大洗女子学園の春は、穏やかだった。
校舎の窓から吹き込む風は少しずつ暖かくなり、遠くのグラウンドからは運動部の掛け声が聞こえてくる。海から届く潮の香りも、農業科の畑を渡る風も、昨日と何ひとつ変わらない。
けれど、雪村伊里奈の耳には、ここ数日、妙に気になる話が届いていた。
「ねえ、聞いた? 戦車道が復活するんだって」
昼休み。農業科の作業場で、朝倉こはるが弁当箱を片手に言った。
隣では水野千紗が工具箱の中身を整理していて、黒田すみれは作業記録をまとめたノートを閉じたところだった。
伊里奈は手にしていた水筒を口元で止める。
「……戦車道?」
「そうそう! なんか、生徒会の人たちが動いてるみたい。普通科のほうで話が進んでるんだって」
「へえ。今さら戦車道かあ」
千紗が少し考えるように首を傾げた。
「でも、大洗って昔は戦車道があったんでしょう? 倉庫の戦車も、そのころのものなんじゃない?」
「そうだね。あのT-34も、昔の戦車道で使われていたらしいし」
すみれがノートを指で軽く叩いた。
「記録が残っていないから、どこの学校と試合をしたのかも分からないけどね」
「そっかあ……。なんか、ちょっとロマンあるよね」
こはるは弁当を置いて、目を輝かせた。
「昔はあの戦車で試合してたんだもんね。で、今度はまた戦車道が始まるんでしょ? だったら、伊里奈ちゃんの戦車も使うのかな?」
「さあ。どうだろう」
伊里奈は、できるだけ何でもないように答えた。
けれど、胸の奥では小さな波が立っていた。
戦車道。
その言葉に、彼女は懐かしさを覚えていた。
雪に覆われた大地。白い息。履帯が雪を踏み砕く音。砲塔が旋回し、照準器の向こうに敵影を捉える瞬間。
そして、無線越しに響く声。
――イリーナ、右だ!
記憶は鮮明だった。
忘れたことなど、一度もない。
自分がどこで戦い、誰と肩を並べ、何を信じていたのか。どんな言葉を交わし、どんな沈黙を残してきたのか。
そのすべてを、伊里奈は覚えている。
だからこそ、今の自分がその話をすることはなかった。
大洗で出会ったばかりの仲間に、過去を語る必要はない。まして、あの場所で何があったのかを簡単に説明できるとも思っていなかった。
「伊里奈ちゃん?」
こはるの声で、伊里奈は意識を戻した。
「どうかした?」
「ううん。ちょっと考え事」
「もしかして、戦車道に出ること考えてる?」
こはるが身を乗り出す。
「出るって、私が?」
「だって、あの戦車を直したの伊里奈ちゃんじゃん! あそこまで直したんだから、使いたいって思うんじゃないの?」
「……そう、だね」
使いたい。
その気持ちは、確かにあった。
錆びついた車体を磨き、固着した部品を外し、動かなくなった機構をひとつずつ蘇らせた。最初はただ、目の前に直せそうなものがあったから手を伸ばしただけだった。
それでも、エンジンが初めて息を吹き返した日のことは、忘れられない。
重たい車体が振動し、排気管から煙が上がった瞬間。
胸の奥に、ずっと閉じ込めていた何かが、かすかに反応した。
戦車に乗ることが好きだった。
それは過去形にできるほど、簡単な気持ちではなかった。
「でも、私ひとりじゃ動かせないから」
伊里奈はそう言って、こはるたちを見た。
三人は顔を見合わせる。
「……ん?」
「いや、別に何でもないよ」
伊里奈は視線をそらし、弁当の蓋を開けた。
もし本当に戦車道が始まるのなら。
もし、あのT-34で試合に出られるのなら。
そのときは――。
自分ひとりでは、何もできない。
*
数日後。
その知らせは、噂話ではなく、はっきりとした形で伊里奈の耳に届いた。
大洗女子学園の戦車道復活。
生徒会が中心となって準備を進めており、戦車道を履修する生徒たちを集めることになったらしい。
農業科の作業を終えた伊里奈は、工具を片づけながら、その話を頭の中で繰り返していた。
復活する。
本当に。
ならば、あの戦車にも出番が来るかもしれない。
けれど、ひとつ問題があった。
乗員がいない。
戦車は一輌あればいいわけではない。操縦する人間がいて、砲弾を扱う人間がいて、周囲を警戒する人間がいる。それぞれが自分の役割を理解し、互いの動きを信じなければ、まともに走らせることすら難しい。
伊里奈自身は、戦車の扱いを知っている。
少なくとも、基本的な操縦や射撃、車両の動かし方については、ほかの生徒に一から教えられる程度の知識と経験がある。
だが、知識があることと、誰かと一緒に戦車を動かせることは違う。
それに、こはるたちは戦車道をやりたいと言ったわけではない。修理を手伝ってくれたのも、興味を持ってくれたのも、あくまで伊里奈が戦車を直していたからだ。
