昼休み。
午前中の授業が終わると、教室の空気は一気に緩んだ。
椅子を引く音、友達を呼ぶ声、昼食の話題で盛り上がる声。生徒たちはそれぞれの仲間と連れ立ち、食堂や休憩スペースへと向かっていく。
その賑やかさの中で、西住みほは自分の机のそばにしゃがみ込んでいた。
「あっ……」
机の上に置いていたペンケースが、何かの拍子に床へ落ちてしまったらしい。
みほは慌てて中身を確かめ、散らばったペンを一本ずつ拾い上げていく。
幸い、壊れたものはなかった。
最後の一本をペンケースに戻し、ほっと息をつく。
顔を上げると、教室にはもうほとんど人が残っていなかった。
さっきまで近くにいた生徒たちも、いつの間にか友達と一緒に教室を出ている。
みほは、空になりつつある教室を見回した。
転校してきて、まだそれほど時間は経っていない。
クラスメイトたちと話す機会がまったくなかったわけではないが、自分から積極的に声をかけるのは、どうにも苦手だった。
話しかけようと思っても、何を話せばいいのか分からない。
相手が困った顔をしたらどうしよう。
変な子だと思われたらどうしよう。
そんなことを考えているうちに、結局、声をかける機会を逃してしまう。
その繰り返しだった。
「……お昼、どうしよう」
小さく呟いたときだった。
「ヘイ、彼女! 一緒にお昼どう?」
突然、明るい声が響いた。
「わっ!」
みほはびくっと肩を跳ねさせ、慌てて振り返った。
そこにいたのは、武部沙織と五十鈴華だった。
沙織は、驚いているみほを見て、少し気まずそうに笑った。
「ごめんごめん! そんなにびっくりすると思わなくて!」
「ほら沙織さん、西住さんが驚いていらっしゃるじゃないですか」
華がたしなめるように言う。
「だって、せっかく一緒にお昼食べようと思ったんだもん!」
「それは分かりますけれど、もう少し穏やかに誘ってもよろしかったのでは?」
「うっ……それは、まあ……」
二人のやり取りを見て、みほは目をぱちぱちさせた。
自分を誘いに来てくれた。
その事実が、すぐには信じられなかった。
華がみほに向き直り、柔らかな笑顔を浮かべる。
「改めまして、よろしかったらお昼一緒にどうですか?」
「わ、私とですか!?」
「もちろん!」
沙織が元気よく頷いた。
「せっかく同じクラスなんだし、一緒に食べようよ!」
みほは二人を交互に見つめた。
断る理由などなかった。
それなのに、胸の奥がそわそわして、すぐには返事ができない。
誰かに誘ってもらうことが、こんなにも嬉しいものだったなんて。
「……はい!」
ようやく答えると、みほの顔に明るい笑みが広がった。
沙織も嬉しそうに笑い、華は満足そうに頷いた。
「よーし、それじゃあ行こっか!」
沙織がみほのそばへ歩み寄る。
三人は連れ立って教室を出た。
廊下を歩きながら、沙織はあれこれと話題を振った。食堂のおすすめのメニューや、学園艦の中にある施設のこと。転校してきたばかりのみほには、初めて聞く話も多かった。
華も時折、沙織の話に補足を加える。
みほは少し緊張しながらも、二人の話に耳を傾けた。
食堂に着くころには、最初のようなぎこちなさも少し薄れていた。
三人は昼食を手に取り、空いている席に座った。
沙織は箸を置くと、改めてみほの方を向いた。
「そういえば、ちゃんと自己紹介してなかったね!」
「あっ……そうですね!」
みほは慌てて姿勢を正した。
「私、武部沙織! こっちは五十鈴華! よろしくね!」
「よろしくお願いします」
華も丁寧に頭を下げる。
みほは二人の顔を見て、それから少し緊張した様子で頭を下げた。
「に、西住みほです! よろしくお願いします!」
「うん、よろしく、みほ!」
沙織が笑顔で答える。
みほはその名前を聞いて、少しだけ頬を緩めた。
そして、何かを思い出したように口を開いた。
