BLEACH世界に転生した俺は初代剣八になるらしい 真世界編   作:まいちー

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IF002 千人の首

 

 卯ノ花が消えた防壁を、織姫はいつまでも見つめていた。

 

 壁の向こうでは、今も戦いが続いている。時折響く轟音に足元の土が震え、そのたびに織姫は肩を揺らした。

 

「……井上サン」

 

 浦原に呼ばれ、ようやく振り返る。

 

「少し、場所を変えましょうか。ここは落ち着いて話せるところじゃありませんから」

 

 織姫は頷こうとして、途中で動きを止めた。

 

「浦原さんは……知ってたんですか?」

 

「何を、です?」

 

「卯ノ花隊長が、あんなことを言うって」

 

 浦原はすぐには答えなかった。帽子のつばの下で、目が細められる。

 

「卯ノ花サンに頼んだのは、アタシです」

 

「それは、聞きました。でも……」

 

「どんな条件を出すかまでは、聞いていませんでしたよ」

 

 織姫は俯いた。浦原の言葉を疑いたいわけではない。それでも、胸の中に残ったものをどうしていいのか分からなかった。

 

「……千人ですよ」

 

「ええ」

 

「千人の人の首を、持ってこいって……。何も悪いことをしてない人たちの……」

 

 声に出すと、あの要求がいっそう恐ろしいものに思えた。戦場で見た卯ノ花の刀は、虚を次々と斬り伏せていた。その姿は確かに強く、浦原が彼女を頼った理由も分かる。けれど、あの穏やかな笑顔のまま告げられた言葉だけは、どうしても受け入れられない。

 

「浦原さん。私、黒崎くんを助けたいんです」

 

「知ってます」

 

「でも、そのために、知らない人を傷つけなきゃいけないんですか?」

 

 浦原は答えず、少し離れた防壁を見た。

 

「……アタシから、卯ノ花サンの考えを説明することはできません。ただ、一つだけ言えるのは、あの人は冗談であんなことを言う人じゃないってことです」

 

「……はい」

 

「だからこそ、井上サンがどうするかは、井上サン自身で決めなきゃいけない」

 

 織姫は唇を結んだ。

 

 答えなら、もう出ているはずだった。罪のない人を傷つけることなど、できない。それなのに、卯ノ花の前では「考えてみます」と言ってしまった。

 

 あの場で断れば、もう教えてもらえないと思ったからだ。

 

 そう考えた自分が、ひどく卑怯に思えた。

 

     ◇

 

 防壁から離れたところに、かつて何かの詰所だったらしい建物が残っていた。壁には補修の跡が幾重にも重なり、窓の半分は板で塞がれている。浦原に案内されて中へ入ると、古い机と椅子があり、奥では湯を沸かす音がしていた。

 

 久しぶりに屋根の下で腰を下ろした途端、織姫の身体から力が抜けた。

 

 逃げ続けている間は、疲れを感じる余裕さえなかった。眠れば見つかるかもしれない。食べ物を探しに出れば、誰かに顔を見られるかもしれない。そう思うだけで足が動き、気がつけば次の隠れ場所を探していた。

 

 浦原が差し出した椀には、温かい汁が入っていた。

 

「今は、これくらいしか用意できませんけど」

 

「……ありがとうございます」

 

 両手で受け取る。椀の熱が指先に染みた。具は少なく、味も薄い。それでも一口飲んだだけで、喉の奥が詰まりそうになった。

 

 誰かが自分のために食べ物を用意してくれたのは、いつ以来だろう。

 

「ゆっくり食べてください。追い立てるつもりはありませんから」

 

 浦原は向かいに腰を下ろしたが、それ以上は何も尋ねなかった。

 

 織姫は椀を見つめながら、少しずつ汁を飲んだ。飲み終わる頃には、身体の冷えが幾分和らいでいた。

 

「……浦原さん」

 

「はい」

 

「私、ここにいてもいいんでしょうか」

 

「もちろん。少なくとも、今夜は休んでください」

 

「でも、私がいたら……」

 

 追っ手が来るかもしれない。そう言いかけたところで、浦原が首を振った。

 

「その心配は、今はアタシに預けてください」

 

 言葉に甘えてしまいたかった。けれど、織姫は椀を握る手に力を込めた。

 

