the bottom friend  孤高の死神   作:イルハン

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何者でもない少年達

弦の目から溢れる大粒の涙に、少年の藍染が言葉を失っていた、その時。

薄暗い路地裏に、荒々しい足音と共に場違いなほど明るい声が響き渡った。

「おーう、見つけたぞボウズ! 逃げ足だけは一丁前だな……って、ありゃ?」

割って入ってきたのは、追いついてきた十番隊副隊長の志波一心だった。

一心は肩で息を切りながら、地面に尻餅をついた藍染と、その前でボロボロと涙を流している弦の姿を交互に見やり、完全に戸惑ったように頭を掻いた。

「なんだなんだ? 修羅場か? いや、子供の喧嘩か? おいボウズ、俺から逃げ切ったと思ったら、なんでそんなに泣いてんだよ」

一心の呆れたような、だけど底抜けに温かい声音に、弦はハッと我に返った。慌てて袖で涙を拭うが、一度溢れた感情はすぐには収まらない。

そんな弦の様子を見つめながら、一心はふっと表情を和らげ、真面目なトーンで言葉を続けた。

「……まあ、いいさ。それよりボウズ。さっきぶつかった時に確信したんだが、お前、自覚はあるか? 身体の中に、流魂街の一般のガキじゃ持ちきれねえほどの『霊力』が眠ってやがる」

霊力――その言葉に、弦の隣で静かに立ち上がった藍染の瞳が、僅かにピクリと動いた。一心の視線は、真っ直ぐに弦へと向けられている。

「腹が減るだろ。放っておけば、いつかその力に引き寄せられた虚(ホロウ)に喰われちまう。だからよ、お前はその力の使い方を覚える必要があるんだ。……瀞霊廷にある死神の学校(真央霊術院)へ行け。そこで力を磨けば、自分も、大切な奴も守れるようになる」

一心の言葉は、かつて平死神だった弦の胸に深く、重く響いた。

学校へ行け。それはつまり、藍染と同じ場所に立てるという、何よりの切符だった。

すると一心は、弦の隣に佇む茶髪の少年へと視線を移した。その瞬間、一心の目が驚きに丸くなる。

「……ん? 待てよ。お前、どっかで見たことあるな……。あ、思い出した! お前、今年の真央霊術院の試験を『成績一位』の特待生で合格したっていう、天才のガキじゃないか? ええっと、名前は確か……藍染惣右介、だったな」

「――はい。はじめまして、十番隊副隊長殿」

少年の藍染は、先ほどまでの困惑を綺麗に消し去り、いつの間にか前世の弦がよく知る「人当たりの良い、完璧な優等生」の微笑みを浮かべて頭を下げていた。

だが、弦には分かってしまった。

その微笑みの奥にある、誰にも理解されない圧倒的な才能を持った者だけの、氷のように冷たい孤独が。

そして弦の頭に、もう一つの衝撃が走る。

(待て……惣右介は、もう今年、真央霊術院に入学しているのか!?)

天道の詠唱を間違えたことによる、時間軸のさらなるズレ。藍染が死神になる前の少年時代ではなく、彼はすでに「真央霊術院の主席生徒」として、死神への道を歩み始めていたのだ。

一心の言葉を聞いた弦は、迷うことなくその場で叫ぶように言った。

「俺も……そこに行きます! 真央霊術院に入って、死神になります!」

その決然とした瞳と力強い返答に、一心は「ハハッ、話が早くて助かるぜ!」と豪快に笑って弦の頭を撫で回した。

一方、その様子を傍らで見ていた少年の藍染は、ただ静かに弦を見つめていた。

ぶつかってきた途端に自分を「隊長」と呼び、大粒の涙を流した奇妙な少年。そして今、死神の副隊長を前にして、霊術院への入学を宣言した少年。

(気味が悪いな……)

藍染の理知的な瞳の奥に、仄暗い警戒と不快感が宿る。すべてを見通した気になっているようなその佇まいが、少年藍染にとっては底の知れない、ただただ「不気味な存在」にしか映らなかったのだ。

「それじゃあ藍染、また学校でな!」

一心が手を振ると、藍染は「はい。失礼いたします」とだけ短く、完璧な優等生の礼儀正しさで一礼し、そのまま踵を返して路地の闇へと消えていった。二人の初めての出会いは、こうして幕を閉じた。

