その目に映る未来は、ひとつではない 作:並行世界とかという概念最高
職場体験が明け、雄英高校には再び賑やかな日常が戻っていた。
だが、廊下を歩く生徒たちの雰囲気は、一週間前とは明らかに異なっていた。特にヒーロー科1年A組の生徒たちは、保須市での大事件やプロの現場を体感したことで、どこか顔つきが引き締まり、纏う空気に重みが増していた。
そんな喧騒の中、透野視希はいつものように静かに昇降口で靴を履き替えていた。
「おい、透野」
呼び止められて振り向くと、そこには相変わらず目元に濃いクマを浮かべた心操人使が立っていた。
だが、その首元や肩の周りには筋肉痛湿布の匂いが漂い、立ち姿の軸が以前よりもどこか引き締まって見える。
「おはよう、心操。……はい、約束の湿布」
「サンキュ、助かる」
心操は湿布の袋を受け取り、首を痛そうに回した。
「……随分ハードに鍛え直してるみたいだね」
「まあな。職場体験が終わってすぐ、相澤先生に直談判しに行ったんだ。『ヒーロー科に上がるための強さが欲しい』ってな」
「相澤先生に?」
「ああ。あの人は……呆れ顔しながらも『ついて来れるなら勝手にしろ』ってさ。昨日からキャプチャウェポン(操縛布)の扱いと、死ぬほど地獄の基礎体力を叩き込まれてる」
心操の言葉には疲労が滲んでいたが、その瞳には諦めや卑屈さは一切なかった。相澤消太という「個性の出力に頼らない戦い方」を知るプロの指導を受け始め、確固たる目標へ向かって歩み出している男の顔だった。
「すごいね。心操ならきっとやり遂げられるよ」
「当たり前だ。次こそは、絶対にお前らの背中に追いついてやる」
心操は口元を不敵に歪めると、肩をすくめて自分の教室へと歩いて行った。
透野はその背中を穏やかに見送り、自分も普通科の教室へと足を向けた。
*
昼休み。
購買で買ったシンプルな焼きそばパンと緑茶を手に、透野が食堂前のベンチで休憩していると、にぎやかな足音が近づいてきた。
「あ! 透野くん!」
声をかけてきたのは、緑谷出久だった。
その隣には、右腕に包帯を巻いた飯田天哉と、静かな佇まいの轟焦凍が並んでいる。三人とも保須市での激闘を越えてきた痛々しい傷痕を残しつつも、精神的に一段と逞しくなった雰囲気を漂わせていた。
「みんな、こんにちは。怪我、大丈夫?」
「ああ、うん! 随分良くなったよ。……あのさ、透野くん! 体育祭の時からちゃんと言えてなかったんだけど……僕、緑谷出久です! 改めてよろしくね!」
緑谷が深々と頭を下げると、飯田も眼鏡の位置を直しながら真面目に腰を折った。
「僕もだ! 1年A組学級委員長、飯田天哉だ! 体育祭では君の見事なベクトル誘導と観察眼に、完敗を喫した! あの経験は僕にとって大きな糧となったよ、感謝する!」
「轟焦凍だ。……あの時はすまなかったな」
轟も短く挨拶を交わす。
「透野視希です。みんな丁寧だね……そんなにかしこまらなくて大丈夫だよ」
透野が柔らかく微笑むと、緑谷が目を輝かせながら胸ポケットから分厚い「将来の為の分析ノート」を取り出した。
「あのね、透野くん! ずっと聞きたかったんだけど……透野くんの『個性』って、一体どういうメカニズムなの!? 上鳴くんの放電や飯田くんの超スピードを、一切の無駄がない動きで回避してベクトルを逸らしただろ!? あれってやっぱり『動体視力強化』とか『コンマ数秒先の行動予測』みたいな個性の応用なんだよね!?」
ノートとペンを握りしめ、早口で詰め寄ってくる緑谷。
透野は不思議そうにパチパチと瞬きをし、小さく首をかしげた。
「ううん、僕は無個性だよ」
「……え?」
緑谷のペンが、ピタリと止まった。
飯田も、轟も、まるで時間が凍りついたかのようにその場で固まった。
