眠れる鉄騎と、春の大洗   作:ouka23

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4人の乗員

 

 

「……本当に、私たちが乗るんだね」

 

朝倉こはるは、目の前の戦車を見上げながら呟いた。

 

農業科の敷地の片隅。長いあいだ倉庫の奥で眠っていたT-34初期型は、以前とは見違える姿になっていた。

 

錆びついていた履帯は整備され、車体の各部に残っていた損傷も、走行に支障が出ないよう修復されている。塗装には古さが残るものの、装甲の継ぎ目や整備ハッチはきちんと手入れされ、車体には再び機械としてのまとまりが戻っていた。

 

それでも、ピカピカの新車とは程遠い。

 

修復の跡は隠しきれないし、交換できなかった部品もある。車体の奥からは、長く使われずにいた機械特有の重い匂いが漂っていた。

 

「乗るって決めたの、こはるでしょ」

 

水野千紗が笑う。

 

「決めたけど! 実物を前にすると、なんかこう……大きいなって!」

 

「それは、戦車だからね」

 

黒田すみれが、いつもの調子で答えた。

 

「うう、正論……」

 

こはるは戦車を見上げ直した。

 

大きい。

 

それに、重そうだ。

 

自分たちがこれを動かす。自分たちが中に入って、操作して、学園の敷地を走らせる。

 

数週間前には、想像もしなかったことだった。

 

そもそもの始まりは、倉庫の片付けをしていたときに、こはるが奥のほうで妙なものを見つけたことだった。

 

古い農具や、使い道のわからない金属部品。埃をかぶった木箱。そのさらに向こうに、巨大な鉄の塊が隠れていた。

 

それが戦車だとわかったときの驚きは、今でも覚えている。

 

そして、その戦車を一人で直そうとしていた少女がいた。

 

雪村伊里奈。

 

落ち着いていて、あまり自分のことを話さない。質問すれば答えてくれるが、自分から長々と話すことは少ない。工具の扱いは驚くほど手慣れていて、壊れた部品を前にしても、何を確かめるべきか迷わなかった。

 

最初は、ただの興味だった。

 

どうしてこんなものを直しているのか。

 

本当に動くのか。

 

動いたら、どんな音がするのか。

 

そのうち、こはるは手伝うようになった。千紗も、すみれも加わった。

 

一緒に工具を運び、部品を整理し、作業記録をつける。難しい修理は伊里奈が担当し、三人はできる範囲の作業を手伝った。

 

そうして一か月半。

 

戦車は、再び走れる状態になった。

 

そして、学園で戦車道が復活するという知らせが届いたあと。

 

伊里奈は、三人を前にして、普段の落ち着きを失うほど緊張しながら言ったのだった。

 

――私と一緒に、戦車道をやってくれませんか。

 

あのときの伊里奈の顔を思い出すと、こはるは今でも少し笑ってしまう。

 

いつもは、こちらが何を言っても動じないのに。

 

誘う言葉を何度も頭の中で考えていたのだろう。話し始める前に、工具箱の蓋を二度も開け閉めしていた。

 

「……こはる、何を笑ってるの?」

 

伊里奈が尋ねた。

 

「ううん。なんでもない!」

 

「そう?」

 

伊里奈は少し不思議そうにしたものの、それ以上は追及しなかった。

 

作業着の袖を整え、戦車の前に立つ。

 

「じゃあ、始めようか」

 

その一言で、三人の表情が引き締まった。

 

今日はいよいよ、修復したT-34の試運転だった。

 

戦車道に参加すると決めた以上、動かせるだけでは足りない。乗員同士で声を掛け合い、安全を確かめ、車両の癖を知る必要がある。

 

もっとも、四人とも、最初から完璧にできるとは思っていなかった。

 

伊里奈を除けば、戦車に乗ること自体が初めてなのだ。

 

「最初に確認することは、三つ」

 

伊里奈は指を一本立てた。

 

「無理をしない。わからないことを、わかったふりをしない。それから、異常があったらすぐに伝える」

 

「はい!」

 

こはるが元気よく返事をした。

 

「特に、車内は外から見えない場所が多いから。変な音がしたり、動きがおかしかったりしたら、些細なことでも教えてね」

 

「わかった」

 

千紗が頷く。

 

すみれはノートに書き込んだ。

 

「確認事項、記録しておくね」

 

「ありがとう。じゃあ、まずは乗り込もう」

 

伊里奈が車体側面の手すりに手を掛ける。

 

