大洗女子学園に転入してきた雪村伊里奈は、自分が思っていたよりもずっと、普通の生活というものに向いていないのかもしれないと思っていた。
朝起きて、学校へ行く。
授業を受けて、昼休みには適当に食事を済ませる。
放課後になれば、帰って休む。
それだけでいいはずだった。
特別なことはしなくていい。誰かに目立つ必要もないし、何か大きな目標を掲げる必要もない。
せっかく新しい学校に来たのだから、今度こそ穏やかに過ごそう。
そう決めていた。
「……なのに、どうしてこうなるんだろう」
伊里奈は、目の前の建物を見上げながら呟いた。
古びた木造の倉庫だった。
壁の塗装はところどころ剥がれ、屋根には補修の跡がある。入口の脇には農具や木箱が積まれており、建物全体から長年使われてきた雰囲気が漂っていた。
農業科の敷地の一角。
周囲には畑が広がり、遠くでは農業機械のエンジン音が聞こえている。
ここまでは、何もおかしくない。
問題は、倉庫の奥にあるものだった。
「……戦車、だよね」
伊里奈は、もう一度確認するように言った。
もちろん、見間違いではない。
車体。砲塔。履帯。
多少の知識があれば、それが戦車だと分かる。
しかも、ただの戦車ではなかった。
T-34。
第二次世界大戦期のソ連戦車として知られる、あのT-34である。
車体の形状から判断する限り、後期型ではない。初期の型式に属する車両だろう。
塗装はほとんど失われ、車体には錆が浮いている。履帯は一部が外れかけ、砲塔にも損傷が見られた。
それでも、車両の輪郭ははっきりと残っている。
伊里奈は倉庫の入口に立ったまま、しばらく動けなかった。
普通の学校生活を送ろう。
そう思っていた。
なのに、転入して間もないうちに、こんなものを見つけてしまった。
どうして、よりによって戦車なのだろう。
「……いや、まあ」
伊里奈は小さく息を吐いた。
「見つけちゃったものは、仕方ないか」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、自分の中で何かを諦めるための言葉だった。
彼女は倉庫の中へ足を踏み入れた。
*
最初に確認したのは、車体の外観だった。
不用意に触れたり、無理に動かしたりはしない。
まずは、見える範囲で状態を確かめる。
車体前面。
側面装甲。
履帯と転輪。
砲塔の外側。
長い間放置されていたことによる劣化は明らかだったが、それだけでは説明できない損傷もあった。
車体側面には、過去に強い衝撃を受けたような痕跡がある。
足回りにも歪みが見られ、履帯の状態もよくない。
砲塔には傷があり、細かな部分まで確認しなければ、どこまで修復が必要なのか判断できなさそうだった。
「……昔、試合で壊れたのかな」
伊里奈は、ふと思いついたことを口にした。
この世界で戦車道が行われている以上、学校に戦車が残されていること自体は不思議ではない。
大洗女子学園にも、以前は戦車道を行う生徒たちがいたのだろう。
その車両の一つが、何らかの理由で使われなくなり、ここに置かれている。
そう考えるのが自然だった。
しかし、詳しい事情は分からない。
少なくとも、伊里奈が知る限り、今の大洗女子学園で戦車道が盛んに行われている様子はなかった。
彼女は車体の周囲を一周し、確認できたことを手帳に書き込んだ。
車体の状態。
目立つ損傷。
外から見える部品の欠落。
そして、修復に向けて確認が必要な箇所。
書き終える頃には、思っていたよりも時間が経っていた。
「……あ」
そこで、伊里奈はようやく気づいた。
自分が、すっかり夢中になっていたことに。
戦車を見つけてから、どれくらい時間が経ったのだろう。
転入初日から、こんなところで何をしているのか。
普通なら、校内の案内を確認したり、明日の授業の準備をしたりするべきではないだろうか。
「……駄目だなあ」
苦笑する。
とはいえ、今さら後悔しても仕方がない。
伊里奈はもう一度、戦車を見た。
直せるだろうか。
正直なところ、現時点では何とも言えない。
見た目だけで判断するなら、かなりの手間がかかるだろう。長期間放置されていた以上、外から見えない部分にも問題がある可能性は高い。
部品の確保も問題になる。
