その目に映る未来は、ひとつではない 作:並行世界とかという概念最高
体育祭の熱狂から一夜が明けた。
ニュースやSNSでは、雄英高校体育祭の話題が持ちきりだった。爆豪の圧倒的な優勝、轟の葛藤と炎、緑谷の規格外の戦い。そして――「個性を一回も使わずに準決勝まで上り詰めた謎の普通科・透野視希」という存在も、一部のネット掲示板や分析好きの間で静かな噂になっていた。
だが、当の本人の朝は、至って静かに始まる。
安アパートの小さなキッチンで、透野は目玉焼きと食パンを焼き、薄い紅茶を淹れた。
食卓の端には、小さな家計簿ノートが開かれている。
(今月の食費残り……あと一万二千円。洗剤とトイレットペーパーを切らしそうだから、帰りにドラッグストアに寄らないと)
特待生制度のおかげで学費と寮費(あるいはアパートの補助)は出ているが、日々の食費や光熱費、雑費まで全自動で湧いてくるわけではない。
鏡の前に立ち、小さく息を吐く。
(転相薬の残数は……よし、あと三ヶ月分はある)
体調を管理し、自分の身の丈に合った生活を営む。それが透野にとっての「現実」であり、ヒーローだの社会の期待だのという大層な話は、どこか遠い世界の出来事のように思えた。
*
雄英高校の門をくぐると、昨日までとは明らかに雰囲気が違っていた。
敷地内を歩いていると、すれ違うヒーロー科やサポート科の生徒たちから、ちらちらと視線を送られる。
「あいつ……昨日の普通科のベスト4だろ?」
「上鳴と飯田を完封した奴……」
「最後、轟相手にあっさりギブアップしたよな」
好奇と不審の混ざった視線。
普通科の教室に入ると、その空気はピークに達した。
「おはよう、透野くん!」
「すごかったな、昨日!」
「ベスト4だぞベスト4! ニュースにもなってたぜ!」
クラスメイトたちがどっとデスクの周りに集まってくる。
昨日までの「物静かな特待生」という扱いから一転、時の人のような扱いだった。
「みんな、ありがとう。無事に終わってよかったよ」
透野がいつも通り穏やかに微笑むと、クラスの男子が身を乗り出してきた。
「なあなあ! ヒーロー科への編入、ほぼ決まりなんじゃないか? あそこまでいったら、学校側も放っておかないだろ!」
「なんで最後の試合、降参したんだ? もうちょっと粘れば勝てたかもしれないのに!」
悪気のない、けれど「ヒーロー科を目指すのが当たり前」という価値観に基づいた問いかけ。
透野は困惑することもなく、静かに首を振った。
「ううん。これ以上やったら大怪我をすると思ったから引いただけだよ。それに、ヒーロー科に行きたいわけじゃないしね」
「え……?」
教室が一瞬、静まり返る。
「ヒーロー科に行きたくない……? じゃあ、なんであんなに本気で勝ち上がったんだよ?」
「本気というか……体育祭は学校行事だから、自分のできる範囲で楽しもうと思ったんだ。すごく良い体験になったよ」
淡々とした、あまりにも拍子抜けな言葉。
クラスメイトたちは顔を見合わせ、「変わった奴だな……」と苦笑い混じりに散っていった。
彼らにとって、体育祭は「ヒーローになるための品評会」だ。
けれど透野にとっては「せっかくの学校行事だから、全力で楽しむ場」に過ぎない。その根本的な認識のズレを、透野は無理に埋めようとはしなかった。
*
放課後。
透野が鞄を抱えて校門へ向かっていると、昇降口の近くの影で、心操人使がたたずんでいた。
その目元にはくっきりとクマが残り、全身からは筋肉痛に耐えているような硬さが伝わってくる。
「心操」
「……透野」
心操はゆっくりと歩み寄り、壁に寄りかかった。
「教室、大騒ぎだったろ」
「まあね。心操の方こそ、心操を探してるヒーロー科の生徒がいたよ」
「……緑谷か。あいつ、わざわざお見舞いみたいな顔して話しに来やがった」
心操は不機嫌そうに鼻を鳴らしたが、その瞳にはどこか憑き物が落ちたような静かな熱が宿っていた。
「俺は……今日からトレーニングのメニューを変える。洗脳だけじゃダメだ。お前みたいに、最低限の体捌きと間合いの取り方を叩き込まねえと、ヒーロー科の奴らには届かねえ」
「そっか。応援してるよ」
透野が微笑むと、心操はジロリと透野を見つめた。
「お前は……本当に編入しないのか? 今の学校の雰囲気なら、お前が手を挙げればすぐにでもヒーロー科の枠が用意されるぞ」
心操の問いには、嫉妬も咎める色もなかった。ただ純粋な疑問だった。自分が喉から手が出るほど欲しい「ヒーロー科への切符」を、透野は最初から手の中に持っているように見えるからだ。
透野は、夕日に染まるグラウンドを見つめながら静かに答えた。
「僕は、ヒーローになりたいわけじゃないから。自分が自分らしくいられる場所で、ちゃんと生活していきたいだけなんだ。……心操とは、目指している場所が違うだけだよ」
心操はしばらく沈黙した後、フッと短く息を吐いた。
「……お前、本当に変な奴だな」
「よく言われるよ」
「だが……そういう所は嫌いじゃねえよ」
心操は背を向け、グラウンドのトレーニングエリアへと歩き出した。
「じゃあな。俺は自主トレだ」
「うん、頑張ってね」
それぞれの選択。それぞれの目的。
互いに干渉しすぎず、けれど対等に尊重し合える関係。透野にとって、心操とのその距離感はとても心地よいものだった。
*
学校を出た透野は、途中のスーパーに寄った。
タイムセールのシールが貼られた豚肉の小間切れと、特売のキャベツ、うどんの麺を買い求める。ビニール袋の重みを手に感じながら、夕暮れの街を歩いた。
アパートへ戻り、鍵を開ける。
薄暗い部屋に靴を脱ぎ捨て、台所でキャベツを刻む音だけが響く。
ジュウ、とフライパンで肉と野菜を炒める香ばしい匂いが広がっていく。
皿に盛り付け、温かい夕食を一人で食べる。
「……うん、おいしい」
静かな部屋で呟く。
ヒーロー社会の激動も、Public Safety(公安)の影も、雄英高校の熱狂も、この小さな食卓の上には存在しない。
自分の意思で稼ぎ、自分の手で飯を作り、自分の足で自分の人生を歩く。
それこそが、透野視希にとって最も譲れない「日常」だった。
箸を置き、お茶を飲み干したところで、スマートフォンが短く震えた。
画面を見ると、雄英高校の教員用連絡ツールから通知が入っていた。
『明日、放課後に校長室へ来てください。――相澤』
透野は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
(……やっぱり、来ちゃったか)
自分が望もうと望むまいと、周囲の「期待」という波は、静かな日常を飲み込もうと迫ってきていた。