◇

その後、弦は一心に連れられて瀞霊廷の然るべき詰所へと向かい、特例での霊術院入学の手続きを済ませた。一心の推薦ということもあり、話は驚くほどスムーズに進んだ。

夕暮れ時、弦が流魂街の第八地区にある粗末な我が家へと戻ると、兄の修が心配そうな顔で待っていた。

「おい、弦! どこ行ってたんだよ、心配しただろ!」

「修にい……俺、死神になる。真央霊術院に入ることが決まったんだ」

「……はあ!?」

修は目を見開き、ひっくり返った声を上げた。しかし、弦の真剣な眼差しが嘘を言っていないと分かると、その顔はみるみるうちに歓喜へと変わった。

「マジかよ!? 死神だって!? すげえじゃねえか、弦!」

修は弦の両肩を掴んで激しく揺さぶり、我がことのように大喜びした。流魂街の住人にとって、死神になるということは、この過酷な街から抜け出せる唯一の栄誉だったからだ。

「そうか、お前にもやっぱりあの血が流れてたんだな。……実はよ、うちの先祖にも昔、護廷十三隊の死神になった奴がいたらしいんだ。もう何代も前の話だから、ただの噂半分だと思ってたけどよ……。お前がそんなに強い霊力を持ってたなら、あの話も本当だったんだな」

修は嬉しそうに鼻をすすり、誇らしげに胸を張った。

先祖に死神がいた――。その言葉を聞いた瞬間、弦の胸に、ある一つの可能性が浮かび上がった。

(先祖に死神……。待てよ、もしかして俺が前世で『橘一真』だった頃の家系が、巡り巡ってこの伏見家に繋がっているのか……?)

詠唱ミスによる術の暴走は、一真の魂を、彼自身の遠い血縁の先祖にあたる少年の肉体へと定着させたのかもしれなかった。あまりの因果の巡り合わせに、弦は言葉を失った。

しかし、もう迷いはなかった。

これで、惣右介と同じ学び舎に立つ資格は手に入った。気味が悪いと思われていようが構わない。あの日見上げた背中に、今度は同期として、もう一度手を伸ばすための戦いが始まろうとしていた。

翌日、弦は真央霊術院の門をくぐった。

黎明期に近いこの時代の霊術院は、クラスが「一つ」しか存在しない。そこには、瀞霊廷の歴史を形作る怪物たちが一堂に会していた。

教壇の奥、一段高い席にどっしりと腰を下ろしているのは、若き日の山本元柳斎重國。まだ総隊長の髭はなく、燃え盛るような眼光と、部屋全体を押し潰さんばかりの圧倒的な霊圧を放ちながら、静かに生徒たちを睨み据えている。元柳斎の放つあまりの威圧感に、教室の空気は限界まで張り詰めていた。

(山本……総隊長。まさか、あの人の若い頃の授業を直接受けることになるなんてな……)

前世の記憶を持つ弦は、その覇気に気圧されそうになりながらも、空いている席を探した。

そして、見つけた。

中央の席で、周囲の緊張などどこ吹く風といった様子で、凛とした背筋で座っている茶髪の少年。藍染惣右介だ。

弦は迷うことなく歩みを進め、藍染の真後ろの席へと静かに腰を下ろした。

ガタ、と椅子が鳴る。

その瞬間、藍染が僅かに肩を強張らせ、冷たい視線を背後に巡らせてきた。昨日の路地裏で自分の名前を知っており、挙句の果てに涙を流した「気味の悪い少年」が、わざわざ自分の後ろに座ったのだ。藍染の眉間が、不快そうにピクリと跳ね上がる。

「……君、なんなんだ。昨日の今日で、わざわざ僕の後ろの席を選ぶなんて……悪趣味にも程があるよ」

藍染は周囲に聞こえないほどの低い声で、明確な鬱陶しさを隠さずに吐き捨てた。

だが、弦は怯まなかった。むしろ、前世では決して見ることのできなかった「完璧な偽りの笑顔」を剥ぎ取った、人間らしい藍染の拒絶の言葉が、嬉しくさえあった。

「よろしくな、藍染。俺の名前は伏見弦だ」

「挨拶をした覚えはない。僕に話しかけないでくれ」

藍染が冷たく突き放し、前を向いたその時、教室の引き戸がガラガラと緩い音を立てて開いた。

「はーい、みんな席について〜。山じい、そんなに怖い顔して睨まないでよ、若い子たちが可哀想じゃない。おっと、僕が遅刻したから怒ってんの?」

入ってきたのは、ピンク色の華やかな女物の羽織を肩に掛けた、若き日の京楽春水だった。

当時の春水は護廷十三隊の隊長でありながら、この霊術院の「斬術・歩法担当」の教師も務めていた。彼の後ろには、他にもいくつかの科目を担当する厳格そうな教官たちが控えている。

