「……本当に、私たちが乗るんだね」
朝倉こはるは、目の前の戦車を見上げながら呟いた。
農業科の敷地の片隅。長いあいだ倉庫の奥で眠っていたT-34初期型は、以前とは見違える姿になっていた。
錆びついていた履帯は整備され、車体の各部に残っていた損傷も、走行に支障が出ないよう修復されている。塗装には古さが残るものの、装甲の継ぎ目や整備ハッチはきちんと手入れされ、車体には再び機械としてのまとまりが戻っていた。
それでも、ピカピカの新車とは程遠い。
修復の跡は隠しきれないし、交換できなかった部品もある。車体の奥からは、長く使われずにいた機械特有の重い匂いが漂っていた。
「乗るって決めたの、こはるでしょ」
水野千紗が笑う。
「決めたけど! 実物を前にすると、なんかこう……大きいなって!」
「それは、戦車だからね」
黒田すみれが、いつもの調子で答えた。
「うう、正論……」
こはるは戦車を見上げ直した。
大きい。
それに、重そうだ。
自分たちがこれを動かす。自分たちが中に入って、操作して、学園の敷地を走らせる。
数週間前には、想像もしなかったことだった。
そもそもの始まりは、倉庫の片付けをしていたときに、こはるが奥のほうで妙なものを見つけたことだった。
古い農具や、使い道のわからない金属部品。埃をかぶった木箱。そのさらに向こうに、巨大な鉄の塊が隠れていた。
それが戦車だとわかったときの驚きは、今でも覚えている。
そして、その戦車を一人で直そうとしていた少女がいた。
雪村伊里奈。
落ち着いていて、あまり自分のことを話さない。質問すれば答えてくれるが、自分から長々と話すことは少ない。工具の扱いは驚くほど手慣れていて、壊れた部品を前にしても、何を確かめるべきか迷わなかった。
最初は、ただの興味だった。
どうしてこんなものを直しているのか。
本当に動くのか。
動いたら、どんな音がするのか。
そのうち、こはるは手伝うようになった。千紗も、すみれも加わった。
一緒に工具を運び、部品を整理し、作業記録をつける。難しい修理は伊里奈が担当し、三人はできる範囲の作業を手伝った。
そうして一か月半。
戦車は、再び走れる状態になった。
そして、学園で戦車道が復活するという知らせが届いたあと。
伊里奈は、三人を前にして、普段の落ち着きを失うほど緊張しながら言ったのだった。
――私と一緒に、戦車道をやってくれませんか。
あのときの伊里奈の顔を思い出すと、こはるは今でも少し笑ってしまう。
いつもは、こちらが何を言っても動じないのに。
誘う言葉を何度も頭の中で考えていたのだろう。話し始める前に、工具箱の蓋を二度も開け閉めしていた。
「……こはる、何を笑ってるの?」
伊里奈が尋ねた。
「ううん。なんでもない!」
「そう?」
伊里奈は少し不思議そうにしたものの、それ以上は追及しなかった。
作業着の袖を整え、戦車の前に立つ。
「じゃあ、始めようか」
その一言で、三人の表情が引き締まった。
今日はいよいよ、修復したT-34の試運転だった。
戦車道に参加すると決めた以上、動かせるだけでは足りない。乗員同士で声を掛け合い、安全を確かめ、車両の癖を知る必要がある。
もっとも、四人とも、最初から完璧にできるとは思っていなかった。
伊里奈を除けば、戦車に乗ること自体が初めてなのだ。
「最初に確認することは、三つ」
伊里奈は指を一本立てた。
「無理をしない。わからないことを、わかったふりをしない。それから、異常があったらすぐに伝える」
「はい!」
こはるが元気よく返事をした。
「特に、車内は外から見えない場所が多いから。変な音がしたり、動きがおかしかったりしたら、些細なことでも教えてね」
「わかった」
千紗が頷く。
すみれはノートに書き込んだ。
「確認事項、記録しておくね」
「ありがとう。じゃあ、まずは乗り込もう」
伊里奈が車体側面の手すりに手を掛ける。
