イツカノヨル ~5omeday, Under the Starlight~ 作:アムロ・メイ
あの激しい夜の脱出劇から、数ヶ月の月日が流れた。
人類軍の追手を振り切ったシュウ、マリー、ライラックの三人は、どの国の領地にも属さない国境近くの静かな森の奥深くで、小さな木造の隠れ家を拠点に共同生活を送っていた。
「――それじゃあ、三日後の午後は北の街道を通るのは避けた方がいいんですね? ありがとうございます、占星術師様!」
「ええ。星の流れが、北の谷で土砂崩れが起きることを示しています。どうぞお気をつけて、良い旅を」
隠れ家のすぐ近くにある小さな森の広場。
そこで旅の商人に頭を下げられ、優しく微笑み返しているのは、頭からすっぽりと深いフード付きのローブを被ったマリーだった。
今の彼女は、生まれ持った『星読み』の力を活かして、道に迷った旅人や近くの開拓村の人々に未来の吉凶を教える『森の占星術師』として、こっそりと人々の役に立ち始めていたのだ。
かつて『疫病神』と忌み嫌われた彼女の予知が、今は多くの人間の命を救い、感謝の言葉とともに笑顔で受け入れられている。
木陰からその様子を見守っていたシュウは、自分のことのように誇らしくて、自然と口元が緩んだ。
「よう、占星術師のお嬢様。今日も繁盛してるみたいだな」
商人が去った後、大きな麻袋を肩に担いで森の奥から歩いてきたのは、ライラックだった。
彼の腰にはよく手入れされた拳銃と鋼鉄の剣が下げられており、お尋ね者となったシュウと、角を狙われやすいマリーの二人を守る、頼もしい『護衛役』を買って出てくれていた。
「お帰りなさいませ、ライラックさん。街への買い出し、お疲れ様でした」
「ふん、別に大したこっちゃないさ。マリーが占いで稼いだ銀貨のおかげで、今日もいい食材が手に入ったぜ」
ライラックはそう言いながら、麻袋の中からまだ温かい焼きたてのパンや、新鮮なチーズ、色とりどりの果物を出して見せる。
元来の面倒見の良さと気さくな性格を取り戻した彼は、今や二人の生活になくてはならない最高の相棒となっていた。
「ありがとう、ライラック! 今夜はあの丘の上で食事にしよう。……だって今夜は、特別な夜だからね」
「ああ、そうだったな。よし、俺が特製シチューを作ってやるから、お前らは先に薪でも集めておけよ」
三人は笑い合いながら、隠れ家の裏手に広がる見晴らしの良い丘へと向かう。
◆
やがて太陽が西の山の稜線へと沈み、世界が深い群青色の帳に包まれる頃。
丘の上では焚き火がパチパチと爆ぜ、三人は温かいシチューと焼きたてのパン、そして甘い果実酒を囲んで、賑やかで美味しい夕食を楽しんでいた。
冷たい独房のガラス越しではなく、同じ火を囲み、同じ温かい食事を分け合って笑い合う。
それはかつて、マリーが命と引き換えにしてでも欲しかった、夢のような光景。
食事がひと段落し、夜空に無数の星々が瞬き始めた頃。
ライラックがふいに立ち上がり、腰の剣を軽く叩いて背伸びをした。
「さてと、腹も膨れたし、俺は少し森の周りの見回りに行ってくるかな」
「え? ライラック、もうすぐ流星群が始まる時間だぞ?」
「馬鹿野郎、護衛が夜空に見惚れてどうすんだよ。……それに、ここから先は、俺みたいな野暮な男が混ざる時間じゃないだろ?」
ライラックはニヤリと悪戯っぽく笑ってシュウの肩を叩くと、「ゆっくり楽しめよ」と片手をひらひらと振りながら、気を利かせて森の木立の中へと姿を消す。
焚き火のそばには、シュウとマリーの二人だけが残された。
心地よい夜風が吹き抜け、草原の草花を優しく揺らす。マリーは被っていたフードを後ろへ下ろし、美しい顔を夜空へと向けた。
