その目に映る未来は、ひとつではない 作:並行世界とかという概念最高
2回戦がすべて終了し、スタジアムは束の間の静けさに包まれていた。
緑谷と轟による凄惨な死闘、そして透野が飯田の超スピードを理詰めでいなした一戦。観客席の熱気は冷めやらず、誰もが次の準決勝――透野視希 vs 轟焦凍のカードに固唾を呑んでいた。
透野は控室へ続く冷やりとした静かな通路で、壁に背をもたせ、スポーツドリンクをゆっくりと口に含んでいた。
指先を軽く動かす。
応答速度に、ほんの数ミリ秒の遅れ。脚の筋肉も、飯田の猛攻を回避した際の負荷で微かに震えている。
(……限界が近いな)
体力を誇示するつもりも、無茶をして命を削るつもりもない。
自分の身体の状態を、ただの事実として冷静に受け止める。
「……透野」
低い声が廊下に響いた。
顔を上げると、右半分を白く凍らせ、左腕から微かに白い湯気を登らせた少年――轟焦凍が立っていた。
緑谷との死闘を経て、どこか吹っ切れたような、しかし同時に強い葛藤の残滓を宿した瞳で透野を見つめている。
「轟くん」
「……お前の試合、見せてもらった」
轟はゆっくりと距離を詰め、透野の前で立ち止まった。
「上鳴の放電も、飯田のスピードも、お前は一切の『個性の力』を使わずにさばいてみせた。……お前は何のために戦っている?」
「何のため?」
「ああ」
轟は自身の左手を見つめ、静かに拳を握りしめた。
「俺は……親父の力を否定するために、商売道具みてえに扱われるのを突っぱねるために、そしてさっき緑谷に揺さぶられて、己の意志でここに立っている。……お前にもあるはずだ。普通科でありながら、あそこまでの立ち回りをして勝ち上がる理由が。何か譲れない思いや、背負っているものがあるんじゃないのか」
緑谷に隠された熱い意志をぶつけられた轟にとって、どこまでも無表情で、だが出す結果があまりに異常な透野の存在は、理解しがたい謎だったのだ。
透野は、ペットボトルのキャップをキュッと締め、少しだけ首を傾げた。
「特別な理由なんて、別にないよ」
「なに……?」
「僕は普通科の特待生として、体育祭という学校行事に参加しているだけだ。参加する以上は、自分の身体と判断力でどこまでやれるか試して、楽しもうと思った。ただそれだけだよ」
淡々とした、あまりにも拍子抜けな返答。
轟は眉をひそめ、どこか苛立ちを孕んだ声で低く言った。
「……ふざけているのか。そんな生半可な気持ちで、ヒーロー科のトップを争うこの場所に立っているのか。……そんな理由で、俺に勝てると思っているのか?」
その言葉に、透野は怒るでもなく、悲しむでもなく、死んだように落ち着いた瞳で轟をまっすぐ見返した。
「勝ち負けにそこまで執着しているのは、轟くんの方だよ」
「な……」
「僕は、君に勝つためにここにいるわけじゃない。自分の選択で、ここに立っているだけだ」
透野はそれだけ言い残すと、背を向けてリングへと続く光の中へ歩き出した。
言葉を失った轟が、その華奢な背中をただじっと見つめていた。
*
『さあァァッ!! お待たせいたしました、準決勝第1試合!!』
プレゼント・マイクの叫び声がスタジアムを激震させる。
『圧倒的な氷結と解き放たれた炎! A組の超新星、轟焦凍ォォッ!!』
右足から冷気を立ち上らせ、轟がリングへ上がる。
『対するは! 圧倒的な観察眼と無駄のない身体操作で、並み居るヒーロー科をなぎ倒してきた普通科の不気味な鬼才! 透野視希ィィッ!!』
反対側から、透野がゆっくりとリングの中央へ向かう。
リングの中央では、主審のミッドナイトが革鞭を手に妖艶な微笑を浮かべて立っていた。黒い皮の衣装をしならせ、両者を交互に見つめる。
「う〜ん、若さみなぎる青い熱気! 緑谷くんとの熱戦を越えて覚醒した轟くんに、一切の無駄を省いた知的でミステリアスな透野くん……! くぅ〜、ゾクゾクしちゃうじゃないの!」
ミッドナイトは鞭をパチンと空中で鳴らし、両手を広げた。
「お互い準備はいいかしら? ……それじゃあ、準決勝第1試合――スタート!!」
号砲が鳴った。
瞬間――轟が右足を強く踏み抜いた。
バリバリバリッ!!!