その動作には、迷いがなかった。

 

足を掛ける場所。体重を移す位置。車体のどこに手を置けば安定するのか。

 

まるで、何度も繰り返してきた動作のように自然だった。

 

こはるは、その背中を見つめた。

 

「伊里奈ちゃんって、戦車に乗ったことあるんだよね?」

 

何気ない質問だった。

 

伊里奈の動きが、一瞬だけ止まった。

 

「……どうして?」

 

「だって、乗り方が慣れてるから」

 

「ああ」

 

伊里奈は振り返り、曖昧に笑った。

 

「本で読んだことがあるから、かな」

 

「本で?」

 

「うん。整備の資料とか、車両の構造についてのものとか」

 

嘘ではない。

 

しかし、すべてを語ったわけでもなかった。

 

こはるは、納得したような、しきれていないような顔をした。

 

「へえ。そんな本があるんだ」

 

「あるよ。探せばね」

 

伊里奈は、それ以上何も付け加えなかった。

 

三人も、それ以上は尋ねなかった。

 

彼女が話したくないことを、無理に聞き出すつもりはなかったからだ。

 

それぞれが車体へ上がり、伊里奈の案内で内部へ入っていく。

 

狭い。

 

外から見たとき以上に、車内は狭かった。

 

金属の壁が近く、足元には機材が並んでいる。身体を動かすたびに、装備や金属部品が触れ合う音がした。

 

こはるは頭をぶつけそうになり、慌てて身をかがめた。

 

「うわっ、狭っ!」

 

「頭、気をつけて」

 

「先に言ってよー!」

 

「今、言ったよ」

 

「ぶつける前に!」

 

千紗が笑いをこらえ、すみれはさっそく車内の配置をノートに描き始めている。

 

伊里奈は、三人の様子を確認してから説明を始めた。

 

「この車両は、乗員が四人。操縦する人、無線を担当する人、装填を担当する人。それから、指揮と照準を担当する私」

 

「伊里奈ちゃんが、指揮官?」

 

こはるが聞き返した。

 

「うん。少なくとも、このチームではね」

 

「なんか、しっくりくるかも」

 

「そう?」

 

「うん。伊里奈ちゃん、落ち着いてるし」

 

「落ち着いてるというより、無口なだけじゃない?」

 

千紗が口を挟んだ。

 

「えっ、そうかな?」

 

「そういうところだよ、こはる」

 

すみれが微笑んだ。

 

伊里奈は三人のやり取りを聞きながら、わずかに表情を緩めた。

 

こういう会話は、嫌いではなかった。

 

誰かの言葉を読み、次の行動を予測し、相手の意図を理解する。

 

戦車の中でも、必要なのは同じだ。

 

ただし、戦車道では、理解するだけでは足りない。

 

相手が何を見ているのか。

 

何を恐れているのか。

 

何をしようとしているのか。

 

それらを、言葉が届く前に読み取らなければならない場面がある。

 

伊里奈は、そのことを知っていた。

 

だからこそ、最初から三人に完璧を求めるつもりはなかった。

 

「最初は、ゆっくり覚えよう」

 

伊里奈は言った。

 

「私たちは、まだチームになったばかりだから」

 

その言葉に、三人は顔を見合わせた。

 

そして、揃って頷いた。

 

「うん!」

 

「そうだね」

 

「よろしくお願いします、隊長」

 

すみれの言葉に、伊里奈は少しだけ目を丸くした。

 

「……隊長?」

 

「指揮官なんでしょ?」

 

「それは、そうだけど」

 

「じゃあ、隊長だね!」

 

こはるが笑う。

 

伊里奈は返事に困ったように視線を逸らした。

 

「……好きに呼んでいいよ」

 

そう答えた声は、ほんの少しだけ照れていた。

 

乗員の役割を決める作業は、思ったよりも時間がかかった。

 

四人しかいない以上、誰か一人が複数の仕事を兼ねなければならない。

 

T-34初期型は、後年のT-34-85とは異なり、砲塔内の乗員が二人しかいない。そのため、車長が照準と射撃を兼任する構成になる。

 

つまり、伊里奈が指揮を執りながら砲を扱う。

 

残る三人が、操縦、無線、装填を分担する形だ。

 

「操縦は、千紗にお願いしたい」

 

伊里奈が言うと、千紗は少し驚いた顔をした。

 

「私?」

 

「うん。機械の動きをよく見ているし、作業中も異常に気づくのが早かったから」

 