「武部沙織さんは、六月二十二日生まれで……五十鈴華さんは、十二月十六日生まれ……ですよね?」
沙織の箸が止まった。
「えっ?」
華も驚いたように目を瞬かせる。
「どうして、私たちの誕生日を?」
「あっ、すみません!」
みほは慌てて両手を振った。
「名簿を見て覚えていたんです。いつか、お友達になれたらいいなって思って……」
言い終えた途端、みほは自分の言葉が少し恥ずかしくなった。
こんなことを話したら、変に思われるかもしれない。
そう考えて、視線を落としかけた。
しかし、沙織の反応は予想と違った。
「ええっ、そんな前から覚えてくれてたの!?」
沙織は驚いた顔をしたあと、すぐに嬉しそうに笑った。
「すごい! なんか、そういうのって嬉しいね!」
華も穏やかに微笑んだ。
「私も嬉しいです。ありがとうございます、みほさん」
「い、いえ……!」
みほは恥ずかしそうに俯いた。
けれど、胸の奥は温かかった。
自分が覚えていたことを、二人は嫌がらなかった。
むしろ喜んでくれた。
それだけのことが、みほにはとても嬉しかった。
沙織はしばらくみほの顔を見つめていたが、やがて何かを思いついたように身を乗り出した。
「ねえ、名前で呼んでいい? みほって!」
「えっ……?」
「みほ!」
沙織は、さっそくその名前を呼んだ。
みほは、まるで初めて聞く言葉であるかのように目を見開いた。
それから、じわじわと顔を輝かせる。
「すごい……! 友達みたい!」
「友達みたいじゃなくて、もう友達だよ!」
沙織が笑った。
「そうですね。これから、もっと仲良くなれたら嬉しいです」
華も穏やかに微笑んだ。
みほは二人を見つめた。
友達。
自分からそう呼んでもいい相手が、できたのだ。
まだ何もかもが始まったばかりだった。
けれど、この昼休みのことを、みほはきっと忘れないだろう。
大洗に来てから初めて、自分がここにいてもいいのだと思えた時間だった。
*
午後の授業が始まってしばらくしたころ。
教室の扉が開いた。
入ってきたのは、生徒会の三人だった。
生徒会長の角谷杏。
副会長の小山柚子。
そして、河嶋桃。
三人の姿に気づいた生徒たちが、何事かと顔を上げる。
杏は教室の中を見回し、やがて一人の生徒を見つけた。
「西住みほさん、ちょっといいかな?」
名前を呼ばれたみほは、びくりと肩を揺らした。
「……はい」
何の用だろう。
転校してきたばかりの自分が、生徒会に呼ばれる理由など思いつかなかった。
みほは席を立ち、三人のもとへ向かった。
「ちょっと廊下で話そうか」
杏に促され、みほは教室を出た。
廊下には、授業中らしい静けさが広がっていた。
杏はいつもの軽い調子で、あっさりと言った。
「戦車道、取ってね」
「……え?」
みほは、すぐには言葉の意味を理解できなかった。
「今年から大洗女子でも戦車道を復活させることになったんだよね」
杏は続けた。
「だから、西住ちゃんにも履修してほしいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、みほの表情が固まった。
戦車道。
聞きたくなかった言葉だった。
大洗に来ると決めたとき、みほは何度も確認した。
この学園には、戦車道がない。
もう、戦車に乗らなくてもいい。
もう、誰かを助けられなかった自分を責め続けなくてもいい。
そう思っていた。
「で、でも……私……」
「西住は戦車道の経験者だろう。ぜひ参加してもらいたい」
桃がきっぱりと言った。
経験者。
その言葉が、みほの胸に重くのしかかる。
確かに、戦車の扱いは知っている。
戦車道の知識もある。
けれど、それと、もう一度戦車道をやりたいかどうかは別の話だった。
「……私は、戦車道をやるつもりはありません」
声は小さかった。
それでも、みほははっきりとそう答えた。
