BLEACH世界に転生した俺は初代剣八になるらしい 真世界編   作:まいちー

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IF001 死のない世界

 

 世界が滅んでから、どれほどの時間が過ぎたのだろう。

 

 井上織姫には、もうよく分からなかった。

 

 見知らぬ街の、見知らぬ建物。人の気配が途絶えた部屋の片隅で、織姫は膝を抱えていた。

 

 窓の外からは、人々の話し声が聞こえてくる。笑い声も、子供を叱る声も以前と変わらず、街には人が行き交い、店が開き、誰もが当たり前のように日々を過ごしている。

 

 世界が一度滅んだなど、嘘のようだった。

 

 けれど、以前と同じものなど何一つない。

 

 尸魂界と現世は一つになり、死神たちは敗れ、滅却師が我が物顔で街を歩いている。そして、誰も死ななくなった。

 

 どれほど傷ついても、どれほど苦しんでも、命だけは失われない。人々はそれを神の恩寵と呼んでいた。

 

「…………」

 

 織姫は膝に置いた手を握り締めた。

 

 その世界を支えているのが、黒崎一護だった。

 

 世界が崩壊したあの日、一護は新たな霊王の楔にされた。その事実を知る者は、ごく限られている。

 

 黒崎くんは、世界を支えるために生まれてきたわけじゃない。

 

 笑って、怒って、誰かのために一生懸命になって。そんな、普通の人だったはずなのに。

 

「……黒崎くん」

 

 小さく名前を呼んでも、返事はない。それが当然だと分かっていても、織姫は何度も彼の名前を呼んでしまう。

 

 織姫は顔を上げた。

 

 いつまでもここにはいられない。追っ手が近づく前に、また別の場所へ移らなければならなかった。

 

 逃亡生活が始まってから、まともに眠れた夜はほとんどない。滅却師だけでなく、織姫を捕らえて褒美を得ようとする人々にも追われ、食べ物を求めて立ち寄った家で密告されたことさえあった。

 

 何度も殴られ、泥水の中を這って逃げた。死ぬことはなくても、痛みも恐怖も消えない。捕まれば何をされるか分からず、今では人の足音を聞くだけで身体が強張るようになっていた。

 

 荷物をまとめ、立ち上がろうとした、そのときだった。

 

「やっと見つけましたよ。織姫さん」

 

「――っ!」

 

 突然掛けられた声に、織姫は弾かれたように振り返った。

 

 いつの間に入ってきたのだろう。部屋の入り口に、縞模様の帽子を被った男が立っていた。

 

「……浦原さん?」

 

「はい。お久しぶりッス」

 

 浦原喜助は、以前と変わらない調子で帽子のつばを持ち上げた。

 

 織姫は、しばらくその顔を見つめていた。

 

 浦原喜助。間違いなく、かつて自分を助けてくれた人だった。

 

 それなのに、すぐには喜べなかった。

 

 親切に食べ物を分けてくれた人が、裏では滅却師に自分の居場所を知らせていたこともあった。助けてくれると信じてついていった先で、捕らえられそうになったこともある。

 

 何度も裏切られ、逃げ続けるうちに、誰かを信じることが怖くなっていた。

 

 織姫は無意識に後ずさり、入り口に立つ浦原と距離を取った。

 

 けれど、浦原は近づいてこなかった。

 

 ただ、あの頃と同じように、少し困ったような笑みを浮かべている。

 

「…………っ」

 

 その顔を見ているうちに、視界が滲んだ。

 

 もう、知っている人には誰にも会えないのかもしれない。そんなことを何度考えただろう。

 

 それでも、目の前にいる。

 

 自分の名前を知っていて、あの頃と同じ声で呼んでくれる人が。

 

 織姫は何か言おうとしたが、喉が詰まって声にならなかった。涙が頬を伝い、慌てて拭っても止まらない。

 

 ずっと一人だった。

 

 誰かに見つかることを恐れながら、心のどこかでは、誰かに見つけてほしいと願っていた。

 

 織姫は何度も息を整え、ようやく震える唇を開いた。

 

「浦原さん……生きてたんですね」

 

「まあ、こんな世界ですからねえ。生きてるって言っていいのか、少々悩ましいところですが」

 

 浦原は軽く笑ったが、織姫は笑えなかった。

 

「……黒崎くんのこと、知ってますか?」

 

「ええ」

 

「助ける方法は……」

 

 そこまで言って、口を閉じる。

 