「でも、戦車の操縦なんて、したことないよ?」

 

「最初からできる人はいないよ。私も、いきなり全部できるとは思っていない。まずは基本から覚えていこう」

 

千紗は少し考えてから、頷いた。

 

「わかった。やってみる」

 

「ありがとう」

 

次に、伊里奈はこはるを見る。

 

「こはるには、装填をお願いしたい」

 

「装填って……砲弾を入れる仕事?」

 

「そう。もちろん、実際に扱うのは安全確認ができてから。今日は手順と配置を覚えるだけだよ」

 

「わかった! 力仕事なら任せて!」

 

「力だけじゃなくて、手順も大切だからね」

 

「うっ……が、頑張ります」

 

最後に、すみれへ視線を向ける。

 

「すみれには、無線と記録をお願いしたい」

 

「無線……。通信機器の操作だよね?」

 

「うん。車内の連絡だけじゃなく、外との連絡も担当してもらうことになると思う。操作方法は一緒に確認しよう」

 

「わかった。手順書を作っておくね」

 

「助かる」

 

役割が決まると、四人はそれぞれの持ち場を確認し始めた。

 

千紗は操縦席へ入り、ペダルやレバーの位置を確かめる。すみれは無線機の操作盤を確認し、必要な項目をノートにまとめていく。こはるは装填位置と砲弾を置く場所を確認し、何度も頭の中で手順を繰り返していた。

 

伊里奈は、その様子を見ながら一人ずつ声を掛けた。

 

「千紗、レバーは無理に動かさないで。まず、どの動作に対応しているかを確認しよう」

 

「うん。これは変速……こっちは操向かな?」

 

「そう。急いで操作する必要はないよ」

 

「了解」

 

「すみれ、通信の確認は、まず受信から。送信はまだ試さなくていいからね」

 

「わかった。音量と受信状態を先に確認するね」

 

「こはるは、砲の周囲に手を出さないように。動かす前に、必ず声を掛け合うこと」

 

「はいっ!」

 

説明は簡潔だった。

 

伊里奈は必要なことだけを伝え、三人が理解したかどうかを確かめてから次へ進んだ。

 

知識を一方的に並べても、実際の操作にはつながらない。

 

それを、彼女はよく知っていた。

 

かつての自分も、最初から何もかもできたわけではない。

 

初めて戦車に乗ったときの戸惑い。自分の手で操作した砲が、思ったとおりに動かなかった悔しさ。周囲の声を聞き分けられず、判断が遅れたときの焦り。

 

そうした経験が、今の自分を作っている。

 

だから、三人にも時間が必要だった。

 

そして、失敗できる場所が必要だった。

 

「よし。ひと通り確認できたね」

 

伊里奈は車内を見回した。

 

「次は、エンジンを始動させるよ」

 

その瞬間、三人の表情が変わった。

 

いよいよだ。

 

修復した戦車が、本当に動くのか。

 

それを確かめるときが来た。

 

千紗が操縦席で息を整える。こはるは装填位置から身を引き、すみれは通信機の状態を確認した。

 

伊里奈は、最後にもう一度、車内の全員へ目を向けた。

 

「準備はいい?」

 

「大丈夫」

 

「いつでも!」

 

「記録、準備できてるよ」

 

「じゃあ、始めよう」

 

伊里奈は手順に従って確認を進めた。

 

一つずつ。

 

焦らず、確実に。

 

やがて、エンジンが低い唸り声を上げた。

 

ご、と重い音が車体を震わせる。

 

一度、回転が乱れた。

 

こはるが思わず肩をすくめる。

 

「えっ、今の大丈夫!?」

 

「まだ慌てないで。千紗、計器を確認して」

 

「油圧……異常なし。温度も、今のところ問題ないよ」

 

「すみれ、車内で異音は?」

 

「今のところ、始動時の振動以外は……あ、ちょっと待って。右側から、金属が擦れるような音がする」

 

伊里奈の表情が引き締まった。

 

「……いったん停止しよう」

 

彼女の指示で、千紗が手順どおりにエンジンを止めた。

 

重い唸り声が弱まり、やがて消える。

 

静寂が戻ってきた。

 

「壊れた……?」

 

こはるが、不安そうに呟いた。

 

「まだわからないよ」

 

伊里奈は落ち着いた声で答えた。

 

「異常を見つけられたのは、よかったことだから」

 

「でも……」

 

「動かす前に気づけた。原因を調べて、必要なら直せばいい。それだけだよ」

 