 浦原に見つけてもらい、ようやくここまで来た。守ってもらうためではない。一護を助けるために、何かを変えたかったのだ。

 

「……私、明日、外へ行ってみます」

 

「外へ?」

 

「卯ノ花隊長に言われたこと、考えたいんです。ここに座ってるだけじゃ、きっと何も分からないから」

 

 浦原は織姫の顔を見た。

 

「一人で行くつもりですか」

 

「……はい」

 

「危険ですよ」

 

「分かってます」

 

 そう答えながら、織姫は本当に分かっているのだろうかと思った。五十年も逃げ続けて、危険な目には何度も遭った。けれど、今度は追われる側ではなく、自分から誰かに近づかなければならない。

 

「……何かあったら、戻ってきてもいいですか」

 

 浦原は、少しだけ表情を和らげた。

 

「ええ。帰ってくる場所くらい、用意しておきますよ」

 

     ◇

 

 翌朝、織姫は防壁から遠ざかる道を歩いていた。

 

 外苑の周囲には、人の暮らしがあった。粗末な家々が並び、畑のようなものが広がり、荷を積んだ車が土の道を行き交っている。遠くには崩れた建物の残骸が見えたが、その傍らにも新しい住居が建っていた。

 

 死のない世界になっても、人は食べ、働き、眠る。怪我をすれば痛みを感じ、寒ければ火を焚く。織姫が逃亡中に見てきたのと変わらない光景だった。

 

 ただ、以前とは違うものもある。

 

 道端で言い争っていた男たちの一人が、相手を殴り倒した。倒れた男は顔を押さえて呻き、殴った方は罵声を浴びせながら去っていく。周囲の人々はちらりと目を向けただけで、すぐに自分の用事へ戻った。

 

 織姫は足を止めた。

 

 倒れた男はしばらくして起き上がった。血の滲む口元を拭い、よろめきながら歩き出す。

 

 死なない。

 

 けれど、痛くないわけではない。

 

 卯ノ花は、首を斬られた人間もすぐには死なないと言っていた。身体は時間をかけて元に戻る。それまでの苦痛が消えるわけではない、とも。

 

 織姫は自分の手を見た。

 

 この手で、人の首を斬る。

 

 想像しようとしても、そこから先へ考えが進まなかった。

 

 斬るための刃物さえ持っていない。そもそも、持っていたところで振り下ろせるはずがない。そう思う一方で、千人という数だけが頭の中から離れなかった。

 

 最初の一人を傷つけることもできないのに、千人。

 

 卯ノ花は、どうしてそんな条件を出したのだろう。

 

 道の先で、小さな子供が転んだ。抱えていた籠から野菜が転がり、乾いた土の上に散らばる。子供は膝を押さえて泣き出したが、近くにいた女性が駆け寄り、野菜を拾い集めながら声をかけていた。

 

 織姫も思わず歩み寄った。

 

「大丈夫?」

 

 子供は涙の浮かんだ目で織姫を見上げた。

 

「……いたい」

 

「うん。痛かったね」

 

 膝には擦り傷ができていた。織姫は手を伸ばしかけ、途中で止めた。ここで力を使えば、目立つかもしれない。自分を探している者に気づかれるかもしれない。

 

 その迷いが恥ずかしかった。

 

 織姫はしゃがみ込み、子供の膝へ手をかざした。

 

「双天帰盾」

 

 淡い光が傷を包み、擦りむけた皮膚が元へ戻っていく。子供は驚いて泣きやみ、何度も自分の膝を確かめた。

 

「……いたくない!」

 

「よかった」

 

 織姫が笑うと、子供も笑った。

 

 傍らの女性が礼を言い、子供の手を引いて歩き出す。二人が人混みに紛れるまで見送ってから、織姫は立ち上がった。

 

 助けられた。

 

 ほんの小さな怪我でも、自分には治せる。

 

 そのことが嬉しいはずなのに、胸の奥は重いままだった。

 

 あの子の首を持ってこいと言われたら。

 

 そう考えた瞬間、織姫は激しく首を振った。

 

 そんなこと、考えたくもない。

 

     ◇

 

 昼を過ぎる頃、織姫は人の多い市へ出た。

 

 露店が軒を連ね、食べ物や布、古い道具が並んでいる。行き交う人々の声に混じって、値をまけろと交渉する声や、荷車の車輪が軋む音が聞こえた。

 