 一護が世界を支える楔にされていることは知っている。けれど、そこからどうやって彼を救い出せばいいのか、織姫には見当もつかなかった。

 

 そもそも、そんな方法が存在するのだろうか。

 

 世界を支える楔を失えば、再び世界は崩壊してしまうのではないか。たとえ一護のもとへ辿り着けたとしても、何もできないまま引き返すことになるのではないか。

 

 考えるほどに希望は遠ざかり、織姫は俯きかけた。

 

「ありますよ」

 

「…………え?」

 

 思わず顔を上げると、浦原はもう笑っていなかった。

 

「正確には、まだ準備が必要です。ですが、アタシは黒崎サンをあのままにしておくつもりはありません」

 

「本当……ですか?」

 

「ええ。ただし、織姫さんにもやっていただきたいことがあります」

 

「何でもします!」

 

 考えるより先に言葉が出ていた。

 

 浦原はその返事を聞いて、少しだけ目を細めた。

 

「……何でも、ですか」

 

「はい。私、黒崎くんを助けたいんです。だから……!」

 

「分かりました」

 

 浦原はそれ以上問い詰めず、懐から扇子を取り出した。

 

「でしたら、まずはある方を訪ねていただきたいんです」

 

「ある方……?」

 

「尸魂界外苑に、護廷十三隊の生き残りがいることはご存じですか?」

 

 織姫は首を横に振った。

 

「組織としては、もう護廷十三隊は存在しません。ですが、今も戦い続けている人たちがいるんです」

 

「死神の皆さんが……?」

 

「ええ。そこに、卯ノ花サンがいらっしゃいます」

 

「卯ノ花さん……!」

 

 知っている名前だった。四番隊の隊長で、かつて何度も自分たちを助けてくれた人だ。

 

「卯ノ花サンは、この新しい世界で『特記戦力』に数えられている一人です」

 

「特記戦力……?」

 

「ええ。かつてはアタシもその一人でしたが、今は指定から外れています」

 

「浦原さんも……?」

 

「まあ、昔の話ッスよ」

 

 浦原は帽子のつばを深く下ろした。

 

「……もう、五十年も前の話ですからねえ」

 

 そう言って、浦原は小さく息を吐いた。

 

「さて、話を戻しましょうか」

 

 浦原は織姫へ向き直った。

 

「卯ノ花サンに、戦い方を教わってください」

 

「……戦い方?」

 

「はい」

 

 織姫は戸惑った。

 

「でも、私……」

 

「織姫さん」

 

 浦原が言葉を遮った。

 

「黒崎サンを助けに行くんでしょう?」

 

「…………」

 

「だったら、今のままじゃいけません」

 

 その言葉に、織姫は何も返せなかった。

 

 自分に何ができるのか。それは、ずっと考えてきたことだった。

 

 盾舜六花で誰かを守ることはできるし、傷ついた人を治すこともできる。けれど、黒崎くんを奪った相手から、黒崎くんを取り戻すには。

 

「……卯ノ花さんに教われば、強くなれますか?」

 

「それは織姫さん次第ッス」

 

 浦原は扇子を閉じた。

 

「卯ノ花サンには、すでにお願いしてあります」

 

「えっ?」

 

「織姫さんを鍛えていただくように、ね」

 

 織姫は驚いて浦原を見つめた。自分が逃げ回っている間も、この人はずっと動いていたのだ。

 

「……ありがとうございます、浦原さん」

 

「お礼はまだ早いッスよ」

 

 浦原は、いつもの調子で笑った。

 

「卯ノ花サンの修行は、相当厳しいと思いますから」

 

 織姫は、もう一度だけ膝の上の手を握り締めた。怖くないわけではなかったが、それでも、ようやく進むべき道が見えた気がした。

 

「……行きます」

 

 顔を上げ、浦原を見つめる。

 

「私、卯ノ花さんのところへ行きます」

 

 浦原は静かに頷いた。

 

「では、行きましょうか」

 

     ◇

 

尸魂界外苑。

 

 虚圏との境界に生じた巨大な穴は、いつしか虚淵(うろ)と呼ばれるようになっていた。

 

 その奥から、今日も虚が溢れ出している。

 

 かつて防壁だったものは幾度となく破壊され、積み直された石の間には、乾いた血が染み込んでいた。地面には刀傷が幾重にも刻まれ、砕けた仮面の残骸が足元を埋め尽くしている。

 

「右だ! 右を抑えろ!」

 

 怒号に応じ、三人の死神が崩れた防壁の隙間へ駆け込んだ。

 