「む……無個性……!?」
緑谷の声が引きつり、ひっくり返る。
「こ、個性なし……!? 個性を使わずに……あの飯田くんのレシプロバーストや、上鳴くんの全方位放電を……素の身体能力と観察だけで捌いたっていうの!?」
「うん。僕の提出書類にも『無個性』って書いてあるよ。普通科の特待生枠だしね」
透野は緑茶のペットボトルを一口飲み、至極当然のように言葉を重ねた。
「相手の足の引きつけ方や目線、体の軸の傾きをしっかり観察して、理屈通りに体を滑らせれば誰でもできるよ。特別なことじゃないんだ」
「誰でもできるわけがないだろう!!!」
飯田が思わず大声で叫び、両手をロボットのように激しく振り回した。
「あの超スピードの直線運動を、完璧なタイミングで死角へかわし、尚かつ最小限の力で僕の運動エネルギーを殺さずに場外へ誘導したんだぞ!? それを……『誰でもできる』だと!?」
「……お前、本気でそう言ってるのか」
轟もまた、死んだように落ち着いた透野の瞳を凝視し、絶句していた。
ヒーロー科の彼らにとって、「個性」とは己のアイデンティティであり、戦いの前提条件だ。それを一切持たず、ただの人間としての「観察」と「理詰め」だけでヒーロー科のトップ層をなぎ倒したという事実。
緑谷はノートを握りしめたまま、震える声で呟いた。
「……個性がない……。それなのに、あそこまで合理的で……迷いがないなんて……」
緑谷自身、かつて無個性として苦しみ、オールマイトから力を受け継いだ過去がある。だからこそ、生まれ持った個性の力に一切頼らず、諦めも執着もなく、淡々と「理」だけで結果を出してみせた透野の存在は、理解を超えた衝撃だった。
当の透野は、彼らの混乱や衝撃をどこ吹く風で受け流し、お弁当の袋を丁寧にたたんだ。
「それじゃあ、僕はそろそろ教室に戻るね。期末テストの勉強もしなきゃいけないし」
「えっ……期末テスト……?」
「うん。特待生だから、学年トップクラスの成績を維持しないと奨学金が切れちゃうんだ。僕にとっては一番大事なイベントだからね」
「大事なイベント……」
ヒーロー科の生徒たちが「実践的な対人・対ヴィラン演習試験」に戦々恐々としている中で、透野の頭にあるのは「筆記試験で確実に100点を取って、生活費と学費を死守する」ことだけだった。
「それじゃ、お邪魔しました。怪我、お大事にね」
ペコリと頭を下げ、静かに去っていく透野の背中を、A組の三人はただ呆然と見送ることしかできなかった。
「……あいつ、やっぱり何なんだ……」
轟の呟きが、昼休みの廊下にぽつりと響いた。
*
その放課後。
職員室で教員用端末を操作していた相澤消太は、画面に表示された普通科1年の書類――透野視希の「職場体験評価(特A)」と、警察庁から極秘裏に届いた「保須市事件におけるデータ貢献記録」を見つめていた。
「……個性を一切使わずに、分析だけで警察の捜査本部を動かしてステインの居場所を特定したかと思えば……本人は期末テストの赤点回避と奨学金の心配か」
相澤は頭を掻きむしり、苦笑混じりに深く溜め息を吐いた。
「ヒーローになりたがらねえ奴が、一番現場のプロを助ける仕事をしてやがる。……まったく、変なガキだ」
その頃。
アパートへ戻った透野は、制服を丁寧にハンガーへかけ、静かに机へ向かっていた。
開かれたノートには、期末テストに向けた完璧な学習スケジュールと、今月の食費の計算。
そして、その横には小さなメモ書きがあった。
『体幹トレーニング:毎日15分(柔軟性の維持)』
『転相薬の予備:管理チェックOK』
ヒーロー社会がどう揺れ動こうと、周囲がどれほど驚愕しようと関係ない。
透野視希は今日という一日を、自分の足で、自分の意思で、粛々と生き抜いていくのだった。