勝手に期待して、勝手に巻き込むわけにはいかなかった。
「……どうしよう」
思わず声が漏れた。
誰もいない作業場に、自分の声だけが響く。
伊里奈は工具箱の蓋を閉め、しばらくその場に立ち尽くした。
普段なら、必要なことを整理して、できることから順番に進める。
部品が足りないなら探す。直せない箇所があるなら原因を調べる。時間がかかるなら工程を組み直す。
けれど、今回ばかりは違った。
相手は機械ではない。
自分の言葉ひとつで、誰かの生活が変わってしまうかもしれない。
それに、伊里奈は知っていた。
戦車道は、ただ戦車を動かして勝ち負けを競うだけのものではない。
車内の狭い空間で仲間を信じること。砲声の響くなかで判断を共有すること。思いどおりにならない状況でも、互いを見捨てずに動くこと。
その難しさも、その楽しさも、彼女は身をもって知っている。
だからこそ、軽い気持ちで誘うことはできなかった。
伊里奈は深く息を吸い込んだ。
「……ちゃんと、聞いてみよう」
それが今の自分にできる、いちばん誠実な方法だった。
*
翌日の放課後。
「えっ、私たちが?」
こはるの声が、農業科の作業場に響いた。
伊里奈は三人の前で、妙に背筋を伸ばして立っていた。
「うん。戦車道が復活するなら、あのT-34で参加したいと思ってる。でも、私ひとりじゃ乗員が足りないから……」
「それで、私たちに声をかけたの?」
千紗が確認するように尋ねた。
「そう。もちろん、無理にとは言わないよ。戦車道に興味がなければ断ってくれていいし、危険もある。簡単なことじゃないから」
言いながら、伊里奈は自分の指先を見た。
落ち着いて話すつもりだったのに、言葉が妙にぎこちない。
「それでも、もしよかったら……私と一緒に、戦車道をやってくれないかな」
最後のほうは、ほとんど消え入りそうな声になってしまった。
沈黙。
伊里奈は、三人の返事を待った。
こはるは口を開きかけ、千紗は伊里奈の表情をじっと見つめ、すみれは腕を組んで考えている。
やっぱり急だっただろうか。
そもそも、戦車道に興味があるかどうかすら聞いていなかった。
断られたら、それは仕方ない。戦車は自分で動かす方法を考えよう。さすがにひとりでは試合に出られないが、そこは別の方法を探すしかない。
そんなことを考え始めたときだった。
「やる!」
沈黙を破ったのは、こはるだった。
「……え?」
「やるよ、私! だって、あの戦車が走るところ、もっと見たいもん!」
こはるは両手を握りしめ、勢いよく言った。
「それに、伊里奈ちゃんが一か月半もかけて直したんだよ? 動くようになって終わりなんてもったいないじゃん。試合に出るなら、私も手伝いたい!」
「こはる……」
「ただし、戦車道のことは全然分からないからね! そこは教えてもらうことになるけど!」
その言葉に、伊里奈の肩から少し力が抜けた。
「もちろん。私も全部を知っているわけじゃないから、一緒に覚えていこう」
「うん!」
千紗も、やがて小さく頷いた。
「私も参加する。修理のときに、あの戦車の仕組みをいろいろ見せてもらったでしょう? あれだけ手をかけたものが、今度は試合で走るかもしれないっていうなら、最後まで見届けたいし」
「ありがとう、千紗」
「ただ、無茶はしないこと。危険があるなら、ちゃんと確認してから進めようね」
「うん。約束する」
残るは、すみれだった。
彼女はしばらく黙っていたが、やがてノートを抱え直した。
「私も、参加するわ」
「本当?」
「ええ。修理の記録をつけていたら、気になってきたの。部品ひとつで動きが変わるし、整備の手順にも意味がある。戦車道でも、そういうことが大切なんでしょう?」
「とても大切だよ。整備が不十分なら、いざというときに動かなくなるから」
「なら、私が覚えておく。記録も続けるし、必要なことは整理しておくわ」
すみれは、ほんの少しだけ笑った。
「それに、ここまで一緒に直してきたんだもの。動き出したところを見て終わり、というのも落ち着かないでしょう?」
伊里奈は、三人の顔を順番に見た。
こはるは期待に胸を膨らませている。千紗はすでに、何を確認すべきか考えているようだった。すみれはノートを開き、何かを書き留め始めている。
自分が頼んだことなのに、返事を聞いた途端、胸の奥が熱くなった。
「……ありがとう」
今度は、ちゃんと言えた。
「本当に、ありがとう。私、みんなと一緒にやりたい」
「もう、そんなにかしこまらなくていいって!」
こはるが笑う。
「これからはチームなんだから!」