 先頭の隊士が虚の爪を刀で受け止め、その脇から二人目が踏み込む。仮面へ刃を突き立てようとした瞬間、虚の尾が横から薙ぎ払われ、隊士の身体が防壁へ叩きつけられた。

 

「ぐあっ……!」

 

 骨の砕ける音がした。

 

 残った二人が虚を斬り伏せ、倒れた仲間へ駆け寄る。だが、隊士は立ち上がれなかった。右脚は不自然な方向へ曲がり、折れた肋骨が呼吸のたびに激痛を走らせている。

 

「担架を! 早く!」

 

「もう残ってねえよ!」

 

 叫び返した隊士の左腕は、肘から先が失われていた。

 

 それでも、彼は右手に刀を握っていた。

 

 死なないということは、傷つかないということではない。

 

 身体を引き裂かれても、骨を砕かれても、苦痛は残る。治療を受ければ再び戦えるが、負傷者を後方へ運ぶ余裕さえ失われることがあった。

 

 虚淵から現れる虚には、終わりがない。

 

 一体を倒す間に二体が現れ、二体を斬り伏せた頃には、さらにその後ろから新たな仮面が覗いている。

 

 防壁の向こうでは、すでに別の隊士たちが戦っていた。

 

「下がれ! そいつは俺たちじゃ無理だ!」

 

 誰かの叫びとともに、巨大な影が防壁を越えた。

 

 通常の虚をはるかに上回る巨体だった。四本の腕を持ち、頭部には幾重にも重なった仮面がある。着地しただけで石畳が砕け、近くにいた隊士たちが衝撃で吹き飛ばされた。

 

 虚が口を開く。

 

 赤い光が、その奥に集まった。

 

「散れッ!」

 

 隊士たちが左右へ跳んだ直後、虚閃が放たれた。

 

 防壁の一角が消し飛び、逃げ遅れた者たちが爆炎に呑まれる。吹き飛んだ瓦礫が後方の負傷者にも降り注ぎ、あちこちから悲鳴が上がった。

 

 巨大な虚は、崩れた防壁の向こうへ足を踏み出した。

 

 その足元へ、一人の死神が斬りかかる。

 

 刃は脚を深く裂いたが、巨体は止まらない。振り下ろされた腕を避けきれず、死神は地面へ叩きつけられた。

 

 虚が再び口を開いた。

 

 今度は、倒れた死神へ向けて。

 

 だが、虚閃が放たれることはなかった。

 

「卍解」

 

 静かな声が響いた。

 

「千本桜景厳」

 

 一本の刀が、地面へ沈んでいく。

 

 次の瞬間、巨大な刃が幾列にもわたって地面からせり上がった。

 

 倒れた死神へ迫っていた虚が動きを止める。その頭上で、立ち並んだ刃が一斉に砕け、無数の花弁となって宙へ舞い上がった。

 

 桜色の奔流が、巨大な虚を呑み込んだ。

 

 四本の腕が斬り裂かれ、幾重にも重なった仮面が砕け散る。巨体は瞬く間に切り刻まれ、地面へ崩れ落ちた。

 

 花弁の向こうに、一人の男が立っていた。

 

 朽木白哉。

 

 かつて護廷十三隊六番隊隊長を務めた死神だった。

 

 白哉が手を動かすと、無数の刃が一斉に方向を変えた。

 

 虚淵から押し寄せていた虚の群れが、桜色の奔流に呑まれていく。

 

 先頭の数十体がまとめて斬り刻まれ、後続の虚も次々と仮面を砕かれた。左右へ逃れようとした虚には別の刃の群れが回り込み、逃げ場を失った虚たちが悲鳴を上げながら崩れ落ちていく。

 

 それまで防壁に殺到していた虚の群れが、瞬く間に消え去った。

 

「朽木隊長!」

 

 負傷した隊士を抱えた死神が駆け寄ってきた。

 

「後方の治療所が限界です! これ以上は……!」

 

「負傷者を下げよ」

 

「ですが、前線の人数が!」

 

「ここは私が引き受ける」

 

 白哉は虚淵へ目を向けたまま答えた。

 

「動ける者は防壁の修復に回せ。これ以上、突破を許すな」

 

「はっ!」

 

 隊士が走り去ると、白哉は再び右手を掲げた。

 

 宙に散っていた花弁が集まり、巨大な渦を形成する。

 

 虚淵の奥から、新たな虚の群れが姿を現した。

 

