その目に映る未来は、ひとつではない 作:並行世界とかという概念最高
放課後のチャイムが鳴ると、教室の空気が少しだけ緩んだ。
机の上に広げられていた教科書が閉じられ、椅子を引く音があちこちで重なる。部活動の話をする者、帰り道の予定を相談する者、さっそく次の授業の予習を始める者。
雄英高校の普通科。その教室にも、ごくありふれた放課後があった。
「お前、部活とか入らないのか?」
帰り支度をしていた僕に、心操が尋ねた。
「今のところは考えてない」
「そうか」
「心操は?」
「俺も入るつもりはないな。そんな余裕があるなら、別のことに使いたい」
「別のこと?」
「……気にするな」
言いたくないことを無理に聞き出すつもりはなかったので、僕は頷いた。
心操が何を目指しているのか、詳しくは知らない。
ただ、彼の言葉には時折、何かを諦めきれない人間特有の硬さが混じる。
それが何なのか、今の僕には分からなかった。
「じゃあ、また明日」
「ああ。またな」
教室を出る直前、心操が片手を上げた。
僕も同じように手を上げて、廊下へ出る。
入学してから、まだそれほど時間は経っていない。
友達と呼べるほど親しいわけでもない。それでも、明日も顔を合わせる相手がいるというのは、思っていたより悪くないものだった。
――そんなことを考えながら、僕は校門を出た。
帰る場所は、学校から少し離れた住宅街にある。
駅からも近くはない。築年数の古い、二階建てのアパートだ。外壁の塗装はところどころ剥がれ、共用廊下の床には、何度掃除しても取れない染みが残っている。
家賃が安い。
それだけで、選ぶ理由としては十分だった。
*
玄関の鍵を開ける。
六畳一間。小さなキッチンと、狭い浴室。窓際に置かれた机の上には教科書とノートが積まれ、壁際には最低限の衣類を収めた収納ケースが並んでいる。
家具は必要なものしかない。
必要のないものを置くほど、部屋は広くないし、財布にも余裕がない。
「……ただいま」
返事はない。
当然だ。
それでも、帰宅したときに口にする言葉として、僕はこれを選んでいる。
靴を脱ぎ、鞄を机の横へ置いた。
まずは手洗い。それから制服をハンガーに掛け、部屋着に着替える。
次に、冷蔵庫を開けた。
卵が三つ。豆腐が一丁。半分ほど残ったキャベツ。昨日炊いた米は、一食分ずつ小分けにして冷凍してある。
今日の夕食には困らない。
明日の朝食も、たぶん大丈夫だ。
問題は、その先だった。
僕は机の引き出しから小さなノートを取り出した。
表紙には何も書いていない。中身も、他人が見れば面白くもなんともないものばかりだ。
家賃。光熱費。食費。通信費。学校で必要になる教材費。
収入と支出を記録し、残りを計算する。
特待生制度のおかげで、学費の負担は軽くなっている。これは大きい。もし通常の学費を全額払わなければならなかったら、そもそも今の生活は成り立っていなかっただろう。
けれど、授業料が軽くなっても、生活費が消えるわけではない。
電気を使えば料金が発生する。水を使っても同じだ。食事は毎日必要だし、住む場所には家賃がかかる。
生きるというのは、案外、細かい請求の積み重ねでできている。
ノートの数字を見つめる。
今月は、まだ余裕がある。
ただし、それは予想外の出費がなければ、という条件付きだった。
「……予備費、もう少し増やしたいな」
独り言が部屋に落ちる。
急な体調不良。壊れた家電。学校で必要になった教材。そういうものは、こちらの都合を待ってくれない。
だから、少しずつでも貯めておく必要がある。
問題は、そのための余剰をどこから作るかだ。
食費を削りすぎれば体調を崩す。睡眠を削れば授業に響く。勉強時間を減らせば、特待生としての成績を維持できなくなる可能性がある。
どれも、安易には手放せない。
僕はノートを閉じた。
無理をして倒れたら、結局は余計にお金がかかる。
それくらいのことは理解している。
理解していることと、余裕があることは別だった。
*
