜族に食事など、ある訳無いでしょう。……それに、私のような化け物が生き長らえる必要はありませんから」
気丈に、あるいは投げやりにそう答えた直後だった。
ぐぅ、と静かな部屋の中に、ひどく可愛らしくて切ない音が響いた。
ミラの白い頬が、見る間にほんのりと朱に染まる。
彼女は恥ずかしさと惨めさから逃れるように、ぎゅっとお腹を押さえて俯いた。
シュウは迷わなかった。
周囲の監視カメラの死角になる位置を確認すると、懐から紙袋を取り出し、防弾ガラスの下部にある小さな物品差し入れ口――本来は書類や最低限の水を通すための二重ロック式の小窓を開けた。
看守が死刑囚に私物を与えるなど、重大な規則違反だ。
もし上官やライラックに知られれば、懲罰だけでは済まないかもしれない。だが、目の前で飢えている少女を見捨てることなど、シュウには到底できなかった。
ガチャン、と内側のロックが外れ、独房側へと差し出された紙袋から、焼きたての小麦の香ばしく甘い匂いがふわりと広がった。
「……これは?」
「食堂で買ったパン。食べなよ」
ミラは驚いたように目を見開いたが、すぐに首を横に振った。
「いけません。私は人間の敵で、大罪人です。貴方からそんな施しを受ける資格など……」
「資格なんて関係ないよ。俺が君に食べてほしいんだ。……冷めちゃうよ、ミラ」
シュウが優しく微笑みかけると、ミラは差し入れ口のパンとシュウの顔を交互に見つめた。
やがて空腹の本能には抗えなかったのか、彼女はおずおずと細い手を伸ばし、小さな白パンを両手で包み込むように受け取った。
そして、震える唇で、パンをひとくち齧る。
ふわふわとした柔らかな食感と、噛みしめるほどに広がる優しい甘みが、乾ききった彼女の口の中を満たした。
「……っ」
その瞬間。
ミラの大きな紅い瞳から、ぽろぽろと真珠のような涙の粒が零れ落ちた。
彼女はパンを持ったまま、子どものように肩を震わせ、声を殺して泣き始めたのだ。
「ミ、ミラ!? どうしたんだ、どこか痛むのか!?」
「ちがっ……違います、シュウさん……」
ミラは袖で涙を拭おうともせず、もうひとくちパンを口に運び、涙声で呟いた。
「……あたたかい。すごく、美味しいです……」
ひとしきり涙を流し終えると、ミラはパンを大切に食べ終え、ぽつりぽつりと自らの過去を語り始めた。どうして自分がこれほどまでに死を望み、自らを卑下するのかを。
「私は……人間と竜族が争いを避けて共に暮らす、小さな隠れ里で育ちました」
「人間と竜族が共存する村……? そんな場所があったのか」
「はい。物心つく前に私を拾ってくれた育ての親は亡くなってしまい、私はずっと独りきりでしたが……それでも、最初は静かな場所でした」
ミラの紅い瞳が、遠い過去を映すように陰る。
「けれど、私が成長してこの『角』が立派になるにつれて、すべてが変わってしまったんです」
彼女は自分の頭にある二本の角にそっと触れる。
「竜の角は、人間たちの間では万能の薬として、目が眩むような高値で取引されます。……私の角の噂を聞きつけた人間の密猟者たちが、銃や剣を持って、何度も何度も村を襲うようになりました」
「そんな……」
「私の角のせいで、村の平穏は壊され、多くの人が傷つきました。だから村の人たちは、私をこう呼んで遠ざけるようになったのです。『災いを呼ぶ疫病神』だと」
淡々と語る彼女の声には、どれほどの孤独と痛みが積み重なっていたのだろう。
親の顔も知らず、ただ生きているだけで命を狙われ、味方であるはずの村人たちからも石を投げられ、迫害され続けた日々。
「ずっと、独りでした。冷たい森の隅で、木の実を口にしながら……いつか、誰かと一緒に温かいものを食べてみたいと、それだけを夢見ていました」
ミラは涙の跡が残る顔で、シュウに向かってふわりと微笑んだ。
それは、昨日見せた虚ろな作り笑いではなく、胸が締め付けられるほど純粋で、儚い笑顔だった。
「だから、もう十分です。死ぬ前に、シュウさんとこうして温かいパンを食べることができました。……疫病神の私には、これ以上ないほど贅沢な最期です」
「……やめてくれ、ミラ!」
シュウは思わず立ち上がり、防弾ガラスに両手をついて叫んでいた。
バン、と鈍い音が部屋に響く。ミラが驚いて顔を上げた。
「悪いのは、角を狙って村を襲った欲深い人間たちじゃないか! 迫害されてもずっと一人で耐えてきた君が、どうして自分を責めるんだ!?」
「ですが、私がいなければ――」
「君は疫病神なんかじゃない!」
シュウの声は、地下室の冷たい空気を震わせるほど真っ直ぐで、熱を帯びていた。
「少なくとも、俺にとって君は疫病神なんかじゃない。……パンひとつで満足したなんて言わないでくれ。明日の夜も、その次の夜も、俺が君と話すから。君を独りになんかしないから!」
ライラックの冷たい皮肉も、看守としての立場も、ミラが死刑囚である事も、今のシュウの頭からは消え去っていた。
ただ目の前の少女の涙を止めたい、その一心だった。
ミラはガラスの向こうで、言葉を失ったようにシュウの真っ直ぐな瞳を見つめ返していた。
やがて彼女は、眩しいものを見るように細く目を伏せ、「……本当に、変わった人ですね」と小さく呟いたのだった。
◆
二日目の夜が明け、シュウが看守室を去った後。
静寂が戻った独房の中で、マリーは自分のお腹のあたり――まだ温かいパンの熱が残っているような気がする場所に、そっと両手を当てた。
(……温かい)
誰かから分け与えられた食事が、こんなにも美味しくて、こんなにも胸の奥をじんわりと満たしてくれるものだなんて、生まれて初めて知った。
それと同時に、満たされたはずの心が、なぜか昨日よりもずっと激しく、切なく痛んでいることにも気づいていた。
(シュウさん――貴方はどうして、死にゆく疫病神の私に、こんなにも優しいのですか?)
『君は疫病神なんかじゃない』
ガラス越しに叫んだ彼の真剣な声と、自分を肯定してくれた熱量が、耳の奥で何度もこだまする。
マリーはぎゅっと胸元の服を握りしめ、震える吐息を漏らした。
(……嫌です、これ以上優しくしないでください)
ずっと、死ぬことなど少しも怖くなかったはずなのに。
あの人の温もりを知ってしまったせいで、冷たい灰になって消えていくことが――。
(死ぬのが、怖くなってしまうから……)
孤独だった少女の心に落ちた小さな熱は、ゆっくりと、しかし確実に彼女の氷を溶かし始めていた。