そもそも、学校の所有物だろうから、勝手に修理を始めるわけにもいかない。
考えなければならないことは多かった。
それでも。
「……直せたら、いいな」
その言葉だけは、自然に出てきた。
伊里奈は自分の手を見た。
戦車のことを忘れようと思っていたわけではない。
ただ、しばらくは距離を置こうと思っていただけだ。
新しい環境で、新しい生活を始める。
それだけで十分だと考えていた。
しかし、目の前に戦車がある。
しかも、もう長い間、誰にも動かされていないらしい。
そうなると、どうにも気になってしまう。
直せるのに放置するのは、もったいない。
それに。
もう一度、この戦車が動くところを見てみたい。
その気持ちを、否定することはできなかった。
「……とりあえず、話を通さないと」
伊里奈は手帳を閉じた。
修復するかどうかは、それから考えればいい。
まずは、この戦車について知ること。
そして、ここを管理している生徒たちに相談すること。
やるべきことは決まった。
そうして倉庫を出ようとした、そのときだった。
「ねえ」
背後から、声がした。
「そこで何してるの?」
伊里奈は振り返った。
倉庫の入口に、一人の少女が立っていた。
短めの茶色い髪。作業着の袖をまくり、片手には工具箱を持っている。
年齢は伊里奈と同じくらいだろう。
少女は伊里奈を見て、それから倉庫の奥にある戦車へ視線を移した。
「……あれ?」
少女は首を傾げた。
「その奥、入ってたんだ」
「ええ。ちょっと気になって」
「そっか」
少女は、特に警戒する様子もなく倉庫の中へ入ってきた。
「私、朝倉こはる。農業科の二年生」
「雪村伊里奈です。私も二年生で、最近転入してきました」
「あ、転入生なんだ。よろしくね、雪村さん」
「よろしくお願いします」
こはるは気軽に笑った。
それから、戦車を見上げた。
「でも、これって何なんだろうね?」
「T-34です」
「……てぃー、さんじゅうよん?」
「戦車の名前です」
「へえ。雪村さん、詳しいんだね」
「……少しだけ」
伊里奈は、わずかに言葉を濁した。
詳しい。
そう言われると、少し困る。
確かに、戦車についてはある程度の知識がある。車両の特徴も分かるし、基本的な機構についても理解している。
ただ、どこまで話していいのか、自分でも判断できなかった。
こはるは、そんな伊里奈の様子を気にすることなく、戦車の周囲を歩き始めた。
「こんなのが倉庫にあるなんて、知らなかったなあ。いつから置いてあるんだろう?」
「……私も、それが気になっています」
「じゃあ、調べてみようよ」
「え?」
「だって、気になるじゃん」
こはるは、当たり前のことのように言った。
「農業科の倉庫に戦車があるんだよ? しかも、こんなに古いの。何か理由があるはずでしょ」
「それは、そうですけど……」
「よし。まずは、ここを管理してる人たちに聞いてみよう!」
こはるは、すっかりその気になっていた。
伊里奈は、思わず苦笑した。
ずいぶん行動力のある人だ。
けれど、悪い気はしなかった。
「……そうですね。私も、詳しく知りたいです」
「決まり!」
こはるは満足そうに頷いた。
その日、伊里奈は初めて、大洗女子学園で話のできる相手を見つけた。
そして、予定していた普通の学校生活は、早くも少しずつ形を変え始めていた。
*
翌日。
農業科の倉庫には、三人の少女が集まっていた。
「……これが、その戦車?」
黒髪を低い位置で結んだ少女が、車体を見上げた。
水野千紗。
こはると同じ二年生で、農業科の作業にもよく参加している。
「そうそう。昨日、雪村さんが見つけたんだよ」
こはるが説明する。
「雪村さん、こっちが千紗。で、こっちがすみれ」
「黒田すみれよ。三年生」
もう一人の少女が、軽く会釈した。
長い暗い赤茶色の髪に、落ち着いた表情。手にはノートを持っている。
「雪村伊里奈です。よろしくお願いします」
「よろしく」
すみれは短く答え、それから戦車へ視線を戻した。
「それで、これをどうするつもり?」
「……まずは、状態を確認したいと思っています」
伊里奈は、昨日書いた手帳を開いた。
「長期間放置されているので、どこまで傷んでいるのか、現時点では分かりません。ただ、外から見た限りでは、修復できる可能性はあると思います」
