the bottom friend  孤高の死神   作:イルハン

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ふたりの死神

尸魂界(ソウル・ソサエティ)は新たな時代を迎えていた。

かつて朽木ルキアが所属していた十三番隊では、彼女が新たな「隊長」に就任するための叙任式が厳かに執り行われている。

そんなお祝いの喧騒から遠く離れた場所で、ひっそりと佇む一人の男がいた。

元五番隊第六席――橘一真(たちばな かずま)。

一真は、あの藍染惣右介が尸魂界を裏切ったあの日に、死神を引退していた。

彼にとって藍染は、単なる上司ではなかった。心から敬愛し、その背中を追い続けた、人生のすべてとも言える尊敬すべき一人だったのだ。あの裏切りが発覚した時、一真の心は完全に壊れてしまっていた。なぜ隊長は行ってしまったのか。なぜ自分たちを置いていったのか。その答えが出ないまま、戦いから身を引いたのだった。

その後、一真はかつて現世での戦いを生き抜いた黒崎一護と、偶然言葉を交わす機会があった。

一護は寂しそうな目で、藍染の刀から感じ取った真実を語ってくれた。

「あいつは、生まれた時から圧倒的すぎたんだ。だからずっと、同じ目線で世界を見てくれる『誰か』を探していたんじゃないかって……。俺には、あいつがただの、孤独な男にしか見えなかったんだ」

――孤独。

その言葉が、一真の胸に深く突き刺さった。

もし自分がもっと強ければ。もし自分が部下としてではなく、彼の孤独に寄り添える「対等な存在」になれていたなら、あの人は闇に堕ちずに済んだのだろうか。

消えない後悔に突き動かされた一真は、瀞霊廷の奥深くに眠る大真央霊書庫へと潜り込み、禁じられた技術が記された「禁術の書」を必死に貪り読み始めた。

かつて噂に聞いたことがあった。「過去を改変する能力」がこの世に存在すると。それに近い手段が、死神の術の中にも残されているはずだと信じて。

そして、彼はついに見つけた。

鬼道のさらに上位互換にあたる、神の領域の術――『天道(てんどう)』。

それは、術師が望む「ただ一つの過去」を、己の好きなように書き換えて改変するという、世界の理を覆す恐るべき術だった。

しかし、神の奇跡には相応の代償が必要となる。

この術を発動するための代償は、術師の『魂』そのもの。すなわち、過去を書き換えた瞬間、術師の命は完全に消滅する。

「……これで、あの人を救えるなら」

一真の目に迷いはなかった。一真は誰の目にもつかない瀞霊廷の最果て、寂れた廃墟へと足を運ぶ。己の命をすべて燃やし尽くし、愛した隊長の運命を書き換えるために。

瀞霊廷の最果てにある廃墟。しんと静まり返る暗がりのなかで、橘一真は禁術の書を両手で広げていた。

胸の高鳴りが、嫌に大きく耳の奥で響く。これから行うのは、神の領域の理を欺く冒険だ。失敗すれば魂さえ残らない。しかし、一真の瞳に宿る、藍染を救うという決意の灯火(ともしび)が揺らぐことはなかった。

一真は深く息を吸い込み、古の禁術の文字列へと視線を落とした。

「……万象の主、虚空の眼、写し鏡の底に眠る真実」

言葉を紡ぐごとに、足元から禍々しいほどの漆黒の霊圧が噴き出し始める。それは一真自身の命――魂そのものが燃料として削り取られている証拠だった。全身を駆け巡る激痛に耐えながら、彼は震える声で詠唱を続けた。