夕食は、豆腐とキャベツを使った炒め物にした。
冷凍しておいた米を温め、卵を一つ使う。味付けは家にある調味料で済ませた。
食卓と呼ぶには小さすぎる折り畳みテーブルに料理を並べる。
食べる。
味は悪くない。
誰かと食べれば、もう少し違う感想が出てくるのかもしれないが、今は一人だ。食事に必要なのは、栄養と満足感、それから翌日の分まで食材が残ること。
少なくとも、今日の条件は満たしていた。
食べ終えた食器を洗い、明日の朝食に使うものを冷蔵庫の手前へ移す。
それから、ようやく一息ついた。
窓の外では、どこかの家からテレビの音が聞こえていた。
ニュース番組らしい。
話題は、最近のヒーロー活動についてだった。画面が見えないので詳細は分からないが、アナウンサーの声に続いて、誰かの活躍を称えるような音楽が流れている。
ヒーロー。
この国では、誰もが知っている職業だ。
強い個性を持ち、訓練を受け、人々を守るために活動する。社会にとって重要な役割であり、憧れる人間も多い。
それは別に、否定するようなことではないと思う。
ただ、僕は彼らのようになりたいとは思わなかった。
誰かを助けることが嫌なのではない。
自分の人生を、誰かの期待に合わせて組み替えることに興味がないのだ。
僕は雄英に入学した。
それは、自分で選んだからだ。
普通科を選んだのも、特待生を目指したのも、卒業後の選択肢を増やしたかったからだ。
そこに、ヒーローになるという目標は含まれていない。
今のところは。
テレビの音が変わった。
僕はリモコンを手に取り、電源を切った。
静かになった部屋で、机の上のノートに目を向ける。
明日の予定を確認する。授業の予習。洗濯。食材の買い足し。
それから、身体を動かす時間。
僕は机の脇に置いた鞄から、使い込まれたノートを取り出した。
こちらには、生活費の記録とは違うことが書かれている。
身体の動かし方。重心の移動。相手の視線。踏み込みの癖。
図書室で借りた本から書き写した内容もあれば、実際に試して気づいたこともある。
強くなるため、というよりは、簡単に動けなくならないための訓練だ。
僕の身体は、特別なものではない。
どれほど知識があっても、身体が追いつかなければ意味がない。相手の動きを読めても、避けるための一歩が遅ければ、それで終わる。
だから、できる範囲で積み重ねる。
勉強も、生活も、身体も。
特別なことは何もない。
ただ、続ける必要があるだけだ。
*
夜。
机に向かっていた僕は、ふと手を止めた。
窓ガラスに、自分の顔が映っている。
相変わらず、表情の変化は乏しい。
嬉しいときも、困ったときも、他人からは分かりにくいらしい。昔からそうだった。直そうと思ったこともあるが、意識して顔を動かすのは、思った以上に疲れる。
必要なときには、必要な反応をする。
それで十分だと思っている。
――本当に?
不意に、そんな問いが頭の奥に浮かんだ。
僕は瞬きをした。
誰かの声が聞こえたわけではない。
ただ、ふとした瞬間に、考えが自分のものではないように感じることがある。
珍しいことではなかった。
少なくとも、僕にとっては。
「……今はいいよ」
小さく呟いて、ノートへ視線を戻す。
答えを出す必要はない。
明日も学校がある。
朝は早い。寝坊すれば、電車を一本逃す。そうなれば予定がずれる。予定がずれれば、面倒なことが増える。
目の前にある問題から片づけていけばいい。
僕はノートを閉じ、明日の準備を済ませた。
制服を掛けたハンガー。机の上に置いた教科書。冷蔵庫に用意した朝食。
それらを一通り確認してから、部屋の明かりを消す。
暗闇の中で、窓の外の街灯だけが薄く床を照らしていた。
雄英高校の普通科特待生。
孤児院を出たばかりの高校生。
そして、誰にも話していない秘密を持つ人間。
今の僕を説明する言葉はいくつかある。
けれど、どれも僕のすべてではない。
それでいい。
明日も、自分で選んで、自分で決める。
誰かに決めてもらうのではなく。
そうして僕は、静かに目を閉じた。