春水は教壇に立つと、編笠を指先でくいと上げ、のんびりとした口調で教室を見渡した。

「じゃあ、今日も楽しいお勉強の時間だ。まずは刀の握り方から始めようか。……おや?」

その時、春水の鋭い両目が、教室内の一点――藍染と、その真後ろに座る弦のところで僅かに静止した。

天才と称される藍染の背後から漂う、どこか歪で、だけどやけに洗練された奇妙な霊圧。春水の口元に、大人の深みを持った笑みが浮かぶ。

「おやおや……。今年は、面白い新入生が揃ってるみたいだねぇ」

その言葉に、藍染は小さく息を呑み、弦は静かに拳を握りしめた。

未来の裏切りを知る元部下と、孤独の深淵に立つ天才。二人の、そして尸魂界の運命を変える学校生活が、今ここに幕を開けた。

「それじゃあ皆、まずは竹刀を構えてみて。力の入れすぎは禁物だよ〜」

京楽春水ののんびりとした声が演習場に響く。生徒たちに竹刀が配られ、基礎的な素振りの指導が始まった。

弦が竹刀を握り、スッと腰を落として構える。その姿には無駄がなかった。前世では五番隊の第六席。平死神だったとはいえ、一度は真央霊術院を卒業し、護廷十三隊の席官として数々の戦場をくぐり抜けてきた男だ。子供の肉体に戻ったとはいえ、魂に刻まれた死神としての『基礎』は完璧だった。

弦の素振りを一瞥した春水は、「へえ、筋がいいねぇ」と帽子の下で目を細めた。

一方、その隣で竹刀を振る少年の藍染は、周囲の生徒と変わらない「普通」の動きを見せていた。しかし弦には分かっている。彼はすでに天才だ。周囲から浮かないように、あえて凡庸な生徒のフリをして実力を隠しているに過ぎない。

しばらくして、春水がパチンと手を叩いた。

「よし、それじゃあ次は二人一組での実践対決といこうか。お互いに今の構えを意識して、打ち合ってみてよ」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、弦は隣の藍染に向かって真っ直ぐに歩み寄り、竹刀を突きつけた。

「藍染。俺と組んで、手合わせしてくれ」

「……断る。君と馴れ合うつもりはない」

藍染はあからさまに嫌悪感を隠さず、冷たく拒絶した。だが、弦が「主席の天才が、特例入学の俺を恐れるのか?」と挑発を交えて視線をぶつけると、藍染の瞳の奥に冷徹な火が灯った。

(……いいだろう。これ以上つきまとわれないよう、圧倒的な力の差を見せつけて、二度と僕に近寄れないようにしてあげるよ)

藍染は周囲に気付かれないよう、弦だけに伝わる鋭い霊圧を放ちながら竹刀を構えた。

「はじめ!」という教官の合図と同時に、藍染の身体がブレた。流魂街の子供はおろか、上級生でも視認できないほどの超高速の一撃が、弦の首元を容赦なく襲う。それは『普通』を演じることをやめた、天才の凶刃だった。

――ガキィィン!!

激しい打突音が演習場に響き渡る。

藍染の目は、驚愕に大きく見開かれていた。

「……なっ!?」

完璧に決まったはずのその一撃を、弦は最小限の動きで、寸分違わず竹刀の腹で受け止めていた。いや、受け止めただけではない。弦はそのまま藍染の刃を綺麗に受け流し、鋭い踏み込みで藍染の懐へと鋭く刃を突き返した。

藍染が息を呑みながらそれを跳ね除ける。そこからは、周囲の生徒たちが言葉を失うほどの、凄まじい次元の打ち合いが始まった。

パァン! ガン! と激しく火花が散るような勢いで交わされる木と木の衝突。

藍染がどれほど速度を上げても、どれほど鋭い角度から打ち込んでも、弦はそのすべてを予測していたかのように鮮やかにかわし、互角に刃を交え続けた。

(馬鹿な……僕の動きについてくるどころか、この僕と互角に……!?)

