男には、譲れぬものがあった。
黄金でもなく、土地でもなく、ましてや女でもない。
ただ一つ、己が正しいと信じたもの。
それを守るためならば、男は剣を取った。
それを守るためならば、男は膝を折った。
それを守るためならば、男は己の命すら差し出した。
なるほど、立派なものだ。
だが、少々困ったことがある。
男は一度として、その正しさを疑わなかったのだ。
他人のために生きる。
他人のために戦う。
他人のために死ぬ。
それは確かに美しい。
美しいが、しかし。
その「他人」とやらは、本当にそんなことを望んでいたのだろうか。
――まあ、いい。
男の話をしよう。
己の信じた正義のために、己を殺し続けた男の話を。
「で、マスター。お前は何をしている?」
「地図を見ている」
「見れば分かる。俺が聞いているのは、その地図を睨みつけることで聖杯が手に入るのかということだ」
「まさか」
「ならば、もう少し有意義な時間の使い方を考えろ」
皐月月詠は苦笑した。
召喚から数時間。
どうやら自分のサーヴァントは、想像以上に口が悪いらしい。
いや、知ってはいた。
知ってはいたのだが、実際に面と向かって罵倒されると、なかなか新鮮なものがある。
「キャスター。君はもう少し、マスターに敬意を払ってもいいんじゃないかな」
「敬意?」
アンデルセンは鼻で笑った。
「敬意とは相手の人格や功績に対して払うものだ。令呪が三つ刻まれているというだけで尊敬されると思っているなら、随分と安っぽい人生を送ってきたらしいな」
「手厳しい」
「事実だ」
月詠は肩をすくめ、再び地図へ視線を落とした。
冬木市。
第四次聖杯戦争の舞台。
七騎のサーヴァントが争う、魔術師たちの殺し合い。
もっとも、自分という異物が混じったことで、どこまで知識が役に立つかは分からない。
物語の筋書きは知っている。
だが、筋書きを知っていることと、その筋書きの中で生き残れることは別問題だ。
「……今夜、港へ行こうと思う」
「観光か?」
「戦争を見に」
「ほう。ようやく自殺の方法が決まったか」
「死ぬつもりはないよ」
「死ぬつもりのある人間など、そうそうおらん。大半は生きるつもりで死ぬものだ」
それはそうだ。
月詠は素直に頷いた。
アンデルセンは、その態度が気に入らなかったらしい。
「お前は人の話を聞いているのか?」
「聞いてるさ」
「ならば、なぜ危険だと分かっている場所へ出向く?」
「確認したいことがあるんだ」
「何を?」
「英霊が、どれくらい強いのか」
アンデルセンは沈黙した。
それから、呆れ果てたように額を押さえた。
「……なるほど。どうやら俺は、相当に頭の悪い男に召喚されたらしい」
「そうかな?」
「そうだとも。熊の強さを知りたいからと、素手で熊の巣穴へ入り込む馬鹿がどこにいる」
「ここに」
「胸を張るな!」
怒鳴られた。
月詠は笑った。
だが、冗談だけで済ませるつもりはなかった。
自分には、人を殺す技術がある。
それだけは確かだった。
どのような相手でも、人間である限り負ける気がしない。
筋力や体格の問題ではない。
武術の経験でも、魔術の技量でもない。
ただ、相手が人間ならば殺せる。
それは月詠にとって、呼吸をすることと同じくらい自然な確信だった。
だが。
英霊は人間なのだろうか。
かつて人間だった者。
人間を超えた者。
伝説となり、信仰を集め、死後に英霊の座へ迎えられた存在。
人間でありながら、人間ではないもの。
そこに自分の技術が通用するのか。
確かめる必要があった。
「……まったく」
アンデルセンがため息を吐いた。
「どうしてこう、男というものは自分の力を試したがるのかね」
「君も男だろう?」
「生憎、俺は物書きだ。腕力を競うくらいなら、椅子に座って原稿用紙と格闘する方がまだ建設的だ」
「でも、君だって戦うことはあるだろう?」
「言葉でならな」
アンデルセンはにやりと笑った。
「もっとも、俺の言葉で死ぬような繊細な人間なら、戦場に出る前に首を括っているだろうが」
月詠は地図を畳んだ。
「じゃあ、行こうか」
「俺の話を聞いていたか?」
「聞いてたよ」
「そのうえで行くのか?」
「うん」
「救いようがないな」
アンデルセンは肩をすくめた。
「好きにしろ。ただし、俺に戦闘を期待するなよ」
「分かってる」
「本当か?」
「もちろん」
月詠は笑った。
「君には、俺の話を書いてもらうつもりだから」
その瞬間。
アンデルセンの表情が、わずかに変わった。
「……ほう」
「君の宝具は、そういうものだろう?」
「知っているのか」
「多少はね」
「多少、か」
