イツカノヨル ~5omeday, Under the Starlight~ 作:アムロ・メイ
処刑まで、あと二日。
夜の勤務が始まる数時間前、シュウは監獄の片隅にある薄暗い資料室兼図書室に足を運んでいた。
古い紙と埃の匂いが立ち込める部屋で、彼は書架から引っ張り出した数冊の分厚い本を机の上に広げていた。
手元にあるのは『天体と星々の運行』という星に関する図鑑と、『花の辞典』だ。
(地下の独房にいるミラには、外の空が見えなし、花を見る事も出来ない。せめて俺の言葉で、綺麗な夜空の話だったり、花の話をしてあげられたら……)
昨日、温かいパンを食べて涙を流した彼女の儚い笑顔が脳裏に浮かぶ。
少しでも彼女を元気づけたい、あの紅い瞳にまた光を灯したい――そんな思いで、シュウは夢中でページをめくっていた。
「――お前、こんな所で何やってんだ?」
不意に背後から低い声が落ちてきて、シュウはビクリと肩を揺らす。
振り返ると、腕を組んだライラックが入り口の柱に背を預けて立っていた。
その視線が、シュウの手元にある『星の本』と『花の本』に落ちる。看守の業務とは何の関係もない書物だ。
ライラックはゆっくりと歩み寄ると、深い溜息をつき、氷のように冷ややかな目でシュウを見下ろした。
「……まさかとは思っていたが、お前、あの竜族の娘に惚れてるのか?」
「なっ……! ち、違うよ、俺はただ、彼女があまりにも孤独そうだったから……」
「……ハッ、図星か。嘘が下手だな、シュウ」
ライラックの声には、昨日以上の苛立ちと、親友の愚行を嘆くような悲痛さが滲んでいた。
「いい加減に目を覚ませ。お前は前線から遠い平和な街で育ったから、竜族の恐ろしさを何も知らない。だからそうやって気安く接することができるんだ」
ライラックが机に手をつき、シュウの顔を覗き込むように身を乗り出す。
「一つ聞くが……もしあの独房に入っている死刑囚が、あんな華奢で可愛い見た目の少女じゃなくて、顔中に傷のある屈強な醜い男の竜族だったら、お前はどうした? 同じようにパンを分け与えて、花の本なんかを調べてやったのかよ?」
「っ……それは……」
シュウは言葉を詰まらせた。
否定したくても、否定できない、胸の奥を鋭いナイフで抉られたような感覚。
初日に防弾ガラスの向こうで彼女を見た瞬間、その透き通るような紅い瞳と美しさに心を奪われたのは、紛れもない事実だったからだ。
ライラックの言葉は、残酷なまでに正論だった。
「答えられないだろ。お前のやってることは、正義でも何でもない。ただの浅はかな恋慕と偽善だ。……頼むから、俺に親友まで失わせるなよ、シュウ」
ライラックはそれだけ言い残すと、踵を返して図書室から出ていった。
一人残されたシュウは、開かれたままの本の上で強く拳を握りしめた。親友への罪悪感と、それでも消すことのできないミラへの想いの間で、彼の心は激しく引き裂かれていた。
◆
重い足取りで地下の特別監視室へと向かい、鉄扉を開ける。
しかし、防弾ガラスの向こうに座っていたミラの姿を見た瞬間、シュウの迷いは吹き飛んだ。
彼女は昨日よりも少しだけ血色の良くなった顔で、シュウが入ってくるのをじっと待っていたかのように顔を上げたのだ。
「こんばんは、シュウさん」
「……こんばんは、ミラ。体調、少しはマシになったかい?」
「はい。昨日、貴方がとても美味しいパンをくださったおかげです」
ミラはガラスの前まで歩み寄ると、そこでぺこりと小さく頭を下げた。
「昨日は、取り乱してしまって申し訳ありませんでした。……あの、パンのお礼と言ってはなんですが、今日は私の話を少しだけ聞いていただけますか?」
「君の話を? もちろん、聞かせてくれ」
シュウが椅子を引いて座ると、ミラもガラスの向こうで膝を抱えて座り込んだ。
「シュウさんは、竜族がどのような種族かご存知ですか?」
「ああ。巨大な竜に変身して、口から炎のブレスを吐く……人間よりもずっと強大な力を持った種族だと聞いているよ」
「ええ、その通りです。ですが……」
ミラは自嘲するように、小さく肩をすくめた。
「私は、出来損ないの未熟な個体なんです。どれほど歳を重ねても、他の同胞のように巨大な竜へ変身する力は持っていません」
「えっ……?」
シュウは絶句する。ミラの言葉が正しいのならば、彼女は人間と何も変わらない、一人のか弱い少女じゃないか。
「その代わりに、私には一つだけ、特別な力が宿りました。『星読み』の力です」
「星読み……?」
「はい。夜空に輝く星々の流れを読み取り、これから起こる未来の出来事を少しだけ予測する力です。今はこんな地下にいますから空は見えませんが、それでも星たちの囁きは聞こえます。……ええ、もうすぐ、数日のうちに、この空にとても美しい大流星群が降り注ぐでしょう」
流星群。その言葉を口にしたミラの紅い瞳が、まるで本物の星空を映しているかのように、きらりと美しく輝く。
そして彼女は、自分の頭頂部から伸びる二本の角へと、そっと白い指先を這わせた。
初日の夜、シュウが違和感を覚えたあの愛おしげな手つきだった。