藍染の心に、初めて本物の動揺が走る。

その光景を特等席で見ていた春水もまた、持っていた瓢箪を落としそうになるほど目を見張っていた。春水の鋭い眼光が、弦の足運びと、一切のブレがない刀の軌道に釘付けになる。

(……おいおい、冗談だろ。あの子の剣の『型』、信じられないくらい綺麗だ。流魂街のガキが我流で身につけられるような代物じゃない……まるで、長年戦い慣れた本物の死神の型だ……!)

しかし、どれほど技術が優れていようとも、弦の身体はまだ幼い子供のものだった。引き締まった魂の連撃に、未発達の肉体が悲鳴を上げ始める。それは藍染も同じだった。弦をねじ伏せるために引き上げた限界以上の速度が、少年の細い手足に凄まじい疲労を蓄積させていく。

「はぁ、はぁ、っ……!」

「く……っ!」

互いの竹刀が激しく噛み合い、火花を散らすような緊迫感の中、二人の限界は同時に訪れた。

がく、と膝の力が抜け、弦と藍染はどちらからともなく同時に地面へと倒れ込んだ。完全に体力を使い果たし、荒い息を吐きながら大の字になって天を仰ぐ。見事なまでの共倒れだった。

演習場が静まり返る中、パチ、パチ、とゆっくりとした拍手の音が響いた。

「はい、そこまで。……いやぁ、驚いたね。二人とも、文句なしに素晴らしいよ」

春水が二人の顔を覗き込むようにして歩み寄り、優しく目を細めた。

「伏見くん、君の剣の型は本当に美しい。惚れ惚れしちゃうね。……そして藍染くん」

春水は、今さっきまで床に寝転んでいた茶髪の少年を見つめ、少しだけ声音を鋭くした。

「さっきの素振りの時は、たいして目立たないように普通に振ってただろ? なのに、いざ実戦となったらあの速度だ。……おじさん、びっくりしちゃったな。君、とんでもない実力を隠してるね?」

春水の鋭い指摘に、藍染は寝転んだまま、僅かに奥歯を噛み締めた。自分の完璧な偽装が、この新入生のせいで、早くも隊長格の死神に暴かれてしまったのだ。

藍染は荒い呼吸の向こう側で、隣に横たわる弦を睨みつけた。

気味が悪い。だけど、絶対に無視できない。藍染惣右介の心に、伏見弦という存在が、決して消えない楔(くさび)として深く打ち込まれた瞬間だった。

激しい手合わせが終わり、放課後の休憩時間。

藍染は汗を拭い、一人で静まり返った霊術院の図書室へと足を運んでいた。騒がしい演習場から離れ、本に囲まれた孤独な空間で思考を整理したかったのだ。

しかし、木製の重い扉を開けて中に入り、目当ての本棚へ向かおうとした時、背後からトコトコと規則正しい足音がついてきていることに気づいた。

振り返るまでもない。あの不気味な同期生だ。

藍染はピタリと足を止め、振り返ると同時に、その理知的な瞳に明確な怒りの色を宿して弦を睨みつけた。

「……いい加減にしてくれないか。何がしたいんだ、君は」

普段の穏やかな優等生の仮面をかなぐり捨てた、低く冷徹な声が図書室の隙間に響く。だが、弦は怯むことなく、藍染の目を真っ直ぐに見つめ返した。そして、周囲に他の生徒がいないことを確認すると、低く、だけど確信に満ちた声で問いを投げかけた。

「藍染。……なぜ、本当の力を隠している?」

「――何の話だい?」

藍染の眉が僅かに動く。弦は一歩踏み込み、その核心へと容赦なく切り込んでいった。

「さっきの剣術だけじゃない。君は、自分の本当の『霊圧』も、周囲に悟られないよう巧妙に偽装して隠しているはずだ。……違うか?」

藍染の心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。

(馬鹿な……。僕が霊圧を、実力を低く見せかけて周囲に馴染もうとしていることを、なぜこの男が見抜いている……!?)