 織姫は頭巾を深く被り直した。

 

 顔を見られるのが怖い。誰かが自分を指差すのではないか。滅却師を呼びに走るのではないか。そんな思いが足を鈍らせた。

 

 けれど、今日は逃げるために来たのではなかった。

 

 織姫は店先で包丁を研いでいる老人に目を向けた。砥石の上を刃が往復するたび、水に混じった黒い筋が流れていく。

 

 あれを使えば、人を傷つけることができる。

 

 考えただけで、喉が乾いた。

 

「何か用かい?」

 

 老人が顔を上げた。

 

「えっ……あ、いえ、その……」

 

「刃物を探してるのか?」

 

 織姫は答えられなかった。老人は不思議そうに首を傾げたが、やがて再び手元へ目を戻した。

 

「買わないなら、そこを空けておくれ」

 

「……すみません」

 

 織姫は頭を下げ、その場を離れた。

 

 何をしているのだろう。

 

 千人の首を持っていくと決めたわけではない。決められるはずもない。それなのに刃物を探している自分がいた。

 

 強くなるためには、まず誰かを傷つけなければならない。

 

 そう言われたからといって、本当にそうなのだろうか。

 

 盾舜六花には、攻撃を防ぐ力がある。傷を拒絶する力がある。そして、相手を斬る力も。

 

 孤天斬盾。

 

 これまで織姫は、その力を使うことを恐れてきた。誰かを傷つけるための力だと思うと、どうしても躊躇してしまう。戦いの中では何度も、その迷いが自分の動きを止めた。

 

 だから卯ノ花は、首を持ってこいと言ったのか。

 

 織姫はすぐに、その考えを打ち消した。

 

 卯ノ花の言葉を、都合よく解釈してはいけない。あの人は本気だった。誰かを傷つけることを求め、できなければ教えないと言ったのだ。

 

 織姫は市場の端で立ち止まり、通りを見渡した。

 

 買い物をする人。荷物を運ぶ人。子供を叱る人。疲れた顔で腰を下ろす人。

 

 誰も、自分が今どんなことを考えているか知らない。

 

 それが恐ろしくなった。

 

 もし、ここにいる誰かが自分の心を覗けたら、きっと逃げ出すだろう。

 

     ◇

 

 日が傾き始めた頃、織姫は市場を離れた。

 

 何もできなかった。

 

 人を傷つけることはもちろん、刃物を買うことさえできなかった。何度も人の顔を見て、そのたびに目を逸らしただけだった。

 

 戻ろう。

 

 そう思って歩き出したところで、路地の奥から怒鳴り声が聞こえた。

 

「返せって言ってるだろ!」

 

 織姫は足を止めた。

 

 狭い路地で、若い男が別の男の襟を掴んでいた。掴まれた男は痩せていて、手には小さな袋を握っている。足元には食べ物がいくつか散らばっていた。

 

「盗んだんじゃねえか!」

 

「違う、俺は……!」

 

 言い終えるより早く、拳が頬を打った。痩せた男は壁にぶつかり、ずるずると座り込む。

 

 織姫の足が動いた。

 

「やめてください!」

 

 二人が同時にこちらを見る。

 

「何だ、お前」

 

「もう、やめてください。その人、怪我してます」

 

「こいつが盗んだんだ。口を出すな」

 

 若い男は織姫を睨みつけた。織姫は怖くなったが、引き下がれなかった。

 

「でも、殴らなくても……」

 

「お前に関係あるのか?」

 

 若い男が一歩近づく。織姫は反射的に身構えた。

 

 その瞬間、男の視線が織姫の顔へ向いた。ずれた頭巾の下を覗き込み、眉を寄せる。

 

「……お前、どこかで」

 

 背筋が冷えた。

 

 織姫は慌てて頭巾を引き下ろす。男は何か思い出そうとするように顔をしかめ、それから口元を歪めた。

 

「そうか。お前、あの……」

 

 最後まで聞かず、織姫は走り出していた。

 

 背後で怒鳴り声がした。追ってくる足音があるような気がして、振り返ることもできない。曲がり角をいくつも抜け、人の少ない道へ出ても、足は止まらなかった。

 

 助けようとしたのに。

 

 また逃げてしまった。

 