その動作には、迷いがなかった。
足を掛ける場所。体重を移す位置。車体のどこに手を置けば安定するのか。
まるで、何度も繰り返してきた動作のように自然だった。
こはるは、その背中を見つめた。
「伊里奈ちゃんって、戦車に乗ったことあるんだよね?」
何気ない質問だった。
伊里奈の動きが、一瞬だけ止まった。
「……どうして?」
「だって、乗り方が慣れてるから」
「ああ」
伊里奈は振り返り、曖昧に笑った。
「本で読んだことがあるから、かな」
「本で?」
「うん。整備の資料とか、車両の構造についてのものとか」
嘘ではない。
しかし、すべてを語ったわけでもなかった。
こはるは、納得したような、しきれていないような顔をした。
「へえ。そんな本があるんだ」
「あるよ。探せばね」
伊里奈は、それ以上何も付け加えなかった。
三人も、それ以上は尋ねなかった。
彼女が話したくないことを、無理に聞き出すつもりはなかったからだ。
それぞれが車体へ上がり、伊里奈の案内で内部へ入っていく。
狭い。
外から見たとき以上に、車内は狭かった。
金属の壁が近く、足元には機材が並んでいる。身体を動かすたびに、装備や金属部品が触れ合う音がした。
こはるは頭をぶつけそうになり、慌てて身をかがめた。
「うわっ、狭っ!」
「頭、気をつけて」
「先に言ってよー!」
「今、言ったよ」
「ぶつける前に!」
千紗が笑いをこらえ、すみれはさっそく車内の配置をノートに描き始めている。
伊里奈は、三人の様子を確認してから説明を始めた。
「この車両は、乗員が四人。操縦する人、無線を担当する人、装填を担当する人。それから、指揮と照準を担当する私」
「伊里奈ちゃんが、指揮官?」
こはるが聞き返した。
「うん。少なくとも、このチームではね」
「なんか、しっくりくるかも」
「そう?」
「うん。伊里奈ちゃん、落ち着いてるし」
「落ち着いてるというより、無口なだけじゃない?」
千紗が口を挟んだ。
「えっ、そうかな?」
「そういうところだよ、こはる」
すみれが微笑んだ。
伊里奈は三人のやり取りを聞きながら、わずかに表情を緩めた。
こういう会話は、嫌いではなかった。
誰かの言葉を読み、次の行動を予測し、相手の意図を理解する。
戦車の中でも、必要なのは同じだ。
ただし、戦車道では、理解するだけでは足りない。
相手が何を見ているのか。
何を恐れているのか。
何をしようとしているのか。
それらを、言葉が届く前に読み取らなければならない場面がある。
伊里奈は、そのことを知っていた。
だからこそ、最初から三人に完璧を求めるつもりはなかった。
「最初は、ゆっくり覚えよう」
伊里奈は言った。
「私たちは、まだチームになったばかりだから」
その言葉に、三人は顔を見合わせた。
そして、揃って頷いた。
「うん!」
「そうだね」
「よろしくお願いします、隊長」
すみれの言葉に、伊里奈は少しだけ目を丸くした。
「……隊長?」
「指揮官なんでしょ?」
「それは、そうだけど」
「じゃあ、隊長だね!」
こはるが笑う。
伊里奈は返事に困ったように視線を逸らした。
「……好きに呼んでいいよ」
そう答えた声は、ほんの少しだけ照れていた。
乗員の役割を決める作業は、思ったよりも時間がかかった。
四人しかいない以上、誰か一人が複数の仕事を兼ねなければならない。
T-34初期型は、後年のT-34-85とは異なり、砲塔内の乗員が二人しかいない。そのため、車長が照準と射撃を兼任する構成になる。
つまり、伊里奈が指揮を執りながら砲を扱う。
残る三人が、操縦、無線、装填を分担する形だ。
「操縦は、千紗にお願いしたい」
伊里奈が言うと、千紗は少し驚いた顔をした。
「私?」
「うん。機械の動きをよく見ているし、作業中も異常に気づくのが早かったから」
「でも、戦車の操縦なんて、したことないよ?」