「修復って……動くようにするってこと?」
千紗が尋ねた。
「はい。もちろん、実際に動かせるかどうかは、調べてみないと分かりません」
「へえ……」
千紗は戦車を見上げた。
すみれは、手元のノートを開いた。
「その前に、倉庫の管理記録を確認したほうがよさそうね。誰が管理しているのか、どんな経緯で置かれているのか。分かることがあるかもしれない」
「そうですね。勝手に修理を始めるわけにもいきませんし」
「じゃあ、記録を探してみるわ」
すみれはそう言って、倉庫の外へ出ていった。
千紗も、こはると一緒に周囲の整理を始めた。
伊里奈は、その様子を見ながら、少しだけ戸惑っていた。
昨日、こはるに出会ったばかりだ。
それなのに、こんなに自然に手伝ってくれるとは思っていなかった。
「……皆さん、いいんですか?」
伊里奈が尋ねると、こはるは手を止めた。
「何が?」
「その……私のために、こんなことをしてもらって」
「別に、雪村さんのためだけじゃないよ」
こはるは笑った。
「私も気になるし。千紗も、こういう作業は嫌いじゃないでしょ?」
「うん。まあ、気になるかな」
千紗は頷いた。
「それに、倉庫を整理するいい機会だしね」
「……ありがとうございます」
「だから、そういうのはいいって」
こはるは少し照れたように笑った。
「みんなでやったほうが、早く終わるでしょ?」
伊里奈は、返事に困った。
それでも、口元が少し緩んだ。
「……そうですね」
*
調査を始めて数日後、分かったことは多くなかった。
戦車は、かなり昔に大洗女子学園の戦車道チームが使用していた車両らしい。
ある試合で損傷を受け、その後、修理されないまま保管されることになった。
しかし、当時の記録はほとんど残っていなかった。
対戦相手も、試合の詳細も分からない。
現在の農業科の生徒たちが知っているのは、倉庫の奥に古い戦車が置かれているということだけだった。
「……本当に、何も残ってないんだね」
こはるが、見つかった資料を眺めながら言った。
「少なくとも、私たちが確認できた範囲ではね」
すみれはノートを閉じた。
「ただ、倉庫の使用記録は残っているから、いつ頃からここに置かれていたのか、ある程度は推測できると思う」
「でも、細かいことは分からないんでしょ?」
「ええ」
「そっかあ……」
こはるは少し残念そうにした。
伊里奈は、戦車を見上げた。
かつて、この戦車にも乗員がいたのだろう。
試合に出て、仲間と協力して戦った。
そして、何かの理由で壊れた。
その後、修理されることもなく、ここに置かれた。
どんな試合だったのか。
どんな相手と戦ったのか。
乗員たちは、どんな気持ちでこの戦車を降りたのか。
今となっては、知る術がない。
それでも。
「……直せるなら、直してみたいです」
伊里奈は、静かに言った。
千紗が彼女を見る。
「本当に?」
「はい。ただ、勝手に始めるわけにはいかないので、まずは管理している人たちに相談してみます」
「そうだね。それがいいと思う」
すみれも頷いた。
「修理のために必要な作業や、工具の使用についても確認しておいたほうがいいわね」
「はい」
伊里奈は、手帳を閉じた。
やるべきことは、まだ多い。
けれど、少しずつ前へ進んでいる。
それだけで十分だった。
*
修復作業を始めるための相談は、思っていたよりも時間がかかった。
戦車は学校の所有物である可能性が高い。
倉庫の管理を担当している生徒たちにも事情を説明し、作業の範囲や安全面について確認しなければならなかった。
伊里奈は、必要な作業を整理した。
まずは車体の状態を詳しく調べる。
安全に作業できる環境を整える。
必要な工具を確認し、交換部品が必要な場合には、その都度相談する。
そして、無理に車両を動かそうとしない。
最初から、すべてを直せるとは考えていなかった。
まずは、どこまで修復できるのかを確かめる。
そのために必要なことを、ひとつずつ進める。
話し合いの結果、倉庫を使った調査と、条件付きでの修復作業を進められることになった。
「……よかった」
こはるが、ほっとしたように息を吐いた。
「これで、ちゃんと調べられるね」
「そうですね」