こはるは口を閉じ、やがて頷いた。

 

千紗が操縦席から顔を上げる。

 

「もう一度、確認してみよう」

 

「うん。今度は、音が出ていた場所を中心に見よう」

 

すみれは、すぐに記録帳を開いた。

 

「始動から停止までの状況、記録しておくね」

 

四人は車体を降り、音が聞こえたあたりを確認した。

 

原因は、大きな故障ではなかった。

 

修復した部品の一部が、振動によって近くの金属部品と接触していたのだ。固定位置を調整し、干渉する箇所を確認することで、問題は解消できた。

 

再び車内へ戻る。

 

二度目の始動は、一度目よりもずっと落ち着いていた。

 

エンジンが唸り、車体が小さく震える。

 

今度は、妙な音は聞こえない。

 

「……大丈夫そうだね」

 

千紗が、少し安堵したように言った。

 

「うん。次は、低速で動かしてみよう」

 

伊里奈は、周囲の安全をもう一度確認した。

 

倉庫前の広い場所には、十分な余裕がある。障害物も片づけてある。走行経路はあらかじめ決めてあり、万一の場合にはすぐに停止できるようにしていた。

 

「千紗、まずはゆっくり前進。合図を聞いて、少しずつ操作してね」

 

「わかった」

 

「こはる、車内の安全確認を続けて。すみれは通信をお願い」

 

「了解!」

 

「了解」

 

伊里奈は最後に深く息を吸った。

 

「……前進、始めよう」

 

千紗がレバーを操作する。

 

履帯が、ゆっくりと動き始めた。

 

最初は、ほんのわずかな移動だった。

 

しかし、地面を噛んだ履帯が回り、車体が確かに前へ進んだ瞬間。

 

こはるが、思わず声を上げた。

 

「動いた!」

 

その声には、驚きと喜びが混じっていた。

 

千紗は慎重に操作を続ける。車体はゆっくりと前進し、決められた経路を進んでいく。

 

「速度、そのまま。焦らなくていいよ」

 

伊里奈が声を掛ける。

 

「はい、隊長!」

 

「……その呼び方、まだ慣れないな」

 

「慣れてください!」

 

こはるが笑った。

 

すみれも、通信機の前で小さく笑っていた。

 

戦車は、少しずつ進んでいく。

 

かつて、誰かが操縦し、誰かが砲を扱い、戦車道の試合に出ていた車両。

 

その過去を知る者は、もう学園にはほとんどいない。

 

何十年も前の試合で傷つき、修理されないまま倉庫に置かれた。そのとき、どこの学校と戦い、どんな結果になったのかさえ、記録は曖昧になっていた。

 

それでも、鉄の塊は残っていた。

 

そして今、新しい四人の乗員が、その車体を再び動かしている。

 

伊里奈は、前方を見つめながら、静かに息を吐いた。

 

――走った。

 

その事実を、彼女は胸の中で繰り返した。

 

戦車が動く。

 

ただそれだけのことが、こんなにも重い。

 

彼女は知っている。

 

戦車は、ただの機械ではない。

 

中に乗る人間がいて、互いの声を聞き、判断を重ね、ひとつの方向へ進んでいく。

 

誰か一人が優秀でも、チームは完成しない。

 

自分がかつて学んだことを、今度は自分の手で伝えていく。

 

それができるかどうかは、まだわからない。

 

けれど。

 

「……いい感じだよ、千紗」

 

伊里奈は、前を向いたまま言った。

 

「そのまま、もう少しだけ進もう」

 

「了解!」

 

エンジン音が、春の空気を震わせた。

 

大洗の片隅で、古い鉄騎が目を覚ましていく。

 

「停止、お願いします!」

 

すみれの声が、車内に響いた。

 

伊里奈はすぐに千紗へ合図を送る。

 

「千紗、停止。ゆっくりね」

 

「わかった!」

 

千紗は教えられた手順を思い返しながら、慎重に操作した。

 

戦車の速度が落ちる。

 

履帯の動きが鈍くなり、車体が小さく揺れた。

 

そして、停止。

 

「……止まった?」

 

こはるが、きょろきょろと周囲を見回す。

 

「止まったね」

 

千紗が、ほっと息を吐いた。

 

「やったー!」

 

こはるが両手を上げる。

 

「いや、まだ最初の前進と停止だから」

 

伊里奈はそう言いながらも、口元には笑みが浮かんでいた。

 

「でも、よかった。千紗、操作はどうだった?」

 