桃が眉をひそめる。
「何を言っている。経験者のお前が参加してくれれば、こちらとしても助かるんだ」
「ですが……」
みほは言葉を探した。
どうしてやりたくないのか。
なぜ、戦車道のない学校を選んだのか。
説明しようとすれば、家族のことも、黒森峰でのことも話さなければならなくなる。
それだけは、できなかった。
杏は、そんなみほをじっと見ていた。
しばらくして、肩をすくめる。
「まあ、今すぐ決めてって話だからね。よく考えておいてよ」
そう言うと、生徒会の三人はその場を離れていった。
みほは、廊下に一人残された。
戦車道のない学校を選んだはずだった。
ここなら、普通の学生として過ごせると思っていた。
友達を作って、授業を受けて、何気ない日常を楽しむ。
そういう生活を望んでいた。
なのに。
「……どうして」
呟いた声は、廊下の静けさに吸い込まれていった。
どうして、ここにも戦車道があるのだろう。
どうして、また自分が選ばなければならないのだろう。
みほは俯き、ゆっくりと教室へ戻った。
*
席に着いても、授業の内容はまるで頭に入らなかった。
教師の声が聞こえている。
黒板には文字が書かれている。
周囲の生徒たちはノートを取っている。
それなのに、みほの意識は別の場所にあった。
戦車道。
その言葉が、頭の中から離れない。
大洗に来るまで、ずっと逃げてきた。
もう一度戦車に乗ることを考えるだけで、胸が苦しくなる。
目を閉じれば、あの日の光景が浮かぶ。
助けなければ。
そう思って、戦車を動かした。
自分が正しいと思ったことをした。
それなのに、結果として、周囲から責められた。
勝つことが大切なのだと、何度も思い知らされた。
けれど、みほにとっては、勝つことだけが戦車道ではなかった。
仲間を守りたいと思う気持ちと、勝たなければならないという重圧。
その間で、何度も悩んできた。
それは、今でも心の奥に残っている。
「西住さん?」
教師の声が聞こえた。
みほは、はっと顔を上げた。
「……はいっ!」
「大丈夫? 具合でも悪いの?」
「あ……いえ……」
そう答えようとしたが、声に力が入らなかった。
教師は心配そうにみほを見つめた。
「顔色がよくないわね。保健室で少し休んできなさい」
「でも……」
「無理しなくていいから」
教師の言葉に、みほは小さく頷いた。
すると、すぐに沙織が手を挙げた。
「先生、私も付き添います!」
華も立ち上がった。
「私もご一緒します」
「ありがとう。じゃあ、お願いね」
こうして二人は、みほと一緒に教室を出た。
廊下を歩いている間、沙織は何度かみほの顔を覗き込んだ。
「みぽりん、本当に大丈夫?」
「……うん。ごめんね」
「謝らなくていいって!」
沙織は、いつもの調子で笑った。
けれど、その声には心配がにじんでいた。
華も、みほの歩調に合わせてゆっくりと歩いていた。
二人とも、無理に事情を聞こうとはしなかった。
その気遣いが、今のみほにはありがたかった。
*
保健室には、静かな空気が流れていた。
養護教諭に事情を説明すると、みほはベッドで休むことになった。
沙織と華も、付き添いを兼ねて近くのベッドに腰掛ける。
やがて、三人はそれぞれ横になり、しばらくの間、静かに過ごしていた。
窓から差し込む午後の日差しが、カーテンを淡く照らしている。
みほは天井を見つめていた。
少し落ち着いてきたはずなのに、頭の中では、さっきの会話が何度も繰り返されている。
戦車道を取ってね。
その一言が、まるで逃げ道を塞ぐように感じられた。
隣のベッドから、沙織がそっと声をかけた。
「ねえ、みぽりん」
「……なに?」
「さっき、生徒会の人たちに何を言われたの?」
みほは少し迷った。
話してしまってもいいのだろうか。
けれど、隠し続けるのも苦しかった。
「……戦車道を取ってほしいって」