伊里奈は頷いた。
「ただ、時間はかかると思います」
「どれくらい?」
「……状態によります」
「そっか」
こはるは、少しだけ考えた。
「まあ、ゆっくりやろうよ。急いでも仕方ないし」
その言葉に、伊里奈は小さく笑った。
焦る必要はない。
確かに、その通りだった。
*
修復作業は、まず倉庫の整理から始まった。
車体の周囲に積み上げられていた木箱や農具を移動させ、作業できる空間を確保する。
埃を払い、車体の外側を清掃する。
見える範囲の損傷を確認し、記録を作る。
それだけでも、かなりの時間がかかった。
「……これ、思ってたより大変だね」
こはるが額の汗を拭った。
「まだ掃除が終わってないのに、もう疲れた……」
「こはる、昨日も同じこと言ってたよ」
千紗が笑う。
「昨日よりは進んでるでしょ!」
「それはそうだけど」
すみれは、作業記録を確認しながら言った。
「掃除が終わったら、車体の損傷を詳しく調べる必要があるわ。まだ、どこまで修復が必要なのか分かっていないんだから」
「分かってるってば」
こはるは口を尖らせた。
「……雪村さん、あとどれくらい?」
「そうですね……」
伊里奈は倉庫を見回した。
「今日中には、車体の周囲を整理できると思います」
「よし。じゃあ、頑張ろう!」
こはるは再び作業に戻った。
千紗も、すみれも、それぞれの作業を続ける。
伊里奈は、三人の姿を見ながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
最初は、自分一人で直すつもりだった。
必要なことを調べ、必要な作業を進め、時間をかけて修復する。
それだけでいいと思っていた。
けれど、今は違う。
この戦車を直したいと思っているのは、自分だけではない。
こはるは、動くところを見たいと思っている。
千紗は、最後まで作業をやり遂げたいと思っている。
すみれは、分からないことを明らかにしたいと思っている。
理由はそれぞれ違う。
それでも、同じ場所に集まっている。
伊里奈は、静かに息を吐いた。
悪くない。
そう思った。
*
作業を始めて一週間。
車体の周囲は、ようやく整理された。
これで、足回りや車体側面を詳しく確認できる。
伊里奈は、こはると一緒に履帯の状態を調べた。
「……ここ、歪んでますね」
「本当だ」
こはるが覗き込む。
「これ、直せるの?」
「状態を確認してからですね。無理に動かすと、別の部分を傷める可能性があります」
「そっか……」
こはるは真剣な顔になった。
「じゃあ、慎重にやらないとね」
「はい」
最初の頃と比べて、こはるの態度も変わってきていた。
以前なら、面白そうだと思ったらすぐに手を出していた。
今は、まず伊里奈に確認する。
何が危険なのか。
どこに注意すべきなのか。
少しずつ、理解しようとしている。
「……こはるさん、覚えるのが早いですね」
伊里奈が言うと、こはるは顔を上げた。
「え、そう?」
「はい。機械の扱いに慣れているからでしょうか」
「まあ、農業機械なら触る機会が多いからね」
こはるは照れくさそうに笑った。
「でも、戦車は全然違うね。重いし、複雑だし」
「そうですね」
「……でも、面白い」
こはるは、戦車を見上げた。
「もっと知りたいな」
伊里奈は、その言葉を聞いて、少しだけ驚いた。
面白い。
もっと知りたい。
その気持ちは、彼女にもよく分かる。
戦車というものは、知れば知るほど奥が深い。
構造だけではない。
どう動かすのか。
どう扱うのか。
どんな状況で、どんな判断が必要になるのか。
同じ車両でも、扱う人によって動きは変わる。
伊里奈は、そうしたことを考えるのが好きだった。
だからこそ、目の前の戦車を直したいと思ったのだろう。
「……私も、そう思います」
伊里奈は笑った。
*
二週間目。
修復作業は、少しずつ本格的になっていた。
車体の外観を確認し、足回りの整備を進める。
使える部品と、交換が必要な部品を分ける。
長年の放置によって固着した箇所は、慎重に状態を確認しながら作業を進めた。
伊里奈は、自分が持ち込んだ工具を使って作業を進めていた。
それだけでは足りない部分もあり、農業科の生徒たちに相談して、必要な工具を借りることもあった。
