その目に映る未来は、ひとつではない 作:並行世界とかという概念最高
夏休みが始まった。
ヒーロー科の生徒たちが「強化合宿」という名の下で地獄のような特訓に身を投じる中、透野視希の夏休みは、どこまでも現実的で穏やかな「生活」から始まった。
朝6時前に起床し、自室の換気を行う。
小さな机に向かい、家計簿ノートを開く。今月の食費、光熱費、そして転相薬の残数と購入計画を計算し、一円単位で支出を管理する。
(夏場はエアコンの電気代がかかるから、昼間はできるだけ図書館で勉強して過ごそう。買い出しは夕方のタイムセールを狙う)
制服を脱ぎ、動きやすい部屋着に着替えて台所に立つ。
見切り品の夏野菜と豆腐を使った作り置きの小鉢を手際よく仕上げていく。どこまでも徹底した「生活者」としての日常。
だが、そんな静かなアパートの部屋に、昼過ぎになるとドタバタとした足音が響いてくるのが日課になっていた。
「……死ぬ。マジで体が分解する……」
ドアを開けると、滝のような汗を流し、肩を落とした心操人使が突っ伏すように部屋に入ってきた。首元や手首には、相澤から与えられた操縛布の摩擦による痛々しい擦り傷がいくつも残っている。
「お邪魔……。相澤先生の特訓、今日のは本気で殺しに来てた……」
「お邪魔するなら『お邪魔します』って言いなよ、心操。はい、冷たい麦茶」
「……助かる」
心操は床に座り込み、麦茶を一気に飲み干した。
相澤の弟子となり、連日叩き込まれる操縛布と体術の特訓。心操の肉体は日に日に引き締まり、その目つきには確かな強さが宿り始めていたが、疲労の蓄積も限界に近かった。
「心操、操縛布を投げるとき、肩の力で引き戻そうとしてない?」
透野は自分の肩の力を抜き、ゆっくりと腕を滑らせて見せた。
「操縛布は打突武器じゃないんだから、相手に巻きついた瞬間の支点は『肩』じゃなくて『腰の重心移動』に置くべきだよ。その方が作用反作用のベクトルを殺さずに、最小限の力で引き寄せられる」
「……お前、本当にそれだけで相澤先生の動きを理解してんのかよ」
心操は呆れたように眉をひそめたが、すぐに透野のアドバイス通りに腕の角度を試した。
「……あ。肩の負担が全然違う。……お前、相澤先生より教えるの上手いんじゃないか?」
「理屈を言っただけだよ。はい、お昼ご飯。夏野菜のカレーだよ」
透野が差し出した皿には、安上がりだが栄養バランスの考え抜かれたカレーが盛られていた。
「美味い……マジで五臓六腑に染みる……」
無我夢中でカレーを頬張りながら、心操がふと思い出したように言った。
「そういえば、A組の奴ら、今日から山奥で林間合宿らしいな」
「そうみたいだね。大変そうだ」
「お前、本当に興味なさそうだな……。だが、俺は来年絶対にあいつらと同じ場所に立つ。相澤先生の特訓を耐え抜いて、絶対にヒーロー科へ転科してみせる」
確固たる決意を語る心操に対し、透野は穏やかに微笑んだ。
「うん。心操なら絶対に行けるよ。応援してる」
「……お前も、たまには自分のために欲を出せよな」
心操は照れくさそうに吐き捨て、皿をきれいに平らげた。
*
心操が帰り、夕闇が部屋を包み込む頃。
透野は買い出しを終え、アパートの部屋で静かにペンを走らせていた。
窓の外からは夏虫の声が響き、平和で穏やかな時間が流れていた。
(これで今日の課題は終わり。明日の食費は……)
そう思い、ノートを閉じようとしたその時だった。
スマートフォンの画面が激しく光り、緊急ニュースの電子音が部屋に鳴り響いた。
『緊急速報です。山梨県内の林間合宿地にて、雄英高校ヒーロー科の生徒らがヴィラン連合とみられる集団に襲撃されました――』
透野の指先が、ピタリと止まる。
画面に流れる断片的な情報。大規模な火災、毒ガス、複数の怪我人、そして――生徒一人の拉致。
(……また、動き出した)
透野の瞳が、死んだように冷たく沈んでいく。
USJ事件、保須市でのステイン事件、そして今回の林間合宿襲撃。
狙いは一貫している。ヒーロー社会の象徴たるオールマイト、そして雄英高校の「信用」を根本から失墜させること。
(やっぱり、この社会の『平和』は脆すぎる。プロヒーローも、学校も、頼りにはならない)
自活の正しさを再確認し、スマートフォンを机の上に置こうとした――まさにその瞬間。
ピキッ、と空間が軋む音がした。
「……!?」
透野の『観測(万象の眼)』が、部屋の「空気の密度と空間の歪み」の異常な変化を察知した。
畳の真ん中。何の前触れもなく、漆黒の泥のような煙――ワープホールが静かに広がっていく。
(黒霧……!? なぜここに――)
透野はコンマ数秒で後方へ躍進し、部屋の隅へ身を引いた。相手の狙い、間合い、逃走経路を脳内で一瞬で弾き出す。
だが、ワープホールの奥から響いたのは、死柄木弔の声でも、黒霧の声でもなかった。
重々しく、腹の底に響くような、絶対的な支配者の声。
『――見事な反応速度だね、透野視希くん』
その声が耳に届いた瞬間、透野の全身の皮膚が粟立った。
過去に一度も聞いたことがない声。けれど、直感的に理解した。この声の主こそが、ヒーロー社会の裏側に君臨する「絶対の悪」であると。
『佐々木未来が見出そうとし、そして警察の捜査網をあそこまで完璧に導いた不気味な分析官……。個性を一つも持たぬ少年が、どのような思考回路で世界を観測しているのか、実に興味深い』
(僕の情報が……どこから!?)
逃げようと足に力を込めた瞬間、ワープホールから伸びてきたのは、黒い泥だけではなかった。
空間そのものを歪めるような、目に見えない巨大な「圧」と、絶対的な力。
個性の威力ではない。長年積み重ねられた「悪意」の質量そのものが、狭いアパートの部屋を押し潰すように透野を拘束した。
「く……っ!」
身体の軸をずらし、ベクトルを逃がそうとする透野。だが、相手の力は物理的な運動エネルギーの域を超えていた。
『君のその無駄のない合理性、そして社会への冷ややかな視線……実に素晴らしい。死柄木たちには秘密でね。君という『観測者』を、私の手元に招きたかったのだよ』
空間が急速に収縮していく。
黒い泥が透野の視界を覆い、身体が引きずり込まれていく。
(しまっ――)
手の中にあった家計簿ノートが床に落ち、パラパラと虚しくページがめくられる。
自分の日常。自分で作り上げた平穏な生活。
それが、ヒーロー社会の巨大な渦と、裏社会の怪物の理不尽な手によって、呆気なく踏みにじられていく。
黒い闇に呑み込まれる直前、透野視希の冷徹な瞳は、落ちたノートと暗い天井を静かに見つめていた。
(……絶対に、自分の足で帰ってくる)
意識が深い闇へと沈んでいく中、透野はパニックに陥ることもなく、冷酷なまでの計算を開始していた。
こうして、東京の小さな安アパートから、一人の普通科特待生が姿を消した。
ヒーロー社会を揺るがす「神野区の悪夢」の引き金が、静かに引かれようとしていた。