俺は魔法使いじゃ無い〝パティシエ〟だ 作:ルナ・クリア・エアル
いつもなら甘くて香ばしい匂いと、たくさんの人々の美味しい笑顔で大忙しのシエルのパティスリー。だけど、今日ばかりはいつもと少し様子が違う。お店はお休みなのだ。
「ピカリオ! じゃあ、私、演劇見に行ってくるから、お留守番よろしくね!」
劇場のチケットを大事そうに胸に抱え、目をキラキラと輝かせながら振り返るシエル。ずっとこの日を楽しみにしていた彼女は、もう今から待ちきれないといった様子で足取りも心なしか弾んでいる。
カウンターの奥で片付けをしていたピカリオこと〝黒樹リオ〟は、そんな姉の姿にあきれたように小さく肩をすくめて、
「はいはい、もう分かってるから。キラリン…シエル姉さん、その演劇ずっと楽しみにしてたんだろ。ほら、遅れるぞ、早く行ってこいよ」
「もう、ピカリオったら! じゃあ、本当に任せたわよ?」
「おう、お留守番は任せとけって。戸締まりくらい一人でできるから」
「ふふ、頼りにしてるわ!」
シエルは満面の笑顔を残して、勢いよくお店の扉を開けて、午前中の明るい街へと飛び出していった。
パタン、と扉が閉まり、いつもと違って静まり返ったパティスリー。
「……さてと」
リオはエプロンの紐をきゅっと結び直し、静かな厨房へと視線を向けた。シエルたちがいない間、店を守るというちょっとした誇らしさと、静かなパティスリーの空気。そんな穏やかな留守番の時間だった。
2
シエルを見送り、静かになった店内で準備を続けていた、その時だった。
カランカラン——。
静寂を破るように、入り口のドアベルが軽やかな音を立てた。ピカリオは手を止め、不思議そうに首を傾げる。
(あれ? 今日はクローズの看板をちゃんと出して貼って鍵をかけたはずなんだけどな……。見落とした客か?)
「はーい、今行きます」
リオはエプロンの汚れを軽く叩きながら、厨房からフロントスペースへ、指示通りに玄関の扉の方へと歩みを進めた。
扉の前に立っていたのは、小さくて、どこか所在なさげな一人の少年だった。
「ごめんね、今日はお店お休みな――」
声をかけようとしたリオは、少年の様子がどこかおかしいことに気づき、言葉を止めた。
少年は何かを一生懸命に喋ろうと、何度も小さな口をもぐもぐと動かしている。まるで、喉の奥まで出かかっている言葉が、何かに無理やり堰き止められているかのように、苦しげに口ごもっていた。
何かを必死に堪えるような変な間があった後、少年は、ひどく不自然に引きつった声でこう問いかけてきた。
「……ここ、カレー屋さん?」
「は……?」
リオは思わず拍子抜けした声を上げた。
(いや、こんな甘い香りのするカレー屋があって堪るかよ……)
リオは心の中で激しくツッコミを入れつつも、少年の必死な、どこか怯えたような瞳を前にして、口調を少し和らげた。
「いや、ここはパティスリーだよ。……なんか、お菓子を買いに来たのかい? ごめんね、今日はお店休みなんだ」
できるだけ優しく少年にそう返す。しかし、その言葉を聞いた少年は、さらに酷く顔を歪ませた。少年の小さな喉は、首元でギラギラと怪しく光るペンダントの呪いによって、さらに最悪な「嘘」を強制的に紡ぎ出されていく。
「お、お菓子なんて、大嫌いだ……! 僕はただの散歩だよ、散歩なんだから!」
叫ぶ少年の指先が、その嘘に呼応するように、まるでどす黒いインクを吸い上げたかのように、じわり、と不自然に黒ずんでいく。
ピカリオは思わず眉をひそめた。少年の指先の黒ずみと、その身体から漂う、言葉にできないほど重苦しくて、ひどく忌々しい奇妙な闇の気配。それが何なのか、今のリオにはまだ分からない。けれど、パティスリーとして、その気配が少年の心を深く蝕もうとしていることだけは、本能的に察知していた。
(お菓子が大嫌い、ねえ……。わかりやすい嘘ばついて)