「雪村さん、これでいい?」
千紗が工具を持ってきた。
「はい。ありがとうございます」
「農機具の整備で使っているものだけど、こっちでも使えそうだって」
「助かります」
千紗は工具を置くと、車体を覗き込んだ。
「それで、今はどこを直しているの?」
「足回りです。ここが歪んでいるので、状態を確認してから調整します」
「……難しそう」
「そうですね。でも、順番に確認していけば、少しずつ分かります」
「雪村さんは、こういうの得意なんだね」
伊里奈は、少しだけ考えた。
「……嫌いではないです」
「嫌いじゃない、かあ」
千紗は笑った。
「なんだか、雪村さんらしい答えだね」
「そうですか?」
「うん」
千紗は、工具を片付けながら言った。
「最初に会ったときも、戦車を見てるときだけ、すごく真剣だったから」
伊里奈は、少しだけ目を伏せた。
「……そうでしたか」
「うん。でも、最近は少し違うかな」
「違う?」
「前より、楽しそうに見える」
千紗は、何気なく言った。
伊里奈は、すぐには返事をしなかった。
楽しそう。
そう見えるのだろうか。
確かに、最近は倉庫へ来るのが楽しみになっていた。
修復作業が進むことも嬉しい。
こはるたちと話す時間も、少しずつ好きになっている。
それは、転入してきたばかりの頃には想像していなかったことだった。
「……そうかもしれません」
伊里奈は、静かに答えた。
「皆さんと一緒に作業するのが、楽しいので」
千紗は、少し驚いたような顔をした。
それから、柔らかく笑った。
「そっか。よかった」
それだけ言って、作業場へ戻っていった。
伊里奈は、その背中を見送った。
ほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。
*
三週間目。
すみれは、修復作業の記録を整理していた。
どの部品を確認したのか。
どこに損傷があったのか。
どの作業が終わり、何が残っているのか。
そうした情報を、誰が見ても分かる形にまとめていく。
「……これ、すごく助かります」
伊里奈は、記録帳をめくりながら言った。
「自分で全部まとめるとなると、作業に時間を取られてしまうので」
「それなら、役割分担したほうが効率的でしょう?」
すみれは、淡々と答えた。
「雪村さんは修復作業を進める。私は記録を整理する。こはると千紗は、必要な作業を手伝う。今のところ、それが一番よさそうね」
「……そうですね」
伊里奈は頷いた。
すみれの言う通りだった。
最初は、自分一人で何とかしようと思っていた。
けれど、すべてを一人でやろうとすれば、時間がかかる。
それぞれの得意分野を活かしたほうが、作業は進む。
戦車を直すことだけではない。
何かを成し遂げるためには、誰かと協力することも必要なのだ。
そんな当たり前のことを、改めて実感していた。
「……すみれさん」
「何?」
「手伝ってくれて、ありがとうございます」
「……また、それ?」
すみれは、少しだけ呆れたように言った。
「別に、雪村さんのためだけにやっているわけじゃないわ。私だって、気になっているんだから」
「はい」
「それに」
すみれは、記録帳を閉じた。
「ここまでやった以上、最後まで見届けたいと思っているの」
伊里奈は、その言葉を聞いて、微笑んだ。
「……そうですね」
それ以上、何も言わなかった。
言葉にしなくても、伝わるものがある。
そう思えた。
*
一か月目。
戦車の状態は、少しずつ改善していた。
足回りの整備が進み、車体の損傷も確認できるようになった。
もちろん、まだ完全ではない。
交換が必要な部品もあるし、エンジンの状態も慎重に確認しなければならない。
それでも、最初に見たときと比べれば、大きく前進していた。
「……なんか、もう戦車らしくなってきたね」
こはるが、満足そうに言った。
「最初は、本当にただの鉄の塊みたいだったのに」
「今も鉄でできていることには変わりませんよ」
伊里奈が答えると、こはるは笑った。
「そういう意味じゃないってば」
千紗も笑っていた。
すみれは、記録を確認しながら言った。
「ここまで進んだのは、順調なほうだと思うわ。ただ、エンジンの状態次第では、まだ時間がかかるかもしれない」