「戦車道?」
華が顔を向けた。
「大洗でも、今年から復活するんだって……」
「そっか……」
沙織は天井を見上げ、考え込むように黙った。
それから、みほの方へ顔を向ける。
「でも、みぽりんは戦車道、やりたくないんだよね?」
みほは小さく頷いた。
「……うん」
「どうして?」
沙織は尋ねたが、すぐに付け加えた。
「言いたくなかったら、言わなくてもいいからね」
その言葉に、みほは少しだけ目を見開いた。
理由を聞かれることは覚悟していた。
けれど、答えなくてもいいと言ってもらえるとは思っていなかった。
みほは、しばらく天井を見つめていた。
「……家族が、戦車道をやっていて」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「お母さんも、お姉ちゃんも……。私は、そういう家で育ったから」
華は静かに聞いていた。
沙織も、話を遮らなかった。
「周りの人たちも、私が戦車道をやるのは当たり前だって思っていて……」
みほは、胸元で指を握りしめた。
「でも、私は……もう、やりたくないの」
声が少しかすれた。
「大洗には戦車道がないって聞いていたから、ここに来たのに……」
言い終えると、みほは顔を伏せた。
自分が何を恐れているのか。
何を思い出したくないのか。
すべてを説明することはできなかった。
それでも、二人には少しだけ伝わったのかもしれない。
沙織は、しばらく黙っていた。
そして、そっと口を開いた。
「そっか。じゃあ、無理してやることないんじゃない?」
「……え?」
「やりたくないものは、やりたくないんだもん。みぽりんが決めていいと思うよ」
華も穏やかに頷いた。
「私もそう思います。みほさんの気持ちが一番大切ですから」
みほは二人を見つめた。
自分の過去をすべて話したわけではない。
それでも二人は、無理に理由を聞き出そうとはしなかった。
戦車道をやりたくない。
その気持ちを、否定しなかった。
「……ありがとう」
みほは小さく微笑んだ。
その笑顔を見て、沙織もほっとしたように笑った。
「うん! 何かあったら、いつでも言ってね!」
「私も、お話を聞くことくらいならできますから」
華の言葉に、みほはもう一度頷いた。
胸の苦しさが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
*
その後、選択科目の説明が行われた。
今年から復活する戦車道も、その中に含まれていた。
説明を聞く生徒たちの間には、興味や期待が広がっていく。
戦車を実際に扱えること。
仲間と協力して競技に挑むこと。
戦車道には、みほが知らない楽しさも、きっとあるのだろう。
けれど、みほは説明の内容を素直に受け止めることができなかった。
自分にとって戦車道は、単なる選択科目ではない。
家族との関係。
過去の試合。
助けたかった仲間たち。
そして、自分が選んだ行動の結果。
それらがすべて結びついている。
だからこそ、簡単には選べなかった。
一方、隣に座っていた沙織は、説明に興味を示していた。
「へえ、戦車道って、いろいろあるんだね!」
華も頷いた。
「実際に戦車を扱えるというのは、面白そうですね」
「だよね! なんか、かっこよさそう!」
沙織は目を輝かせた。
「華もやってみない?」
「そうですね。少し興味が湧いてきました」
二人の会話を聞きながら、みほは俯いた。
二人が戦車道に興味を持つこと自体は、悪いことではない。
むしろ、二人が楽しそうにしているのを見ると、自分まで嬉しくなる。
けれど。
もし二人が戦車道を選んだら、自分だけが別の道を選ぶことになる。
それを寂しいと思う気持ちが、どこかにあった。
そんな自分に気づいて、みほは小さく首を振った。
二人には二人の選択がある。
