その目に映る未来は、ひとつではない 作:並行世界とかという概念最高
雄英高校に入学してから、少しずつ生活の形ができてきた。
朝、目を覚ます。身支度を整え、簡単な朝食を取る。忘れ物がないか確認してから家を出て、授業を受ける。放課後は寄り道をせずに帰宅し、夕食を作り、翌日の準備をする。
特別なことはない。
ただ、それを毎日繰り返すだけでも、思っていたより時間がかかった。
「……眠い」
午前の授業が終わった頃、僕は小さく呟いた。
昨夜、予習に少し時間をかけすぎた。睡眠時間を削ったわけではないが、起きてからの身体が重い。
昼休みまで、あと少し。
机に突っ伏すほどではない。けれど、今から難しいことを考えるのは避けたかった。
「お前、朝からずっとそんな顔してるな」
隣の席から声がした。
心操だった。
「どんな顔?」
「いつもと同じ顔」
「なら、問題ないんじゃない?」
「……そういう意味で言ったんじゃないんだが」
心操は呆れたように息を吐いた。
最近、彼とはこういうやり取りが増えた。
授業の合間に短い会話をする。昼食を取るとき、空いている席があれば近くに座る。帰る方向が違うので、放課後まで一緒にいることは少ない。
友人と呼ぶには、まだ少し早い。
けれど、わざわざ言葉を選ばなくても会話が成立する相手というのは、そう多くない。
「昨日、寝るの遅かったのか?」
「いつもと同じくらい。少し予習に時間がかかっただけ」
「真面目だな」
「特待生だからね。成績を落とすわけにはいかないし」
そう答えると、心操は一瞬だけ僕を見た。
「……特待生って、やっぱり大変なのか?」
「制度によると思う。僕の場合は、成績を維持する必要がある。それだけ」
「それだけ、ね」
心操は何か言いかけたようだったが、結局、口を閉じた。
僕も、それ以上は話さなかった。
自分の生活について、隠すつもりはない。
ただ、聞かれていないことまで説明する必要もないと思っている。
それは、相手を信用していないからというより、単純に、話すべきことと話さなくていいことを分けているだけだった。
*
変化があったのは、数日後の朝だった。
教室に入ると、いつもより騒がしい。
何人かがスマートフォンを見せ合い、別の生徒たちは机を囲んで何かを話していた。
「今年もやるんだって!」
「そりゃ雄英だしな。むしろ、やらなかったら驚くわ」
「テレビ中継もあるんだろ? すげえよな」
聞こえてきた言葉をつなぎ合わせる。
どうやら、学校行事の話らしい。
僕が席に着くと、心操が鞄を机に置いた。
「聞いたか?」
「何を?」
「体育祭」
「ああ」
その単語には聞き覚えがあった。
雄英高校の体育祭。
ヒーロー科の生徒にとっては、自分の実力を示す大きな機会だという。プロヒーローや関係者が観戦し、将来の進路にも影響する。
一般的な学校の体育祭とは、少し事情が違うらしい。
「普通科も参加するんだよな?」
「そうみたいだね」
「お前、興味あるか?」
「体育祭に?」
「他に何があるんだよ」
僕は少し考えた。
「競技そのものには興味があるよ」
「競技そのもの?」
「走ったり、障害物を越えたり、チームで何かをしたりするんでしょう? 普段の授業とは違うことができるなら、面白そうだと思う」
心操は黙った。
何か変なことを言っただろうか。
「……お前、体育祭の意味、分かってるか?」
「学校行事でしょう?」
「いや、そうだけど」
心操は額に手を当てた。
「雄英の体育祭は、ただの学校行事じゃない。特にヒーロー科にとっては、プロに自分を売り込む機会でもあるんだ」
「そうなんだ」
「普通科だって、活躍すればヒーロー科に編入できる可能性がある」
「なるほど」
「……本当に分かってるか?」
「説明された内容は理解したよ」
「そうじゃなくてだな……」
心操は言葉を探すように視線を泳がせた。
僕には、彼が何を伝えたいのか、まだよく分からなかった。
体育祭が進路に影響する。
それ自体は理解できる。
けれど、競技に参加することと、将来の職業を決めることは、必ずしも同じではないはずだ。
走るのが好きだからといって、全員が陸上選手を目指すわけではない。
料理が楽しいからといって、全員が料理人になるわけでもない。
それと何が違うのだろう。
「心操は、ヒーロー科に編入したいんだよね?」
「……ああ」
「なら、いい機会だね」
僕がそう言うと、心操は少しだけ目を見開いた。
「お前は?」
「何が?」
「お前は、どうしたいんだ?」