「思っていたより、ずっと難しい。レバーを動かすだけじゃなくて、車体がどう動いているかを感じなきゃいけないんだね」

 

「そう。操作した瞬間に、車体が思ったとおりに反応するとは限らないから。音や振動も手掛かりにして、少しずつ感覚をつかんでいこう」

 

「うん。次は、もうちょっと滑らかにできると思う」

 

千紗の声には、確かな手応えがあった。

 

一方、こはるは少しだけ不満そうに頬を膨らませていた。

 

「ねえ、私の仕事って、今のところ安全確認だけ?」

 

「そうだね。今日は、装填の手順を覚えるのが中心だから」

 

「うーん。早く、もっと戦車らしいことをしてみたいなあ」

 

「焦らないの。手順を覚えるのも大事な仕事だよ」

 

すみれが窘める。

 

「わかってるけどさあ」

 

「それに、装填は戦車が動いているときにも必要になるから。急いでやるだけじゃなくて、安全に、確実にできるようにならないと」

 

伊里奈が補足すると、こはるは真剣な顔で頷いた。

 

「……よし。じゃあ、今日は装填の手順を完璧にする!」

 

「うん。でも、無理はしないでね」

 

「はーい!」

 

四人は一度戦車を降り、走行後の点検を行うことにした。

 

車体の外側を回り、履帯の状態や、固定部品の緩みがないかを確かめる。走行前には気づかなかった細かな異常も、動かしたあとなら見つかることがある。

 

千紗は自分が操縦した車体を、いつも以上に慎重に見ていた。

 

「ここ、少し泥が詰まってるね」

 

「走ったときに巻き上げたんだと思う。あとで落としておこう」

 

伊里奈が答える。

 

すみれは記録帳に、走行距離と所要時間、気づいた点を書き込んでいた。

 

「最初の走行は短かったけど、始動時と停止時の状態は記録できたよ。次回、同じ条件で比べられるようにしておくね」

 

「ありがとう。すみれの記録があれば、変化を見つけやすいから」

 

「役に立ててよかった」

 

すみれは、少し照れたように笑った。

 

こはるは、車体の前にしゃがみ込んでいた。

 

「ねえ、伊里奈ちゃん。これって、昔もこんなふうに走ってたんだよね」

 

「そうだと思うよ」

 

「どんな人たちが乗ってたんだろう」

 

伊里奈は、戦車の車体を見た。

 

誰が乗っていたのか。

 

どんな試合に出たのか。

 

どんな景色を見て、どんな声を聞いたのか。

 

詳しい記録は残っていない。

 

古い車両であることは間違いない。かつて大洗の戦車道で使われ、試合で損傷を受けたあと、修理されないまま倉庫へ移されたらしい。

 

だが、その試合の相手も、当時の乗員の名前も、今となってはわからない。

 

「……わからないんだ」

 

伊里奈は、正直に答えた。

 

「資料がほとんど残っていないから」

 

「そっか」

 

こはるは少し残念そうだった。

 

「でも、また走れるようになったんだよね」

 

「うん」

 

「じゃあ、これからは私たちが乗るんだ」

 

その言葉に、伊里奈はこはるを見た。

 

こはるは戦車を見上げている。

 

そこにあるのは、単純な喜びだった。

 

昔の乗員がどんな人だったのかはわからない。

 

戦車がどんな試合を経験してきたのかもわからない。

 

それでも、これから自分たちがこの車両と過ごしていく。

 

その事実を、こはるは素直に喜んでいた。

 

「……そうだね」

 

伊里奈は頷いた。

 

「これからは、私たちの戦車だ」

 

口にした瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 

その言葉は、自分自身に言い聞かせるためのものでもあった。

 

過去は消えない。

 

それでも、過去だけがすべてではない。

 

今の自分には、新しい仲間がいる。

 

新しい車両がある。

 

そして、これから作っていく時間がある。

 

「よしっ!」

 

こはるが勢いよく立ち上がった。

 

「次は、もっと長く走ろうよ!」

 

「その前に、走行後の点検を最後まで終わらせようね」

 

千紗が笑う。

 

「うっ、はい……」

 

「それから、今日はここまで。次回は停止と発進を繰り返して、操縦の練習をしよう」

 

伊里奈がそう決めると、三人は頷いた。

 

最初の試運転は、無事に終わった。

 

完璧ではなかった。

 

小さな異音があり、操作にもぎこちなさがあった。まだ、戦車道の試合に出られるような状態ではない。

 