「光を消し去る暗黒の夜、過去を呑み込む忘却の淵。神の帳(とばり)をめくり、定められたる歴史の頁(ページ)を白紙へと還さん」

術の終わりが近づく。霊圧の光が視界を白く染め上げていく。その激しい光の乱反射のせいで、一真は一瞬、本の文字を見失いかけた。

かすむ視界のなかで、次の言葉を必死に追う。

「……生贄の、あ、灯火を『捧げ』――世界の記憶を欺け」

「しま――っ!?」

口から言葉が出た直後、一真は自分の致命的な過ちに気づき、心臓が凍りついた。

本に書かれていた正しい言葉は「灯火を『掲げ』」だった。文字を読み違え、無意識のうちに別の言葉を発してしまったのだ。

鬼道の詠唱ミスは致命傷になる。ましてやこれは、世界の因果をねじ曲げる最高位の禁術。術が暴走して、今すぐここで肉体ごと消滅するのではないかという最悪の恐怖が一真の脳裏をよぎった。

(……いや、大丈夫だ。止まるな、続けるんだ。術の構築はまだ崩れていない……!)

冷や汗が背中を伝うのを無視し、一真は強引に術の終端へと意識を繋ぎ止めた。ここで止まれば確実に死ぬ。ならば、このまま押し通すしかない。一真は祈るような思いで、最後の名前を叫んだ。

「天道・第五番――『偽史の揺籠』!!」

直後、世界のすべてが反転した。

読み違えの影響か、術は一真の想定を遥かに超えた大暴走を起こし、廃墟の空間そのものを飲み込むほどの爆発的な白い光を放った。

「が、はっあぁぁぁぁぁぁっ!!」

身体の輪郭がドロドロに溶けて、世界の隙間に吸い込まれていくような、凄まじい衝撃。痛覚さえも光の中に消し飛んでいく。

ああ、俺は間違えて死んだのか。藍染隊長を、あの人を救うこともできずに、ここで消えるのか――。

一真の意識は、そこで完全に途切れた。

◇

「……おい、起きろ。こんなところで寝てると、身ぐるみ剥がされちまうぞ」

どれほどの時間が経ったのだろうか。

冷たい地面の感触と、聞き覚えのない粗野な男の声で、一真ははっと目を覚ました。

「う……あ……?」

ゆっくりと瞼(まぶた)を開く。視界に入ってきたのは、突き抜けるような青い空。そして、埃っぽい土の匂いと、粗末な木造の長屋がどこまでも連なる雑多な街並み。

「ここは……?」

一真は自分の手を凝視した。死神の着物(死覇装)ではなく、薄汚れた灰色のボロ布をまとっている。霊圧を確かめようとするが、かつて第六席だった頃の力強い霊圧はどこにもなく、代わりに感じられるのは、細く不安定な、まるで子供のような頼りない霊圧だった。

間違いない。ここは瀞霊廷の外側――尸魂界・流魂街(るこんがい)だ。

「……成功、したのか? 俺は、生きている……?」

「……ここは、どこだ……?」

「……ここは、どこだ……?」

一真(弦)は泥のついた顔を上げ、掠れた声で呟いた。頭が割れるように痛い。

すると、すぐ隣から呆れたような、だけど心配そうな男の声が降ってきた。

「……あ? 何を寝ぼけたこと言ってんだよ、お前。ここは俺たちの家だろ、弦」

視線を向けると、そこには粗末な着物を着た、見慣れない青年が立っていた。しかし、一真の新しい肉体の記憶が、本能的にその青年の名前を理解する。彼の名前は「修(しゅう)」。この世界における、弦の「兄」だった。

「ほら、さっさと起きろ。飯はねえぞ、水でも飲んで目を覚ませ」

「修……にい……?」

「なんだよ、本当に頭でも打ったのか? まるで知らない場所に迷い込んだみたいな顔しやがって」

修はフンと鼻を鳴らすと、弦の背中をパシパシと叩いた。

一真は自分の小さな手を見つめる。肉体が縮み、子供のそれになっている。周囲を見渡せば、流魂街のなかでも比較的治安が安定している、のどかな「西流魂街・第八地区」の風景が広がっていた。

(……待て。俺は確か、大真央霊書庫の禁術を……)

脳裏に、あの白い光の暴走がよみがえる。そうだ、俺は詠唱を間違えた。灯火を「掲げ」と言うべきところを「捧げ」と言ってしまった。あの瞬間、術は完全に不発(暴走)したはずだ。

(術は失敗したんだ。なのに、なぜ俺は生きてる? なぜ子供になって流魂街にいる……!?)

