男は、世界が欲しかった。
黄金が欲しかった。
土地が欲しかった。
名誉が欲しかった。
栄光が欲しかった。
海の向こうを見たいと思った。
山の向こうを見たいと思った。
空の果てに、何があるのか知りたいと思った。
だから男は、歩き続けた。
欲しいものがあれば手を伸ばし、邪魔するものがあれば踏み越えた。
男の進む道には、無数の屍が積み重なった。
国が滅びた。
王が死んだ。
名もなき人々が、数え切れぬほど死んだ。
それでも男は、振り返らなかった。
いや。
振り返る必要がないと信じていた。
何故ならば、男はすべてを連れていくつもりだったからだ。
敵も。
味方も。
生者も。
死者も。
己が欲したものすべてを、その果てまで。
――男の話をしよう。
世界を愛し、世界を踏み潰し、それでもなお世界の果てを夢見た男の話を。
雷鳴が、冬木の夜空を震わせていた。
倉庫街の中央では、赤毛の巨漢が腹の底から笑っている。
征服王イスカンダル。
その名を自ら明かした男は、セイバーとランサーを前にして、まるで宴席にでもいるかのように振る舞っていた。
聖杯戦争の真っ只中である。
互いに殺し合うために召喚された英霊たちが、武器を手に向かい合っている。
にもかかわらず、征服王は笑っていた。
何一つ恐れることなく。
何一つ隠すことなく。
ただ、そこに立っていた。
「……本当に、すごい人だな」
皐月月詠は、倉庫の陰からその姿を見つめていた。
胸が高鳴っている。
知っていたはずだった。
イスカンダルがどんな男なのか。
どんな言葉を口にし、どんな夢を抱き、どんな最期を迎えるのか。
だが、知識と現実は違う。
物語の中で見た英雄が、今、目の前で笑っている。
それだけで、胸の奥が熱くなった。
「……会えてよかった」
心から、そう思った。
そして。
「……ごめんなさい」
小さく呟いた。
月詠の視線は、征服王の隣へと移っていた。
ウェイバー・ベルベット。
ライダーのマスター。
まだ幼さの残る顔立ちの少年は、己のサーヴァントの無茶苦茶な振る舞いに振り回されていた。
月詠は彼のことも知っている。
その未熟さも。
その弱さも。
その先に待っている未来も。
だからこそ、少しだけ躊躇した。
この少年が生き残れば、きっと多くのものを得るだろう。
多くのものを失いながら、それでも前へ進んでいくのだろう。
それは、とても素晴らしいことだ。
けれど。
「……俺にも、叶えたい願いがあるんだ」
月詠は、静かに息を吐いた。
聖杯が必要だった。
どうしても。
どうしても、手に入れなければならなかった。
そのためには、他のマスターを排除する必要がある。
サーヴァントを倒せないのなら、マスターを殺せばいい。
それが、この戦争における最も単純な解答だった。
「……よし」
月詠は、ゆっくりと身体を沈めた。
目の前の戦場から、意識を切り離す。
英雄たちの会話。
響き渡る怒号。
遠くで鳴る雷。
それらを、すべて背景へと押しやった。
見るべきものは一つ。
ウェイバー・ベルベット。
その命だけだった。
◇
月詠は、戦場の外縁を移動していた。
積み上げられたコンテナの陰。
倉庫と倉庫の間にできた狭い通路。
潮風が吹き抜ける暗がり。
足音を殺し、呼吸を抑え、慎重に距離を詰めていく。
月詠は魔術師として優秀ではない。
気配遮断のスキルも持っていない。
身体能力も、鍛え抜かれた兵士に及ぶほどではなかった。
だが、人を殺すことに関してだけは、奇妙なほど迷いがなかった。
相手の死を想像する。
そこへ至るために必要な動きを選ぶ。
それだけだった。
人間を相手にする限り、その判断は恐ろしいほど自然にできた。
問題は、相手の隣にいる存在である。
征服王イスカンダル。
あの巨漢が本気で動けば、自分など一瞬で叩き潰されるだろう。
だからこそ、気づかれてはいけない。
一撃で終わらせる。
ウェイバーが倒れた瞬間に離脱する。
その後、ライダーがどうなるかは分からない。
