その目に映る未来は、ひとつではない 作:並行世界とかという概念最高
佐々木未来が帰ってから、3日が経った。
それきり、彼が施設を訪れることはなかった。
少年にとっては、特に不思議なことでもない。
大人には大人の事情がある。昨日まで熱心に何かを求めていた人間が、次の日には別のことに追われている。そういうことは珍しくない。
だから、少年は彼のことを考える時間を減らした。
朝は起きる。
食事をする。
本を読む。
身体を動かす。
眠る。
いつも通りの生活だった。
ただ、机の隅に置いたノートには、ひとつだけ新しい記述が増えていた。
――未来を予知する個性を持つヒーロー。サー・ナイトアイ。
その下には、何も書かれていない。
書く必要がなかったからだ。
彼が何を見て、何を恐れ、何を求めているのか。
それは、まだわからない。
わからないことを、わかったように書くつもりはなかった。
*
その日の午後、施設の職員が慌ただしく廊下を歩いていた。
「ちょっと、テレビの音を小さくして!」
「何かあったんですか?」
少年が尋ねると、職員は足を止めた。
「近くの商店街で事件があったみたいなの。個性を使った犯罪だって」
「けが人は?」
「まだ詳しいことはわからないわ。でも、警察とヒーローが来ているそうよ」
「そうですか」
少年は、食堂の隅に置かれたテレビを見た。
画面には、規制線の向こう側が映っていた。
商店街の一角。倒れた看板。散乱した商品。現場に集まる警察官と、周囲の人々を誘導するヒーロー。
ニュースキャスターは、事件の詳細を確認している最中だと説明していた。
少年は、画面を見つめた。
犯人がどんな個性を持っているのかはわからない。
何が原因で事件が起きたのかも、まだわからない。
それでも、画面の端に映ったものが気になった。
商店街の路地。
規制線から少し離れた場所に、ひとりの男が立っていた。
ヒーローでも、警察官でもない。
周囲の人間が現場から距離を取る中、その男だけは、現場を観察するように動かなかった。
カメラが切り替わり、男の姿は画面から消えた。
「……あれ?」
少年は呟いた。
「どうしたの?」
「いえ。何でもありません」
それ以上、説明する気にはならなかった。
見間違いかもしれない。
ただの通行人かもしれない。
それでも、何かが引っかかっていた。
少年はテレビから目を離し、自室へ戻った。
*
――昔も、こんなことがあった。
それは、今よりもずっと幼い頃の記憶だった。
施設の近くにある小さな通りで、騒ぎが起きたことがある。
当時の少年は、買い物に出ていた職員と一緒に歩いていた。
突然、大きな音がした。
人々が振り返り、誰かが悲鳴を上げた。
通りの向こうで、男が店の壁を壊していた。
個性を使った犯罪だった。
周囲の人間は逃げ、店の主人は倒れた棚の陰に身を隠していた。
少年は、職員に腕を引かれた。
「こっちへ!」
当然の判断だった。
危険な場所から離れる。子供を守る。大人として正しい行動だ。
けれど、少年は一瞬だけ、男の足元を見た。
壊れた商品。
散乱したガラス片。
店の前に置かれた、倒れかけの看板。
男は、何かを探しているように見えた。
ただ暴れているだけではない。
少なくとも、少年にはそう見えた。
「……あっちじゃないと思う」
職員が足を止めた。
「え?」
「探しているもの。あっちにはないと思う」
「今はそんなことを言っている場合じゃないでしょう!」
職員は少年を引っ張った。
少年は抵抗しなかった。
危険な場所に近づきたいわけではない。自分が何かをする必要があるとも思っていなかった。
ただ、そう見えた。
それだけだった。
数分後、現場にヒーローが到着した。
男は取り押さえられ、事件はひとまず収束した。
後から聞いた話では、男は店の奥に隠された何かを探していたらしい。
少年が言ったことは、間違ってはいなかった。
しかし、誰もそのことを特別な出来事として扱わなかった。
子供の勘が当たった。
その程度の話だった。
少年自身も、そう思っていた。
――少なくとも、周囲にはそう見えるようにしていた。
*
翌日、少年は施設の図書棚から、以前読んだ本を取り出した。
読み返すつもりだった。
だが、ページを開いても、文字が頭に入ってこない。
昨日のテレビに映った男の姿が、何度も思い浮かんだ。
見覚えがある。
けれど、どこで見たのかは思い出せない。
少年は本を閉じた。
そのとき、頭の奥に声が届いた。
『気になるのか?』
少年は、周囲を見回さなかった。
声が聞こえたところで、誰かが近くにいるわけではない。
「少しだけ」
『調べるつもり?』
「まだ決めてない」
『なら、急ぐ必要はない』
少年は、しばらく黙っていた。
それから、心の中で尋ねた。
「もし、あれが本当に関係者だったら?」
『何の?』
「昔の事件と、昨日の事件」
返答はすぐには来なかった。
やがて、別の声が割り込む。
『関係があるかどうかと、君が関わるべきかどうかは別だろ』
「……そうだね」
少年は本を棚に戻した。
確かに、その通りだった。
何かを知っていることと、それを解決する義務があることは別だ。
自分が気づいたからといって、すべてに首を突っ込む必要はない。
ましてや、相手が何者なのかもわからない。
少年は窓の外を見た。
遠くの空には、薄い雲が広がっていた。
「もう少し、様子を見るよ」
そう答えると、声は静かになった。
*
その頃。
別の場所では、昨日の事件について、短い報告書がまとめられていた。
事件そのものに、特別な価値はない。
犯人は確保された。被害も限定的で、警察の捜査も進んでいる。
ただ、現場にいた人間のひとりが、奇妙な証言を残していた。
――事件が起きる前から、こちらの動きを読んでいるような子供がいた。
証言した人物は、その子供が何をしたのかを正確には説明できなかった。
危険を察知していたのか。
単に観察力が優れていたのか。
それとも、何か別の理由があったのか。
記録には、判断できないと書かれていた。
報告書は、ほかの資料と一緒に保管された。
その時点では、誰も重要視していなかった。
誰も、その子供が将来どこへ進むのかを知らなかった。
そして、誰も知らなかった。
この短い記録が、何年も経った後、別の人間の目に留まることになるとは。
*
少年は、その日の夜もいつも通り眠った。
明日も、同じような一日が続くはずだった。
起きて、食事をして、本を読み、身体を動かす。
何かが起きれば、そのとき考えればいい。
未来を知ろうとする必要はない。
少なくとも、今は。
少年は目を閉じた。
暗闇の向こうに、よく似た声がいくつも浮かんでは消えた。
誰かが笑っている。
誰かが何かを考えている。
誰かが、こちらに話しかけようとしている。
少年は、それらをひとつずつ聞き流した。
明日になれば、また新しいことが起きる。
そのとき、自分がどうするかは、自分で決めればいい。
そう思いながら、少年は眠りに落ちた。