自分の身に起きた異常事態に、弦が冷や汗を流して混乱していると、外の通りからバタバタと騒がしい足音が響いてきた。

「号外だ! 号外! 瀞霊廷からの新しい報せだ!」

ある男が、まだインクの匂いが残る瓦版(新聞)を通りにばらまきながら走っていく。修がそのうちの一枚を器用に拾い上げ、興味深そうに眺めた。

「へえ、瀞霊廷の護廷十三隊に、新しい隊長が決まったらしいぞ」

「新隊長……?」

弦はその言葉に過剰に反応し、修の手から新聞をひったくるようにして奪い取った。そこには、墨黒の文字で大々的にこう記されていた。

『護廷十三隊・新隊長就任! 朽木銀嶺(くちき ぎんれい)殿、六番隊隊長へ――』

それを見た瞬間、弦の目が見開かれ、全身が凍りついた。

「な……ッ!?」

「うお、びっくりした! なんだよ急に大声出して」

「……朽木銀嶺が、六番隊隊長に就任……!? ば、馬鹿な、そんなわけがない……!」

「違う、そうじゃない……! 朽木銀嶺が隊長に就任したのは……俺がいた時代からしたら、百数十年も前の話だぞ……!?」

「おいおい、お前さっきから何言ってんだ? 銀嶺様が隊長になったのは『今日』だろ。百年前って、お前まだ生まれてもいねえだろ」

怪訝そうな顔をする修の言葉は、もう弦の耳には届かなかった。

(そういうことか……! 詠唱を間違えたせいで、術が正常に働かなかったんだ。過去を好きに改善するどころか、術が暴走した副作用で、コントロールを失ってこんな見知らぬ過去の時代まで弾き飛ばされちまったんだ……!)

狙った時代ではない。神の領域の術を甘く見た、身の程知らずな自分への罰。

しかし、弦の絶望は、すぐに別の「気づき」へと変わった。

(……いや、待てよ。百数十年も前ということは……藍染隊長は、まだ闇に染まるどころか、死神にすらなっていないんじゃないか……?)

術の失敗。それによってもたらされた、奇跡のような大誤算。

弦はハッと顔を上げ、自分の小さな拳を強く握りしめた。これなら、本当に最初から、彼の孤独に寄り添うことができるかもしれない、と。

「おい、弦。さっきから変なことばっかり言って、本当に大丈夫か?……顔つきまで急に変わりやがって」

心配そうに顔を覗き込んでくる兄・修の声を背に受けながら、弦は長屋の戸を勢いよく開け、表の通りへと飛び出した。

「すまない、修ににい! ちょっと確かめたいことがあるんだ!」

「おい、弦! どこ行くんだよ!」

呼び止める声を振り切り、弦は西流魂街・第八地区の埃っぽい街道をがむしゃらに走り出した。

まだ見ぬ、だけどかつて誰よりも敬愛したあの人の姿を、この時代のどこかに求めて――。

「西流魂街・第八地区」の入り組んだ路地を、弦はがむしゃらに走り回っていた。

前世である五番隊の平死神だった頃、かつて敬愛した上司――藍染惣右介が、死神になる前はこの地区にいたという話を耳にしたことがあった。その記憶だけを頼りに、小さな身体で息を切らし、必死に彼の姿を探す。

(術の詠唱を間違えたせいで、とんでもない過去に飛ばされちまった。だけど、今ならまだ間に合う。藍染隊長が、あの孤独な深淵に落ちる前に……!)

