その目に映る未来は、ひとつではない 作:並行世界とかという概念最高
保須市を襲った一夜の悪夢は、社会に巨大な爪痕を残して終息した。
複数の『脳無』の出現、そして『ヒーロー殺し・ステイン』の確保。
ニュース番組やネットのタイムラインは、その衝撃的なニュースと、動画サイトに流出したステインの「狂信的な演説」の話題で埋め尽くされていた。
だが、東京の『インサイト事務所』の空気は、それとはまったく別の意味で張り詰めていた。
「……保須署から正式な感謝状と、警察庁からのデータ提供への労い届いたよ」
代表ヒーローのアナライズ(諸星)が、受話器を置いて深く椅子に体を預けた。その顔には強い安堵と、どこか怖気づいたような色が混ざっていた。
「現場でステインが潜伏していた路地裏……君が弾き出した座標と、完全に一致していたそうだ。おかげで近くにいたプロヒーローや警察が迅速に現場を包囲でき、被害を最小限に抑えられたらしい」
アナライズは眼鏡を押し上げ、デスクに向かって静かに書類を整理している透野をじっと見つめた。
「君は……本当にただの高校1年生なのかい?」
「はい。ただの普通科の生徒です」
透野はキーボードから手を離し、至極静かに答えた。
「数字と過去の行動パターンをそのまま重ね合わせただけですから。諸星さんの『データ同期』による正確な入力がなければ、あの計算も成り立ちませんでした」
自らの手柄を一切主張せず、すべてを「既存のデータの副産物」として説明する態度。
アナライズはフッと苦笑いを漏らし、それ以上追及するのをやめた。
「……まあいい。君の謙虚さは買いだがね、警察のデータベースには『インサイト事務所・協力アナリスト(透野視希)』の記録がしっかりと残ったよ。……君が望むと望まないにかかわらず、君のその頭脳を必要とする人間は、これからどんどん増えるだろうね」
透野は静かに目を伏せた。
(……一番避けたかった事態だな)
手柄や評価など、透野にとってはリスクでしかない。
表舞台で目立てば目立つほど、Public Safety(公安)やSirナイトアイのような「深い裏側」の人間たちの目に留まりやすくなる。
だが、過ぎてしまったことを悔やんでも意味はない。
透野は自分に与えられた一週間の課題を最後まで淡々とこなし、職場体験最終日の終業時間を迎えた。
*
「一週間、本当にお疲れ様。君のような優秀な生徒と一緒に仕事ができて光栄だったよ」
オフィスを去る際、アナライズから受け取ったのは評価シート(特A評価)と、僅かながら「交通費・雑費手当」として包まれた封筒だった。
「ありがとうございます。大変勉強になりました」
深々と頭を下げ、雑居ビルを出る。
夕暮れの街角。
駅へ向かう途中、街頭の大型モニターでは、保須市で怪我を負った雄英高校ヒーロー科の生徒たち(緑谷、轟、飯田)の容体や、ステインの思想が若者たちの間で波紋を広げているというニュースが流れていた。
(……飯田くんも、緑谷くんも、生きていてよかった)
透野はそれだけを静かに胸の中で確認すると、ニュース画面から目を逸らし、電車に乗り込んだ。
ヒーロー社会がどれほど揺れ動こうと、ステインの思想がどれほど世間を触発しようと、透野視希の「生活」が勝手に助かるわけではない。
*
アパートへ帰宅すると、一週間誰もいなかった部屋の空気は冷たく静まり返っていた。
鞄を置き、まずは換気扇を回す。
それから冷蔵庫を開け、一週間前に空にしておいた棚を確認し、小さく息を吐いた。
(……まずは買い物だな)
制服から着古した部屋着に着替え、エコバッグを手にして近くの激安スーパーへ向かう。
夕方のタイムセール。
割引シールの貼られた豆腐、見切り品のキャベツ、特売の鶏胸肉をカゴに入れていく。電卓を叩くように脳内で一分一秒の合計金額を計算し、予算内に収まることを確認してレジへ向かう。
部屋に戻り、台所に立つ。
トントン、とまな板の上でキャベツを刻む規則正しい音が部屋に響く。
鍋で出汁をとり、味噌を溶かす。鶏胸肉を薄切りにして、醤油と生姜でさっと炒める。
炊きたてのご飯、豆腐とキャベツの味噌汁、鶏胸肉の生姜炒め。
小さな食卓に料理を並べ、手を合わせる。
「……いただきます」
温かいご飯を口に運ぶ。
一口食べるごとに、保須市での緊張感や、ヒーロー社会の生臭い気配が、体の奥からすーっと消えていくようだった。
(……やっぱり、自分の手で作るご飯が一番おいしい)
自活の現実。自分が汗を流し、自分の足で立ち、自分の食べるものを自分で作るという当たり前の日常。
それこそが、透野にとって唯一揺るぎない「現実」であり、守るべき尊い世界だった。
食事が終わり、食器を洗って水切りかごへ並べると、スマートフォンの画面が短く光った。
画面を見ると、普通科のグループチャットや、心操からの個人のメッセージが入っていた。
『明日から学校再開だな。職場体験、何か面白いことあったか?』
心操からのシンプルなメッセージ。
透野は、小さく微笑みながら画面をタップした。
『ううん、ずっとパソコンに向かってデータ入力をしてたよ。心操は?』
『俺はひたすら体幹トレーニングと実戦組手だ。全身筋肉痛で死にそう』
『お疲れ様。明日、湿布持っていこうか?』
『助かる。一枚くれ』
短い、他愛もないやり取り。
窓の外を見やると、東京の夜空には静かな月が浮かんでいた。
ヒーロー社会の波乱は、これからさらに激しさを増していくのだろう。
けれど、どんな嵐が吹き荒れようとも、透野視希は自分のルールと自分の歩幅で、この世界を歩み続けていく。
職場体験という一週間の課題を終え、透野の「静かな学校生活」が、再び始まろうとしていた。