「最初からできる人はいないよ。私も、いきなり全部できるとは思っていない。まずは基本から覚えていこう」
千紗は少し考えてから、頷いた。
「わかった。やってみる」
「ありがとう」
次に、伊里奈はこはるを見る。
「こはるには、装填をお願いしたい」
「装填って……砲弾を入れる仕事?」
「そう。もちろん、実際に扱うのは安全確認ができてから。今日は手順と配置を覚えるだけだよ」
「わかった! 力仕事なら任せて!」
「力だけじゃなくて、手順も大切だからね」
「うっ……が、頑張ります」
最後に、すみれへ視線を向ける。
「すみれには、無線と記録をお願いしたい」
「無線……。通信機器の操作だよね?」
「うん。車内の連絡だけじゃなく、外との連絡も担当してもらうことになると思う。操作方法は一緒に確認しよう」
「わかった。手順書を作っておくね」
「助かる」
役割が決まると、四人はそれぞれの持ち場を確認し始めた。
千紗は操縦席へ入り、ペダルやレバーの位置を確かめる。すみれは無線機の操作盤を確認し、必要な項目をノートにまとめていく。こはるは装填位置と砲弾を置く場所を確認し、何度も頭の中で手順を繰り返していた。
伊里奈は、その様子を見ながら一人ずつ声を掛けた。
「千紗、レバーは無理に動かさないで。まず、どの動作に対応しているかを確認しよう」
「うん。これは変速……こっちは操向かな?」
「そう。急いで操作する必要はないよ」
「了解」
「すみれ、通信の確認は、まず受信から。送信はまだ試さなくていいからね」
「わかった。音量と受信状態を先に確認するね」
「こはるは、砲の周囲に手を出さないように。動かす前に、必ず声を掛け合うこと」
「はいっ!」
説明は簡潔だった。
伊里奈は必要なことだけを伝え、三人が理解したかどうかを確かめてから次へ進んだ。
知識を一方的に並べても、実際の操作にはつながらない。
それを、彼女はよく知っていた。
かつての自分も、最初から何もかもできたわけではない。
初めて戦車に乗ったときの戸惑い。自分の手で操作した砲が、思ったとおりに動かなかった悔しさ。周囲の声を聞き分けられず、判断が遅れたときの焦り。
そうした経験が、今の自分を作っている。
だから、三人にも時間が必要だった。
そして、失敗できる場所が必要だった。
「よし。ひと通り確認できたね」
伊里奈は車内を見回した。
「次は、エンジンを始動させるよ」
その瞬間、三人の表情が変わった。
いよいよだ。
修復した戦車が、本当に動くのか。
それを確かめるときが来た。
千紗が操縦席で息を整える。こはるは装填位置から身を引き、すみれは通信機の状態を確認した。
伊里奈は、最後にもう一度、車内の全員へ目を向けた。
「準備はいい?」
「大丈夫」
「いつでも!」
「記録、準備できてるよ」
「じゃあ、始めよう」
伊里奈は手順に従って確認を進めた。
一つずつ。
焦らず、確実に。
やがて、エンジンが低い唸り声を上げた。
ご、と重い音が車体を震わせる。
一度、回転が乱れた。
こはるが思わず肩をすくめる。
「えっ、今の大丈夫!?」
「まだ慌てないで。千紗、計器を確認して」
「油圧……異常なし。温度も、今のところ問題ないよ」
「すみれ、車内で異音は?」
「今のところ、始動時の振動以外は……あ、ちょっと待って。右側から、金属が擦れるような音がする」
伊里奈の表情が引き締まった。
「……いったん停止しよう」
彼女の指示で、千紗が手順どおりにエンジンを止めた。
重い唸り声が弱まり、やがて消える。
静寂が戻ってきた。
「壊れた……?」
こはるが、不安そうに呟いた。
「まだわからないよ」
伊里奈は落ち着いた声で答えた。
「異常を見つけられたのは、よかったことだから」
「でも……」
「動かす前に気づけた。原因を調べて、必要なら直せばいい。それだけだよ」
こはるは口を閉じ、やがて頷いた。
千紗が操縦席から顔を上げる。