「……そうですね」
伊里奈は頷いた。
エンジン。
そこが、大きな問題だった。
長期間動かされていなかった以上、内部の状態を確認する必要がある。
無理に始動させるわけにはいかない。
必要な整備を進め、安全に動かせる状態かどうかを確かめる。
そのための作業は、まだ残っていた。
「……雪村さん」
千紗が、少し心配そうに言った。
「大丈夫? 疲れてない?」
「え?」
「最近、ずっと作業しているから」
「……大丈夫です」
伊里奈は微笑んだ。
「無理はしていません」
千紗は、少しだけ考えてから頷いた。
「なら、いいけど」
伊里奈は、戦車を見上げた。
疲れていないと言えば、嘘になる。
作業は簡単ではないし、確認すべきことも多い。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、作業が進むたびに、少しずつ気持ちが軽くなっていく。
何かを直す。
壊れていたものを、もう一度使えるようにする。
それは、思っていた以上に楽しいことだった。
*
修復作業を始めてから、約一か月半。
その日、倉庫にはいつもと違う緊張感があった。
車体の整備は、ひとまず試運転に向けた段階まで進んでいた。
すべてが新品同様になったわけではない。
古い車両である以上、残っている傷や、交換できない部品もある。
それでも、必要な点検を重ね、安全に動かせる状態かどうかを確認してきた。
伊里奈は、最後の確認を進めていた。
「……ここは大丈夫」
手帳を確認し、次の項目へ進む。
こはるは、落ち着かない様子で倉庫の中を歩いていた。
「ねえ、まだ?」
「もう少しです」
「あとどれくらい?」
「確認が終わったらです」
「それ、さっきも聞いた!」
「さっきは、まだ終わっていなかったので」
「うう……」
こはるは唸った。
千紗が笑いながら、彼女の肩を叩く。
「こはる、落ち着きなよ」
「だって、気になるじゃん!」
「気持ちは分かるけどね」
すみれは記録帳を確認しながら言った。
「ここまで来て、焦って失敗したら意味がないでしょう」
「……はい」
こはるは、しぶしぶ頷いた。
伊里奈は三人を見て、少しだけ笑った。
自分も、同じ気持ちだった。
最初に倉庫で戦車を見つけた日から、一か月半。
埃を払い、状態を調べ、必要な整備を進めてきた。
最初は、直せるかどうかも分からなかった。
どこに問題があるのか。
必要な部品が残っているのか。
どこまで修復できるのか。
不安はあった。
それでも、ここまで来た。
伊里奈は、最後の確認を終えた。
「……準備できました」
その一言で、三人の表情が変わった。
「本当に?」
こはるが身を乗り出す。
「はい。ただし、始動できるかどうかは、やってみないと分かりません」
「分かった……!」
こはるは拳を握った。
千紗も、すみれも、戦車を見つめている。
伊里奈は深く息を吸った。
そして、慎重に作業を進めた。
必要な確認を怠らない。
異常があれば、すぐに止める。
何も起きないことを祈るのではなく、何が起きても対応できるようにする。
しばらくして。
低い音が、倉庫の中に響いた。
最初は、不規則な振動だった。
それから、もう一度。
少しずつ、音が安定していく。
伊里奈は、すぐに各部の状態を確認した。
異常な音はないか。
振動に不自然な変化はないか。
各部の状態は正常か。
こはるは、息をするのも忘れたように見つめていた。
千紗は、両手を胸の前で握りしめている。
すみれも、いつもの冷静な表情を崩していた。
やがて。
伊里奈は、ゆっくりと息を吐いた。
「……動きました」
一瞬、誰も反応しなかった。
言葉の意味を理解するのに、時間がかかったのだろう。
「……え?」
こはるが呟く。
「今、動いたって……」
「はい」
伊里奈は笑った。
「動きました」
「やったあああっ!」
こはるが飛び上がった。
「本当に動いた! すごい! すごいよ!」
「こはる、危ないから!」
千紗が慌てて止める。
「だって、動いたんだよ! ずっと動かなかったのに!」
「分かってる、分かってるから!」
千紗も笑っていた。
すみれは、戦車を見上げたまま、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……すごいわね」