 白哉が手を振る。

 

 花弁の奔流が押し寄せ、群れの先頭をまとめて斬り伏せた。だが、その後ろから別の虚が現れ、崩れ落ちる仲間を踏み越えて進んでくる。

 

 白哉は刃の軌道を変え、群れの左右を包み込んだ。

 

 無数の花弁が虚たちを取り囲み、一斉に内側へ殺到する。

 

 仮面が砕け、身体が切り刻まれ、数え切れないほどの虚が消滅した。

 

 それでも、虚淵からは新たな仮面が現れていた。

 

 白哉の卍解によって、前線には一時的な空白が生まれていた。だが、それはほんの僅かな時間でしかなかった。

 

 虚淵の暗がりから、次の群れが押し寄せてくる。

 

 白哉は再び花弁を動かした。

 

 その間にも、後方では戦闘が続いている。

 

 刀を握れなくなった隊士が仲間に引きずられ、治療を終えたばかりの者が再び前線へ戻っていく。負傷者を収容していた建物には人が溢れ、廊下にまで苦痛に呻く者たちが横たわっていた。

 

 治療が追いつかない。

 

 休息も足りない。

 

 それでも虚は待ってくれなかった。

 

 虚淵の奥から、低い咆哮が響く。

 

 白哉は掲げていた手を下ろさず、その暗がりを見つめた。

 

 五十年前から、何度となく繰り返されてきた光景だった。

 

 どれほど多くの虚を斬ったところで、穴が閉じることはない。

 

 そして今日も、戦いは終わらなかった。

 

     ◇

 

 虚淵を取り囲む防衛線の一角。

 

 朽木白哉が虚の大群を迎え撃っている地点から、円周に沿って離れた別の戦線では、周囲一帯が炎に包まれていた。

 

 地面は赤く焼け、崩れた建物の残骸が炎の中で黒く変色している。熱風が吹き荒れるたびに火の粉が舞い上がり、近くにいた死神たちは顔を覆いながら後退していた。

 

 その中心に、巨大な骸骨が立っていた。

 

 全身を灼熱の炎に包まれた骸骨は、周囲の建物を見下ろすほどの巨体を持ち、骨の隙間から絶えず炎を噴き上げている。

 

 骸骨が腕を振るうと、燃え盛る拳が地面へ叩きつけられた。

 

 轟音とともに地面が陥没し、炎が周囲へ広がる。

 

 その一撃を、男が笑いながら飛び退いていた。

 

「ハハッ! いいじゃねえか!」

 

 更木剣八。

 

 かつて護廷十三隊十一番隊隊長を務めた男は、焼け焦げた隊長羽織を翻し、巨大な骸骨を見上げていた。

 

 骸骨の腕が再び振り下ろされる。

 

 剣八は今度は避けなかった。

 

 真正面から踏み込み、振り下ろされる腕へ刀を叩きつける。

 

 激突した瞬間、炎が爆ぜた。

 

 巨大な骨に亀裂が走り、剣八の足元の地面が砕ける。熱風に煽られて羽織の裾が燃え上がったが、剣八は構わず刀を押し込んだ。

 

「おらァッ!」

 

 骸骨の腕が肘から砕け散った。

 

 燃え盛る骨片が周囲へ降り注ぎ、後方の隊士たちが慌てて身を伏せる。

 

「更木隊長! これ以上は周囲がもちません!」

 

 隊士の叫びも、剣八には届いていないようだった。

 

 巨大な骸骨が咆哮する。

 

 失われた腕の付け根から炎が噴き出し、その中で新たな骨が形を成していく。

 

 剣八はそれを見て、ますます笑みを深めた。

 

「そうこなくちゃなァ!」

 

 骸骨の胸郭が大きく開いた。

 

 肋骨の奥で炎が渦を巻き、赤熱した光が一点へ集まっていく。周囲の温度が急激に上がり、離れた場所にいた隊士たちの肌さえ焼け始めた。

 

「退避しろ! 全員下がれ!」

 

 叫び声とともに、死神たちが負傷者を抱えて走り出す。

 

 次の瞬間、骸骨の胸から灼熱の奔流が放たれた。

 

 剣八は退かなかった。

 

 刀を肩に担ぎ、迫り来る炎へ向かって踏み込む。

 

「面白え!」

 

 振り下ろされた刃が、炎の奔流を正面から斬り裂いた。

 

 左右へ割れた炎が地面を焼き払い、背後の瓦礫を一瞬で赤熱させる。その中心を剣八が駆け抜け、骸骨の懐へ飛び込んだ。

 