「もう一度、確認してみよう」
「うん。今度は、音が出ていた場所を中心に見よう」
すみれは、すぐに記録帳を開いた。
「始動から停止までの状況、記録しておくね」
四人は車体を降り、音が聞こえたあたりを確認した。
原因は、大きな故障ではなかった。
修復した部品の一部が、振動によって近くの金属部品と接触していたのだ。固定位置を調整し、干渉する箇所を確認することで、問題は解消できた。
再び車内へ戻る。
二度目の始動は、一度目よりもずっと落ち着いていた。
エンジンが唸り、車体が小さく震える。
今度は、妙な音は聞こえない。
「……大丈夫そうだね」
千紗が、少し安堵したように言った。
「うん。次は、低速で動かしてみよう」
伊里奈は、周囲の安全をもう一度確認した。
倉庫前の広い場所には、十分な余裕がある。障害物も片づけてある。走行経路はあらかじめ決めてあり、万一の場合にはすぐに停止できるようにしていた。
「千紗、まずはゆっくり前進。合図を聞いて、少しずつ操作してね」
「わかった」
「こはる、車内の安全確認を続けて。すみれは通信をお願い」
「了解!」
「了解」
伊里奈は最後に深く息を吸った。
「……前進、始めよう」
千紗がレバーを操作する。
履帯が、ゆっくりと動き始めた。
最初は、ほんのわずかな移動だった。
しかし、地面を噛んだ履帯が回り、車体が確かに前へ進んだ瞬間。
こはるが、思わず声を上げた。
「動いた!」
その声には、驚きと喜びが混じっていた。
千紗は慎重に操作を続ける。車体はゆっくりと前進し、決められた経路を進んでいく。
「速度、そのまま。焦らなくていいよ」
伊里奈が声を掛ける。
「はい、隊長!」
「……その呼び方、まだ慣れないな」
「慣れてください!」
こはるが笑った。
すみれも、通信機の前で小さく笑っていた。
戦車は、少しずつ進んでいく。
かつて、誰かが操縦し、誰かが砲を扱い、戦車道の試合に出ていた車両。
その過去を知る者は、もう学園にはほとんどいない。
何十年も前の試合で傷つき、修理されないまま倉庫に置かれた。そのとき、どこの学校と戦い、どんな結果になったのかさえ、記録は曖昧になっていた。
それでも、鉄の塊は残っていた。
そして今、新しい四人の乗員が、その車体を再び動かしている。
伊里奈は、前方を見つめながら、静かに息を吐いた。
――走った。
その事実を、彼女は胸の中で繰り返した。
戦車が動く。
ただそれだけのことが、こんなにも重い。
彼女は知っている。
戦車は、ただの機械ではない。
中に乗る人間がいて、互いの声を聞き、判断を重ね、ひとつの方向へ進んでいく。
誰か一人が優秀でも、チームは完成しない。
自分がかつて学んだことを、今度は自分の手で伝えていく。
それができるかどうかは、まだわからない。
けれど。
「……いい感じだよ、千紗」
伊里奈は、前を向いたまま言った。
「そのまま、もう少しだけ進もう」
「了解!」
エンジン音が、春の空気を震わせた。
大洗の片隅で、古い鉄騎が目を覚ましていく。
「停止、お願いします!」
すみれの声が、車内に響いた。
伊里奈はすぐに千紗へ合図を送る。
「千紗、停止。ゆっくりね」
「わかった!」
千紗は教えられた手順を思い返しながら、慎重に操作した。
戦車の速度が落ちる。
履帯の動きが鈍くなり、車体が小さく揺れた。
そして、停止。
「……止まった?」
こはるが、きょろきょろと周囲を見回す。
「止まったね」
千紗が、ほっと息を吐いた。
「やったー!」
こはるが両手を上げる。
「いや、まだ最初の前進と停止だから」
伊里奈はそう言いながらも、口元には笑みが浮かんでいた。
「でも、よかった。千紗、操作はどうだった?」
「思っていたより、ずっと難しい。レバーを動かすだけじゃなくて、車体がどう動いているかを感じなきゃいけないんだね」