「どうって……」
体育祭に参加する。
できる範囲で競技を楽しむ。
それだけだ。
「普通に参加するよ」
「それだけか?」
「うん」
心操は、しばらく僕を見ていた。
やがて、諦めたように肩を落とす。
「……お前って、本当に変わってるな」
「よく言われる」
「自覚はあるんだな」
「一応」
そこで会話は途切れた。
ちょうど担任が教室に入ってきたからだ。
クラスメイトたちが席に戻り、ざわめきが収まっていく。
やがて、体育祭の開催について正式な説明が始まった。
日程、参加種目、当日の流れ。
説明を聞きながら、僕は必要な情報をノートに書き留めた。
競技の内容は、まだすべて明らかになっていない。
それでも、少し楽しみになっていた。
普段の生活では試せないことがある。
それなら、参加する意味は十分にある。
ただ、それだけだった。
*
体育祭の話題は、その日から校内のあちこちで聞かれるようになった。
ヒーロー科の生徒たちは、訓練の合間にも競技の話をしているらしい。普通科の生徒たちも、参加する種目や当日の立ち回りについて話し合っていた。
僕はといえば、授業の内容を確認し、必要な勉強を進めながら、体育祭について調べていた。
過去の大会映像が公開されている。
競技の進行や参加人数、障害物の配置。分かる範囲で情報を集めていく。
もちろん、今年も同じ内容になるとは限らない。
それでも、どのような状況が起こり得るのかを知っておくことは無駄ではない。
僕はノートに、いくつかの項目を書き出した。
視野の確保。
周囲の観察。
無理な競り合いを避ける。
体力の配分。
特別な技術ではない。
ただ、慌ててから考えるより、先に考えておいたほうがいいことだ。
「……何してるんだ?」
昼休み、向かい側に座った心操がノートを覗き込んだ。
「体育祭の準備」
「それ、準備っていうのか?」
「少なくとも、何も考えずに参加するよりはいいと思う」
心操はノートの中身を眺めた。
「体力の配分に、周囲の観察……。ずいぶん実用的だな」
「競技だからね」
「普通、もっと勝つために何をするとか考えないか?」
「勝てるなら勝ちたいよ」
「なら、もっとこう……」
「でも、勝つことだけを考えて失敗したら意味がないでしょう?」
心操が黙った。
僕はノートを閉じた。
「勝つことは目標の1つにはなる。でも、それが全部じゃないと思う」
「……お前らしい考え方だな」
「そう?」
「ああ」
心操は少しだけ笑った。
彼が笑うところを見たのは、これが初めてかもしれない。
「まあ、いいんじゃないか。お前はお前のやり方でやれば」
「心操もね」
「俺は勝つつもりだけどな」
「うん。応援してる」
「……そういうところだぞ」
また、よく分からないことを言われた。
けれど、心操の声は、さっきより少しだけ軽かった。
*
その日の帰り道、僕は駅前の店に立ち寄った。
買うものは、食材と洗剤。
必要なものだけを籠に入れ、値札を確認する。特売になっていた野菜を選び、予定していたものを別の商品に変更した。
帰宅してから、購入した食材を冷蔵庫へしまう。
その後、夕食を作り、明日の授業の予習を済ませた。
生活は、いつもどおり続いていく。
体育祭があっても、家賃の支払い日は変わらない。
授業の課題がなくなるわけでもない。
明日も朝起きて、学校へ行く。
僕は机の上のノートを開いた。
体育祭について書き出した項目を確認し、最後に1行だけ付け足す。
――楽しむこと。
勝つことも、目立つことも、誰かに認められることも、必要なら考えればいい。
けれど、最初からそれらを目的にする必要はない。
せっかく参加するのだから、普段できないことをしてみたい。
知らない競技に挑戦してみたい。
どこまで自分にできるのか、確かめてみたい。
それだけの話だ。
僕はノートを閉じ、鞄の中へしまった。
窓の外には、夜の街が広がっている。
どこか遠くで、救急車のサイレンが聞こえた。
ヒーローが活動しているのかもしれない。
あるいは、ただの急病人かもしれない。
どちらにしても、今の僕にできることはない。
明日の準備を終えて、眠る。
そして、また学校へ行く。
体育祭は、もうすぐだ。
僕はまだ知らない。
自分が何気なく参加しようとしているその行事が、周囲の人間にとって、どれほど大きな意味を持つのかを。
そして、ただ楽しむつもりで踏み出した一歩が、思いがけない誤解を生むことになるのも。
今はまだ、知る必要のないことだった。