 剣八の刀が、巨大な胸骨を斬り裂く。

 

 骨が砕け、炎が噴き上がった。

 

 だが、骸骨は倒れなかった。

 

 折れた肋骨が炎の中で再び繋がり、頭上から巨大な拳が迫る。

 

 剣八は刀を振り抜いた姿勢のまま、その拳を見上げた。

 

「まだまだァ!」

 

 再び、轟音が響いた。

 

 燃え盛る巨体と、一人の死神。

 

 その激突によって周囲の大地は次々と砕け、炎が夜空を赤く染めていく。

 

 離れた場所では、負傷した隊士たちが互いに肩を貸しながら後退していた。全身に火傷を負った者が苦痛に呻き、動けなくなった仲間を引きずる者の手も、すでに焼け爛れている。

 

 それでも、戦いは続いていた。

 

 巨大な骸骨が炎を噴き上げ、剣八が笑いながら刀を振るう。

 

 どちらも、まだ倒れる気配はなかった。

 

     ◇

 

「……そんなことになっていたんですか」

 

 織姫は、浦原の話を聞いて言葉を失っていた。

 

 二人は尸魂界外苑へ向かっていた。浦原から渡された外套を身に纏い、深く被った頭巾で顔を隠している。街を離れてから随分と歩いたが、目的地まではまだ距離があるという。

 

「虚淵から現れる虚は、今も増え続けています。護廷十三隊の生き残りが総出で食い止めて、ようやく今の状態を維持できているんスよ」

 

「……そんなに、たくさん?」

 

「ええ。朽木サンや更木サンのような隊長格も、ほとんど前線に出ずっぱりです。それでも、戦線が崩れかけることは珍しくありません」

 

 織姫は、かつて尸魂界で出会った死神たちの顔を思い浮かべた。

 

 あれほど強い人たちが、全員で戦っている。

 

 それでも足りないというのだろうか。

 

「でも……滅却師の人たちは、助けてくれないんですか?」

 

「いいえ。戦闘には一切参加していません」

 

「どうして……?」

 

「彼らにとって、死神は罪人だからです」

 

「罪人……?」

 

 浦原は歩きながら、扇子を指先で回した。

 

「今の世界では、死神たちは咎人ということになっています。かつて世界を汚した罪を償うため、虚と戦い続ける刑に服している。そう説明されているんです」

 

「そんな……!」

 

「人々も、それを信じています。死神が虚を食い止めていることは知っていても、それを世界を守るための戦いだとは思っていない。罪を償うために働かされているんだと、そう教えられているんスよ」

 

 織姫は俯いた。

 

 あの人たちは、何も悪いことなんてしていない。

 

 少なくとも、自分が知っている死神たちは、何度も命懸けで誰かを守ってくれた人たちだった。

 

「……誰も、本当のことを知らないんですか?」

 

「知ろうとする人もいるでしょう。ですが、今の死神たちには、それを伝えるだけの力がありません」

 

「力……?」

 

「政治的な力、という意味です」

 

 浦原は遠くへ目を向けた。

 

「護廷十三隊は、もう組織として機能していません。生き残った者は皆、虚淵の周囲に集まっています。全軍で防衛線を維持するだけで手一杯で、外の世界に働きかける余裕なんてないんスよ」

 

「…………」

 

「食料や医薬品は、外から運ばれてきます。ですが、それだけです。滅却師たちは物資を届けても、虚との戦闘には加わらない」

 

「それじゃあ……死神の皆さんは、ずっと……」

 

「ええ。戦い続けるしかありません」

 

 浦原の声から、いつもの軽さが消えた。

 

「仮に死神たちが戦うのをやめれば、どうなると思います?」

 

 織姫は答えられなかった。

 

「虚淵から溢れた虚は、周囲の街へ広がります。今は護廷十三隊の残党が円形に防衛線を築いていますが、それがなくなれば、虚を止めるものはありません」

 

「……滅却師の人たちは?」

 

「真世界城を守ることはできるでしょう。ですが、それ以外の土地まで守るつもりはないようです」

 

 浦原は小さく息を吐いた。

 

「つまり、死神たちが戦いを放棄すれば、真世界城の外に暮らす人々は虚に蹂躙されることになります」

 

「そんなの……」

 

 織姫は唇を噛んだ。

 

 戦わなければ、人々が襲われる。

 

 戦い続けても、罪人として扱われる。

 