だが、マスターを失ったサーヴァントは、いずれ現界を維持できなくなる。
少なくとも、戦争を続けることは難しくなるはずだった。
「……」
月詠は、コンテナの角から顔を覗かせた。
戦場が見える。
征服王は、相変わらず堂々と立っていた。
その傍らに、ウェイバーがいる。
距離はまだ遠い。
だが、先ほどよりは近づいていた。
もう少し。
あと少し。
月詠は慎重に足を進めた。
そのときだった。
「――おい、小僧」
低い声が、戦場に響いた。
月詠は動きを止めた。
征服王が、何かを見上げている。
どうやら、隠れている者たちへ向けて声をかけているらしい。
月詠は知っていた。
この後、何が起こるのか。
姿を現す黄金の王。
そして、闇に潜む暗殺者。
聖杯戦争の序盤を象徴する、英霊たちの顔合わせ。
月詠は、ほんの一瞬だけ迷った。
見たい。
あの光景を。
英雄たちが一堂に会する、あの瞬間を。
だが。
「……駄目だ」
小さく首を振った。
自分は観客ではない。
この戦争の参加者なのだ。
物語を眺めるだけでは、願いは叶わない。
月詠は再びウェイバーへ視線を向けた。
少年は、征服王の傍らで身を縮めていた。
英雄たちの威圧感に、すっかり呑まれているようだった。
月詠は、静かに笑った。
「……今なら」
その瞬間。
月詠は、動いた。
◇
速かった。
少なくとも、人間の目にはそう見えただろう。
コンテナの陰から飛び出し、一直線にウェイバーへ向かう。
右手には、短い刃。
狙うのは首。
一撃。
それだけで終わる。
月詠は確信していた。
届く。
殺せる。
ウェイバーはまだこちらに気づいていない。
征服王の注意も、別の方向へ向いている。
完璧な機会だった。
――そのはずだった。
「ほう?」
声がした。
腹の底に響くような、低い声だった。
次の瞬間。
月詠の視界が、赤く染まった。
「――っ!?」
何かが動いた。
それだけは分かった。
巨大な影が、視界を塞いだ。
征服王。
イスカンダル。
その巨体が、いつの間にか目の前にあった。
「小僧、随分と無粋な真似をするではないか」
笑っていた。
征服王は、笑っていた。
怒っているわけではない。
憎んでいるわけでもない。
ただ、目の前に現れた暗殺者を、面白そうに見下ろしていた。
「……っ!」
月詠は刃を振るった。
狙いを変える。
ウェイバーではなく、征服王の喉へ。
だが。
届かなかった。
征服王の腕が動く。
それは、あまりにも単純な動作だった。
特別な技術などない。
ただ、腕を振るっただけ。
それだけで。
「――がっ!」
月詠の身体が、宙を舞った。
何が起きたのか理解するより早く、世界が回転した。
空。
地面。
倉庫。
雷雲。
そして。
激突。
「――――っ!!」
背中から、コンテナへ叩きつけられた。
凄まじい衝撃が、全身を貫いた。
肺の中の空気が、一瞬で押し出される。
呼吸ができない。
視界が白く染まる。
骨が軋む。
何かが折れた。
それだけは、はっきりと分かった。
「……っ、は……!」
月詠は地面に崩れ落ちた。
口の中に、鉄の味が広がる。
血だ。
自分の血だった。
「な、何だよ今の!?」
ウェイバーの悲鳴が聞こえた。
征服王は、悠然と月詠を見下ろしていた。
「何、ちょいとした鼠よ。余の臣下に手を出そうとしたのでな」
「し、臣下って……!」
「はっはっは! 気にするな、小僧!」
笑い声が響く。
月詠は、地面に手をついた。
立ち上がろうとする。
だが、身体が言うことを聞かなかった。
痛い。
ひどく痛い。
肋骨が折れている。
呼吸をするたびに、胸の奥が焼けるようだった。
「……は、はは……」
それでも、月詠は笑った。
「……すごい、な……」
征服王。
イスカンダル。
たった一撃。
ただの一撃で、自分はここまで追い詰められた。
「……やっぱり、英霊って……すごい……」
月詠は、血の混じった息を吐いた。
征服王は、そんな彼を見下ろしていた。
「ほう。まだ笑うか」
「……だって……」