自分の気持ちを理由に、二人の可能性まで狭めてはいけない。
やがて、選択科目を決める時間がやってきた。
「私、戦車道をやってみようかな!」
沙織が言った。
「華はどうする?」
「私も興味があります。せっかくの機会ですから」
二人は顔を見合わせた。
そして、沙織がみほを振り返る。
「みぽりんも一緒にやろうよ!」
みほは困ったように笑った。
「……ごめん。私は、やっぱり……」
「そっか」
沙織は少し残念そうにしたものの、それ以上無理に誘わなかった。
「まあ、まだ時間もあるしね。ゆっくり決めればいいよ!」
華も頷く。
「焦る必要はありませんから」
二人の気遣いに、みほはほっとした。
それでも、胸の奥には小さな痛みが残っていた。
*
選択科目を決める書類を前に、みほはしばらく考え込んでいた。
戦車道の欄を見つめる。
その文字を見ているだけで、心が落ち着かなくなる。
選んでしまえば、またあの世界に戻ることになる。
戦車に乗り、試合に出て、勝敗を争う。
仲間を守りたいと思う気持ちと、勝たなければならないという重圧の間で、また悩むことになるかもしれない。
みほには、まだその覚悟がなかった。
彼女は別の欄に目を移した。
香道。
静かに香りを楽しみ、心を落ち着ける。
戦車道とは違う、穏やかな時間を過ごせるかもしれない。
みほは、その欄に印をつけた。
これなら、戦車道から離れていられる。
そう考えた。
書類を提出し終えたところで、沙織と華がやって来た。
「みぽりん、何にした?」
「……香道」
沙織は少し驚いたあと、華と顔を見合わせた。
「じゃあ、私も香道にしようかな!」
「私もそうします」
「えっ……?」
みほは目を見開いた。
「でも、二人は戦車道に興味があったんじゃ……」
「うん。でも、みぽりんが嫌がってるのに、私たちだけ戦車道に行くのもね」
沙織は笑った。
「それに、香道も面白そうだし!」
華も穏やかに頷いた。
「みほさんと一緒に学べるのなら、それも素敵だと思います」
みほは二人を見つめた。
自分のために、二人が選択を変えようとしている。
嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
けれど、同時に申し訳なかった。
二人は戦車道に興味を持っていた。
それなのに、自分が戦車道を避けているせいで、その興味まで諦めさせてしまうのではないか。
「……二人とも、無理しなくていいんだよ?」
みほは、ためらいながら尋ねた。
「本当に香道がやりたいの?」
「うん!」
沙織は迷わず答えた。
「みぽりんと一緒にいるのも楽しそうだし!」
「私も、自分で選んだことですから」
華も笑った。
「心配しないでください」
みほは二人の笑顔を見つめた。
二人は、自分を責めていない。
自分の選択を押しつけているわけでもない。
それでも、みほはまだ戦車道を選ぶことができなかった。
いつか、二人の気持ちに応えられる日が来るのだろうか。
今はまだ、その答えが見つからなかった。
*
その後、みほは生徒会に呼び出された。
杏たちは、みほが香道を選んだことを確認すると、戦車道を選ばなかった理由を尋ねた。
「西住ちゃん、どうして戦車道を選ばなかったの?」
杏の問いに、みほは俯いた。
「……私は、戦車道をやりたくないんです」
桃が厳しい口調で言った。
「西住は戦車道の経験者だろう。ぜひ参加してもらいたい」
「……すみません」
みほは、それ以上何も言えなかった。
そのとき、沙織が前に出た。
「みぽりんが嫌だって言ってるんですから、無理にやらせるのはおかしいです!」
華も続く。
「私も、みほさんの意思を尊重してほしいと思います」
二人は、みほをかばった。
みほは驚いたように二人を見つめた。
まただ。
二人は、また自分のために立ち上がってくれている。
まだ知り合って間もない。