作家はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ならば覚えておけ。物語というものは、主人公が望んだ通りに進むとは限らん」
「それでも構わないさ」
「……」
「最後に願いさえ叶えばね」
アンデルセンは何も言わなかった。
ただ、机の上に置かれた白紙を一枚取り上げた。
そして、万年筆を手にした。
「では、せいぜい死なないことだな」
「努力するよ」
「努力では足りん。結果を出せ」
ペン先が紙に触れる。
小さな音がした。
それが、長い物語の最初の一文字だった。
◇
冬木市、埠頭。
夜風が冷たい。
潮の匂いが鼻をつき、遠くで船舶の汽笛が鳴っている。
倉庫街はひどく静かだった。
だが、その静寂の奥に、明らかに異質な気配が存在していた。
「……いるな」
月詠は足を止めた。
離れた場所から、金属の激突する音が聞こえる。
一度。
二度。
そして、三度。
それは次第に激しさを増していった。
「始まってる」
月詠は笑みを浮かべた。
知っている。
あの戦いを。
第四次聖杯戦争の序盤を飾る、二人の騎士の激突。
セイバー。
そしてランサー。
アーサー王と、フィオナ騎士団の筆頭騎士。
アルトリア・ペンドラゴン。
ディルムッド・オディナ。
どちらも、かつて物語の中で見た英雄だった。
「……すごいな」
声が漏れた。
倉庫の陰から覗き込んだ戦場では、二つの人影が激しく交錯していた。
片方は、銀の甲冑をまとった金髪の騎士。
もう片方は、二本の槍を携えた美丈夫。
鋼と槍がぶつかり合う。
火花が散る。
地面が砕ける。
風が唸る。
一合ごとに、空気そのものが悲鳴を上げているようだった。
月詠は息を呑んだ。
速い。
あまりにも速い。
目で追うことすら難しい。
いや、正確には動きが見えないわけではなかった。
どこへ踏み込み、どこへ刃を振るうのか。
その軌道は理解できる。
しかし。
理解できたところで、身体が追いつかない。
「……なるほど」
月詠は呟いた。
「これは、無理だな」
初めて、はっきりと理解した。
自分は彼らに勝てない。
少なくとも、正面から戦えば。
殺す方法が分かることと、殺せることは違う。
相手の首を落とせば死ぬ。
心臓を貫けば死ぬ。
そんなことは誰でも知っている。
だが、その首に刃を届かせることができなければ、何の意味もない。
月詠は唇を噛んだ。
恐怖ではなかった。
悔しさでもない。
ただ、どうしようもない現実がそこにあった。
英霊。
人間の限界を超えた存在。
「……美しいな」
思わず呟いた。
二人の騎士は、互いの技量を競い合うように戦っている。
そこには誇りがあった。
矜持があった。
命を賭けてなお譲れぬものがあった。
月詠には、それがひどく眩しく見えた。
そして。
ふと、胸の奥が疼いた。
ああ。
殺してみたい。
あれほど美しいものを。
あれほど完成されたものを。
自分の手で。
「…………」
月詠は瞬きをした。
奇妙な感覚だった。
だが、それも一瞬のこと。
「……何を考えてるんだ、俺は」
小さく笑って、首を振る。
今はそんなことを考えている場合ではない。
戦場では、騎士たちの激突が続いていた。
そして月詠は、知っていた。
この戦いが、二人だけで終わらないことを。
「そろそろかな」
その言葉に応えるかのように。
夜空から、雷鳴が轟いた。
◇
雷が落ちた。
否。
雷をまとった戦車が、空から降ってきた。
巨大な二頭の神牛に引かれた戦車。
その上に立つ、筋骨隆々とした大男。
赤い髪。
豪放磊落な笑み。
そして、周囲を圧倒する存在感。
「双方、剣を収めよ!」
大音声が、夜の倉庫街に響き渡った。
月詠は思わず笑った。
「……征服王」
イスカンダル。
マケドニアの大王。
世界の果てを目指し、数多の国を征服した男。
その傍らには、小柄な少年がいた。
ウェイバー・ベルベット。
月詠はその姿を見つめた。
この戦争に参加するマスターの中で、彼は特別な存在だった。
魔術師としては未熟。
戦争に参加した理由も、決して立派なものではない。
それでも、彼はこの戦争を通じて大きく変わっていく。
そして、最後には。
「……いいなあ」
月詠は呟いた。
羨ましかった。
英霊と出会い、共に戦い、何かを受け継ぐ。
それはきっと、素晴らしいことなのだろう。
自分にも、そんなことができるだろうか。
ふと、アンデルセンの顔が浮かんだ。
……無理そうだ。
少なくとも、あの作家が豪快に笑いながら肩を叩いてくれる姿は想像できない。
月詠は苦笑した。
その間にも、征服王は豪快に名乗りを上げていた。
