その目に映る未来は、ひとつではない 作:並行世界とかという概念最高
翌日の放課後。
透野視希は、重厚な扉の前に立っていた。
【校長室】と彫られたプレートを一瞥し、意を決してノックする。
「どうぞ、入っておいで!」
朗らかな声に促され扉を開けると、そこは重厚な調度品と本棚に囲まれた広い部屋だった。
応接用のソファには、お気に入りのティーカップを手にした根津校長と、黒いボサボサ頭に捕縛布を巻きつけた相澤消太が腰掛けていた。
「失礼します。普通科1年の透野視希です」
「やあやあ、いらっしゃい透野くん! さあ、そこに腰かけておくれ。今日はおいしい紅茶が入っているんだよ」
根津はフフフと可愛らしく微笑みながら、肉球のある手で向かいのソファを示した。相澤は死んだような目で透野を一瞥し、手元の端末に視線を戻す。
透野は言われた通り静かにソファへ腰を下ろした。出された温かい紅茶にひとくち口をつけ、静かに姿勢を正す。
「呼び出された理由は、大体察がついているかい?」
根津が目を細めて尋ねる。
「……体育祭のことでしょうか」
「正解だねえ!」
根津は両手をポンと叩いた。
「単刀直入に言おう。体育祭での君の立ち回りは実に秀逸だった! 個性の出力頼みになりがちな生徒が多い中、君は相手の癖や心理、運動力学を正確に観察し、最小限の体捌きで成果を出した。普通科の特待生という枠に留めておくには、あまりにも惜しい才能だよ」
根津はお茶を一口すすり、真剣な眼差しを透野に向けた。
「そこでね、学校側として提案がある。君が望むなら、ヒーロー科への編入枠を用意しようと思うんだが……どうだい?」
沈黙が降り立った。
相澤も端末から顔を上げ、透野の表情をじっと観察している。
雄英高校ヒーロー科への編入。全国のヒーロー志望の高校生が喉から手が出るほど欲しがる、最高のキャリアと特権の約束。
だが、透野の顔には喜色も興奮も浮かんではいなかった。
ただ静かに、不思議そうな面持ちで首を小さくかしげた。
「……あの、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「何なりと!」
透野は、死んだように落ち着いた澄んだ瞳で、根津と相澤をまっすぐに見つめた。
「……楽しんだら、ダメだったんですか?」
「……ん?」
根津の手がピタリと止まる。
「体育祭は、学校行事ですよね」
透野の声は穏やかで、何の刺もなかった。だが、それゆえに重く響いた。
「僕は普通科の特待生として、与えられた行事に全力で参加しました。自分の持っている身体と判断力でどこまでやれるか試して、すごく楽しかったんです。……でも、行事を全力で楽しんで成果を出したら、僕はヒーローを目指さなきゃいけないんですか?」
部屋の空気が、ふっと変わった。
相澤の目がわずかに見開かれる。
「……ヒーロー科に行けば、きっともっと厳しい訓練が始まって、誰かと競い合って、誰かの期待を背負わされる。……僕は、自分の人生を誰かに決められたくありません。ヒーローになりたいわけでもないんです。ただ、自分の手で生活して、自分が納得する選択をしていたいだけなんです」
自分の足で立ち、自分の意思で生きる。
ヒーロー社会の熱狂や「ヒーロー=絶対の善・目標」という同調圧力に対する、あまりにも静かで、芯の通った拒絶。
「……ハッ」
沈黙を破ったのは、相澤の低い鼻笑いだった。
相澤は頭を掻きむしりながら、呆れたように溜め息を吐いた。
「……言ったろうが校長。あいつにはヒーローになりてえなんて熱量はハナからねえんだよ」
「いやあ! これは一本取られたねえ!」
根津は困惑するどころか、心底嬉しそうにフフフと声を上げて笑い出した。
「実に素晴らしい! 『ヒーロー科への編入=誰もが望む幸運』という私たちのアンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)を、見事に突かれてしまったよ! 君の言う通りだ、体育祭は学校行事であり、それをどう楽しみ、どう自分の人生に活かすかは君自身の自由だ!」
根津はトントンと机を叩き、身を乗り出した。
「自分の人生のハンドルを決して他人に渡さない……その強い主体性こそ、君の最大の強みだねえ。編入の件は忘れておくれ。君の意思を全面的に尊重しよう!」
「……ありがとうございます」
透野はホッとしたように小さく頭を下げた。
「だがな、透野」
相澤が低い声で言葉を重ねる。
「お前がヒーロー科に興味がなかろうと、体育祭でベスト4に入った事実は消えねえ。……プロからの指名(スカウト)が届いてる」
相澤が一枚の用紙をテーブルに滑らせた。
そこには、数こそヒーロー科のトップ勢に比べれば少ないものの、明確に「透野視希」を名指しした指名一覧が載っていた。
「指名を出してきたのは、個性のパワー一押しじゃない、分析派や裏方系の特殊な事務所だ。職場体験(インターン)は全生徒義務だからな。ヒーロー科に行かないにしても、どこか一箇所選んで体験してきてもらう」
「……分かりました」
透野は紙を受け取り、目を通した。
ヒーロー科への編入は免れた。自分の日常とペースを守ることはできた。
けれど、こうして着々と社会やプロヒーローとの繋がりが生まれていく。
(……職場体験、か)
自分の軸をぶれさせずに、どうやってこの「学校課題」を乗り切るか。
透野は心の中で静かに計算を始めながら、校長室を後にしたのだった。