自分が何を抱えているのか、すべてを知っているわけでもない。
それなのに、二人は迷わず味方になってくれた。
杏は、そんな三人の様子を眺めていた。
やがて、いつもの調子で口を開く。
「そっか。じゃあ、戦車道を選ばないなら、学校にいられなくなっちゃうかもね」
「……えっ?」
みほも、沙織も、華も言葉を失った。
「そんな……!」
沙織が声を上げる。
「みぽりんは何も悪くないじゃないですか!」
華も必死に訴えた。
「どうして、そんなことに……!」
みほは二人を見つめた。
自分のために、二人が立ち向かってくれている。
戦車道を選ばなければ、学校にいられなくなるかもしれない。
その言葉が、重く胸にのしかかった。
けれど、みほの心を最も揺さぶったのは、自分の進路のことだけではなかった。
沙織と華が、自分のために声を上げてくれている。
二人は、自分と出会ってまだ間もない。
それでも、ここまでしてくれている。
もし自分が戦車道を選ばなければ、二人の気持ちを踏みにじることになるのだろうか。
そんなことはしたくなかった。
「……あのっ!」
みほは顔を上げた。
「私……戦車道、やります!」
声は震えていた。
怖さが消えたわけではない。
戦車道を好きになれたわけでもない。
それでも、自分のせいで二人が傷つくことだけは、受け入れられなかった。
杏は、みほの答えを聞いて小さく笑った。
「うん。よろしくね、西住ちゃん」
話は、それで終わった。
生徒会室を出たみほは、廊下で待っていた沙織と華を振り返った。
「……二人とも、ありがとう」
「えっ?」
沙織は目を丸くした。
「どうしてお礼?」
「だって……私のために、あんなに言ってくれたから」
みほは少しだけ笑った。
「私、二人がいてくれてよかった」
沙織は一瞬、言葉を失った。
そして、照れくさそうに笑った。
「もう、そんなの当たり前じゃん!」
華も、優しく頷いた。
「これからも、三人で一緒に頑張りましょう」
みほは二人の顔を見つめた。
戦車道をやると決めた。
けれど、まだ不安は消えていない。
それでも今は、隣に二人がいる。
そのことが、みほにとって小さな支えになっていた。
*
その日の帰り道。
三人は、学園艦の中にある店へ立ち寄っていた。
沙織がアイスクリームを買い、華もそれに続く。
みほは二人の少し後ろを歩きながら、手元のアイスを見つめていた。
「ねえ、みぽりん」
沙織が声をかけた。
「戦車道のこと、まだ怖い?」
みほは、少しだけ目を伏せた。
「……うん」
無理に明るく答えることはできなかった。
「私、戦車道をやっていたことがあるの。でも……楽しいことばかりじゃなかったから」
それ以上は、うまく言葉にできなかった。
母のこと。
姉のこと。
黒森峰でのこと。
そして、あの試合で自分が選んだ行動。
全部を話せば、きっと長くなる。
何より、まだ思い出すのが怖かった。
沙織は、みほの顔を覗き込むようにした。
「そっか」
それから、いつもの明るい笑顔を浮かべる。
「でもさ、これからの戦車道は、みぽりんが自分で決めていけばいいんじゃない?」
「……自分で?」
「うん。お母さんやお姉さんがどうだったかは分からないけど、みぽりんはみぽりんでしょ?」
華も、静かに言葉を添えた。
「同じ戦車道でも、向き合い方は人それぞれなのかもしれません」
みほは二人を見つめた。
自分で決める。
これまで、自分は何度も選択してきたつもりだった。
仲間を助けることを選んだ。
黒森峰を離れることを選んだ。
大洗に来ることを選んだ。
けれど、その選択が本当に正しかったのか、今でも分からない。
それでも、二人の言葉は心に残った。
自分の戦車道を、自分で決める。
それができるのなら。
いつか、自分が戦車道を続ける意味も見つけられるのだろうか。
みほは、手元のアイスを少しだけ口に運んだ。