まだ出会って二日目の、流魂街出身の男。なぜ自分の本質を見透かしているのかという激しい動揺と不信感が、少年藍染の脳裏をぐるぐると駆け巡る。

だが、そこはのちに尸魂界を揺るがす天才だ。藍染はすぐにいつもの柔らかな笑みを顔に貼り付け、何事もなかったかのように口を開いた。

「面白い冗談を言うんだね、伏見くん。僕が力を隠している? 滅相もない。さっきの授業だって、君の素晴らしい剣技に必死についていっただけさ。特待生とはいえ、僕はただの流魂街出身の子供だよ。君の方こそ、僕を買い被りすぎているんじゃないかな」

声音も、表情も、完璧な優等生のそれだった。あえて自分の実力を否定し、弦の勘違いであるかのように言葉をたぶらかし、煙に巻いていく。これ以上、自分の領域に誰も踏み込ませないための、冷たい防壁だった。

しかし、その完璧な嘘の微笑みを見つめながら、弦の胸は締め付けられるように痛んでいた。

(……ああ、やっぱりそうだ。藍染隊長は、この頃からもう、こうやって他人に嘘をついて、誰のことも信じずに一人で生きてきたんだな)

どれだけ言葉をたぶらかされようと、弦の決意が揺らぐことはなかった。この冷たい防壁を壊し、いつか本音で語り合える「親友」になるために、自分はここにいるのだから。

二人の間に張り詰めた沈黙が流れた、その時――。

「あーあ、静かに昼寝しとったのに、うるさいガキどもじゃのう」

天井近くの梁の上から、からかうような、だけど圧倒的な芯の通った女の声が降ってきた。

二人がハッとして見上げると、そこからしなやかな身のこなしで軽やかに飛び降りてきたのは、紫色の髪を高く結い上げた少女だった。

四楓院夜一(しほういん よるいち)――四大貴族の若きお嬢様であり、本物の隠密機動のトップ。彼女は本来の御所での退屈な仕事からこっそり抜け出し、霊術院に遊びに来ていたのだ。

「よ、夜一……様……っ」

弦がその姿に前世の記憶をよぎらせて硬直する。藍染もまた、そのただ者ではない霊圧に目を見張った。

夜一は二人の前に歩み寄ると、腰に手を当ててニシシと悪戯っぽく笑った。

「図書室でコソコソと、色気のない密談などしおって。だいたい、同じ学び舎の仲間同士でギスギスと喧嘩などするな!」

言うが早いか、夜一は「ほれっ!」と電光石火の動きで弦と藍染の頭に拳骨(げんこつ)を落とした。

「いっ……てぇっ!」

「っ……!?」

弦は頭を押さえながらうずくまり、藍染も予期せぬ衝撃に目を丸くして額を押さえた。あの藍染が、避ける暇もなく完璧に頭を叩かれたのだ。

「ふはは! これで痛み分けじゃ! ……とおっ、噂をすれば影じゃな」

夜一がぴくりと耳をそばだてた瞬間、図書室の外の廊下から「夜一様ーーっ! どこにいらっしゃるのですか!」という、隠密機動の部下たちの慌ただしい足音と叫び声が近づいてきた。

「げっ、追手がもう来おったか。これだから四楓院のじじいどもはしつこくて敵わん! じゃあなガキども、次会う時はもっと仲良くせえよ!」

夜一はそう言い残すと、窓枠に足をかけ、瞬歩(しゅんぽ)の残像を残して一瞬で風のように外へと飛び去っていってしまった。

風のように去っていった四楓院夜一の気配の残滓を感じながら、図書室には再び静寂が戻っていた。

赤くなった額を押さえたまま、藍染は怪訝そうな視線を弦へと向けた。先ほど、夜一が梁から飛び降りてきた瞬間、弦がはっきりとその名を呟いたのを藍染は見逃していなかった。

「……伏見くん。君は、今の人を知っているのかい?」

藍染の問いに、弦はすぐにその目がキラキラと輝き始めた。前世の五番隊第六席・橘一真だった頃、隠密機動の総司令官であり四大貴族の当主でもあった四楓院夜一は、彼にとって雲の上の存在であり、同時に「大ファン」だったのだ。本物を目の当たりにした興奮が、子供の肉体を通じて完全に爆発してしまう。