「そう。操作した瞬間に、車体が思ったとおりに反応するとは限らないから。音や振動も手掛かりにして、少しずつ感覚をつかんでいこう」
「うん。次は、もうちょっと滑らかにできると思う」
千紗の声には、確かな手応えがあった。
一方、こはるは少しだけ不満そうに頬を膨らませていた。
「ねえ、私の仕事って、今のところ安全確認だけ?」
「そうだね。今日は、装填の手順を覚えるのが中心だから」
「うーん。早く、もっと戦車らしいことをしてみたいなあ」
「焦らないの。手順を覚えるのも大事な仕事だよ」
すみれが窘める。
「わかってるけどさあ」
「それに、装填は戦車が動いているときにも必要になるから。急いでやるだけじゃなくて、安全に、確実にできるようにならないと」
伊里奈が補足すると、こはるは真剣な顔で頷いた。
「……よし。じゃあ、今日は装填の手順を完璧にする!」
「うん。でも、無理はしないでね」
「はーい!」
四人は一度戦車を降り、走行後の点検を行うことにした。
車体の外側を回り、履帯の状態や、固定部品の緩みがないかを確かめる。走行前には気づかなかった細かな異常も、動かしたあとなら見つかることがある。
千紗は自分が操縦した車体を、いつも以上に慎重に見ていた。
「ここ、少し泥が詰まってるね」
「走ったときに巻き上げたんだと思う。あとで落としておこう」
伊里奈が答える。
すみれは記録帳に、走行距離と所要時間、気づいた点を書き込んでいた。
「最初の走行は短かったけど、始動時と停止時の状態は記録できたよ。次回、同じ条件で比べられるようにしておくね」
「ありがとう。すみれの記録があれば、変化を見つけやすいから」
「役に立ててよかった」
すみれは、少し照れたように笑った。
こはるは、車体の前にしゃがみ込んでいた。
「ねえ、伊里奈ちゃん。これって、昔もこんなふうに走ってたんだよね」
「そうだと思うよ」
「どんな人たちが乗ってたんだろう」
伊里奈は、戦車の車体を見た。
誰が乗っていたのか。
どんな試合に出たのか。
どんな景色を見て、どんな声を聞いたのか。
詳しい記録は残っていない。
古い車両であることは間違いない。かつて大洗の戦車道で使われ、試合で損傷を受けたあと、修理されないまま倉庫へ移されたらしい。
だが、その試合の相手も、当時の乗員の名前も、今となってはわからない。
「……わからないんだ」
伊里奈は、正直に答えた。
「資料がほとんど残っていないから」
「そっか」
こはるは少し残念そうだった。
「でも、また走れるようになったんだよね」
「うん」
「じゃあ、これからは私たちが乗るんだ」
その言葉に、伊里奈はこはるを見た。
こはるは戦車を見上げている。
そこにあるのは、単純な喜びだった。
昔の乗員がどんな人だったのかはわからない。
戦車がどんな試合を経験してきたのかもわからない。
それでも、これから自分たちがこの車両と過ごしていく。
その事実を、こはるは素直に喜んでいた。
「……そうだね」
伊里奈は頷いた。
「これからは、私たちの戦車だ」
口にした瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
その言葉は、自分自身に言い聞かせるためのものでもあった。
過去は消えない。
それでも、過去だけがすべてではない。
今の自分には、新しい仲間がいる。
新しい車両がある。
そして、これから作っていく時間がある。
「よしっ!」
こはるが勢いよく立ち上がった。
「次は、もっと長く走ろうよ!」
「その前に、走行後の点検を最後まで終わらせようね」
千紗が笑う。
「うっ、はい……」
「それから、今日はここまで。次回は停止と発進を繰り返して、操縦の練習をしよう」
伊里奈がそう決めると、三人は頷いた。
最初の試運転は、無事に終わった。
完璧ではなかった。
小さな異音があり、操作にもぎこちなさがあった。まだ、戦車道の試合に出られるような状態ではない。