「村の人たちからは疫病神と忌み嫌われ、密猟者からは命を狙われる原因となったこの角ですが……私にとっては、星々の声を受け止める大切な器官であり、何より私が竜族として生まれてきた唯一の『誇り』なんです」
どんなに世界から迫害されても、自分自身の根源だけは決して否定したくなかったのだろう。その健気で凛とした横顔に、シュウは胸が締め付けられた。
するとミラは、ふっと表情を和らげ、悪戯っぽく小首を傾げた。
「シュウさん。貴方は私のこの角を見ても、欲しがることも恐れることもせず、私に温かいパンを分けてくださいました。……そんな不思議な貴方に、もう一つだけ、私の秘密を教えてあげます」
ミラはガラスに顔を近づけ、通気孔越しに、まるで大切な宝物を手渡すかのような優しい声で囁いた。
「『ミラ』という名前は、人間に捕まった時、適当に名乗った偽名です。私の本当の名は……『マリー』と言います」
「マリー……?」
「はい。育ての親が、黄色や橙色の美しい花――『マリーゴールド』から取って、私に名付けてくれたそうです」
その瞬間、シュウの頭の中で、先ほど図書室で読んだばかりの『花の辞典』のページが鮮明に蘇った。
しかし、マリーは自分の真名を明かした直後、再び暗い影を落とした瞳で、自嘲気味に微笑む。
「マリーゴールドの花言葉をご存知ですか、シュウさん? 古い伝承では『死者の花』。そして『絶望』や『悲しみ』を意味するそうです。……ふふ、生まれつき角を狙われて周りに災いを振りまき、最後は処刑されて死んでいく疫病神の私に、これ以上なくぴったりの名前でしょう?」
自分の名前すらも、自らを呪うための道具として解釈している。
あまりにも哀しすぎる彼女の笑顔を見た瞬間、シュウの中で、ライラックに言われた言葉への迷いが完全に吹っ切れた。
相手が美少女だからとか、男だからとか、そんなことは関係ない。これほどまでに傷つき、孤独の中で自分の名前すら愛せずにいる目の前の魂を、俺は絶対に救いたい――と。
「……違う。それは違うよ、マリー!」
シュウは椅子を蹴るようにして立ち上がり、防弾ガラスに両手をついて身を乗り出した。
初めて真名で呼ばれたマリーが、ハッと息を呑んで紅い瞳を見開く。
「ちょうど今日、俺も図書室で花の本を読んできたんだ。確かにマリーゴールドには悲しい意味もあるかもしれない。だけど、それだけじゃない!」
シュウはガラスの向こうの少女の瞳を真っ直ぐに見据え、力強く叫んだ。
「その花には、『可憐な愛情』っていう花言葉があるんだ!」
「……えっ?」
マリーの唇が小さく震える。シュウは言葉を止めなかった。
「物心つく前に亡くなった君の名付け親は、君を疫病神だなんて思ってなかった! 『死者の花』なんて意味で名前をつける親がどこにいるもんか! きっとその人は、君がこれから先、たくさんの『可憐な愛情』に包まれて幸せに生きてほしいと祈って……だから、君に『マリー』と名付けたんだよ!」
静まり返った地下の監視室に、シュウの熱い声だけが反響した。
マリーはガラスの向こうで、まるで雷に打たれたかのように立ち尽くしていた。
一秒、二秒。
やがて、彼女の大きく見開かれた紅い瞳がみるみるうちに潤み、そこから大粒の涙が、堰を切ったようにボロボロと溢れ出した。
「あ……、う、あぁ……っ」
二日目の夜に流した涙とは違う。
それは、生まれてからずっと「自分は誰からも望まれない呪われた存在だ」と信じ込んできた少女が、初めて亡き親からの深い愛と祈りに触れた、魂の震えるような涙だった。
「シュウ、さん……っ。私、私は……!」
「泣かないでくれ、マリー。君は愛されて生まれてきたんだ。俺がそれを証明してみせるから」
シュウが防弾ガラスに右手を押し当てると、涙に濡れたマリーもまた、吸い寄せられるようにガラスの反対側に細い左手を重ねた。
分厚いガラス越しでも、互いの体温が伝わってくるかのように、二人の指先はいつまでも重なり合っていた。
◆
三日目の夜が明け、シュウが名残惜しそうに看守室を後にした。
独りになった独房の中で、マリーはまだシュウの手のぬくもりが残っているような防弾ガラスの表面に、そっと自分の指先を触れさせていた。
『可憐な愛情』
心の中でその言葉を反芻するたび、胸の奥がじんわりと甘く、熱いもので満たされていく。
(私が、愛されていた? 死を呼ぶだけの疫病神だった私が、誰かに幸せを願われていたなんて……)
顔も覚えていない育ての親が遺してくれた、たった一つの祈り。それを、敵であるはずの人間の青年が、あんなにも必死な顔で見つけ出して教えてくれた。
(……シュウさん。貴方が『マリー』と私の本当の名前を呼んでくれた時、ずっと凍りついていた私の時間が、音を立てて動き出した気がしました)
ガラスに映る自分の顔を見る。泣き腫らした紅い瞳の奥には、もう昨日までの虚ろな絶望はなかった。代わりに宿っていたのは、決して抱いてはいけないはずの、淡く切ない『希望』という名の光だった。
(もし、万が一にもこの世界に神様がいるのなら……)
マリーはガラスに額を預け、目を閉じて祈るように願った。
(私は、死にたくありません。……この人と一緒に、外の世界で、あの美しい流星群を見てみたい)
処刑の日まで、残された夜はあと二つ。