――男の話をしよう。
男は夢を見た。
それは誰もが一度は見る、ありふれた夢だった。
己ではない何者かになりたい。
己にはない何かを手に入れたい。
己の知らない世界を見てみたい。
実に結構。
夢を見ることは人間に与えられた数少ない特権だ。
もっとも、夢とは得てして美しい部分しか見せないものだが。
男は夢を見た。
そして、夢を叶えた。
ただ、それだけの話である。
「さて、と」
皐月月詠は、目の前の魔法陣を眺めながら小さく息を吐いた。
準備は整った。
魔術回路の調整も済ませた。召喚陣の構築にも問題はない。魔力の供給量も、理論上は十分なはずだ。
問題があるとすれば、触媒を用意できなかったことくらいだろう。
「まあ、何とかなるか」
楽観的な言葉とは裏腹に、月詠の表情は真剣だった。
第四次聖杯戦争。
ついに、この日がやって来た。
この世界に生まれ落ちてから、どれほど待ち望んだことか。
衛宮切嗣。
言峰綺礼。
遠坂時臣。
ケイネス・エルメロイ・アーチボルト。
そして、彼らに召喚される英霊たち。
かつて画面の向こう側に存在していた人物たちが、今は同じ世界に生きている。
それだけでも、十分に胸が躍る話だった。
「……いや、落ち着け」
月詠は自分の頬を軽く叩いた。
これから始まるのは観光旅行ではない。
聖杯戦争だ。
一歩間違えれば死ぬ。
いや、一歩間違えなくとも死ぬ可能性は十分にある。
なにしろ相手は英霊だ。
人間の常識が通用しない怪物たち。
それらを相手に、自分は戦わなければならない。
「……上等じゃないか」
月詠は笑った。
怖くないわけではない。
だが、恐怖以上に期待があった。
この戦争に勝てば、聖杯が手に入る。
それだけは、何としてでも成し遂げなければならない。
「始めよう」
月詠は魔法陣の前に立った。
深く息を吸い、魔力を練り上げる。
身体の内側を熱が駆け巡る。
詠唱が始まった。
召喚陣に光が灯る。
空気が震え、地下室を満たす魔力が渦を巻いた。
そして。
「――来たれ!」
閃光。
轟音。
視界が白く染まり、魔法陣の中心に人影が現れた。
小さい。
最初に抱いた感想は、それだった。
現れたのは、白髪の少年。
整った顔立ちに、どこか神経質そうな表情。
その姿を見た瞬間、月詠は思わず口を開いた。
「……アンデルセン?」
「ほう」
少年が眉を上げる。
「俺の顔を知っているとは、随分と物好きなマスターもいたものだな」
間違いない。
ハンス・クリスチャン・アンデルセン。
童話作家にして、キャスターのサーヴァント。
月詠は数秒間、言葉を失った。
予想外だった。
いや、触媒を用意していない以上、誰が召喚されてもおかしくはないのだが。
それにしても。
「……戦闘能力、ほぼ皆無か」
「聞こえているぞ、馬鹿者」
「おっと」
「召喚されて早々、本人の目の前で戦力外通告とはな。お前には礼儀というものがないのか?」
「ごめん、ごめん」
「謝罪を二度繰り返せば許されると思っているなら、随分と安上がりな頭をしている」
月詠は苦笑した。
実にアンデルセンらしい。
「でも、悪い召喚じゃない」
「ほう? どういう意味だ?」
「俺は最初から、自分で戦うつもりだったからね」
沈黙。
アンデルセンは月詠を見上げた。
そして、心底呆れたように口を開く。
「……お前、馬鹿か?」
「よく言われる」
「褒めていないぞ」
「分かってるよ」
「いいや、分かっていない。英霊を相手に人間が戦うだと? 英雄譚の読みすぎで頭が腐ったか?」
月詠は肩をすくめた。
「勝算がないわけじゃないさ」
「ならば聞こう。お前は何ができる?」
「人を殺すこと」
あまりにもあっさりとした返答だった。
アンデルセンは目を細めた。
「……なるほど」
「それだけなら、誰にも負けない自信がある」
「実に頼もしいことだ。ところでマスター、聖杯戦争というものは人間の殺し合いではないのだが?」
「知ってるよ」
「ならば、その自信が何の役に立つ?」
「さあ?」
「さあ、だと?」
「やってみなきゃ分からないだろう?」
アンデルセンは盛大にため息を吐いた。
「最悪だ。とんでもない馬鹿に召喚されてしまった」
「そう言わずに付き合ってくれよ、キャスター」
「断る。と言いたいところだが、召喚された以上は仕方あるまい」
そう言って、アンデルセンは改めて月詠を見た。
「それで、マスター。お前は聖杯に何を願う?」
月詠の表情から笑みが消えた。
「……それは」
わずかな沈黙。
「叶えなきゃならない願いがあるんだ」
「質問に答えていないぞ」
「今は、それで勘弁してくれないかな」
「ふん。秘密主義か。三流の主人公が好みそうな設定だ」
アンデルセンは鼻を鳴らした。
「まあいい。どうせくだらん願いだろう」
「手厳しいなあ」
「当然だ。俺は童話作家であって、夢見る馬鹿どもの応援団ではない」
月詠は笑った。
その言葉に、不快感はなかった。
むしろ、どこか安心していた。
知っている人物が、知っている通りの言葉を口にする。
その事実が、ひどく嬉しかった。
「それじゃ、よろしく頼むよ。キャスター」
「期待するなよ、マスター。俺は戦えんぞ」
「構わないさ」
「戦闘は不得手、魔術師としても三流、性格は御覧の有様だ」
「自分で言うんだね」
「事実だからな」
月詠は右手を差し出した。
「それでも、よろしく」
アンデルセンはその手を一瞥した。
「……ふん」
握手は返されなかった。
「馴れ合いは御免だ。せいぜい俺を退屈させるなよ」
そう言って、少年はそっぽを向いた。
月詠は差し出した手を引っ込め、苦笑した。
こうして、第四次聖杯戦争に一組の主従が誕生した。
英霊と魔術師。
作家と殺人者。
互いに相容れぬものを抱えながら、二人は同じ戦争へと足を踏み入れる。
その先に何が待つのか。
このとき、月詠はまだ知らなかった。
ただ一つ確かなことは。
彼にとって、この戦争が何よりも大切なものであるということだけだった。
「さて、今回の題材は召喚されたサーヴァントだそうだ」
「童話作家を戦争に呼びつけるとは、まったく魔術師という連中は救いがたい」
「戦闘能力を求めるなら英雄を呼べ。魔術を求めるなら魔術師を呼べ。物書きを呼んでおいて戦争をしろなどと、料理人に鍬を渡して畑を耕せと言うようなものだ」
「もっとも、今回のマスターはそれ以上の大馬鹿者だがな」
「自分で戦う? 結構。人殺しには自信がある? 大いに結構」
「だがな、馬鹿者。人を殺せることと、英雄に勝てることはまったく別の話だ」
「そんなことも理解できん男が聖杯戦争に参加するなど、滑稽を通り越して哀れだな」
「しかも願いは秘密ときた」
「自分の願望すら堂々と口にできん臆病者が、世界を相手に何を成そうというのやら」
「まあ、いい」
「馬鹿の一生ほど、物語の題材に困らんものもないからな」
「せいぜい面白おかしく死んでくれ」
「……ああ、勘違いするなよ」
「俺はお前のサーヴァントだ。見捨てるとは言っていない」
「ただし、俺の期待する結末と、お前の望む結末が同じとは限らんがな」