「知っているも何も、あの方は四大貴族『四楓院家』の第ニ十二代当主にして、隠密機動総司令官、同第一分隊『刑軍』総括軍団長であらせられる、四楓院夜一様だぞ!」

「え……?」

「あの瞬歩のキレを見たか!? 姿が消える直前の霊圧の収束、そしてあの無駄のない美しいフォーム! 叩かれた時は何が起きたか分からなかったけど、あの方の拳骨を直接もらえるなんて、流魂街の人間からしたら一生の誉れだ! 聞けば普段から自由奔放で部下を困らせているらしいが、そこがまた最高に格好いいんだよ。あの気高さと親しみやすさのギャップがさ……!」

一息にベラベラと夜一の肩書きや魅力を語り尽くす弦を前にして、藍染は今度こそ完全に呆気にとられていた。

先ほどまで、自分の霊圧の偽装を見抜いて鋭い質問をぶつけてきた「底の知れない不気味な少年」の姿は、そこにはもうなかった。ただの熱狂的なファンとして目を輝かせている弦の姿を見て、藍染はふっと緊張の糸を解いた。

「……君は、本当に変わった人だね」

呆れ果てたような、だけど先ほどまでの冷徹な拒絶が少しだけ薄れた藍染の声。弦はハッと我に返り、「あ、喋りすぎた……」と頭を掻いたが、藍染の纏う空気が少し柔らかくなったことに気づき、心のなかで小さく笑みを浮かべた。

図書室での騒動が終わり、夕暮れ時。

新入生たちは、真央霊術院の敷地内にある木造の巨大な宿舎――「生徒寮」へと各自の荷物を運んでいた。霊術院は原則として全員が寮生活を送ることになっている。

弦が割り振られた部屋の木札を確認し、「ここか……」と引き戸を開けた瞬間、その目が驚きと歓喜でこれ以上ないほど見開かれた。

部屋の奥、すでに自分の荷物を綺麗に整頓し終え、静かに本を読んでいた茶髪の少年が、嫌そうに顔を上げた。

「……嘘だろう」

藍染惣右介だった。

クラスが一つしかないとはいえ、まさか生活を共にする寮の部屋まで同じになるとは、藍染にとっては完全に想定外の事態だった。藍染は本をパタンと閉じると、今日一番の、あからさまに嫌悪感を剥き出しにした溜息を吐いた。

「どうして君が僕と同じ部屋なんだ。……手違いだと信じたいな」

「手違いなもんか! よろしくな、藍染!」

弦はぶんぶんと激しく手を振って部屋に上がり込んだ。心の中では、天道の詠唱ミスに心の底から感謝していた。まさか、あの孤高の王と同じ部屋で寝食を共にできるなんて、救済のためのチャンス以外の何物でもない。

「僕は君と馴れ合うつもりはないと言ったはずだ。部屋の中でも僕に話しかけないでくれ」

「そう言うなよ。これも何かの因果だろ?」

弦が嬉々として荷物を解いていると、開けっ放しになっていた部屋の障子の外から、ドタバタと騒がしい足音と共に大きな声が聞こえてきた。

「おい東仙! 部屋はこの並びで合ってるか? ……お、ここが主席様の部屋かよ」

廊下に現れたのは、短髪でどこかヤンキー気質の残る熱血漢の少年、六車拳西だった。そのすぐ後ろからは、大きな笠を背負い、静かに佇む視覚を失った少年――東仙要がついてきている。

「静かにしろ、六車。他の方々の迷惑になる……あ、失礼。僕は東仙要。隣の部屋になったんだ。よろしく」

東仙が丁寧にお辞儀をし、拳西は「俺は六車拳西だ。よろしくな」と不敵に笑って親指を立てた。

前世で藍染の謀略によって「虚化」させられ、数奇な運命を辿ることになる九番隊のコンビ。彼らが今、まだ何者でもない純粋な学生として、弦の目の前で机を並べようとしていた。

藍染は拳西たちを一瞥すると、「……騒がしくなりそうだ」とだけ呟き、再び冷たい壁を作るように本に目を落とした。しかし、その横顔を見つめる弦の心には、燃えるような確かな覚悟が宿っていた。

(拳西も、東仙もいる。……今世は絶対に、藍染隊長に誰も実験の手を染めさせない。この悲しい因縁のパズルを、俺がこの部屋から絶対に組み替えてみせる)

狭い和室の一室。一つの灯火のもとで、未来を知る死神と、のちの運命に翻弄される少年たちの、奇妙で熱い共同生活が始まった。

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