 痩せた男はどうなっただろう。殴られ続けているかもしれない。傷ついて、痛みに耐えているかもしれない。

 

 それでも戻れない自分がいた。

 

 織姫は建物の陰に身を隠し、荒い息を整えた。胸が痛いほど鼓動している。誰も追ってきていないことを確かめても、震えは収まらなかった。

 

 卯ノ花なら、どうしただろう。

 

 相手が襲ってきたら、迷わず斬るのだろうか。助けたい人を守るためなら、邪魔をする者を傷つけられるのだろうか。

 

 自分には、できなかった。

 

 戦う力がまったくないわけではない。それでも、誰かを傷つけることを恐れ、結局は逃げるしかなかった。

 

 黒崎くんを助けたいと言いながら。

 

 織姫は両手で顔を覆った。

 

     ◇

 

 辺りが暗くなっても、織姫は詰所へ戻らなかった。

 

 浦原は帰ってくる場所を用意すると言ってくれた。そこへ戻れば、きっと食べ物も、休む場所もある。誰かに追われることを恐れず眠れるかもしれない。

 

 けれど、戻って何と言えばいいのだろう。

 

 何もできませんでした、と。

 

 そんなことは、出かける前から分かっていたはずなのに。

 

 織姫は人気のない道を歩き続けた。足元の石につまずき、膝をつく。掌に細かな傷ができたが、治そうとは思わなかった。

 

 痛みはすぐに消えない。

 

 この世界では、それでも死なない。

 

 卯ノ花に求められた千人の首は、斬ったところで終わりではない。傷つけた相手は生き続ける。自分が与えた苦痛を抱えたまま、いつか身体が戻るまで待つことになる。

 

 そんなことを、千人に。

 

 織姫は地面を見つめた。

 

「……できないよ」

 

 声に出すと、胸の奥に押し込めていたものが溢れそうになった。

 

「そんなこと、できない……」

 

 自分にはできない。そう言ってしまえば簡単だった。けれど、そこで諦めれば、黒崎くんはどうなるのだろう。

 

 今も、あの場所にいる。

 

 自分の声は届かない。手を伸ばしても触れられない。どれだけ時間が過ぎても、あの人は世界を支えるための楔のままだ。

 

 織姫は、最後に見た一護の姿を思い出そうとした。

 

 顔も、声も、覚えている。忘れたことなど一度もない。けれど、思い出すたびに、その姿が遠くなっていくようで怖かった。

 

「……黒崎くん」

 

 返事はない。

 

 そんなことは分かっていた。それでも、呼ばずにはいられなかった。

 

「私、どうしたらいいの……?」

 

 誰も答えてくれない。

 

 織姫は膝を抱えた。涙が落ち、土に小さな染みを作る。拭っても次々と溢れてきて、やがて声を押し殺すこともできなくなった。

 

 助けたい。

 

 あの人を助けるためなら、何だってしたい。

 

 そう思っていた。

 

 けれど、何だってできるわけではなかった。

 

 今日見た子供の笑顔が浮かんだ。市場を行き交う人々の顔が浮かんだ。路地で殴られていた男も、殴っていた男も、みんな生きていた。

 

 その人たちを傷つけてまで、一護を助けようとする自分を、織姫は想像できなかった。

 

 それなのに、諦めることもできない。

 

 どうしようもない思いを抱えたまま、織姫は泣き続けた。

 

     ◇

 

「……そんなところにいては、身体が冷えますよ」

 

 声がした。

 

 織姫は顔を上げた。

 

 いつからそこにいたのだろう。少し離れた場所に、白い隊長羽織をまとった女性が立っていた。

 

「……卯ノ花、隊長……」

 

 卯ノ花は織姫を見下ろし、静かに目を細めた。

 

「随分と、泣いていらしたようですね」

 

 織姫は慌てて頬を拭った。こんな姿を見られたくなかった。何もできずに戻ってきたと知られたくなかった。

 

「……すみません」

 

「謝ることではありません」

 

 卯ノ花は近づいてきたが、すぐには手を差し伸べなかった。

 

「首は、持ってこられましたか?」

 

 その問いに、織姫の身体が強張った。

 

 卯ノ花の声は昨日と変わらない。責めるでも、慰めるでもなく、ただ約束したことを確かめているようだった。

 

「……いいえ」

 

「そうですか」

 

「私……」

 