「チーム……」
伊里奈はその言葉を、そっと口の中で繰り返した。
チーム。
その響きが、胸の奥にしまった記憶をかすかに揺らす。
かつて自分にも、そう呼べる相手がいた。
戦場で互いの意図を理解し、言葉が少なくても連携できた相手。自分が砲撃を担い、相手が大胆な判断で道を切り開く。別々の戦車に乗っていても、まるでひとつの車両であるかのように動けた。
けれど、その関係は永遠ではなかった。
自分が何も告げずに去ったことで、終わったままになっている。
伊里奈は、その記憶をそっと胸の奥へ押し戻した。
今、目の前にいる三人は、あの頃の誰かの代わりではない。
新しく出会った、大切な仲間だ。
「じゃあ、これからよろしくね」
伊里奈が言うと、三人はそれぞれに頷いた。
「よろしく!」
「こちらこそ」
「ええ。まずは計画を立てましょうか」
こうして、T-34初期型に乗る四人のチームが生まれた。
*
その日の夕方、四人は倉庫へ向かった。
薄暗い倉庫の奥には、修復を終えたT-34が静かに佇んでいる。
外装の傷は、完全には消えていない。古い車体には、かつて受けた損傷の痕跡がいくつも残っていた。新しい部品に交換した箇所もあれば、使えるものを整備して再利用した箇所もある。
それでも、以前のように錆びつき、動かない鉄の塊ではなかった。
「うわあ……」
こはるは、何度見ても飽きないという顔で車体を見上げた。
「やっぱり、大きいなあ」
「実際に乗るとなると、外から見るのとは違うだろうね」
千紗が履帯の近くを覗き込む。
「これが回って、車体が動くんだよね。頭では分かっていても、まだ不思議」
「中に入ってみる?」
伊里奈が尋ねると、三人は顔を見合わせた。
「いいの?」
「もちろん。これから一緒に乗るんだから、まずは中を知っておかないと」
伊里奈は車体に取りつけた足場を確認し、順番に乗り込めるよう手を貸した。
車内は、外から見るよりずっと狭い。
金属の壁に囲まれた空間には、整備の際に取り外したものを戻した痕跡が残っている。新しい塗装の匂いと、古い油の匂いが混じっていた。
「ここが操縦席。前方の見え方は限られるから、外の状況を把握することが大事になる」
伊里奈が説明すると、こはるは操縦席を覗き込んだ。
「これを動かすの? え、思ったより操作するものが多い!」
「最初から全部できる必要はないよ。少しずつ覚えればいい」
「伊里奈ちゃんは、どうやって覚えたの?」
不意に聞かれ、伊里奈は一瞬だけ言葉を止めた。
どうやって覚えたのか。
その答えなら、覚えている。
初めて戦車に乗ったときの感触も、操縦の癖をつかむまでの練習も、射撃で思うように当てられなかった頃の悔しさも。
そして、隣に並んで走る戦車を見ながら、互いに腕を磨いていた日々も。
「……何度も練習したんだよ」
伊里奈は、それだけを答えた。
嘘ではない。
けれど、話していないことは多かった。
「じゃあ、私たちも練習すればできるようになるかな?」
「なると思う。少なくとも、できるようになるまで一緒に練習しよう」
「よし!」
こはるが元気よく拳を握る。
千紗は無線機の位置を確かめ、すみれは車内の配置をノートに書き込んでいた。
伊里奈は三人の様子を眺めながら、頭の中で役割を考える。
この車両は、決して新しくない。
乗員の数も限られるし、装甲や火力で最新の戦車に勝てるとは思えない。できることには制約がある。整備にも、これからの訓練にも、時間が必要だ。
それでも。
この車両には、この車両にしかない強みがある。
そして、戦車の性能だけで勝敗が決まるわけではないことを、伊里奈は知っていた。
戦車を動かすのは、人間だ。
互いの声を聞き、相手の意図を理解し、ひとつの判断に向かって動く。
それができるチームなら、できることはきっと増える。
「ねえ、伊里奈ちゃん」
こはるが車内から顔を出した。
「私たち、強くなれるかな?」
伊里奈は少し考えた。
簡単に「なれる」と言うのは、無責任かもしれない。戦車道には、経験も知識も必要だ。勝つためには、努力だけでは埋められない差もある。
けれど。
「なろう」
伊里奈は、はっきりと答えた。
「みんなで練習して、考えて、失敗したら直して。そうやって、強くなろう」
こはるが笑った。
「うん!」
千紗も頷き、すみれはノートに短く書き込んだ。
――戦車道、開始。
その文字を見て、伊里奈は小さく笑った。
まだ何も始まっていない。
戦車道のルールも、試合の流れも、これから学ばなければならないことばかりだ。チームとしての動きも、四人で少しずつ作っていく必要がある。