月詠は顔を上げた。
「……本当に、格好いいから……」
征服王の眉が、わずかに動いた。
「……ふむ」
月詠は、ゆっくりと息を吸った。
激痛が走る。
だが、今は耐えるしかない。
ここにいれば死ぬ。
それだけは、はっきりと理解していた。
「……ごめん、ね」
月詠は呟いた。
「……君の、大切な……マスターを……」
征服王は、しばらく月詠を見つめていた。
そして。
「ふん」
鼻を鳴らした。
「ならば、なぜ狙った?」
月詠は、少しだけ笑った。
「……願いが、あるから」
「ほう?」
「……どうしても、叶えたい……願いが……」
征服王は、目を細めた。
「それほどの願いか」
「……うん」
月詠は頷いた。
「……何よりも、大切なんだ」
しばしの沈黙。
征服王は、月詠を見下ろしていた。
やがて、豪快に笑った。
「はっはっは! なるほど、なるほど!」
その笑い声に、ウェイバーがびくりと肩を震わせた。
「お、おいライダー! 何笑ってんだよ! こいつ、僕を殺そうとしたんだぞ!」
「分かっておるわ!」
「だったら!」
「だがな、小僧。こやつにも、譲れぬものがあるらしい」
征服王は、月詠へ視線を戻した。
「願いのために人を殺すか。よかろう。それもまた戦よ」
月詠は、わずかに目を見開いた。
「だがな」
征服王の声が、低くなった。
「己の願いを叶えたいのであれば、まずは己の力で立ってみせよ」
その言葉は、重かった。
月詠は、何も言えなかった。
ただ、痛みに耐えながら、征服王を見つめていた。
「余の臣下を狙ったことは許してやらん。だが、今ここで踏み潰すほどの相手でもない」
征服王は、背を向けた。
「失せよ。次に余の前へ現れるときは、もう少し骨のある姿を見せてみよ」
月詠は、しばらく動けなかった。
征服王の背中を見つめていた。
大きな背中だった。
あまりにも、大きかった。
「……ありがとう」
月詠は、小さく呟いた。
征服王が振り返ることはなかった。
月詠は、ゆっくりと身体を起こした。
激痛が走る。
だが、立たなければならない。
ここで死ぬわけにはいかない。
まだ、何も成し遂げていないのだから。
月詠は、ふらつく足で立ち上がった。
そして。
倉庫街の闇へと、姿を消した。
◇
柳洞寺。
冬木市の山中に建つ古刹。
月詠がそこへ辿り着いた頃には、夜も随分と更けていた。
「……ただいま」
返事はなかった。
当然だ。
寺の境内は静まり返っている。
月詠は、ふらつく足取りで奥へと進んだ。
一歩ごとに、胸が痛む。
呼吸をするたびに、肺が軋む。
それでも、何とか歩き続けた。
そして。
「……遅かったな」
声がした。
アンデルセンだった。
小柄な童話作家は、縁側に腰を下ろし、原稿用紙を広げていた。
月詠は、苦笑した。
「……ちょっと、失敗した」
「見れば分かる」
アンデルセンは、月詠を一瞥した。
「どうやら、英雄の強さを確かめるという目的は達成できたらしいな」
「……うん」
「で、感想は?」
月詠は、少し考えた。
「……すごかった」
「語彙力の欠片もない感想だな」
「……本当に、すごかったんだよ」
アンデルセンは、ため息を吐いた。
「……で?」
「……何?」
「何をして、その有様になった?」
月詠は、少しだけ視線を逸らした。
「……マスターを殺そうとした」
「ほう」
「……でも、サーヴァントに止められた」
「当然だな」
即答だった。
月詠は、苦笑した。
「……そうだね」
「そうだね、ではない。馬鹿か、お前は」
アンデルセンは、原稿用紙を置いた。
「相手が人間だから殺せる? 結構。ならば、その人間を守る怪物の存在を計算に入れろ」
「……うん」
「うん、ではない!」
怒鳴られた。
月詠は、思わず笑った。
その瞬間、胸に激痛が走った。
「……っ!」
「笑うな、馬鹿者!」
「……ごめん」
アンデルセンは、深くため息を吐いた。
そして、月詠の前へ歩み寄った。
「……骨は?」
「……何本か、折れてると思う」