「我が名はイスカンダル! 征服王の名をもって現界せし、ライダーのサーヴァントである!」
月詠は、思わず目を細めた。
何という男だろう。
聖杯戦争。
本来ならば、真名を隠すことが基本となる戦い。
にもかかわらず、この男は自ら名乗った。
それも、これ以上ないほど堂々と。
「……本当に、馬鹿だなあ」
月詠は笑った。
だが、その声には侮蔑などなかった。
むしろ、羨望があった。
自分の名を堂々と告げる。
自分の望みを堂々と語る。
自分が何者であるかを、何一つ隠そうとしない。
それは、月詠にはできないことだった。
「……格好いいな」
小さく呟く。
征服王は、セイバーとランサーを相手に、何やら勧誘を始めていた。
自分の配下にならないか、と。
あまりにも無茶苦茶な提案だった。
当然、二人の騎士は激怒した。
月詠は、その光景を見ながら笑いを堪えていた。
知っている。
この男は、こういう男なのだ。
欲しいものは欲しいと言う。
気に入った相手には、仲間になれと手を差し伸べる。
断られれば、力ずくで奪いに行く。
実に単純。
実に傲慢。
そして。
実に魅力的だった。
「……征服王、か」
月詠は呟いた。
世界の果てを目指した男。
すべてを手に入れようとした男。
その生き方は、きっと誰よりも自由だったのだろう。
月詠は、しばらくその姿を眺めていた。
そして、ふと視線を動かした。
征服王の隣。
そこには、小柄な少年がいた。
ウェイバー・ベルベット。
顔を真っ赤にして、ライダーに何やら抗議している。
その姿を見て、月詠は小さく笑った。
「……本当に、いいコンビだな」
だが。
笑みは、次第に薄れていった。
月詠は、改めて戦場を見渡した。
セイバー。
ランサー。
ライダー。
いずれも、今の自分では到底敵わない存在。
ならば。
「……そうだよな」
月詠は小さく呟いた。
サーヴァントに勝てない。
それならば、サーヴァントと戦わなければいい。
聖杯戦争に参加しているのは、英霊だけではない。
マスターがいる。
人間がいる。
そして。
人間であるならば。
「……殺せる」
月詠は、静かに息を吐いた。
視線の先には、ウェイバー・ベルベット。
征服王のマスター。
この戦争に参加した、まだ若い魔術師。
月詠は彼を嫌っていなかった。
むしろ、好ましい人物だと思っていた。
未熟で、傲慢で、臆病で。
それでも、誰よりも必死に自分の価値を証明しようとしている。
その姿は、月詠にとって眩しいものだった。
だからこそ。
「……ごめんね」
小さく呟いた。
殺そうと思った。
それが、最も確実な方法だったからだ。
月詠は、ゆっくりと身を引いた。
戦場から離れるためではない。
より確実に、標的へ近づくために。
倉庫の影へ。
積み上げられたコンテナの隙間へ。
そして、誰にも気づかれぬように。
静かに。
静かに。
歩き始めた。
夜空には、まだ雷雲が残っていた。
征服王の笑い声が、遠くから聞こえてくる。
月詠は、その声に耳を傾けながら、微笑んだ。
「……本当に、格好いいなあ」
心から、そう思った。
だから。
その男の大切なものを奪うことに、少しだけ胸が痛んだ。
だが、足は止まらなかった。
聖杯が欲しい。
どうしても、手に入れなければならない。
そのためならば。
「……悪く思わないでくれよ」
月詠は、闇の中へ消えた。
そして。
第四次聖杯戦争の片隅で。
誰にも知られることなく、一つの暗殺が始まろうとしていた。
今回の題材:騎士という生き物
「さて、今回は騎士について語れ、だと?」
「くだらん。実にくだらん」
「騎士道、忠誠、名誉、誇り。どいつもこいつも、聞こえのいい言葉ばかり並べ立ておって」
「だが、少し考えてみろ」
「主君のために命を捨てる。民のために己を犠牲にする。理想のためにすべてを投げ出す」
「なるほど、立派なことだ」
「では、その主君が死ねと言えば死ぬのか? 民が望めば罪を犯すのか? 理想のためならば、どれほどの犠牲を出しても構わんのか?」
「実に便利な話だな」
「自分の行いに責任を持たずとも、忠誠だの使命だのと言っておけば、それらしく聞こえるのだから」
「もっとも、騎士という連中のすべてがそうだとは言わん」
「己の信念を貫いた者もいるだろう。己の過ちを認めた者もいるだろう」
「だが、俺はどうにも気に入らん」
「自分自身を殺してまで、他人のために生きようとする連中がな」
「そんな生き方で幸福になれると思っているのなら、救いようのない馬鹿だ」
「……おっと」
「どうやら、俺のマスターにも当てはまる話だったらしい」
「まったく」
「英雄というものは、どうしてこうも馬鹿ばかりなのかね」