 言葉が続かなかった。何か説明しなければと思うのに、口を開けば泣き声になってしまう。

 

 卯ノ花は待っていた。

 

 その沈黙がかえってつらく、織姫は俯いたまま、ようやく言葉を絞り出した。

 

「……できませんでした」

 

「ええ」

 

「人が、いっぱいいて……みんな、普通に暮らしてて……。私、誰かを傷つけようなんて、思えなくて……」

 

 涙がまた溢れた。

 

「でも、黒崎くんを助けたいんです。助けたいのに……私、何もできなくて……!」

 

 織姫は両手を握りしめた。爪が掌に食い込む。自分を痛めつけたところで何も変わらないと分かっていても、力を緩められなかった。

 

「どうして、こんなに弱いんでしょう……」

 

 卯ノ花はその手元へ目を落とした。

 

「井上さん」

 

 呼ばれても、織姫は顔を上げられなかった。

 

「あなたは、誰かを傷つけることが怖いのですね」

 

「……はい」

 

「それでも、黒崎一護さんを救いたい」

 

「……はい」

 

「どちらかを捨てれば、楽になるでしょう」

 

 織姫は息を呑んだ。

 

 卯ノ花は淡々と続けた。

 

「救うことを諦めれば、誰も傷つけずに済みます。人を斬ることを受け入れれば、私から戦う術を学べる。あなたが苦しんでいるのは、そのどちらも手放せないからです」

 

「……そんなの」

 

 織姫は顔を上げた。

 

「そんなの、選べません……!」

 

 卯ノ花は何も言わなかった。

 

「黒崎くんを助けたいんです。でも、だからって……誰かを傷つけるのは、嫌なんです……!」

 

 卯ノ花の目が、僅かに細められた。

 

「そうですか」

 

 織姫は唇を噛んだ。これで終わりだと思った。昨日と同じように、教えることはないと言われるのだろう。

 

 それでも、今度は嘘をつきたくなかった。

 

「……私、千人の首は持ってこられません」

 

 言い切ると、胸の奥が痛んだ。

 

「ごめんなさい……」

 

 卯ノ花はしばらく織姫を見つめていた。

 

 やがて、その場に膝を折る。

 

 目の高さが近づき、織姫は驚いて顔を上げた。

 

「謝る必要はありません。私が出した条件を、あなたは果たせなかった。それだけのことです」

 

「……はい」

 

「ですが」

 

 卯ノ花は、織姫の握りしめた手に目を向けた。

 

「あなたは、それでも私のところへ来たのでしょう?」

 

「……え?」

 

「帰る場所は、他にもあったはずです」

 

 織姫は浦原の顔を思い出した。帰ってくる場所を用意しておくと言ってくれた人の顔を。

 

 自分でも気づかないうちに、防壁のある方角へ歩いていたのだろうか。

 

「……分かりません。どこへ行けばいいのか、分からなくて……」

 

「そうですか」

 

 卯ノ花は静かに立ち上がった。

 

「では、いらっしゃい」

 

 織姫は顔を上げた。

 

「……どこへ、ですか?」

 

「いつまでも、ここで泣いているわけにはいかないでしょう」

 

 差し出された手を、織姫は見つめた。

 

 昨日、千人の首を要求した手だった。今日もその言葉を撤回しなかった人の手だった。

 

 怖くないと言えば嘘になる。

 

 けれど、卯ノ花は急かさず、ただ待っていた。

 

 織姫は何度か息を整え、ようやくその手を取った。

 

 引き起こされると、長く座り込んでいたせいで足が痺れていた。よろめく織姫を、卯ノ花が軽く支える。

 

「歩けますか?」

 

「……はい」

 

「では、参りましょう」

 

 卯ノ花は歩き出した。

 

 織姫はその隣に並ぶことができず、半歩ほど後ろをついていった。どこへ連れていかれるのかも、これから何を言われるのかも分からない。

 

 千人の首を持ってこられなかったことは変わらない。

 

 誰かを傷つける覚悟ができたわけでもない。

 

 それでも、卯ノ花の背中を見失わないように、織姫は足を動かした。

 

 遠くで、虚淵の方角から轟音が響いた。

 

 卯ノ花は一度だけそちらへ目を向け、歩調を緩めず進んでいく。

 

 織姫は涙の残る頬を拭い、その後を追った。

 

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