「内臓は?」
「……分からない」
「ふん。実に頼りになる自己診断だな」
アンデルセンは、月詠を見上げた。
「……死ぬなよ」
月詠は、少し驚いた。
「……心配してくれるの?」
「勘違いするな」
アンデルセンは、即座に答えた。
「お前が死ねば、俺の仕事が終わらん」
「……そっか」
月詠は笑った。
「……じゃあ、死ねないね」
「当然だ」
アンデルセンは、踵を返した。
「とっとと横になれ。少なくとも、今のお前にできることはそれくらいだ」
「……うん」
月詠は、ゆっくりと身体を横たえた。
天井が見える。
古い木材の匂いがした。
静かな夜だった。
遠くで、虫が鳴いている。
月詠は、目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、征服王の姿。
あの大きな背中。
あの豪快な笑い声。
そして。
自分を叩き飛ばした、あまりにも圧倒的な力。
「……すごかったなあ」
小さく呟いた。
アンデルセンは、答えなかった。
ただ、万年筆を走らせる音だけが聞こえていた。
月詠は、ゆっくりと息を吐いた。
痛みは、まだ消えない。
だが、不思議と気分は悪くなかった。
英雄に出会えた。
その強さを知ることができた。
そして。
自分が、どれほど弱い存在なのかを理解できた。
それは、きっと大切なことなのだろう。
「……ねえ、キャスター」
「何だ」
「……俺、勝てるかな」
アンデルセンのペンが止まった。
しばしの沈黙。
そして。
「知らん」
短い答えだった。
月詠は、苦笑した。
「……そっか」
「だが」
アンデルセンは、再びペンを走らせた。
「勝ちたいのであれば、まずは負けた理由を理解することだな」
月詠は、目を開いた。
「……負けた理由?」
「そうだ」
アンデルセンは、振り返らなかった。
「お前は、自分が殺せる相手だけを見ていた。だが、戦場にはそれ以外のものもいる」
「……うん」
「ならば、次はどうする?」
月詠は、少し考えた。
「……考えるよ」
「結構」
アンデルセンは、鼻を鳴らした。
「ようやく少しは、物語の主人公らしくなってきたじゃないか」
月詠は、静かに笑った。
そして、目を閉じた。
遠くで、風が鳴っていた。
冬木の夜は、まだ終わらない。
聖杯戦争も、まだ始まったばかりだった。
そして。
一人の男の物語もまた、ようやく動き始めたところだった。
今回の題材:征服王イスカンダル
「さて、今回の題材は征服王だそうだ」
「まったく、王という連中はどうしてこうも欲深いのかね」
「土地が欲しい。財宝が欲しい。名誉が欲しい。世界が欲しい」
「挙げ句の果てには、世界の果てまで欲しいときた」
「馬鹿馬鹿しいにもほどがある」
「世界を手に入れて、それでどうする?」
「食うのか? 飾るのか? それとも、寝床にでもするつもりか?」
「だが、征服王という男は、どうやら本気でそれを欲しがっていたらしい」
「しかも、ただ奪うだけでは飽き足らず、奪ったものすべてを連れていこうとした」
「敵も味方も、生者も死者も」
「何とも欲張りな男だ」
「だがな、征服王」
「一つだけ、言っておこう」
「お前が世界を愛したことと、世界がお前を愛したことは、まったく別の話だ」
「お前が踏み潰した人間の中には、お前を憎んだ者もいただろう」
「お前に奪われた者の中には、お前を呪った者もいただろう」
「それでも、お前は笑っていた」
「すべてを愛していると、胸を張っていた」
「……なるほど」
「それほどまでに傲慢であれば、確かに王としては一流なのだろうよ」
「もっとも」
「俺は、そんな王の下で暮らすのは御免だがな」
「さて、我がマスターよ」
「お前も何かを手に入れたいらしいが、せいぜい気をつけることだ」
「欲しいものを欲しいと言うのは自由だ」
「だが、そのために何を踏み潰したのかくらいは、覚えておけ」
「……もっとも」
「覚えていたところで、踏み潰された者が生き返るわけでもないがな」