その声には、いつもの落ち着きとは違う感情が混じっていた。
伊里奈は、戦車を見つめた。
完全に直ったわけではない。
まだ確認すべき部分はあるし、実際に走らせるためには、さらに点検と調整が必要だ。
それでも。
この戦車は、もうただの鉄の塊ではない。
もう一度、動き始めたのだ。
伊里奈は、そっと車体に手を触れた。
「……おかえりなさい」
誰にも聞こえないくらい、小さな声だった。
けれど、言わずにはいられなかった。
*
試運転は、慎重に進められた。
必要な確認を終え、車両の状態に問題がないことを確かめながら、少しずつ動作を確認する。
こはるは、操縦席に座っていた。
初めての戦車。
農業機械とは違う重量感。
独特の振動。
車体が動き始めたとき、こはるは思わず声を上げた。
「うわっ、動いた!」
「こはるさん、前を見てください!」
「見てる、見てる!」
「本当に?」
「見てるってば!」
千紗が笑いをこらえ、すみれは記録を取りながら呟いた。
「……先が思いやられるわね」
それでも、こはるの操縦は、初めてにしては悪くなかった。
慎重に速度を調整し、指示された範囲で車体を動かす。
伊里奈は、彼女の操作を見ながら必要な助言をした。
「もう少し、ゆっくりで大丈夫です」
「これくらい?」
「はい。そのまま、車体の向きを意識してください」
「分かった」
こはるは真剣な顔になった。
さっきまでの騒がしさが嘘のようだった。
伊里奈は、その横顔を見て、ふと思った。
この子は、ちゃんと学ぼうとしている。
ただ面白がっているだけではない。
自分が扱う機械の動きを理解しようとしている。
それは、何かを始めるうえで大切なことだった。
試運転が終わると、こはるは興奮した様子で操縦席から降りてきた。
「すごかった!」
「……お疲れさまでした」
「雪村さん、これ、また乗っていい?」
「もちろん、状態を確認してからですけど」
「やった!」
千紗が笑った。
「こはる、すっかり気に入ったね」
「だって、こんなの初めてだもん!」
すみれは記録帳を閉じた。
「少なくとも、今日の試運転では大きな問題は見つからなかったわね。まだ確認は必要だけど」
「はい。ありがとうございます」
伊里奈は、三人に向かって頭を下げた。
「皆さんが手伝ってくれたおかげです」
「またそれ?」
こはるが笑った。
「雪村さん、最近そればっかりだよ」
「……そうでしょうか」
「そうだよ」
千紗が頷く。
「でも、本当にそうだと思う。私たちも、雪村さんがいなかったら、こんな経験はできなかったし」
「そうね」
すみれも同意した。
「少なくとも、私は戦車の修復記録を作ることになるなんて、思ってもいなかったわ」
伊里奈は、三人を見つめた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……そう言ってもらえると、嬉しいです」
それは、嘘のない気持ちだった。
一か月半。
たったそれだけの時間。
けれど、伊里奈にとっては、決して短い時間ではなかった。
この学校に来たとき、彼女には何もなかった。
戦車道を続けるつもりもなかった。
誰かと深く関わるつもりもなかった。
ただ、普通に暮らしたかった。
それなのに。
気がつけば、戦車を直していた。
仲間ができていた。
そして、また戦車に乗っていた。
皮肉なものだと思う。
けれど、悪くない。
今は、そう思えた。
*
それから数日。
伊里奈たちは、戦車の整備を続けながら、倉庫の片付けも進めていた。
車両を安全に保管するための場所を整え、必要な工具を整理する。
修復作業そのものは、ひとまず区切りがついた。
しかし、これで終わりというわけではない。
古い車両である以上、今後も点検は必要になる。
部品の状態も、定期的に確認しなければならない。
伊里奈は、そのことを三人に説明した。
「……つまり、まだ終わりじゃないってこと?」
こはるが尋ねる。
「はい。動かせるようになっただけですから」
「そっかあ」
こはるは少し考えた。
「じゃあ、これからも時々、様子を見に来る?」
「私は、そのつもりです」
伊里奈は答えた。
千紗が頷く。