1回戦で見せた極大の氷結。白く鋭い氷の嵐が、地鳴りを立ててリング全体を覆い尽くすように押し寄せてくる。
回避する隙間などない、圧倒的な面攻撃。
(――脚の角度、冷気の膨張速度)
透野は、氷結が広がる「前」に、すでに一歩目を踏み出していた。
真っ直ぐ後ろへ退くのではない。
氷の結晶が伝播するわずかな密度の偏り――破片と破片の間に生じる「コンマ数ミリの歪み」を見極め、身体を低く折りたたむようにして滑り込む。
メリメリと服の裾が凍りつく音。
だが、透野の肉体そのものは、奇跡的なまでの間合いで氷の波をかわし、凍りついたリングの僅かな破片の上に立っていた。
『な、なぁぁぁッ!? あの極大氷結の隙間をすり抜けたァァッ!?』
マイクが叫び、観客席から悲鳴のような歓声が上がる。
しかし――透野自身は、自分の限界を完璧に理解していた。
(……ここまでだな)
凍りついた空気が肺を焼き、脚の筋肉は悲鳴を上げている。
もう一度同じ規模の氷結が来れば、かわしきれずに脚を凍傷で痛めるか、あるいは無意識に秘密の能力を使ざるを得なくなる。
自分の身体を壊してまで、あるいは隠さなければならないリスクを侵してまで、この競技で勝ち上がる意味はない。
轟が、二度目の攻撃のために再び右足を挙げようとした。
その直前。
透野は、静かに右手を高く掲げた。
「――審判、降参(ギブアップ)します」
制止の声。
あまりにも静かな、けれどハッキリと響いた辞退の言葉。
踏み込みかけた轟の足が、ピタリと止まった。
ミッドナイトも一瞬驚きで目を丸くしたが、透野の手がしっかりと挙がっているのを確認すると、すぐに胸を張り、鞭をバシッと掲げた。
「透野くん棄権!! 勝者、轟くん!!」
ミッドナイトの声がスタジアムに響き渡る。
『勝者……轟選手! 透野選手の棄権により、轟焦凍の決勝進出だァッ!!』
静まり返るスタジアム。
観客たちも、まさかここまで勝ち上がってきた普通科の生徒が、自らあっさりと身を引くとは思っていなかったのだ。
「……透野」
轟が氷の上を歩み寄り、理由を問うように凝視してきた。
「なぜだ……まだ戦えたはずだ。なぜ諦めた?」
透野は静かに手を下ろし、息を整えながら微笑んだ。
「これ以上やったら、大怪我をするからね。僕にとって、体を壊してまで勝ち上がる理由はないよ」
「……理由がない、だと?」
「うん。すごく楽しかったよ、轟くん」
ミッドナイトは鞭を腰に当て、去っていく透野の背中を愛おしそうな眼差しで見送った。
「自分の限界を知って、自分の意思で退く……それもまた素晴らしい青春の選択だわ! 素敵よ、透野くん!」
透野は深く一礼すると、一度も振り返ることなく、凍りついたリングを降りて行った。
*
メインスタンドのVIP席。
「……ふむ! 素晴らしい引き際じゃないかい!」
湯呑みを置き、パチパチと可愛らしく手を叩いたのは根津校長だった。
「自分の肉体の限界値、リスクとリターンを完璧に天秤にかけ、自身の意志で潮時を選んだ。他人の評価や雰囲気に流されず、自分の人生のハンドルを決して手放さない……実に賢明で、彼らしい素晴らしい選択だねえ!」
相澤消太もまた、手元の端末を閉じ、小さく息を吐いた。
「……自分の限界を知り、引き際を見極められる奴は、現場で一番死ににくい。あいつなりのルールで、完璧に体育祭をやり切りやがったな」
*
控室への通路。
「お疲れ」
待っていたのは心操だった。
タオルを差し出しながら、心操は少しだけ呆れたような、けれど晴れやかな顔で透野を見つめていた。
「あっさり引いたな」
「うん。これ以上は怪我しそうだったから」
「悔しくないのか? ベスト4まで来て、あと少しで決勝だったんだぞ」
透野はスポーツドリンクを受け取り、一口飲んでから静かに首を振った。
「ううん、全然悔しくないよ。僕のやり方で、できるところまで精粋やれた。……すごく楽しかったよ」
心操はハッと短く笑った。
「そうか。……なら、文句ねえな」
「心操は?」
「俺か? 俺は……次は絶対にヒーロー科に上がってやるって、決めたところだ」
二人は顔を見合わせ、言葉少なに笑い合った。
周囲がどう評価しようと、誰が何と言おうと関係ない。
透野視希は、自分の意思で選択し、自分の一日を最高の形で全うしたのだから。
晴れやかな空の下、体育祭は決勝戦へと向かって続いていく。
だが、透野にとっての「学校行事」は、満足のいく結末とともに、静かに幕を閉じたのだった。