 食べ物と薬だけを与えられ、終わりのない戦場から離れることもできない。

 

「……ひどいです」

 

「そうですねえ」

 

 浦原は否定しなかった。

 

「だからこそ、卯ノ花サンたちは、あそこを離れられないんです」

 

 織姫は頭巾の縁を握り締めた。

 

 遠くにあるという虚淵。

 

 そこでは今も、知っている誰かが戦っているのだろう。

 

 そして、その戦いは明日も、その先も続いていく。

 

「……浦原さん」

 

「はい?」

 

「私、早く行きたいです」

 

 浦原は織姫を見た。

 

「……そうですか」

 

 それだけ答えると、再び前を向いた。

 

 二人は、外苑へ続く道を歩いていった。

 

 

     ◇

 

 最初に聞こえてきたのは、遠くから響く轟音だった。

 

 織姫は足を止め、音のした方角へ顔を向けた。

 

「……今のは?」

 

「虚淵の方ですね」

 

 浦原はそう答えると、歩く速度を上げた。

 

 荒れた道を進み、小高い丘を越えたところで、織姫は思わず息を呑んだ。

 

 眼下に広がっていたのは、巨大な防壁だった。

 

 どこまでも続くように見える壁が、左右の視界の果てまで伸びている。壁の向こうからは幾つもの爆発音が響き、絶え間なく土煙が立ち上っていた。

 

 防壁の先がどこまで続いているのか、ここからでは分からない。

 

 防壁の一角が、大きく揺れた。

 

 壁面に亀裂が走り、続けざまに何かが内側から激突する。石材が剥がれ落ち、壁の上にいた隊士たちが必死に何かを叫んでいた。

 

「防壁がもたん! 退避しろ!」

 

 次の瞬間、巨大な壁が崩れ落ちた。

 

 轟音とともに大量の瓦礫が降り注ぎ、土煙が周囲を覆い尽くす。崩れた防壁の向こうから、虚の群れが一斉に押し寄せてきた。

 

「そんな……!」

 

 織姫の目の前で、逃げ遅れた隊士が虚に跳ね飛ばされた。

 

 別の隊士が斬りかかるが、後続の虚に押し倒される。崩れた壁の隙間は瞬く間に虚で埋まり、その勢いは止まらなかった。

 

「突破されるぞ!」

 

 悲鳴にも似た叫びが響く。

 

 織姫は反射的に駆け出そうとした。

 

 だが、その前に、一人の女性が崩れた防壁へ歩み出た。

 

 長い黒髪を背に流した、白い隊長羽織の女性だった。

 

「……卯ノ花さん?」

 

 織姫は思わず足を止めた。

 

 女性は迫り来る虚の群れを前に、静かに刀を抜いた。

 

 先頭の虚が飛びかかる。

 

 その爪が届くより早く、虚の身体が斜めに裂けた。

 

 卯ノ花は倒れる虚の脇を抜け、続けざまに踏み込んできた二体を斬り伏せる。振り下ろされた腕を半歩でかわし、すれ違いざまに仮面を断った。

 

 織姫の知る卯ノ花は、いつも穏やかに微笑み、傷ついた人々を癒やしていた。だが、今目の前にいる彼女は違う。表情こそ変わらないものの、その刀は迷いなく虚を斬り裂き、次々と迫る敵を容赦なく斬り伏せていた。

 

 虚が次々と押し寄せる。

 

 卯ノ花は退かなかった。

 

 迫る虚を斬り、崩れ落ちる身体の間を進みながら、さらに奥の虚へ刀を振るう。

 

 その背後で、隊士たちが動き始めた。

 

「鬼道衆、前へ!」

 

 号令とともに、複数の隊士が崩れた防壁の両端へ走った。

 

「配置につけ! 鬼道を合わせろ!」

 

 隊士たちは瓦礫の上に立ち、両手を前へ突き出した。

 

 次々と詠唱が始まる。

 

 崩れた防壁の両端から光が伸び、鬼道による光が空中に広がった。

 

 光の線が幾重にも重なり、虚の群れを食い止めている卯ノ花の背後で、新たな壁が形を成していく。

 

「まだだ! 鬼道を解くな!」

 

 隊士たちの額に汗が滲む。

 

 一人が膝をつきかけると、隣の隊士が肩を支えた。鬼道が途切れれば、壁は完成しない。

 

 卯ノ花はその間も刀を振るい続けていた。

 