「私も、できる範囲で手伝うよ」
「私も」
すみれも、短く答えた。
伊里奈は、少しだけ驚いた。
「……いいんですか?」
「もちろん」
千紗は笑った。
「ここまで一緒にやったんだもの」
「そうそう」
こはるも頷く。
「せっかく動くようになったんだから、これからどうなるかも気になるしね!」
すみれは、少しだけ肩をすくめた。
「私は、記録を中途半端なままにしたくないだけよ」
「……ありがとうございます」
伊里奈は、静かに頭を下げた。
もう、最初の頃とは違う。
倉庫で偶然出会っただけの関係ではない。
まだ親友と呼べるほど深い関係ではないかもしれない。
けれど、少なくとも、互いに信頼できる部分ができ始めている。
それが、嬉しかった。
*
その日の放課後。
伊里奈は、倉庫の外で一人、戦車を眺めていた。
夕方の風が吹いている。
畑の向こうには、校舎と街並みが見えた。
T-34は、倉庫の中で静かに佇んでいた。
錆びた部分は、まだ残っている。
古い傷も、消えてはいない。
完全に元通りになったわけではない。
それでも、もう一度動けるようになった。
伊里奈は、車体を見上げた。
「……よかったね」
小さく呟く。
戦車に向けた言葉だった。
けれど、どこか自分自身にも向けているような気がした。
新しい学校で、普通の生活を送る。
そう決めていた。
戦車道から離れ、過去のことを考えず、静かに暮らす。
そのつもりだった。
しかし、目の前に戦車があれば、放っておけなかった。
直したいと思った。
そして、実際に直した。
自分は、何も変わっていないのだろうか。
それとも、少しは変わったのだろうか。
答えは出ない。
伊里奈は、首を振った。
「……まあ、今はいいか」
今は、これでいい。
そう思った。
そのとき、背後から足音が聞こえた。
「雪村さん!」
振り返ると、こはるが走ってきた。
「聞いた?」
「……何をですか?」
「戦車道!」
伊里奈の表情が、わずかに変わった。
「……戦車道?」
「うん。大洗女子学園で、戦車道を復活させようって話が出てるんだって!」
伊里奈は、すぐには返事ができなかった。
戦車道。
その言葉は、彼女にとって、ただの競技名ではなかった。
けれど、その理由を口にすることはしなかった。
こはるは、そんな伊里奈の様子に気づかず、楽しそうに続けた。
「ねえ、もし本当に復活するなら、この戦車も使うのかな?」
「……分かりません」
「でも、使えるんでしょ?」
「動かせる状態にはなりました。ただ、試合で使うとなると、さらに確認が必要です」
「そっかあ……」
こはるは戦車を見上げた。
「でも、もし使うことになったら、すごいよね。私たちが直した戦車が、試合に出るんだよ?」
「……そうですね」
伊里奈は、ゆっくりと答えた。
胸の奥が、少しだけざわついていた。
戦車道。
もう一度、戦車道をする。
そんなことを、考えたこともなかった。
自分は、ただ戦車を直したかっただけだ。
それ以上のことは、考えていなかった。
けれど、もしこの戦車が試合に出ることになったら。
もし、自分がその戦車に乗ることになったら。
そのとき、自分はどうするのだろう。
「……雪村さん?」
こはるが、不思議そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「……はい。大丈夫です」
伊里奈は微笑んだ。
まだ、何も決まっていない。
戦車道が復活するかどうかも。
この戦車が使われるかどうかも。
自分が、もう一度戦車に乗ることになるかどうかも。
今は、何も分からない。
だから、考えるのは後でいい。
伊里奈は、戦車を見上げた。
「……もう少し、頑張ろうか」
その言葉に、こはるが笑った。
「うん!」
夕日が、倉庫の壁を赤く染めていた。
長い間、誰にも顧みられず、そこに眠っていた戦車。
その戦車は、もう一度動き始めた。
そして、伊里奈自身もまた、少しずつ動き始めている。
この先、何が待っているのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ。
大洗女子学園の片隅で、ひとつの物語が、静かに始まろうとしていた。
ガルパンはいいぞ
熱に当てられて初投稿です。