それでも、確かな一歩だった。
四人は、戦車の前で並んだ。
「……なんだか、すごいね」
こはるが言った。
「何が?」
「私たち、本当に戦車道を始めたんだなって」
千紗は、少し考えてから頷いた。
「うん。まだ、始めたばかりだけどね」
「それでも、始めたことには変わりないよ」
すみれが記録帳を閉じる。
「これから、できることを増やしていこう」
三人の視線が、伊里奈へ向いた。
伊里奈は、少しだけ戸惑った。
指揮官。
そう呼ばれることには、まだ慣れない。
彼女が知っている指揮官という存在は、ただ指示を出すだけの人ではなかった。自分の判断が仲間の行動を変え、その結果が車両の運命を左右する。
その重さを、伊里奈は知っている。
だから、簡単に「任せて」とは言えなかった。
けれど、今は。
「……うん。一緒に頑張ろう」
伊里奈は、そう答えた。
「よろしくね、みんな」
「こちらこそ!」
四人の声が、春の倉庫に響いた。
翌日、学園の掲示板には、戦車道の履修に関する案内が貼り出されていた。
授業の復活が正式に告知され、参加を希望する生徒は手続きを行うようにと書かれている。
戦車道。
その文字を見つめながら、伊里奈はしばらく立ち止まっていた。
周囲では、生徒たちが思い思いの反応を見せている。
「戦車道って、どんなことをするんだろう?」
「試合とかあるんじゃない?」
「うちに戦車なんて残ってるのかな」
「そもそも、誰が教えるんだろうね?」
質問は尽きない。
それも当然だろう。
大洗女子学園では、戦車道は長く休止されていた。戦車道を知っている生徒はいても、実際に履修した経験がある生徒は少ない。
伊里奈は掲示を読み終え、静かに歩き出した。
彼女たちのT-34は、農業科の敷地にある。
修復は終わったものの、車両の整備記録をまとめ、今後の訓練計画も立てなければならない。正式に参加するなら、学校側への確認も必要だろう。
やるべきことは、まだ多い。
「伊里奈ちゃーん!」
後ろから、こはるの声がした。
振り返ると、こはるが手を振りながら走ってくる。千紗とすみれも、その後ろを歩いていた。
「掲示、見た?」
「うん。正式に始まるみたいだね」
「ねえ、私たちも手続きしないと!」
こはるは、すでに参加する気満々だった。
「そうだね。まずは必要な手続きを確認しよう。戦車の登録や、訓練場所のことも相談しないといけないし」
「登録……そういうのもあるんだ」
「あると思うよ。戦車を使うんだから」
「そっか。そうだよね」
こはるは、少しだけ真面目な顔になった。
戦車道を始めるというのは、ただ戦車に乗って遊ぶことではない。
車両を管理し、乗員の安全を確保し、ほかのチームと一緒に訓練するための準備も必要になる。
伊里奈は、三人と一緒に掲示板の案内を確認した。
「それから、訓練の場所も決めたいね」
千紗が言った。
「今の倉庫前だと、走れる距離が短いし」
「うん。まずは学園の敷地内で使える場所を確認しよう。無断で走らせるわけにはいかないから」
「じゃあ、明日、みんなで相談しようか」
すみれが提案した。
「必要なことを一覧にしておくね。手続き、整備、訓練場所。それから、今後必要になるものも」
「助かるよ、すみれ」
伊里奈が微笑む。
こはるは、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「ねえ、伊里奈ちゃん」
「うん?」
「戦車道って、試合に出るんだよね?」
「そうだね。基本的には、試合を目指して訓練することになると思う」
「じゃあ、私たちも、いつか試合に出るのかな」
伊里奈は、すぐには答えなかった。
いつか。
その言葉の先には、まだ見えないものが広がっている。
戦車道を始めたばかりの四人が、どこまで成長できるのか。
T-34が、どんな相手と戦うことになるのか。