それでも、確かな一歩だった。

 

四人は、戦車の前で並んだ。

 

「……なんだか、すごいね」

 

こはるが言った。

 

「何が?」

 

「私たち、本当に戦車道を始めたんだなって」

 

千紗は、少し考えてから頷いた。

 

「うん。まだ、始めたばかりだけどね」

 

「それでも、始めたことには変わりないよ」

 

すみれが記録帳を閉じる。

 

「これから、できることを増やしていこう」

 

三人の視線が、伊里奈へ向いた。

 

伊里奈は、少しだけ戸惑った。

 

指揮官。

 

そう呼ばれることには、まだ慣れない。

 

彼女が知っている指揮官という存在は、ただ指示を出すだけの人ではなかった。自分の判断が仲間の行動を変え、その結果が車両の運命を左右する。

 

その重さを、伊里奈は知っている。

 

だから、簡単に「任せて」とは言えなかった。

 

けれど、今は。

 

「……うん。一緒に頑張ろう」

 

伊里奈は、そう答えた。

 

「よろしくね、みんな」

 

「こちらこそ!」

 

四人の声が、春の倉庫に響いた。

 

翌日、学園の掲示板には、戦車道の履修に関する案内が貼り出されていた。

 

授業の復活が正式に告知され、参加を希望する生徒は手続きを行うようにと書かれている。

 

戦車道。

 

その文字を見つめながら、伊里奈はしばらく立ち止まっていた。

 

周囲では、生徒たちが思い思いの反応を見せている。

 

「戦車道って、どんなことをするんだろう?」

 

「試合とかあるんじゃない?」

 

「うちに戦車なんて残ってるのかな」

 

「そもそも、誰が教えるんだろうね?」

 

質問は尽きない。

 

それも当然だろう。

 

大洗女子学園では、戦車道は長く休止されていた。戦車道を知っている生徒はいても、実際に履修した経験がある生徒は少ない。

 

伊里奈は掲示を読み終え、静かに歩き出した。

 

彼女たちのT-34は、農業科の敷地にある。

 

修復は終わったものの、車両の整備記録をまとめ、今後の訓練計画も立てなければならない。正式に参加するなら、学校側への確認も必要だろう。

 

やるべきことは、まだ多い。

 

「伊里奈ちゃーん!」

 

後ろから、こはるの声がした。

 

振り返ると、こはるが手を振りながら走ってくる。千紗とすみれも、その後ろを歩いていた。

 

「掲示、見た?」

 

「うん。正式に始まるみたいだね」

 

「ねえ、私たちも手続きしないと!」

 

こはるは、すでに参加する気満々だった。

 

「そうだね。まずは必要な手続きを確認しよう。戦車の登録や、訓練場所のことも相談しないといけないし」

 

「登録……そういうのもあるんだ」

 

「あると思うよ。戦車を使うんだから」

 

「そっか。そうだよね」

 

こはるは、少しだけ真面目な顔になった。

 

戦車道を始めるというのは、ただ戦車に乗って遊ぶことではない。

 

車両を管理し、乗員の安全を確保し、ほかのチームと一緒に訓練するための準備も必要になる。

 

伊里奈は、三人と一緒に掲示板の案内を確認した。

 

「それから、訓練の場所も決めたいね」

 

千紗が言った。

 

「今の倉庫前だと、走れる距離が短いし」

 

「うん。まずは学園の敷地内で使える場所を確認しよう。無断で走らせるわけにはいかないから」

 

「じゃあ、明日、みんなで相談しようか」

 

すみれが提案した。

 

「必要なことを一覧にしておくね。手続き、整備、訓練場所。それから、今後必要になるものも」

 

「助かるよ、すみれ」

 

伊里奈が微笑む。

 

こはるは、ふと何かを思い出したように顔を上げた。

 

「ねえ、伊里奈ちゃん」

 

「うん?」

 

「戦車道って、試合に出るんだよね?」

 

「そうだね。基本的には、試合を目指して訓練することになると思う」

 

「じゃあ、私たちも、いつか試合に出るのかな」

 

伊里奈は、すぐには答えなかった。

 

いつか。

 

その言葉の先には、まだ見えないものが広がっている。

 

戦車道を始めたばかりの四人が、どこまで成長できるのか。

 

T-34が、どんな相手と戦うことになるのか。

 

そして、自分が再び戦車道の世界に戻ることで、どんな過去と向き合うことになるのか。

 