冷たい甘さが、口の中に広がる。
「……ありがとう、二人とも」
今度のありがとうには、さっきとは少し違う気持ちが込められていた。
*
翌朝。
戦車道を履修した生徒たちは、指定された格納庫へと集まっていた。
朝の空気は少し冷たく、広い格納庫の前には、これから何が始まるのかと期待する生徒たちの声が響いている。
みほ、沙織、華の三人も、その中にいた。
そして、雪村伊里奈と、彼女の仲間である朝倉こはる、水野千紗、黒田すみれの姿もあった。
伊里奈たち四人も、戦車道を履修している。
ただし、彼女たちにとって戦車道は、ここで初めて触れるものではなかった。
農業科の敷地にある古い倉庫で見つけたT-34。
長い間、物置代わりにされていた車体。
錆びついた装甲と傷んだ履帯。
それを、伊里奈は一か月半かけて修復してきた。
最初は、自分一人で作業していた。
以前から使い慣れていた工具を持ち込み、動かせる部分と交換が必要な部分を一つずつ確かめていった。
その作業を最初に見つけたのが、朝倉こはるだった。
「えっ、なにこれ! 戦車!?」
倉庫の入口から中を覗いたこはるは、目を輝かせていた。
「本物だよね? これ、動くの?」
「まだ動かないわ。直している途中だから」
伊里奈が答えると、こはるはすぐに車体の周りを歩き始めた。
「すごい……! こんなのが農業科の敷地にあったなんて!」
それが、四人の関わりの始まりだった。
こはるは好奇心から修復を手伝うようになり、千紗は必要な部品や作業道具を整理し、すみれは修復の進み具合を記録するようになった。
三人とも、最初から戦車道を始めるつもりだったわけではない。
ただ、目の前にある古い戦車が、もう一度動く姿を見てみたかった。
そして、伊里奈が修復を続けるうちに、三人の関心も少しずつ深まっていった。
エンジンが初めて安定して回った日。
履帯の状態を確かめ、車体が少しだけ前へ動いた日。
低速で動かし、慎重に停止させられた日。
そのたびに、こはるは大きく喜び、千紗は安全を確かめ、すみれは作業内容を書き留めた。
まだ、できることは限られている。
旋回も、停止も、機械の状態を確かめながら慎重に行う必要がある。
それでも、四人の手で、T-34は少しずつ戦車としての姿を取り戻していた。
そして今、四人は正式に戦車道を履修し、これから始まる活動に参加するために、この格納庫へやって来たのだった。
「思ったより人が多いね」
こはるが周囲を見回した。
「それだけ戦車道に興味を持った生徒がいるということでしょうね」
すみれが答えた。
千紗は、集まった生徒たちの様子を見ながら頷いた。
「私たち以外にも、初めて戦車に触れる人は多そう」
「そうね」
伊里奈は短く答えた。
自分たちが直しているT-34は、まだ満足に試合へ出られる状態ではない。
ここで紹介される戦車がどんな状態なのか、学園がどのような活動を考えているのか。それを確かめる必要がある。
伊里奈は格納庫の扉を見つめた。
古い戦車を動かすには、見た目だけでは分からない問題がいくつもある。
自分たちのT-34を直してきたからこそ、そのことはよく分かっていた。
やがて、格納庫の扉が開かれた。
中に並んでいたのは、長い間使われずにいた戦車たちだった。
錆びた装甲。
古びた履帯。
積もった埃。
生徒たちから、戸惑いの声が上がる。
「ええっ、これを使うの?」
「ずいぶん古い戦車ね……」
こはるも、思わず顔をしかめた。
「うわあ……こっちは、かなり手がかかりそう」
「保存状態は、あまりよくないですね」
千紗は車体を観察し、すみれは格納庫の中を見渡した。
伊里奈は、まだ何も言わなかった。
古い戦車を動かせるようにするには、見た目だけでは判断できない。
エンジンが生きているか。
駆動系に問題はないか。
履帯や転輪は使用に耐えられる状態か。