焦りで周囲への警戒が疎かになっていたその時、角から不意に現れた大きな影に、弦は正面から思い切りぶつかった。

「おわっとォ!?」

硬い壁にぶつかったような衝撃。弦は無様に地面へと転がった。痛む頭を押さえながら見上げると、そこには死覇装をまとい、十番隊の副隊長羽織を肩に引っ掛けた、見覚えのある筋骨逞しい男が立っていた。

志波一心(しば いっしん)――のちの一護の父親である。

「ってて……おいおい、急に飛び出してくるんじゃねえよボウズ。危ねえだろ?」

一心は頭を掻きながら、面倒くさそうに溜息を吐いた。

この時代の一心は十番隊の副隊長。隊長であり一心の父親でもある「志波一勇(かずい)」から、「流魂街をパトロールしろ」とうるさく小言を言われ、渋々歩いていたところだった。

弦の心臓が跳ね上がる。のちに藍染の運命に深く関わる男との、予期せぬ接触。しかし、今の弦には一心の相手をしている余裕など一秒すらなかった。

「す、すいません!」

謝罪の言葉を投げ捨てるように吐き出すと、弦は一心の脇をすり抜け、再び全速力で走り出した。

「おい、待てって! ……ん?」

去っていく弦の小さな背中を見送ろうとした一心の目が、不意に鋭く細められた。ぶつかった瞬間に肌で感じた、その小さな身体に不釣り合いな、濃密で引き締まった霊圧。流魂街の一般の子供が持っているようなものではない。

「へえ……。こいつはちょっと、放っておけねえ霊圧だな」

一心の口元にニヤリと不敵な笑みが浮かぶ。

「おい、そこのボウズ! 待てって言ってるだろ! 逃げるなーっ!」

背後から凄まじい足音が迫ってくる。一心の冗談のような、だけど確実に距離を詰めてくる追跡。捕まれば色々と面倒なことになるのは火を見るより明らかだった。

(くそっ、なんで十番隊の副隊長に追いかけられてるんだ俺は! 今はそれどころじゃないのに……!)

弦は一心の追跡を振り切ろうと、必死に狭い路地裏へと急旋回した。木造の長屋が密集する薄暗い十字路。一心の気配を気にしながら飛び出した、その瞬間――。

どん、と軽い衝撃が弦の胸に響いた。

「あ……」

今度は転がらなかった。だけど、弦の目の前で、自分と同じくらいの年齢の、一人の少年が尻餅をついていた。

砂埃の舞う路地裏。差し込むわずかな木漏れ日のなかで、その少年は静かにこちらを見上げていた。癖のある茶髪。理知的で、どこか周囲を冷たく見下ろすような、だけど深い拒絶を秘めたその瞳。

間違いようがなかった。

まだ眼鏡もかけていない、前世の自分がすべてを捧げて敬愛した男の、若き日の姿。

(藍染隊長……!)

心の中で、何度も何度も、前世からずっと呼び続けてきたその名前が溢れ出す。

裏切られて絶望したあの日も、彼が敗北して無間に投獄されたあの日も、自分の心から消えることのなかった、敬愛する我が王の姿。

それが今、まだ何にも染まっていない、無垢で孤独な少年の姿をして、目の前に存在している。

溢れ出てくる感情を、弦の幼い肉体は制御しきれなかった。

パニックと、懐かしさと、今度こそ救えるという張り詰めた想いが混ざり合い、口が勝手に動いてしまう。

「……ぁ、あ……藍染、隊長……っ」

「――え?」

地面に手を突いたままの少年・藍染が、怪訝そうに眉をひそめた。

まだ死神の学校(真央霊術院)にすら入っていないただの子供に向かって、ぶつかってきた見知らぬ少年が、聞いたこともない「隊長」という奇妙な肩書きを口にしたのだから当然だった。

「……君、僕を誰かと間違えているんじゃないか? それに、何で……」

藍染の言葉が途切れた。

ぶつかってきた少年――弦の目から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ落ち、地面の砂を濡らしたからだ。

「……う、あ……」

弦はきつく唇を噛み締めたが、涙は止まらなかった。

前世で藍染が五番隊を去った時、平死神に過ぎなかった自分は、彼の前で泣くことすら許されなかった。その背中をただ遠くから見送るしかなかった。

その男が、今、自分のすぐ目の前にいる。手を伸ばせば触れられる距離にいる。

(ああ、本当に会えた。本当に、過去に戻ってこられたんだ……!)

予期せぬ少年の涙に、さしもの天才・藍染も完全に戸惑い、言葉を失って弦の顔を見つめていた。

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