彼女には、わからないことが多すぎた。

 

ただひとつ、はっきりしていることがある。

 

今度は、一人ではない。

 

「……出ることになったら、出よう」

 

伊里奈は答えた。

 

「そのために、練習しよう。まずは、四人でちゃんと動けるようになることから」

 

「うん!」

 

こはるが元気よく頷いた。

 

千紗も、すみれも、同じように頷く。

 

その返事を聞いて、伊里奈は少しだけ安心した。

 

焦る必要はない。

 

戦車道の世界に戻ったからといって、過去の自分をそのまま持ち込む必要はないのだ。

 

ここには、かつての仲間はいない。

 

自分を知る人もいない。

 

そして、今の自分を信じてくれる三人がいる。

 

彼女たちと一緒に、もう一度、一から始めればいい。

 

伊里奈は掲示板を振り返った。

 

戦車道。

 

その文字を、今度は逃げずに見つめた。

 

かつて自分が過ごした場所とは違う。

 

けれど、戦車に乗ることだけが同じなら、そこから始められることもあるはずだ。

 

「……帰ろうか」

 

伊里奈が言うと、三人が頷いた。

 

四人は並んで歩き出した。

 

春の光が、廊下の窓から差し込んでいる。

 

大洗の戦車道は、まだ始まったばかりだった。

 

そして、彼女たちの物語も。

 

その日の放課後、四人は倉庫の前に集まっていた。

 

戦車は、朝の試運転を終えてから、もう一度点検を受けている。目立った問題は見つからなかったが、走行後に確認すべき項目がいくつか増えた。

 

すみれの記録帳には、今日の作業が細かくまとめられていた。

 

「始動時の異音は、部品の接触が原因。固定位置の調整後は再発なし。走行時の異常も確認されず……」

 

「なんだか、ちゃんとしたチームっぽくなってきたね」

 

こはるが、記録帳を覗き込んだ。

 

「ちゃんとしたチームになるには、まだまだこれからだよ」

 

千紗が言う。

 

「わかってるって。でも、最初は戦車が動くかどうかもわからなかったんだよ? それが今は、ちゃんと走ったんだから!」

 

「それは、そうだね」

 

千紗も、嬉しそうに笑った。

 

伊里奈は、三人の会話を聞きながら、車体の側面を布で拭いていた。

 

塗装の剥がれた部分を、指先でなぞる。

 

傷は、完全には消えない。

 

修復した箇所も、新しく取り付けた部品も、古い車体の中に混ざっている。

 

それでも、この戦車は再び走った。

 

自分たちの手で。

 

その事実が、伊里奈には何より大切だった。

 

「伊里奈ちゃん」

 

こはるが、隣にやってきた。

 

「ん?」

 

「今日、どうだった?」

 

「どう、って?」

 

「初めての試運転。隊長としては、満足?」

 

伊里奈は少し考えた。

 

「満足……ではないかな」

 

「えっ、そうなの?」

 

「まだ改善できるところがあるから。千紗は操縦をもっと練習したほうがいいし、私も車体の状態をもう少し詳しく把握したい。すみれの通信も、実際に走行しながら試す必要があるし、こはるの装填も、手順を繰り返して覚えないといけない」

 

「ううっ、やっぱり課題だらけ……」

 

「でもね」

 

伊里奈は、そこで言葉を切った。

 

三人が、彼女を見る。

 

「今日、戦車が動いたことは、すごく嬉しかったよ」

 

こはるの顔が、ぱっと明るくなった。

 

「でしょ!」

 

「うん。みんながいてくれたから、ここまで来られたと思う」

 

「いやいや、伊里奈ちゃんがいなかったら、そもそも修理が始まってないよ」

 

千紗が笑う。

 

「そうだね。伊里奈が見つけて、直そうと決めたから、私たちも手伝えた」

 

すみれも頷いた。

 

伊里奈は、返す言葉を探した。

 

誰かに感謝されることには、どうにも慣れない。

 

かつては、結果を求められることが多かった。

 

命中したか。

 

判断は正しかったか。

 

作戦の意図を理解できたか。

 

戦場では、それらが評価の基準になった。

 

もちろん、仲間と喜びを分かち合ったこともある。勝利を祝い、互いの腕を認め合い、次の試合に向けて話し合ったことも。

 

けれど、今のように、何かを始めたことそのものを喜んでもらうのは、少し違っていた。

 

まだ勝っていない。

 

まだ試合にも出ていない。

 