実際に確かめなければ、修復できるかどうかも分からないのだ。
そのとき。
少し離れた場所で、一人の少女が一台の戦車の前に足を止めた。
西住みほだった。
彼女は四号戦車の前に立ち、車体をじっと見つめていた。
錆びた部分や古びた部品を確認するように、視線をゆっくりと動かしていく。
そして、装甲や転輪へと目を向けた。
「装甲も転輪も大丈夫そう」
みほは呟くように言った。
少し間を置いて、車体を見上げる。
「これならいけるかも」
沙織が、みほの方を振り返った。
「みぽりん?」
みほは車体を見つめたまま、続けた。
「ちゃんと整備すれば、動かせると思う」
その言葉に、周囲の生徒たちがみほへ注目する。
経験者らしい見方だった。
ただ古いと決めつけるのではなく、どこが使えそうなのかを確かめている。
その姿を、少し離れた場所から見ていた伊里奈は、思わず目を細めた。
――西住みほ。
見間違えるはずがなかった。
黒森峰女学園の副隊長。
かつてプラウダと戦い、伊里奈自身も戦場で相対した相手だった。
あの試合のことは、今でも覚えている。
仲間を助けるためにフラッグ車を離れた西住みほ。
そして、その隙を突いて勝利をつかんだカチューシャ。
伊里奈は、みほが仲間を助けようとしたこと自体を責めることはできなかった。
戦車道において、味方を助けるという判断は、決して理解できないものではない。
けれど、フラッグ車を離れることが試合全体にどんな影響を与えるのか。
勝利を目指すうえで、その判断がどんな結果を招くのか。
伊里奈は、あの試合を何度も思い返してきた。
カチューシャの判断は、戦術として見れば有効だった。
勝利につながった判断でもあった。
それでも、あの試合のあと、伊里奈の心には複雑な感情が残った。
勝つために何を選ぶべきなのか。
仲間を助けたい気持ちと、試合に勝つための判断は、いつも同じ方向を向いているとは限らない。
その現実を、伊里奈もまた、あの試合で突きつけられたのだった。
そして、今。
その西住みほが、大洗の制服を着て、目の前の四号戦車を見つめている。
どうして、ここにいるのだろう。
黒森峰を離れたことは知っていた。
けれど、まさか大洗に来ていたとは思わなかった。
伊里奈は、みほの横顔を静かに見つめた。
懐かしさよりも先に、驚きがあった。
そして、その奥には、かつての試合を思い出したことで生まれる、複雑な感情があった。
「……西住みほ」
小さく、名前を呟く。
隣にいた千紗が、伊里奈の声に気づいて顔を向けた。
「知ってる人?」
伊里奈は、少しだけ間を置いて答えた。
「……以前、試合で見たことがあるの」
嘘ではない。
けれど、それ以上を話すつもりもなかった。
自分がかつてプラウダにいたことも、あの試合で何を感じたのかも、今ここで語る必要はない。
千紗は伊里奈の様子を少し気にしたものの、それ以上は尋ねなかった。
伊里奈は再び、みほへと視線を戻した。
みほは四号戦車の状態を確かめながら、沙織と話している。
その表情には、かつて戦場で見たものとは違う穏やかさがあった。
それでも、戦車を見つめる眼差しには、確かな経験がにじんでいる。
――西住みほは、まだ戦車道を捨てきれていないのだろうか。
それとも、捨てようとしても捨てられなかったのだろうか。
伊里奈には、まだ分からなかった。
声をかけることもなく、ただ遠くからその姿を見つめる。
今は、まだ。
互いに言葉を交わす理由も、きっかけもない。
けれど、かつてプラウダの戦場で交差した二人の道は、今、大洗の格納庫で再び近づき始めていた。
みほの前には、再び向き合うことになった戦車道。
伊里奈の前には、自分たちの手で蘇らせようとしているT-34。
それぞれの過去を胸に秘めた二人が、同じ場所で、もう一度戦車道に向き合おうとしていた。