 彼女の前には、虚の死骸が幾重にも積み重なっている。それでも新たな虚が押し寄せ、倒れた仲間を踏み越えてくる。

 

 卯ノ花が一歩踏み込む。

 

 刀が閃き、三体の虚がまとめて崩れ落ちた。

 

「今だ! 閉じろ!」

 

 隊士の叫びに応じ、光が一斉に収束した。

 

 崩れていた防壁の隙間が、巨大な光の壁によって塞がれていく。

 

 最後の虚が卯ノ花へ飛びかかった。

 

 卯ノ花はその仮面を一太刀で断ち、崩れ落ちる身体を見送った。

 

 直後、光の壁が完全に閉じた。

 

 轟音が響き、鬼道の光が防壁全体へ広がっていく。

 

 隊士たちはその場に膝をつき、荒い息を吐いた。

 

 織姫は、ただ立ち尽くしていた。

 

 あれほどの数の虚を、一人で。

 

 しかも、周囲の隊士たちが防壁を作り直すまで、一歩も退かずに。

 

「……少し、待ちましょうか」

 

 浦原にそう言われ、織姫は防壁へ目を向けた。

 

 しばらくすると、防壁の一角が淡い光を帯びた。壁を形作っていた鬼道が一部分だけ解かれ、人が通れるほどの隙間が生まれる。

 

 そこから卯ノ花が姿を現した。

 

 卯ノ花が通り抜けると、開いた箇所は再び光に包まれ、元の壁へと戻っていく。

 

 刀を納めた卯ノ花は、浦原と織姫の姿を認めると、静かに歩み寄ってきた。

 

「……お待ちしておりました」

 

 卯ノ花は、穏やかに微笑んだ。

 

「卯ノ花さん……!」

 

 織姫は頭巾を外した。

 

 目の前にいるのは、間違いなく卯ノ花だった。かつて四番隊の隊長として負傷者の治療にあたり、いつも穏やかな笑みを浮かべていた女性。

 

 けれど、先ほど目にした光景が頭から離れなかった。

 

 あれほどの虚を相手に、卯ノ花は一度も怯まなかった。それどころか、押し寄せる虚の群れを前にしても、その表情には少しの変化もなかった。

 

「お久しぶりですね、井上さん」

 

「はい……! 卯ノ花さんも、ご無事で……」

 

 そこまで言って、織姫は言葉に詰まった。

 

 無事でよかった。

 

 そう伝えたかったはずなのに、背後にそびえる防壁と、そこに残された戦いの跡を見てしまうと、素直に喜ぶことができなかった。

 

 卯ノ花はそんな織姫を見つめ、静かに微笑んだ。

 

「浦原さんから、お話は伺っています」

 

「……はい」

 

「黒崎一護さんを、助けたいのですね」

 

 織姫は顔を上げた。

 

「はい!」

 

 迷いのない返事だった。

 

「黒崎くんを、あの場所から助け出したいんです。でも、今の私じゃ何もできなくて……」

 

 握り締めた手に力が入る。

 

「浦原さんから、卯ノ花さんなら戦い方を教えてくださるかもしれないって聞いて……」

 

「ええ。伺っています」

 

 卯ノ花は頷いた。

 

 織姫はその顔を見つめた。かつて尸魂界で出会った頃と変わらない、優しい表情だった。

 

「お願いです、卯ノ花さん。私に、戦う方法を教えてください」

 

 深く頭を下げる。

 

「私、強くなりたいんです。黒崎くんを助けられるくらい、強く……!」

 

 しばらく、返事はなかった。

 

 遠くから轟音が響いてくる。防壁の向こうでは、今も戦闘が続いているのだろう。

 

「……井上さん」

 

「はい」

 

「顔を上げてください」

 

 織姫は言われたとおりにした。

 

 卯ノ花は微笑んでいた。

 

「一つ、条件があります」

 

「条件……ですか?」

 

「ええ」

 

 織姫は背筋を伸ばした。

 

 どれほど厳しい修行でも構わない。何度倒れても、何度傷ついても、黒崎くんを助けるためなら耐えてみせる。

 

 そう思っていた。

 

 卯ノ花が口を開く。

 

「罪もなく生きている人々の首を1000持ってきなさい。さすれば戦う術を教えましょう」

 

「…………え?」

 

 織姫は、言われた意味が分からなかった。

 

「……あの、卯ノ花さん?」

 

「はい」

 

「今……千人の首って……」

 

「ええ。罪のない人間を千人、斬首してきなさいと申し上げたのです」

 