そして、自分が再び戦車道の世界に戻ることで、どんな過去と向き合うことになるのか。
彼女には、わからないことが多すぎた。
ただひとつ、はっきりしていることがある。
今度は、一人ではない。
「……出ることになったら、出よう」
伊里奈は答えた。
「そのために、練習しよう。まずは、四人でちゃんと動けるようになることから」
「うん!」
こはるが元気よく頷いた。
千紗も、すみれも、同じように頷く。
その返事を聞いて、伊里奈は少しだけ安心した。
焦る必要はない。
戦車道の世界に戻ったからといって、過去の自分をそのまま持ち込む必要はないのだ。
ここには、かつての仲間はいない。
自分を知る人もいない。
そして、今の自分を信じてくれる三人がいる。
彼女たちと一緒に、もう一度、一から始めればいい。
伊里奈は掲示板を振り返った。
戦車道。
その文字を、今度は逃げずに見つめた。
かつて自分が過ごした場所とは違う。
けれど、戦車に乗ることだけが同じなら、そこから始められることもあるはずだ。
「……帰ろうか」
伊里奈が言うと、三人が頷いた。
四人は並んで歩き出した。
春の光が、廊下の窓から差し込んでいる。
大洗の戦車道は、まだ始まったばかりだった。
そして、彼女たちの物語も。
その日の放課後、四人は倉庫の前に集まっていた。
戦車は、朝の試運転を終えてから、もう一度点検を受けている。目立った問題は見つからなかったが、走行後に確認すべき項目がいくつか増えた。
すみれの記録帳には、今日の作業が細かくまとめられていた。
「始動時の異音は、部品の接触が原因。固定位置の調整後は再発なし。走行時の異常も確認されず……」
「なんだか、ちゃんとしたチームっぽくなってきたね」
こはるが、記録帳を覗き込んだ。
「ちゃんとしたチームになるには、まだまだこれからだよ」
千紗が言う。
「わかってるって。でも、最初は戦車が動くかどうかもわからなかったんだよ? それが今は、ちゃんと走ったんだから!」
「それは、そうだね」
千紗も、嬉しそうに笑った。
伊里奈は、三人の会話を聞きながら、車体の側面を布で拭いていた。
塗装の剥がれた部分を、指先でなぞる。
傷は、完全には消えない。
修復した箇所も、新しく取り付けた部品も、古い車体の中に混ざっている。
それでも、この戦車は再び走った。
自分たちの手で。
その事実が、伊里奈には何より大切だった。
「伊里奈ちゃん」
こはるが、隣にやってきた。
「ん?」
「今日、どうだった?」
「どう、って?」
「初めての試運転。隊長としては、満足?」
伊里奈は少し考えた。
「満足……ではないかな」
「えっ、そうなの?」
「まだ改善できるところがあるから。千紗は操縦をもっと練習したほうがいいし、私も車体の状態をもう少し詳しく把握したい。すみれの通信も、実際に走行しながら試す必要があるし、こはるの装填も、手順を繰り返して覚えないといけない」
「ううっ、やっぱり課題だらけ……」
「でもね」
伊里奈は、そこで言葉を切った。
三人が、彼女を見る。
「今日、戦車が動いたことは、すごく嬉しかったよ」
こはるの顔が、ぱっと明るくなった。
「でしょ!」
「うん。みんながいてくれたから、ここまで来られたと思う」
「いやいや、伊里奈ちゃんがいなかったら、そもそも修理が始まってないよ」
千紗が笑う。
「そうだね。伊里奈が見つけて、直そうと決めたから、私たちも手伝えた」
すみれも頷いた。
伊里奈は、返す言葉を探した。
誰かに感謝されることには、どうにも慣れない。
かつては、結果を求められることが多かった。
命中したか。
判断は正しかったか。
作戦の意図を理解できたか。
戦場では、それらが評価の基準になった。
もちろん、仲間と喜びを分かち合ったこともある。勝利を祝い、互いの腕を認め合い、次の試合に向けて話し合ったことも。
けれど、今のように、何かを始めたことそのものを喜んでもらうのは、少し違っていた。