「……風が気持ちいいですね、シュウさん」
「ああ。……隣、行ってもいいかな、マリー」
「はい、もちろんです」
シュウはマリーのすぐ側に近寄り、焚き火の明かりに照らされた彼女の横顔をそっと見つめた。
彼女の前頭部には、右側の美しい角が一本だけ伸びており、左側には、あの五日目の夜に彼女自身が力任せにへし折った短い角の跡が残っている。
シュウは胸の奥がチクリと痛むのを感じながら、おずおずと右手を伸ばし、マリーの頭に残る『片方だけになった角の跡』へと、壊れ物に触れるかのようにそっと指先を這わせた。
「……シュウ、さん?」
「ごめん、マリー」
シュウの声は、悔恨に小さく震えていた。
「この角は、君にとって竜族としての大切な誇りだったのに……。俺を守るために失わせてしまって、本当にごめん」
あの時、自分に引き金を引く勇気があれば、彼女は角を折らずに済んだのではないか。その申し訳なさが、ずっとシュウの心に残っていた。
しかし、マリーは驚いたように紅い瞳を瞬かせると、ゆるゆると首を横に振った。
そして、自分の角の跡に触れているシュウの大きな手に、自らの白く細い手をそっと重ね合わせた。
「謝らないでください、シュウさん」
マリーがシュウの方を向いて微笑む。
それは、かつての薄幸で投げやりな少女の面影など微塵もない、太陽に向かって咲き誇る満開のマリーゴールドのような、温かく眩い笑顔だった。
「右に残ったこの角は、私が竜族として生まれてきた誇りです。そして、この折れた左の角は、失ったものではありません」
マリーの紅い瞳が、深い愛情を湛えてシュウを真っ直ぐに見つめる。
「これは私が貴方と出会い、貴方から『可憐な愛情』を教えていただき、そして貴方とライラックさんを守ることができた――私にとって一番大切な、『貴方と出会えた印』ですから」
『貴方と出会えた印』――その言葉に、シュウは息を呑み、やがてこみ上げてくる熱い感情のままに、マリーの華奢な身体を強く抱きしめた。
「マリー……ありがとう。俺のそばにいてくれて、本当にありがとう」
「はい、シュウさん。私も、生きていて良かったです」
マリーもまた、シュウの背中にそっと腕を回し、彼の胸に顔を埋めた。
「あ――! 見てください、シュウさん!」
不意にマリーが顔を上げ、夜空を指差した。
見上げれば、満天の星空を、一筋の眩い光の矢が駆け抜けたところだった。
それを皮切りに、二つ、三つ、十、百と――まるで空の宝石箱をひっくり返したかのように、無数の流星群が夜空いっぱいに降り注ぎ始めた。
二人の顔を、幾千もの星の光が青白く、幻想的に照らし出す。
「すごい……。こんなに綺麗な星空、生まれて初めて見たよ」
「ええ、私もです。……独房の中で願った夢が、今、本当に叶いました。私、今とっても幸せです!」
マリーはシュウの肩にそっと頭を預け、シュウは彼女の細い肩を抱き寄せたまま、二人で寄り添い合って降り注ぐ星々を見上げ続けた。
――今回の騒動で、この世界の問題が全て解決した訳ではない。
少し遠くに出れば、人間と竜族との血塗られた確執は未だに続いていて、二つの種族が互いに憎み合う時代はすぐには終わらないだろう。
――それでも。
冷たいガラスに隔てられた
傍らで幸せそうに微笑む竜族の少女と、少し離れた森の中で不器用に二人を守ってくれている人間の親友。
その確かな絆を感じながら、シュウは満天の空に降り注ぐ流星群を見上げ、心の中で強く願った。
――いつかきっと、俺たちのように、人間と竜族が心から手を取り合って分かり合える日が来るはずだ、と。
星降る丘の上で、可憐な愛情に包まれた二人の夜は、いつまでも優しく輝き続けていた。