「そんな……! そんなことしたら、その人たちが……!」

 

「死んでしまう、と?」

 

 卯ノ花は穏やかに微笑んだ。

 

「井上さん。この世界では、誰も死にません」

 

「…………」

 

「首だけになっても、生きていますよ。時間はかかりますが、身体も再生します」

 

 あまりにも当然のことのように告げられ、織姫は言葉を失った。

 

「ですから、千人の首を持ってきても、その方々の命が失われることはありません」

 

「でも……!」

 

「もちろん、痛みはあります。首を斬られる苦痛も、身体が再生するまでの苦痛も、すべて感じ続けることになりますが」

 

 卯ノ花の口調は変わらなかった。

 

 織姫は目の前の女性を見つめた。

 

 首を斬られても死ねない。身体が戻るまで、どれほどの時間がかかるのかも分からない。その間ずっと苦しみ続けるというのに、卯ノ花はそれを何でもないことのように話している。

 

「……そんなの、死なないからって……」

 

「ええ。苦痛を与えることに変わりはありませんね」

 

 卯ノ花はあっさりと認めた。

 

「ですが、私が求めているのは千人の首です。命ではありません」

 

「…………!」

 

「それでも、できませんか?」

 

 織姫は答えられなかった。

 

「……どうして、そんなことを……」

 

「戦う術を学びたいのでしょう?」

 

「それは……そうです。でも……!」

 

「ならば、まず人を殺すことを覚えなさい」

 

 織姫は息を呑んだ。

 

 卯ノ花は変わらず微笑んでいる。

 

 怒っているわけでも、脅しているわけでもない。ただ、修行の内容を説明するような口調だった。

 

「私が教えるのは、相手を斬り、命を奪うための術です」

 

「でも、私が戦いたいのは……!」

 

「黒崎一護さんを救うため、ですね」

 

 卯ノ花は織姫の言葉を引き取った。

 

「そのために、誰かを殺すことになっても?」

 

「…………」

 

「あなたの前に立ちはだかる者が、何の罪もない人間だったとしても?」

 

 織姫は答えられなかった。

 

 黒崎くんを助けたい。

 

 その気持ちは、少しも変わっていない。

 

 けれど、だからといって、何も悪いことをしていない人を殺していいはずがない。

 

「……そんなこと、できません」

 

 絞り出すように答えた。

 

「私、人を殺すために強くなりたいわけじゃ……」

 

「そうですか」

 

 卯ノ花は静かに頷いた。

 

「では、お教えすることはありません」

 

「……!」

 

 織姫は顔を上げた。

 

「待ってください! 私、どうしても……!」

 

「井上さん」

 

 卯ノ花はその言葉を遮った。

 

「あなたが何を望んでいるのかは、分かっています」

 

 声を荒らげることもなく、卯ノ花は続けた。

 

「ですが、望むだけでは何も変わりません」

 

 織姫は唇を噛んだ。

 

 卯ノ花の言葉が、胸に突き刺さる。

 

 何も変えられなかった。

 

 黒崎くんが連れていかれるのを、止めることができなかった。

 

 それから何十年も、逃げ続けることしかできなかった。

 

 だからこそ、ここまで来たのに。

 

「……千人、ですか」

 

「ええ」

 

「本当に……それが条件なんですか?」

 

「はい」

 

 卯ノ花の返事に、迷いはなかった。

 

 織姫は俯いた。

 

 目の前にいる女性が、自分の知っている卯ノ花と同じ人物なのかさえ、分からなくなりそうだった。

 

「……分かりました」

 

 長い沈黙の末、織姫はそう答えた。

 

 浦原が僅かに顔を上げる。

 

 織姫は卯ノ花を見つめた。

 

「私……考えてみます」

 

「ええ。そうなさい」

 

 卯ノ花は頷いた。

 

「答えが出たら、またいらしてください」

 

 そう言って、卯ノ花は防壁へ目を向けた。

 

 その向こうから、再び大きな轟音が響いてきた。

 

「私は、まだ戦場を離れるわけにはいきませんので」

 

 卯ノ花は二人に一礼すると、来た道を引き返していった。

 

 織姫は、その背中を見送った。

 

 卯ノ花が防壁へ近づくと、再び壁の一部が光を帯びた。鬼道が解かれ、生まれた隙間へ卯ノ花が足を踏み入れる。

 

 白い隊長羽織が壁の向こうへ消えると、隙間はすぐに閉じられた。

 

 織姫は、その場を動くことができなかった。

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