それでも、今日の一歩を、みんなが大切にしてくれている。

 

伊里奈は、胸の奥に生まれた温かさを、静かに受け止めた。

 

「……ありがとう」

 

それだけ言うと、こはるが笑った。

 

「よし! じゃあ、次も頑張ろう!」

 

「うん」

 

「次回は、もう少し長く走れるといいね」

 

千紗が言う。

 

「そのためにも、今日の記録を整理して、次の確認事項をまとめておくね」

 

すみれがノートを抱え直した。

 

四人の目標は、少しずつ具体的になっていた。

 

まずは、安全に走れること。

 

次に、乗員同士で連携できること。

 

それから、車両の癖を知り、状況に応じて判断できるようになること。

 

試合に出るのは、その先だ。

 

伊里奈は、戦車を見上げた。

 

「次の練習では、発進と停止を繰り返そう。千紗が操作に慣れたら、ゆっくり曲がる練習もしたい」

 

「了解!」

 

「こはるは、装填の手順を引き続き確認。実際の射撃訓練に進むのは、安全面も含めて準備が整ってからね」

 

「わかった!」

 

「すみれは、通信の練習と記録をお願い」

 

「任せて」

 

「私も、車体の点検を続ける。何か気になることがあったら、すぐに教えてね」

 

三人が頷いた。

 

伊里奈は、その顔を順番に見た。

 

こはるの明るさ。

 

千紗の落ち着き。

 

すみれの丁寧さ。

 

三人は、それぞれ違う。

 

得意なことも、苦手なことも、物事の考え方も違う。

 

だからこそ、四人でできることがあるのかもしれない。

 

一人では見落とすことを、誰かが見つける。

 

一人では迷うことを、誰かが支える。

 

一人では決められないことを、話し合って決める。

 

戦車の中では、そのすべてが必要になる。

 

「……よし」

 

伊里奈は、軽く手を叩いた。

 

「今日はここまで。片付けをして、帰ろう」

 

「はーい!」

 

こはるが元気よく返事をする。

 

千紗は工具をまとめ、すみれは記録帳を鞄にしまった。

 

それぞれが片付けを始める。

 

夕暮れが、倉庫の壁を橙色に染めていた。

 

T-34の装甲に、柔らかな光が映る。

 

古い戦車。

 

忘れられていた鉄騎。

 

それが今、四人の少女たちの手によって、再び動き始めている。

 

伊里奈は、最後にもう一度、車体へ目を向けた。

 

「また明日ね」

 

小さく呟く。

 

誰に聞かせるでもない言葉だった。

 

それでも、彼女の声は、どこか優しかった。

 

その夜。

 

自室に戻った伊里奈は、机の上に置いたノートを開いた。

 

今日の走行記録をまとめるためだった。

 

始動時の状態。走行中の振動。停止時の挙動。次回の課題。

 

必要なことを書き出していくうちに、ページの端に、ふと別の文字が浮かんだ。

 

彼女自身が書いたものではない。

 

記憶の中にある、遠い声。

 

雪の降る戦場。

 

車体を揺らす衝撃。

 

砲塔越しに見えた景色。

 

そして、誰かの声。

 

――イリーナ。

 

伊里奈は、ペンを止めた。

 

しばらく、何も書けなかった。

 

あの頃のことを忘れたわけではない。

 

カチューシャと過ごした時間も、ノンナと交わした言葉も、戦場で感じた誇りも、すれ違いも。

 

すべて覚えている。

 

忘れようとしても、忘れられない。

 

ただ、それを大洗で語るつもりはなかった。

 

今の仲間たちに、自分の過去を背負わせたくない。

 

彼女たちは、まだ何も知らない。

 

伊里奈がどこで戦車道を学び、誰と肩を並べ、何を失ったのか。

 

知らなくていいと、彼女は思っていた。

 

少なくとも、今は。

 

伊里奈はノートを閉じた。

 

窓の外では、学園艦の灯りが海面に揺れている。

 

ここは、プラウダではない。

 

あの雪原でもない。

 

そして、自分はもう、あの頃の自分と同じではなかった。

 

「……明日も、頑張ろう」

 

静かな部屋で、伊里奈は呟いた。

 

明日も戦車を点検する。

 

三人と一緒に練習する。

 

少しずつ、できることを増やしていく。

 

その先に何が待っているのかは、まだわからない。

 

それでも、今は前へ進めばいい。

 

大洗の春は、まだ始まったばかりなのだから。

 

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