まだ勝っていない。
まだ試合にも出ていない。
それでも、今日の一歩を、みんなが大切にしてくれている。
伊里奈は、胸の奥に生まれた温かさを、静かに受け止めた。
「……ありがとう」
それだけ言うと、こはるが笑った。
「よし! じゃあ、次も頑張ろう!」
「うん」
「次回は、もう少し長く走れるといいね」
千紗が言う。
「そのためにも、今日の記録を整理して、次の確認事項をまとめておくね」
すみれがノートを抱え直した。
四人の目標は、少しずつ具体的になっていた。
まずは、安全に走れること。
次に、乗員同士で連携できること。
それから、車両の癖を知り、状況に応じて判断できるようになること。
試合に出るのは、その先だ。
伊里奈は、戦車を見上げた。
「次の練習では、発進と停止を繰り返そう。千紗が操作に慣れたら、ゆっくり曲がる練習もしたい」
「了解!」
「こはるは、装填の手順を引き続き確認。実際の射撃訓練に進むのは、安全面も含めて準備が整ってからね」
「わかった!」
「すみれは、通信の練習と記録をお願い」
「任せて」
「私も、車体の点検を続ける。何か気になることがあったら、すぐに教えてね」
三人が頷いた。
伊里奈は、その顔を順番に見た。
こはるの明るさ。
千紗の落ち着き。
すみれの丁寧さ。
三人は、それぞれ違う。
得意なことも、苦手なことも、物事の考え方も違う。
だからこそ、四人でできることがあるのかもしれない。
一人では見落とすことを、誰かが見つける。
一人では迷うことを、誰かが支える。
一人では決められないことを、話し合って決める。
戦車の中では、そのすべてが必要になる。
「……よし」
伊里奈は、軽く手を叩いた。
「今日はここまで。片付けをして、帰ろう」
「はーい!」
こはるが元気よく返事をする。
千紗は工具をまとめ、すみれは記録帳を鞄にしまった。
それぞれが片付けを始める。
夕暮れが、倉庫の壁を橙色に染めていた。
T-34の装甲に、柔らかな光が映る。
古い戦車。
忘れられていた鉄騎。
それが今、四人の少女たちの手によって、再び動き始めている。
伊里奈は、最後にもう一度、車体へ目を向けた。
「また明日ね」
小さく呟く。
誰に聞かせるでもない言葉だった。
それでも、彼女の声は、どこか優しかった。
その夜。
自室に戻った伊里奈は、机の上に置いたノートを開いた。
今日の走行記録をまとめるためだった。
始動時の状態。走行中の振動。停止時の挙動。次回の課題。
必要なことを書き出していくうちに、ページの端に、ふと別の文字が浮かんだ。
彼女自身が書いたものではない。
記憶の中にある、遠い声。
雪の降る戦場。
車体を揺らす衝撃。
砲塔越しに見えた景色。
そして、誰かの声。
――イリーナ。
伊里奈は、ペンを止めた。
しばらく、何も書けなかった。
あの頃のことを忘れたわけではない。
カチューシャと過ごした時間も、ノンナと交わした言葉も、戦場で感じた誇りも、すれ違いも。
すべて覚えている。
忘れようとしても、忘れられない。
ただ、それを大洗で語るつもりはなかった。
今の仲間たちに、自分の過去を背負わせたくない。
彼女たちは、まだ何も知らない。
伊里奈がどこで戦車道を学び、誰と肩を並べ、何を失ったのか。
知らなくていいと、彼女は思っていた。
少なくとも、今は。
伊里奈はノートを閉じた。
窓の外では、学園艦の灯りが海面に揺れている。
ここは、プラウダではない。
あの雪原でもない。
そして、自分はもう、あの頃の自分と同じではなかった。
「……明日も、頑張ろう」
静かな部屋で、伊里奈は呟いた。
明日も戦車を点検する。
三人と一緒に練習する。
少しずつ、できることを増やしていく。
その先に何が待っているのかは、まだわからない。
それでも、今は前へ進めばいい。
大洗の春は、まだ始まったばかりなのだから。