けれど、もう最初の一歩は踏み出した。
*
倉庫を出ると、空は茜色に染まっていた。
四人は並んで農業科の道を歩く。明日からは、戦車の整備だけでなく、戦車道の準備も始めなければならない。何を覚えるべきか、どんな練習ができるのか、話題は尽きなかった。
「まずは、戦車道のルールを調べないとね」
千紗が言った。
「あと、操縦の練習! 私、絶対に上手くなる!」
「私は車内の配置と、整備の手順をまとめるわ。試合に出るなら、記録を残しておいたほうがいいもの」
「うん。私も手伝うよ」
伊里奈はそう答えながら、夕暮れの先を見つめた。
遠くで、校舎の窓が夕日を反射している。
大洗女子学園の戦車道が、これからどんな形になっていくのかは分からない。自分たちがどこまで戦えるのかも、まだ分からない。
それでも、胸の奥には確かな熱があった。
もう一度、戦車に乗る。
誰かと一緒に。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
けれど、嬉しさだけで過去を塗り替えられるわけではない。
伊里奈は、夕日に染まる道の向こうに、かつての戦場を重ねた。
雪原を走るT-34-85。
走行中の振動を受け止めながら、照準を合わせ、砲弾を送り込む。離れた場所では、別の戦車が大胆に進路を変え、敵の注意を引きつけていた。
あの戦車の指揮官は、いつも自信に満ちた声で命令を下した。
小柄な身体に似合わない、強気で、堂々とした声。
かつての伊里奈は、その声を疑わずに信じていた。
相手もまた、自分の射撃を信じてくれていた。
互いに得意なことが違ったからこそ、ふたりは強かった。
けれど、強さだけでは守れないものもあった。
戦いに勝つこと。仲間を守ること。指揮官として正しい判断をすること。
それらが、いつも同じ答えになるとは限らない。
伊里奈は、あの試合を覚えている。
西住みほが仲間を救うために旗車を離れたこと。そこに生まれた隙を、彼女が見逃さなかったこと。勝利をつかむために下された判断が、戦術としては正しかったのだと理解していること。
それでも、納得できなかった。
あの日から、ふたりの間に生まれた溝は、少しずつ深くなっていった。
それだけが理由ではない。
もっと前から、言葉を交わすたびに感じていた違和感。かつてなら冗談で済んだはずのやり取りが、いつの間にか難しくなっていたこと。強さを示そうとする姿が、本人さえも縛りつけているように見えたこと。
伊里奈は何度も、話をしようと思った。
けれど、結局は何も言えなかった。
ノンナにも、カチューシャにも。
そして最後には、何も告げずにプラウダを去った。
後悔がないと言えば、嘘になる。
だが、あの場所に戻りたいかと問われれば、今はまだ答えられなかった。
「伊里奈ちゃん?」
こはるの声がした。
伊里奈は顔を上げる。
「どうしたの? さっきから、ちょっと静かだけど」
「……ごめん。少し考え事をしてた」
「疲れた? 修理のときも、けっこう無理してたもんね」
「大丈夫。心配してくれてありがとう」
こはるは納得したように頷き、また千紗たちとの話に戻った。
伊里奈は、彼女たちの声を聞きながら歩き出した。
プラウダで過ごした日々は、忘れたくても忘れられない。
あの戦車の中で聞いた声も、雪原に残った履帯の跡も、最後に交わせなかった言葉も、今でもはっきりと覚えている。
それでも、今は話さない。
自分の過去を語ることで、目の前の三人に余計なものを背負わせたくなかった。
それに、まだ自分自身の中でも整理できていない感情がある。
懐かしさも、怒りも、悲しみも。
そして、今でも心のどこかに残っている、あの人への思いも。
それらをすべて言葉にするには、時間が必要だった。
伊里奈は小さく息を吐いた。
今は、この場所で前に進もう。
過去を忘れたわけではない。
ただ、まだ誰にも話さないと決めているだけだった。
隣では、こはるたちが明日の練習について楽しそうに話している。
伊里奈はその声を聞きながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
春の大洗。
眠っていた鉄騎は目を覚まし、少女たちはまだ知らない未来へ歩き始めた。
その先には、いつか必ず向き合わなければならない過去が待っている。
かつて自分が何よりも信じていた相手との再会。
そのとき、伊里奈は何を伝えるのだろう。
そして、相手は自分を見て、何を思うのだろう。
答えはまだ、分からない。
けれど伊里奈は、その日がいつか来ることを知っていた。
忘れたことなど、一度もないのだから。